亡国の黒将と世界樹の迷宮   作:清海深々

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第十二刀 掲示板の海都

 

海都冒険者ギルドの掲示板は、朝ごとに姿を変える。

 

依頼札。

 

帰還報告。

 

討伐記録。

 

素材相場。

 

遠征届。

 

未帰還警告。

 

そして、磁軸登録者の更新。

 

そこには、海都という街がそのまま貼り出されていた。

 

---

 

ロイヤルガード

第二階層三十二階救助依頼へ出動

三十階磁軸登録済

 

月下猟姫

第二階層三十四階射撃地点調査

古海の放浪者回遊域再確認

 

獣王爪牙

二十七階生態観測

水流変化および魔物移動調査

 

大地の記録者

二十三階採取路更新

二十八階以降の採取候補地確認

護衛募集予定

 

銀狼の牙

第二階層三十六階維持

療養届提出

三十階磁軸登録済

 

砂冠の旅団

南方乾燥岬へ遠征中

帰還予定未定

 

灰鷗隊

海都外縁遺跡調査中

 

赤帆団

外洋航路調査より一部帰還

 

鉄靴の梟

第二階層十九階から二十二階護衛任務

 

潮騒の針

第一階層十階磁軸周辺訓練

 

そのほかにも、数多くの札が並んでいた。

 

世界樹へ潜る者。

 

海へ出る者。

 

海都の外縁遺跡へ向かう者。

 

素材輸送を守る者。

 

新人を鍛える者。

 

冒険者の仕事は、迷宮の奥へ進むことだけではない。

 

海都は広い。

 

世界樹は深い。

 

そして、人の手はいつも足りない。

 

---

 

その掲示板の一角に、黒蘭一行の札があった。

 

黒蘭一行

暫定Bランク

第二階層二十九階到達

二十六階から二十九階までの水路地図更新

深海の殺戮者討伐

古海の放浪者回遊域確認

FOE間引き報告

高品質素材提出

 

黒華五刀が二十五階に到達してから、すでに二十日が過ぎていた。

 

彼らはその間、決して一気に進んだわけではない。

 

二十六階へ入り、水流を調べて戻った。

 

二十七階で獣王爪牙と情報交換し、魔物の移動を確認して戻った。

 

二十八階では水流に足を取られかけ、進路を変えた。

 

二十九階では大地の記録者の地図と照合し、採取路と戦闘路がまったく違うことを知った。

 

FOEを狩れる時は狩った。

 

狩れない時は避けた。

 

素材を持ち帰れば、ネイピア商会で競売に回した。

 

地図は清書し、ギルドに提出した。

 

税が変われば記録を残し、保管料が変われば帳簿に残した。

 

迷宮へ潜る日と同じだけ、戻って整える日があった。

 

だから、海都の冒険者達は黒華五刀の進行を速いと言ったが、黒蘭本人はそう思っていなかった。

 

むしろ、必要な時間をかけているだけだった。

 

---

 

札の前には、何人かの冒険者が立っていた。

 

Bランクの鉄靴の梟。

 

Cランクの潮騒の針。

 

赤帆団の若い斥候。

 

彼らは札を見て、互いに小声で話す。

 

「二十九階か」

 

「三十階磁軸まで、あと少しだな」

 

「でも、黒華ならもっと早く行けたんじゃないか?」

 

「進めるから進まないんだろ」

 

「何だそれ」

 

「薔薇さんが言ってた。帰り道を作らないまま進む奴から死ぬって」

 

その言葉に、若い冒険者達は黙った。

 

最近、訓練場では黒薔薇の言葉が少しずつ広がっていた。

 

斬る前に足を見ろ。

 

盾の後ろに閉じこもるな。

 

勝つ形より帰る形を作れ。

 

彼女は笑いながら言う。

 

だが、手合わせした者ほど、その意味を忘れられない。

 

誰も彼女から一本を取れていない。

 

守り役であるはずの女から、誰も。

 

---

 

同じ掲示板の前に、黒華五刀も現れた。

 

