海都来訪六十一日目。
冒険者ギルドの掲示板に、新しい札が掛けられた。
黒蘭一行
第二階層三十階磁軸登録済
三十一階以降探索準備中
大地の記録者護衛依頼、受諾
その下に、小さな文字で誰かが書き足していた。
黒華五刀、地図屋の護衛へ。
黒蘭はその落書きを見て、少しだけ目を止めた。
「黒華五刀」
薔薇が横から覗き込む。
「また増えたな、呼び名」
椿は黙っていた。
黒華。
彼女が訓練場で口にした名。
私は黒華の王族です。
その一言は、海都の冒険者達の間で予想以上に広がっていた。
黒を名乗る五人。
黒華の王族と共にいる五つの刃。
黒華五刀。
誰が最初にそう呼んだのかは分からない。
酒場の酔客か。
掲示板の落書きか。
訓練場の若手か。
あるいは、貴族達が皮肉を込めて言ったのかもしれない。
だが、呼び名は残った。
そして、残った呼び名は力を持つ。
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受付係が少し気まずそうに言った。
「すみません。最近、こちらの方が通りがよくて」
黒蘭は答える。
「構わない」
椿は札を見上げていた。
黒華。
滅びた国の名。
それが海都の掲示板にある。
軽い札ではない。
だが、不思議と嫌ではなかった。
黒華の名を隠していたわけではない。
ただ、語る必要がなかっただけだ。
誰かに説明して理解されるほど、軽い名ではなかった。
しかし、椿が訓練場で「私は黒華の王族です」と口にした以上、その名はもう海都の中で意味を持ち始めている。
黙っていれば、勝手に意味を付けられる。
ならば、行動で意味を定めるしかない。
薔薇が肘で椿をつつく。
「有名になったな、黒華椿」
椿は静かに返す。
「黒薔薇、からかわないでください」
「お、黒付きで怒られた」
百合が短く言う。
「当然です」
牡丹は微笑む。
「外では、黒を外す方が不自然になってきましたね」
黒蘭は言った。
「名が一人歩きする前に、行動で意味を定める」
薔薇が笑う。
「また難しいことを」
「難しくない」
「黒華五刀と呼ばれるなら、そう呼ばれても恥じない動きをする」
椿はその言葉を静かに聞いていた。
黒華の名を背負う。
それは椿だけの役目ではなくなりつつあった。
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その日、黒華五刀は三十一階へ進む予定を一度変えた。
理由は、大地の記録者からの護衛依頼だった。
依頼内容は、二十九階から三十階周辺の採取路再確認。
目的地は、戦闘路から外れた水林の脇道。
採取対象は、潮根草、青珊瑚苔、そして古い根に付着する薬効膜。
報酬は高くない。
戦果にもならない。
踏破階数も伸びない。
それでも黒蘭は依頼を受けた。
レオンは依頼書を見ながら笑った。
「お前、本当にこれ受けるのか」
「ああ」
「三十一階へ進めるんだぞ」
「三十一階は逃げない」
「地図屋の護衛は今必要なのか?」
黒蘭は答えた。
「大地の記録者は、我々と違う迷宮を見ている」
「見る価値がある」
レオンは少し黙った。
それから低く笑った。
「そういうところだよな」
「何がだ」
「いや、いい」
レオンは依頼書に承認印を押した。
「大地の記録者を死なせるな」
「当然だ」
「それと」
レオンは少し声を落とす。
「地図屋は戦闘力が低い」
「だが、海都の生命線だ」
「彼らの地図がなければ、Aランクでも何度か死んでる」
黒蘭は頷いた。
「戦わない強さを軽く見るつもりはない」
レオンは片目を細めた。
「ならいい」
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大地の記録者は、五人組だった。
