三十階磁軸を登録してから、五日が過ぎた。
黒華五刀は、すぐに三十一階へ踏み込まなかった。
三十階磁軸を得た。
ならば翌日には深部へ進む。
そう考える冒険者は少なくない。
だが、黒蘭はそうしなかった。
一日目は、三十階までの地図清書。
二日目は、古海の放浪者の素材処理と売却調整。
三日目は、大地の記録者から借りた採取路地図との照合。
四日目は、獣王爪牙から水流変化の記録を聞いた。
五日目は、訓練場で薔薇が若手を転がしている間に、牡丹が湿気対策の荷を組み直した。
進まない日も、攻略の一部だった。
海都来訪六十六日目。
冒険者ギルドの掲示板には、また新しい札が増えていた。
黒華五刀
三十一階探索申請
三十階磁軸使用予定
ロイヤルガード
三十二階救助依頼、帰還済
負傷者二名、療養中
月下猟姫
三十三階射撃地点調査継続
南側水路にて異常潮流確認
獣王爪牙
三十一階から三十二階の潮流記録更新
大地の記録者
二十九階採取路護衛完了
次回採取路調査、調整中
銀狼の牙
療養継続
三十六階探索停止中
砂冠の旅団
南方乾燥岬へ遠征中
灰鷗隊
海都外縁遺跡調査中
潮騒の針
第一階層七階到達
リッド一行
第一階層六階到達
新規登録者一名追加
そのほかにも、多くの札が並んでいた。
黒華五刀の名は、もう落書きではなかった。
受付の札にも、依頼票にも、酒場の噂にも、その名が使われ始めている。
黒蘭一行。
黒い五人組。
黒華の刃。
いくつかの呼び方を経て、海都は彼らをそう呼ぶようになった。
黒華五刀。
黒蘭はそれを見ても、特に表情を変えなかった。
薔薇が横から言う。
「正式採用されたな」
「何がだ」
「黒華五刀」
黒蘭は札を見る。
「分かりやすいなら構わない」
「軽いな」
「呼び名で魔物は死なない」
「まあ、そうだけどさ」
椿は静かに札を見ていた。
黒華の名が、異国の掲示板に掛かっている。
それは軽いことではない。
だが、黒蘭の言う通りでもある。
名は、行動で意味が決まる。
ならば、黒華五刀という名がどういう意味を持つかは、これから自分達が決めるしかない。
少し離れた場所で、リッドも掲示板を見ていた。
隣にはファラとセレネ。
そして、もう一人。
軽薄そうな笑みを浮かべた若い男がいた。
腰にはサーベル。
背には小型銃。
パイレーツのカイル。
昨日、正式にリッド達のギルドへ加わった男だった。
「いやあ、俺の名前がまだ札に出てないな」
カイルが言う。
ファラが半眼で見る。
「登録されたばかりでしょ」
「期待の新戦力なのに」
セレネが短く言う。
「自称」
「冷たいな、星のお嬢さん」
「事実」
リッドは黒華五刀の札を見ていた。
三十一階探索申請。
三十階磁軸使用予定。
自分達はまだ六階。
差は大きい。
以前なら、その差に焦っていた。
今も焦りはある。
だが、焦りだけで走れば死ぬ。
それを、少しずつ理解し始めていた。
「今日は七階まで」
ファラが先に言う。
リッドは頷いた。
「七階まで」
カイルが肩をすくめる。
「堅実だねえ」
セレネが答える。
「死なないため」
「ま、死なないのは大事だ」
カイルは軽く言った。
軽い口調だったが、その目は笑っていなかった。
彼も海で何人か失っている。
だから、軽く見えても死を知らないわけではない。
その時、リッド達の横を二人組の冒険者が通った。
若い少年と、落ち着いた雰囲気の女性。
少年の方がリッドの札を見て、声をかける。
「君達、第一階層を進んでるのか?」
リッドが振り返る。
「そうだけど」
「俺はアガタ」
少年は胸を張る。
「こっちはカナエ」
女性が軽く頭を下げる。
「ムロツミというギルドです」
リッドは少し緊張した。
ムロツミ。
海都では知られたギルドだ。
突出した上位ではないが、堅実に第一階層を進み、若手の中では一目置かれている。
アガタは気さくに笑う。
「俺達も今日は六階から七階辺りを見る」
「良かったら途中まで一緒に行かないか」
ファラがリッドを見る。
セレネは無表情。
カイルは面白そうに口笛を吹く。
「合同探索か」