黒蘭は札を一通り見る。

 

自分達の札だけではない。

 

ロイヤルガード。

 

月下猟姫。

 

獣王爪牙。

 

大地の記録者。

 

遠征中の砂冠の旅団。

 

外縁遺跡へ向かった灰鷗隊。

 

それら全てを見ている。

 

薔薇が横から覗き込む。

 

「札、多いな」

 

「街が動いている」

 

黒蘭は言った。

 

椿が大地の記録者の札を見る。

 

「護衛募集予定、とあります」

 

牡丹が少し興味を示す。

 

「採取路更新ですか」

 

百合は短く言う。

 

「戦闘力は低い」

 

黒蘭は頷く。

 

「だが、迷宮の歩き方は彼らの方が上かもしれない」

 

薔薇が笑う。

 

「黒蘭がそう言うと、ほんとに依頼受けそうだな」

 

「必要なら受ける」

 

椿はその札の位置を覚えた。

 

大地の記録者。

 

戦闘ではなく、地図と採取で迷宮に挑む者達。

 

いずれ共に潜れば、黒華五刀にも学ぶものがあるかもしれない。

 

それは、後の話だった。

 

---

 

受付で、黒蘭は探索申請を出した。

 

「二十階磁軸から入る」

 

「目標は三十階磁軸」

 

受付係は書類に目を通す。

 

「三十階磁軸は、すでに複数のAランクが登録済みです」

 

「ああ」

 

「ただし、黒蘭一行は未登録ですので、直接転移はできません」

 

「分かっている」

 

樹海磁軸。

 

迷宮内に存在する転移点。

 

発見し、触れ、海都側の基盤へ自身の刻印を結ぶことで初めて使える。

 

誰かが見つけたからといって、全員が使えるわけではない。

 

ロイヤルガードが三十階磁軸を起動していても、銀狼の牙が登録済みであっても、黒華五刀がその地点に触れていなければ、黒華五刀はそこへ飛べない。

 

記録は共有される。

 

位置も知らされる。

 

だが、道は自分達の足で開く必要がある。

 

まれに、救助や公的任務で登録者が未登録者を伴って磁軸を通すこともある。

 

しかし人数制限があり、危険もある。

 

通常探索では禁じられていた。

 

黒蘭はその規則を聞いた時、むしろ納得していた。

 

他人が開いた道を、自分の道と勘違いする者から死ぬ。

 

そう言った。

 

---

 

受付係は別の紙を差し出した。

 

「それと、ネイピア商会から伝言です」

 

椿が受け取る。

 

「FOE素材に対する検査税が、一時的に引き上げられた件、まだ継続中とのことです」

 

牡丹の笑みが薄くなる。

 

「二十日経っても、ですか」

 

百合が言う。

 

「嫌がらせです」

 

黒蘭は紙を見る。

 

検査税。

 

保管許可。

 

競売前確認。

 

元老院と商家貴族の管轄が絡む項目だった。

 

昨日今日の話ではない。

 

この二十日間、黒華五刀が高品質素材を持ち帰るたび、同じ税が課されている。

 

偶然ではない。

 

椿が問う。

 

「どうされますか」

 

「今は従う」

 

百合がわずかに視線を上げる。

 

「よろしいのですか」

 

「規則として出されたなら、まず従う」

 

「不当なら証拠を集める」

 

「必要なら変える」

 

牡丹が静かに言う。

 

「ネイピア様へは、引き続き記録を残すよう伝えます」

 

「ああ」

 

黒蘭は紙を返す。

 

「税額、担当者、検査時間、保管料」

 

「全てだ」

 

受付係はその言葉を聞き、少しだけ背筋を伸ばした。

 

黒蘭は怒らない。

 

声も荒げない。

 

だが、見逃すつもりもない。

 

それが分かった。

 

---

 

二十階磁軸室。

 

青白い光が五人を包む。

 

黒蘭は最後に全員を見る。

 

椿。

 

薔薇。

 

牡丹。

 

百合。

 

「目標は三十階磁軸」

 