リーダーはガルド。
中年のファーマー。
腰には短い鉈。
背には大きな地図筒。
手には杖ではなく、測量棒。
他の四人も、いかにも戦闘向きではない。
採取袋を背負った小柄な女、ミナ。
罠と目印を担当する若い男、オル。
薬草と毒草を見分ける老女、サーラ。
そして、荷車を扱う大柄な男、ボルク。
彼らはBランク相当の活動実績を持つが、戦闘力で言えばCランクにも劣る。
それでも、海都の冒険者達は彼らを軽く見ない。
少なくとも、迷宮を知る者は。
黒蘭はガルドへ頭を下げた。
「黒蘭だ」
ガルドも頭を下げる。
「大地の記録者、ガルドだ」
「今日は頼む」
「護衛はこちらの役目だ」
「違うな」
ガルドは笑った。
「今日は互いに役目がある」
「俺達は道を読む」
「あんた達は道を守る」
黒蘭は少しだけ目を細める。
「良い分け方だ」
薔薇がガルドの荷物を見る。
「その荷で二十九階まで行くのか」
「行く」
「重くないのか」
「重い」
「いいのか」
「必要だからな」
牡丹が微笑む。
「その感覚は分かります」
ガルドは牡丹を見て笑った。
「あんたは分かりそうだ」
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二十階磁軸から第二階層へ入り、三十階磁軸ではなく二十九階手前の既知路へ向かう。
黒華五刀だけなら、三十階磁軸を使って近道できる。
しかし、大地の記録者の五人は三十階磁軸に未登録だった。
磁軸は、触れた者しか使えない。
黒華五刀が登録したからといって、彼らを自由に連れていけるわけではない。
公的救助であれば例外的に同行転移が許可される場合もある。
だが、通常の採取護衛では禁止。
そのため、一行は二十階から徒歩で進んだ。
薔薇が言う。
「面倒だな」
ガルドは笑った。
「そういうもんだ」
「他人の磁軸で奥へ飛べるなら、低ランクがいきなり深部へ行って死ぬ」
黒蘭は頷いた。
「良い規則だ」
「そう思うのか」
「他人の道を自分の道と間違える者は死ぬ」
ガルドは声を上げて笑った。
「まったくだ」
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二十一階から二十五階まで。
黒華五刀は、すでに何度も通った道を進んだ。
だが、大地の記録者と歩くと、同じ道が違って見えた。
ガルドは足を止める。
「ここは通らない」
薔薇が周囲を見る。
「魔物はいないぞ」
「いないからだ」
「どういう意味だ?」
ミナが水際を指した。
「小魚がいません」
オルが根の下を覗く。
「逃げた跡も新しい」
サーラが泥をすくい、匂いを嗅ぐ。
「毒が薄い。うずまきフグがさっきまでいたね」
ボルクが荷車を止める。
「重い荷で入ったら、右へ沈む」
ガルドは測量棒で水底を突く。
柔らかい泥が棒を飲み込んだ。
「戦闘なら通れる」
「採取なら通らん」
黒蘭はそれを見ていた。
「目的で道が変わるか」
「当然だ」
ガルドは言った。
「戦う道」
「逃げる道」
「採る道」
「運ぶ道」
「全部違う」
牡丹が静かに頷く。
「補給路と進軍路が違うのと同じですね」
「そういうことだ」
薔薇は感心したように言う。
「地図って道が一本書いてあるだけじゃないんだな」
ガルドはにやりと笑った。
「だから俺達がいる」
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二十六階。
人食いサンゴの群生地。
黒華五刀なら、必要なら切り開ける。
だがガルドはそこを迂回した。
「ここは採らない」
椿が地図を見る。
「薬効のある触手が取れるのでは」
サーラが答える。