リッドは少し考えた。
黒蘭ならどうするか。
そう考えかけて、やめた。
黒蘭の真似をしても、自分達にはできない。
自分達にできる判断をする。
「お願いします」
リッドは頭を下げた。
アガタは明るく笑った。
「よし、決まりだな」
カナエは静かにリッドを見た。
「無理をする人に見えます」
リッドは言葉に詰まる。
ファラが即答した。
「その通りです」
「おい」
カナエは少し笑った。
「なら、今日は互いに止め合いましょう」
その言葉を聞いて、リッドはなぜか少し胸が温かくなった。
この出会いが、後に彼を大きく変えることになる。
今はまだ、誰も知らない。
受付係が黒華五刀の探索申請を確認する。
「三十階磁軸からの出発ですね」
「ああ」
「登録者は五名全員、確認済みです」
「問題ない」
横で待っていた若い冒険者が、少し羨ましそうに言った。
「三十階からすぐ行けるの、いいですね」
薔薇が振り返る。
「お前、登録してないのか?」
「まだ十階だけです」
「じゃあ行けないな」
「分かってますけど」
若者は苦笑した。
黒蘭は彼を見る。
「他人の磁軸は、お前の道ではない」
若者は背筋を伸ばす。
「はい」
「羨ましがるのは構わない」
「だが、飛んだ先で帰れない者は死ぬ」
受付係が少し頷いた。
磁軸は便利だ。
だが、便利なものほど誤解されやすい。
登録していない者は使えない。
使えたとしても、その先で生き残れるとは限らない。
海都では何度も、それを忘れた者が死んでいる。
出発前、ネイピア商会から小さな包みが届いた。
中には、防湿加工された素材袋と、短い書き付けが入っていた。
牡丹が読み上げる。
「湿気で素材が傷むと困ります。こちらを使ってください。代金は次回精算に回します」
薔薇が笑う。
「書くと普通なんだな」
牡丹も微笑む。
「発語の癖なのでしょう」
黒蘭は包みを見る。
「助かる」
百合が短く言う。
「対価は」
牡丹が書き付けの裏を見る。
「しっかり書かれています」
「なら良い」
椿が少し笑った。
ネイピアは、商人として巻き込まれている。
だが、逃げてはいない。
黒華五刀の素材は危険で、面倒で、政治を呼ぶ。
それでも高く売れる。
だから関わる。
その割り切りは、黒蘭にとって分かりやすかった。
三十階磁軸。
青白い光が消えた時、五人は再び海嶺ノ水林の奥に立っていた。
三十階は静かだった。
だが、静かすぎる。
水音が遠い。
魔物の気配が薄い。
風もないのに、白い珊瑚がわずかに震えている。
百合が目を細める。
「奥から潮」
薔薇が籠手を鳴らす。
「音か?」
「音というより、圧です」
牡丹が水面を見る。
「波紋が遅れて来ています」
椿が記録する。
「遠方より周期的な潮圧。前回より明瞭」
黒蘭はしばらく水面を見ていた。
そこに魔物の姿はない。
巨大な影もない。
だが、水だけが深く押してくる。
三十階より奥。
さらに下。
海嶺ノ水林の底から、何か大きな構造が呼吸しているような圧だった。
黒蘭は言った。
「今日は近づかない」
薔薇が苦笑する。
「言うと思った」
「三十一階を見る」
「水の先を追う日ではない」
三十一階へ降りる階段は、階段というより根の裂け目だった。
巨大な根が絡み合い、その隙間を水が流れ落ちている。
足場は濡れ、滑る。
下からは、塩と泥と苔の匂いが上がってくる。
黒蘭は最初に降りなかった。
百合が音を聞く。
牡丹が根の表面を調べる。
薔薇が荷の重さを確かめる。
椿が降下順を決める。
「百合、先行」
「薔薇、二番」
「牡丹、荷」
「黒蘭様、中央」
「私は最後に」
黒蘭は椿を見る。
「最後でいいのか」
「はい」
「この道では、後方からの転落が一番危険です」
「分かった」
黒蘭は従った。
周囲で見ている者はいない。
だが、黒華五刀ではこれが自然だった。
椿が必要と判断すれば、黒蘭は従う。
それを当然として動けるから、五人は一つの部隊でいられる。
三十一階。
水の色が変わった。
二十階台の水は、濁っていても浅さが分かった。
三十一階の水は違う。