「ただし、水流と魔物の変化次第で撤退」

 

「FOEは条件が揃えば狩る」

 

「素材は保存」

 

「地図は帰路優先」

 

椿が頷く。

 

「了解しました」

 

薔薇が笑う。

 

「この二十日、何回聞いたかな」

 

「必要なことは繰り返す」

 

牡丹が荷を確かめる。

 

「湿気対策は増やしています」

 

百合が短く言う。

 

「後方確認済み」

 

黒蘭は磁軸へ触れた。

 

青い光が強くなる。

 

次の瞬間、五人は第二階層の水林へ消えた。

 

-----

 

第二階層、海嶺ノ水林。

 

二十六階から二十九階までの道は、すでに黒華五刀の地図に記されていた。

 

ただし、それは安全を意味しない。

 

迷宮の道は固定されていても、迷宮の状態は固定されない。

 

昨日浅かった水路が、今日は膝まで増えている。

 

昨日いなかった人食いサンゴが、今日は根の影に開いている。

 

昨日通れた砂地が、今日は泥になっている。

 

水林は、地図を持つ者を試す。

 

地図を信じすぎる者から沈む。

 

この二十日で、黒華五刀はそれを学んでいた。

 

---

 

薔薇が前方の根を踏む。

 

「ここは行ける」

 

百合がすぐ横の水面を指す。

 

「そこは沈みます」

 

薔薇が足を止める。

 

「危ないな」

 

牡丹が細い棒を差し込む。

 

水面下の泥が、棒を吸い込んだ。

 

「落ちれば腰まで沈みます」

 

黒蘭は頷く。

 

「前回より深い」

 

椿が記録する。

 

「二十八階北側水路、水位上昇。前回より泥深い」

 

薔薇が眉を上げる。

 

「前は印を付けたよな」

 

「印は残っている」

 

百合が言う。

 

「ただし、水位が変わっています」

 

黒蘭は水面を見る。

 

「地図は正しい」

 

「迷宮が変わっただけだ」

 

薔薇は苦笑した。

 

「それが一番面倒なんだよ」

 

---

 

二十七階へ降りる手前で、黒華五刀は獣王爪牙と再会した。

 

バルトと、狼のような獣。

 

それに加えて、今日は二人の仲間がいた。

 

鳥を肩に乗せた女のビーストテイマー、リアナ。

 

弓を持つ寡黙な男、トーヴ。

 

三人と二匹。

 

獣王爪牙は、必ずしも五人で固まって動くわけではない。

 

探索目的に応じて、人と獣の組み合わせを変える。

 

それも彼らの強みだった。

 

バルトは黒蘭を見る。

 

「また三十階狙いか」

 

「ああ」

 

「今度は行けそうだな」

 

「条件が揃えば」

 

バルトは笑った。

 

「お前、その言い方好きだな」

 

リアナが肩の鳥を撫でる。

 

「今日の午後は、二十八階の水路が少し早くなる」

 

「でも前回ほどじゃない」

 

「鳥が落ち着いてる」

 

黒蘭は鳥を見る。

 

小さな鳥は羽を整え、静かに黒蘭を見返した。

 

黒蘭は少し頭を下げる。

 

鳥は一度だけ鳴く。

 

リアナが笑う。

 

「もう顔を覚えたみたい」

 

薔薇が言う。

 

「獣には好かれるんだよな」

 

「人にも嫌われてはいない」

 

「一部には嫌われてるぞ」

 

「そうか」

 

「興味なさそうだな」

 

椿が地図を出す。

 

「二十八階の流れが前回より弱いなら、南側の根道を使えます」

 

バルトは頷いた。

 

「ただし、古海の放浪者の回遊域に近い」

 

「狩るのか」

 

黒蘭は答える。

 

「条件が揃えば」

 

バルトはまた笑った。

 

「やっぱりそれか」

 

---

 

リアナが黒華五刀の地図を覗き込み、目を丸くした。

 

「前より細かくなってる」

 

椿が答える。

 

「大地の記録者の地図と照合しました」

 