「今の時期は毒が強すぎる」
「乾かしても薬になりにくい」
「採るなら三日後か、雨音のする夜明け」
椿は筆を止めた。
「雨音?」
「水林は上から降らなくても、根の水滴が増える時間がある」
「その時は毒が薄まる」
黒蘭は短く言った。
「地図に時間が入るのか」
ガルドは頷く。
「本当の地図にはな」
椿はその言葉を記録した。
本当の地図には、時間が入る。
それは、黒華五刀の地図にはまだ足りないものだった。
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魔物が出た。
アカグロダコが二体。
水面下から黒い腕が伸び、ミナの足を狙う。
百合が動こうとする。
だが、その前にオルが小石を投げた。
ただの小石ではない。
匂い袋を染み込ませた石。
アカグロダコの腕が小石へ向かう。
その隙に、ミナが一歩下がる。
ボルクが荷車を押し、道を塞ぐ。
サーラが粉を撒く。
水面がわずかに泡立つ。
アカグロダコが嫌がるように身を引いた。
薔薇が驚く。
「倒さないのか」
ガルドは言った。
「倒すと墨を吐く」
「水が濁る」
「採取場所が死ぬ」
黒蘭は頷く。
「理にかなっている」
百合が少しだけ目を細める。
「殺さず追う技術」
牡丹が微笑む。
「学ぶことがありますね」
その後、薔薇が一体の進路を籠手で流し、黒蘭がもう一体の腕だけを落とした。
殺さない。
水を濁らせない。
道を守る。
黒華五刀にとっては、かえって難しい戦いだった。
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昼過ぎ。
一行は二十九階の採取候補地に着いた。
そこは、地図上では行き止まりに見える場所だった。
太い根が壁を作り、水が淀んでいる。
魔物の気配は薄い。
しかし、ガルド達は迷わず動き始めた。
ミナが根の裏へ潜り込む。
オルが糸を張る。
サーラが苔を選別する。
ボルクが荷の重量を調整する。
ガルドは測量棒を立て、椿へ言った。
「ここは地図に細く書くな」
椿が問う。
「なぜです」
「太く書くと、戦闘屋が通る」
「通ると踏み荒らす」
「採取地が死ぬ」
「だから、採取地は地図に全部は書かない」
椿の筆が止まった。
地図を正確に描く。
それは当然だと思っていた。
しかし、正確に描くことが常に正しいわけではない。
情報を出しすぎれば、人が荒らす。
隠しすぎれば、人が死ぬ。
地図にも、政治がある。
黒蘭は言った。
「誰に渡す地図かで変えるのか」
ガルドは頷いた。
「そうだ」
「新人用」
「戦闘用」
「採取用」
「救助用」
「Aランク用」
「全部違う」
黒蘭はしばらく黙っていた。
そして言った。
「良い」
ガルドは笑う。
「褒められたか?」
「学んだ」
ガルドは少しだけ真顔になった。
「そりゃ光栄だ」
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採取の帰り道。
FOEの気配が近づいた。
襲来する鱗竜。
水林を徘徊する大型個体。
足音は重く、水が震える。
大地の記録者達の顔が変わる。
戦う力はない。
だが、恐慌には陥らない。
ガルドが即座に指示を出す。
「荷を軽くするな」
「音を立てるな」
「右の根へ」
「ミナ、匂い袋」
「オル、偽足跡」
黒蘭はそれを見ていた。
戦わない者の戦い。
薔薇が小声で言う。
「倒せるぞ」
黒蘭は答えた。
「倒す理由を確認する」
椿が周囲を見る。
「採取荷があります」
牡丹が言う。
「ここで戦えば、荷が傷みます」
百合が短く言う。
「退路あり」
ガルドが黒蘭を見る。
「護衛さん、今回は逃げる戦いだ」
黒蘭は頷いた。
「従う」
ガルドは一瞬だけ驚いた。
そして、すぐに笑った。
「なら全員、生きて帰れる」
黒華五刀は、大地の記録者の指示に従った。
薔薇が最後尾で音を殺し、牡丹が荷の紐を押さえ、百合が偽足跡を補助し、椿が全員の位置を短く整える。
黒蘭は、襲来する鱗竜と一度だけ目を合わせた。
倒せる。
おそらく。
だが、今日は倒さない。
勝てることと、戦うことは違う。
その言葉を、黒蘭自身がもう一度確認するような帰路だった。
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海都へ戻ると、大地の記録者の採取物は無事だった。
戦闘は少ない。
討伐数も少ない。
しかし、依頼は完璧に達成された。
ガルドはギルド受付で報告を終えると、黒蘭へ手を差し出した。
「助かった」
黒蘭はその手を握る。
「こちらも学んだ」
「黒華五刀が地図屋から学ぶのか」
「必要なら」
ガルドは笑った。
「なら、また頼む」
薔薇が横から言う。
「次はもう少し戦う依頼にしてくれ」
サーラが笑う。
「若いねえ、黒薔薇さん」
「いや、私ももう若手ってほどじゃ」
牡丹が微笑む。
「黒薔薇様は十分お若いです」
百合が短く言う。
「精神は特に」
「黒百合、それ褒めてないだろ」
椿も小さく笑った。
大地の記録者の護衛依頼。
それは、黒華五刀の名声を大きく跳ね上げるものではなかった。
だが、彼らの迷宮理解を一段深めた。
そして海都の一部は、また別のことを知った。
黒華五刀は、強いだけではない。
学ぶ相手を選ばない。
戦わない者からも学ぶ。
それは、ある意味で戦闘能力より厄介な強さだった。
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大地の記録者との護衛任務の翌日。
黒華五刀の報告は、ギルド掲示板に大きくは貼り出されなかった。
討伐数は少ない。
到達階数も伸びていない。
FOE素材の高額競売もない。
派手な戦果だけを追う者にとっては、地味な依頼だった。
それでも、掲示板の端には小さな札が出た。
黒華五刀
大地の記録者護衛依頼完了
二十九階採取路更新補助
襲来する鱗竜、交戦回避
採取物損耗なし
黒蘭は、その札を見て少しだけ目を止めた。
昨日までは「黒蘭一行」と書かれることが多かった。
今日は違う。
黒華五刀。
いつの間にか、その名が公的な札にも使われ始めていた。
受付係が少し気まずそうに言った。
「すみません。最近、こちらの方が通りがよくて」
黒蘭は答える。
「構わない」
椿は札を見上げていた。
黒華。
滅びた国の名。
それが海都の掲示板にある。
軽い札ではない。
だが、不思議と嫌ではなかった。
薔薇が肘で椿をつつく。
「有名になったな、黒華椿」
椿は静かに返す。
「黒薔薇、からかわないでください」
「お、黒付きで怒られた」
百合が短く言う。
「当然です」
牡丹は微笑む。
「外では、黒を外す方が不自然になってきましたね」
黒蘭は言った。
「名が一人歩きする前に、行動で意味を定める」
薔薇が笑う。
「また難しいことを」
「難しくない」
「黒華五刀と呼ばれるなら、そう呼ばれても恥じない動きをする」
椿はその言葉を静かに聞いていた。
黒華の名を背負う。
それは椿だけの役目ではなくなりつつあった。
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その日の午後。
ネイピア商会では、いつもとは違う客が黒華五刀を待っていた。
港湾貴族の代理人。
以前、黒蘭を客将として迎えようとした男だった。
彼は柔らかい笑みを浮かべていたが、目は笑っていない。
隣には二人の護衛。