「彼らの採取路は、私達の戦闘路とは違います」

 

トーヴが短く言う。

 

「採取者は、魔物と戦う場所を選ばない」

 

「戦わず採る場所を選ぶ」

 

黒蘭は頷いた。

 

「良い考えだ」

 

薔薇が感心する。

 

「戦わないための道か」

 

牡丹が微笑む。

 

「補給路としても重要ですね」

 

バルトは言った。

 

「大地の記録者が、近いうち二十九階採取路の護衛を出す」

 

「受けるなら学べる」

 

黒蘭は短く答える。

 

「覚えておく」

 

椿は地図の端へ小さく記した。

 

大地の記録者。

 

二十九階採取路護衛。

 

それは、すぐではない。

 

だが、いずれ黒華五刀が受けるかもしれない依頼として残った。

 

---

 

二十八階。

 

水流は、聞いていた通り強かった。

 

だが、前回よりは読める。

 

二十日かけて、黒華五刀はこの階層の呼吸を少し覚えていた。

 

どの根が濡れると滑るか。

 

どの水音が深みを示すか。

 

どの珊瑚が人食いサンゴか。

 

うずまきフグが水面下で膨らむ前に、どんな波紋が出るか。

 

アカグロダコが岩に擬態する時、周囲の小魚がどう避けるか。

 

それらは地図には書ききれない。

 

歩いた者だけが知る情報だった。

 

百合が水音の中で気配を読む。

 

「左、水中に二」

 

牡丹が薬包を開く。

 

「毒避けを先に」

 

椿が短く指示する。

 

「薔薇、右根」

 

「百合、先に目を」

 

「牡丹、後方確認」

 

「黒蘭様は中央」

 

黒蘭は頷く。

 

「分かった」

 

号令は短い。

 

この階層では、長い号令は水音に消える。

 

椿もまた、この二十日で水林に合わせて声を変えていた。

 

---

 

水路の向こう。

 

巨大な影が動く。

 

古海の放浪者。

 

以前、銀狼の牙が派手に倒した個体と同種。

 

黒華五刀も一度討っている。

 

だが、同じ相手と思わない。

 

水流が違う。

 

足場が違う。

 

魔物の向きが違う。

 

同じ名前でも、同じ戦場ではない。

 

薔薇が笑う。

 

「どうする」

 

黒蘭は水を見た。

 

足場は悪い。

 

だが、退路はある。

 

素材価値は高い。

 

この個体を残せば、三十階へ向かう道を塞ぐ。

 

条件は揃っていた。

 

「狩る」

 

椿の刀が地面に刺さる。

 

柄布が濡れながらも広がる。

 

「短期ではなく、制圧します」

 

古海の放浪者が突進する。

 

水が割れる。

 

薔薇は正面に立った。

 

ただし、止めない。

 

籠手で角度を変える。

 

巨体が根へ乗り上げる。

 

百合の短刀が目元を掠める。

 

失明させるのではない。

 

向きを奪う。

 

牡丹が後方へ入り、外皮と膜の境目を確かめる。

 

黒蘭はまだ斬らない。

 

水流が変わるのを待っている。

 

巨体が反転する。

 

その瞬間、足元の水が引いた。

 

古海の放浪者の腹側が一瞬だけ浮く。

 

「今」

 

椿の声。

 

黒蘭が踏み込む。

 

一刀。

 

二刀。

 

三刀。

 

鱗を砕かず、継ぎ目だけを断つ。

 

四刀目で動脈。

 

五刀目で神経。

 

巨体が水に沈む。

 

暴れる時間は短かった。

 

水は赤くなった。

 

だが、濁りは最小限だった。

 

薔薇が息を吐く。

 

「前より早いな」

 

黒蘭は言った。

 

「慣れた」

 

「お前が言うと怖いな」

 

牡丹が外皮を確認する。

 

「良好です」

 

百合が周囲を見る。

 

「魔物、散っていません」

 

椿は記録する。

 

「古海の放浪者。水流変化時、腹側露出。素材保存可能。前回より交戦時間短縮」

 

遠くで、獣王爪牙の鳥が鳴いた。

 

見ていたのかもしれない。

 

---

 

三十階に近づくにつれ、第二階層の空気は変わった。

 

塩の匂いが濃くなる。

 

木々の根が太くなる。

 

水の流れが一方向ではなく、複数の方向からぶつかる。

 

迷宮が道を隠し始める。

 

そして、時折、低い音が響いた。

 

獣ではない。

 

魚でもない。

 

水そのものが唸るような音。

 

椿が足を止める。

 

「今のは」

 

百合が答える。

 

「遠い」

 

牡丹が言う。

 

「大型個体でしょうか」

 

薔薇が周囲を見る。

 

「FOEより大きそうだな」

 

黒蘭は水面を見る。

 

波紋。

 

一定ではない。

 

奥から来る。

 

この階層のどこかに、さらに大きなものがいる。

 

今はまだ見えない。

 

だが、いる。

 

黒蘭は言った。

 

「この階層の主かもしれない」

 

椿が記録する。

 

「水音。遠方大型個体。三十階付近より感知」

 

黒蘭は頷く。

 

「まだ戦わない」

 

薔薇は苦笑する。

 

「分かってる」

 

「見る前に決めるな、だろ」

 

「ああ」

 

---

 

三十階。

 

樹海磁軸は、巨大な根の輪の中にあった。

 

青白い光が水面に映り、揺れている。

 

周囲には魔物の気配が薄い。

 

ただし、完全に安全ではない。

 

黒蘭はまず周囲を調べた。

 

百合が上層と水中を確認する。

 

牡丹が根の裏を探る。

 

薔薇が足場を確かめる。

 

椿が地図に位置を記す。

 

異常なし。

 

黒蘭は最後に磁軸へ触れた。

 

青白い光が強くなる。

 

椿、薔薇、牡丹、百合も順に触れる。

 

登録。

 

三十階磁軸。

 

これで黒華五刀は、海都から直接この地点へ入れる。

 

先にロイヤルガードも、銀狼の牙も、月下猟姫も登録している。

 

だが、それは彼らの道だった。

 

今、ようやく黒華五刀の道になった。

 

黒蘭は光を見る。

 

「帰還する」

 

椿が確認する。

 

「理由は」

 

「素材がある」

 

「水流も変わる」

 

「ここから先は情報不足」

 

牡丹が満足そうに頷く。

 

「補給上も最良です」

 

薔薇が笑う。

 

「三十階まで来て、あっさり帰るんだな」

 

「帰るために来た」

 

「そういうところ、変わらないな」

 

青い光が五人を包んだ。

 

---

 

海都へ戻ると、ギルドの受付係は報告書を見て、しばらく黙った。

 

「三十階磁軸、登録済みですね」

 

「ああ」

 

「古海の放浪者の素材も」

 

「持ち帰った」

 

「水流変化と、大型個体音の報告も」

 

「ある」

 

受付係は深く息を吐いた。

 

「……承りました」

 

そして、すぐに別の札が用意された。

 

黒蘭一行

第二階層三十階到達

三十階磁軸登録

古海の放浪者討伐

高品質素材提出

水流変化および大型個体音を報告

 

掲示板にその札が掛けられると、人が集まった。

 

「三十階?」

 

「やっと登録か」

 

「やっとって言うな。二十階から一か月以上で三十階だぞ」

 

「黒華ならもっと早く行けただろ」

 

「でも地図も素材もFOE間引きも込みだ」

 

「銀狼は三十六階だが、今は療養中」

 

「黒華は追いつくか?」

 

「追いつくんじゃない。別の道で来てる感じがする」

 

その横で、鉄靴の梟のダリオが札を見つめていた。

 

潮騒の針の若者達は、薔薇から聞いた退路の話を思い出していた。

 

赤帆団の斥候は、外洋遠征の仲間へこの話を持って帰ることを考えていた。

 

黒華五刀の名は、迷宮の中だけでなく、海都の外へも少しずつ広がり始めていた。

 