さらに後ろには、帳簿を持った商人風の男。
ネイピアは明らかに機嫌が悪かった。
「うちの店で揉め事はやめてほしいネ」
代理人は笑う。
「揉め事など」
「ただ、正式な検査手続きです」
ネイピアは帳簿を閉じる。
「検査なら昨日も終わったヨ」
「追加検査です」
「理由は何ネ」
「希少素材の流通管理」
代理人は黒蘭を見る。
「黒蘭殿」
「近頃、あなた方の素材は市場への影響が大きい」
「元老院としても、慎重に扱う必要があります」
黒蘭は答える。
「検査なら受ける」
代理人の笑みが深くなる。
「ご理解いただけて何より」
「ただし」
黒蘭は続けた。
「検査者の名」
「検査項目」
「追加税の根拠」
「保管中に劣化した場合の責任」
「全て書面に残せ」
代理人の笑みが固まった。
ネイピアが横で小さく笑いそうになり、咳払いで誤魔化す。
帳簿を持った商人風の男が困った顔をした。
「そこまで細かくは」
「なら渡さない」
代理人の声が少し低くなる。
「規則に従うとおっしゃっていたはずですが」
「従う」
黒蘭は静かに言う。
「だから規則を書け」
沈黙。
薔薇が小声で言った。
「黒蘭、こういう時ほんと強いな」
牡丹が微笑む。
「兵站と書類は似ています」
百合は代理人の護衛を見ていた。
護衛達は目を逸らした。
彼らも分かっている。
この黒い五人を相手に、武力で何かできるはずがない。
代理人は書類を畳んだ。
「本日は、確認だけにしておきましょう」
「そうか」
黒蘭はそれだけ言った。
代理人は去り際に、ネイピアへ視線を向ける。
「商会も、相手を選ぶことです」
ネイピアは笑った。
「選んでるヨ」
「だから困ってるネ」
代理人は不快そうに店を出た。
扉が閉まる。
ネイピアは大きく息を吐いた。
「本当に面倒ネ」
黒蘭は言う。
「迷惑をかけた」
「だから、その言い方やめるヨロシ」
「怒りにくいネ」
薔薇が笑う。
「怒る気だったのか」
「怒ってるヨ」
ネイピアは黒蘭を睨む。
「でも、取引は続けるネ」
「理由は」
「あなた達の素材は高く売れる」
「それに」
少し間。
「書面を残せって言ったの、良かったヨ」
「商人は記録で戦うものネ」
黒蘭は頷いた。
「なら戦えるな」
ネイピアは目を細める。
「あなた、商人を戦場に引きずり込む気ネ?」
「もう来ている」
「……本当に嫌な客ヨ」
だが、その声に本気の拒絶はなかった。
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その日の夕方。
訓練場では、黒薔薇がまた若手に囲まれていた。
ただし、今日はいつもと違う者がいた。
銀狼の牙のマルコ。
サーベルと銃を腰に下げたパイレーツ。
彼は軽い調子で片手を上げる。
「黒薔薇さん、一本いいか?」
訓練場が少しざわつく。
銀狼の牙。
ガレスの件があったばかりだ。
薔薇は目を細める。
「喧嘩か?」
「違う違う」
マルコは両手を上げる。
「訓練」
「ユーリックに言われたんだよ」
「黒華五刀と話すなら、黒薔薇から行けって」
薔薇は笑った。
「私は窓口か」
「一番話が通じそう」
「それ、褒めてる?」
「かなり」
薔薇は木刀を持つ。
「いいぞ」
「銃は?」
「使わない」
「本当に?」
「使ったら訓練場が怒る」
「それもそうだ」
二人は向かい合った。
マルコは軽い。
足が止まらない。
サーベルの先で誘い、体を開き、死角へ回る。
海都の剣だ。
黒華とは違う。
薔薇は興味深そうに見る。
「面白いな」
「まだ余裕?」
「余裕っていうか」
薔薇は籠手でサーベルの腹を押した。
マルコの身体が半歩流れる。
そこへ木刀が肩に止まる。
「一本」
マルコは固まった。
観客が息を呑む。
そして、マルコは笑った。
「いや、無理だわ」
薔薇も笑う。
「お前、逃げるの上手いな」
「褒めてる?」
「かなり」
マルコは肩をすくめた。
「黒薔薇さん達はさ」
「ガレスをどう見る?」
薔薇は木刀を下ろした。
「強い」
「それは聞いた」
「危うい」
「それも聞いた」
薔薇は少し考える。
「でも、終わってない」
マルコの表情が少し変わる。
「終わってない?」
「ああ」
「腕が戻るなら、まだ戦える」
「負けを認められるなら、まだ強くなる」
「認められなかったら?」
薔薇は少しだけ真顔になった。
「その時は、本当に終わる」
マルコは黙った。
それは、銀狼の牙の仲間達が一番恐れていることだった。
---
その頃、銀狼の牙の宿舎では、ガレスが右手を見ていた。
包帯はまだ厚い。
指は動く。
だが、以前のようには動かない。
ゼナは言った。
「焦るな」
ガレスは答えない。
オルフェが低く言う。
「リハビリを怠ると戻らない」
「分かっている」
ユーリックは窓際に立っていた。
「ガレス」
「何だ」
「貴族会合から使いが来ていた」
ガレスの目が動く。
「何の用だ」
「見舞い」
マルコがいれば、鼻で笑っただろう。
見舞い。
そう言えば聞こえはいい。
だが、実際は確認だ。
まだ使えるか。
まだ素材を流せるか。
まだ黒華五刀への対抗札になるか。
ガレスは拳を握ろうとして、痛みに顔を歪めた。
「俺は」
声が低い。
「まだ終わっていない」
ユーリックは頷いた。
「そうだ」
「終わっていない」
「だから、次を間違えるな」
ガレスは答えなかった。
窓の外では、海都の灯りが揺れていた。
---
夜。
黒華五刀の宿。
椿は地図を整理していた。
大地の記録者との護衛で得た情報を、通常地図とは別にまとめる。
採取路。
退避路。
水位変化。
時間帯。
隠すべき採取地。
出してよい戦闘路。
地図が一枚では足りない。
それが分かった。
牡丹は横で補給表を書き直している。
「地図が増えると、荷も増えますね」
椿が頷く。
「はい」
「ですが、必要です」
百合は窓辺で外を見ていた。
「監視なし」
薔薇が戻ってくる。
「マルコが来たぞ」
黒蘭が顔を上げる。
「何をしに」
「訓練」
「そうか」
「銀狼の牙、まだ折れてないな」
「折れていない方がいい」
薔薇は少し驚く。
「そう思うのか」
黒蘭は地図を見る。
「強い部隊が折れれば、海都の戦力が落ちる」
「ガレスが戻るなら、戻ればいい」
「ただし、同じならまた斬る」
薔薇は苦笑した。
「優しいのか怖いのか分からんな」
牡丹が微笑む。
「黒蘭様らしいです」
椿は静かに黒蘭を見た。
黒蘭は敵を憎むために斬らない。
必要だから斬る。
必要がなければ生かす。
それは冷たいようで、どこか公平だった。
だからこそ、時に恐ろしい。
---
黒蘭は三十階以降の地図を広げた。
「三十一階から先へ進む」
椿が筆を取る。
「次回探索目標は」
「三十二階まで」
薔薇が言う。
「また控えめだな」
「大地の記録者から学んだ」
黒蘭は言った。
「地図にないものが多すぎる」
「三十一階以降は、海都側の記録も粗い」
「階層主の気配もある」
「急ぐ理由がない」
百合が短く言う。
「貴族側の動きは」
「記録を取らせる」
「襲ってくるなら?」
「その時処理する」
牡丹が微笑む。
「では、明日は水中戦用の薬を追加します」
椿が地図の端に記す。
三十一階。
三十二階。
階層主の気配。
水音。
そして、その奥。
まだ見えない深い都。
誰もその名を知らない。
黒華五刀もまだ知らない。
だが、世界樹の奥では、何かが確かに動き始めていた。
水の底で、誰かが目を開けるように。
第十三話 了
ネイピン商会の話し方のクセを思い出しました。