---

 

ネイピア商会では、再び忙しさが増していた。

 

古海の放浪者の外皮は、またも状態が良かった。

 

しかも今回は、水流が荒い中で回収されている。

 

ネイピアは素材を見て、額を押さえた。

 

「あなた達ね」

 

黒蘭が見る。

 

「何だ」

 

「私、この二十日ずっと検査税の件で走り回ってるの」

 

「聞いた」

 

「そこへこれ?」

 

「売れるか」

 

「売れるわよ」

 

ネイピアは即答した。

 

「売れるから困ってるの」

 

牡丹が微笑む。

 

「困るほど売れるのは、よいことでは」

 

「商人としては良いこと」

 

「政治としては面倒」

 

ネイピアは声を少し落とす。

 

「検査税、やっぱり不自然よ」

 

「特定の素材だけ狙われてる」

 

「FOE外皮、毒腺、希少膜」

 

「あなた達が最近よく持ち込むものばかり」

 

椿が言う。

 

「貴族側の嫌がらせでしょうか」

 

「たぶんね」

 

ネイピアは帳簿を叩く。

 

「でも、記録は残してる」

 

「担当者、税率、検査時間、全部」

 

黒蘭は頷いた。

 

「助かる」

 

「助かる、じゃないわよ」

 

ネイピアは少し苛立った顔をする。

 

「あなた達、政治に関わりたくないんでしょう」

 

「ああ」

 

「でも、政治は向こうから来るわ」

 

「来たら処理する」

 

「それが怖いって言ってるの」

 

黒蘭は少し黙る。

 

「迷惑をかけるか」

 

ネイピアは意外そうに目を瞬かせた。

 

そして、ため息をついた。

 

「商売相手としては、もう十分巻き込まれてる」

 

「でも、損はしてない」

 

「だから逃げない」

 

牡丹が柔らかく言う。

 

「ありがとうございます」

 

ネイピアは視線を逸らした。

 

「礼はいいから、次から事前に量を教えて」

 

「店が溢れる」

 

薔薇が笑った。

 

「また持ってくる前提なんだな」

 

「持ってくるでしょ」

 

黒蘭は答えた。

 

「必要なら」

 

ネイピアは苦笑した。

 

「でしょうね」

 

---

 

その夜。

 

宿で、黒華五刀は三十階以降の地図を広げていた。

 

椿が言う。

 

「三十一階以降は、海都側の記録でも精度が落ちます」

 

牡丹が補給表を見る。

 

「水中戦用の薬、湿気対策、保存容器をさらに増やします」

 

百合が窓の外を確認する。

 

「監視が一つ」

 

薔薇が顔を上げる。

 

「またか」

 

「素人です」

 

百合の声は冷たい。

 

「殺しますか」

 

「殺すな」

 

黒蘭が即答した。

 

「見せておけ」

 

「我々が気付いていることだけ」

 

百合は頷く。

 

「承知しました」

 

窓の外で、小さな物音がした。

 

おそらく監視者が転んだ。

 

薔薇が笑う。

 

「百合、何した?」

 

「何も」

 

「何もしてない音じゃなかったぞ」

 

牡丹が微笑む。

 

「転びやすい場所だったのでしょう」

 

黒蘭は地図を見る。

 

「政治は後だ」

 

「次は三十一階」

 

椿が筆を取る。

 

「はい」

 

薔薇が肩を回す。

 

牡丹が補給を記す。

 

百合が窓辺に立つ。

 

黒華五刀は、変わらず次の準備を始める。

 

海都の名声。

 

貴族の嫌がらせ。

 

Aランクの審査。

 

銀狼の牙との因縁。

 

それらは確かに周囲へ積もっている。

 

だが、黒蘭達の目的はそこではない。

 

迷宮の奥。

 

まだ見えない深い水底。

 

その先にあるかもしれない、失われた国への道。

 

だから彼らは進む。

 

三十階磁軸の青い光は、次の戦場への扉にすぎなかった。

 

第十二話 了

 

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