青黒い。
底が見えない場所がある。
根の影が、そのまま穴に見える。
穴に見えた場所が、ただの影であることもある。
薔薇が前へ出る。
「足場、悪いな」
百合が短く言う。
「右、深い」
薔薇は足を止める。
「見えないな」
牡丹が小さな木片を投げる。
木片は水面を漂い、数呼吸後に突然沈んだ。
水中から伸びた何かが、木片を引いたのだ。
薔薇が顔をしかめる。
「何だ今の」
「アカグロダコではありません」
百合が答える。
「もっと細い」
黒蘭は水面を見る。
「釣る」
牡丹が匂い袋を取り出す。
人食いサンゴの触手片を乾かしたもの。
水中の捕食者を誘う匂いがある。
小片を糸に結び、薔薇が遠くへ投げる。
水面が静かになる。
次の瞬間、細い影が走った。
百合の短刀が飛ぶ。
水が弾ける。
引き上げられたのは、細長い魚のような魔物だった。
口は小さい。
だが、歯が針のように並んでいる。
牡丹が観察する。
「噛み切るより、引き込むための歯ですね」
椿が記録する。
「三十一階、水中細魚。小物を引き込み、沈める。餌に反応」
黒蘭は言った。
「この階層は、落ちたものを拾うな」
薔薇が頷く。
「荷を落としたら?」
「まず周囲を見る」
「拾うために沈む者が死ぬ」
牡丹が荷紐を結び直す。
「予備紐を増やして正解でした」
しばらく進むと、木の根が橋のように伸びている場所に出た。
水路を越える唯一の道に見える。
だが、黒蘭は足を止めた。
「待て」
薔薇もすぐ止まる。
百合が低く構える。
牡丹は水面を見る。
椿は周囲の根を確認した。
「橋ではありませんか」
黒蘭は根の表面を指す。
「濡れ方が違う」
薔薇がしゃがむ。
「確かに、真ん中だけ乾きすぎだな」
牡丹が細い針を刺す。
根が動いた。
いや、根ではない。
根に擬態した魔物だった。
人食いサンゴとは違う。
もっと太く、もっと静かだ。
百合が短刀を構える。
「切りますか」
黒蘭は首を振る。
「切ると落ちる」
根のような魔物は、水路の上に張っている。
殺せば橋そのものがなくなる。
なら、殺すことは最善ではない。
牡丹が微笑む。
「眠らせましょう」
薬粉を少量、水に溶く。
百合がそれを風の星術で根元へ送る。
しばらくして、擬態した魔物の動きが鈍くなった。
薔薇が先に渡る。
「今なら行ける」
椿が短く指示する。
「一人ずつ」
「荷は低く」
「足を止めない」
黒華五刀は、魔物の背を橋として渡った。
黒蘭は最後に振り返る。
「地図にはどう書く」
椿は少し考える。
「橋ではなく、擬態個体」
「眠らせれば通行可」
「討伐すると道消失」
黒蘭は頷いた。
「良い」
薔薇が笑う。
「地図がどんどん面倒になるな」
牡丹が答える。
「本当の地図には時間が入るそうですから」
百合が短く言う。
「生死も入ります」
椿はその言葉も記録した。
夕刻前。
三十一階の中ほどで、黒華五刀は月下猟姫の痕跡を見つけた。
矢羽。
足場に刻まれた印。
高所の枝に残る細い傷。
薔薇が見上げる。
「セリア達か」
百合が頷く。
「弩の跡」
牡丹が周囲を見る。
「戦闘跡は古くありません」
その時、遠くで水音が弾けた。
続いて、鋭い破裂音。
大型弩の音。
薔薇が顔を上げる。
「近いな」
黒蘭は言った。
「確認する」
「助けるんじゃなく?」
「必要なら助ける」
薔薇が笑う。
「それも前に聞いた」
「必要なことは繰り返す」
五人は音の方へ進んだ。
月下猟姫は、三十一階の高根に陣を取っていた。
赤毛のセリアが大型弩を構えている。
隣にはゾディアックの女。
さらに後方に、ビーストテイマーの女と、小柄なパイレーツの女。
彼女達は水路の向こうを狙っていた。
敵は、ハイウォルラス二体。
そして、水中に潜むアカグロダコ。
不利ではない。
月下猟姫は高所を取り、射線も確保している。
だが、足場が悪い。
後方の根が濡れて崩れかけていた。
セリアが黒華五刀に気付く。
「黒華五刀」
その呼び方に、椿がわずかに反応した。
セリアは笑った。
「いいところに来たわね」
黒蘭は状況を見る。
「手が要るか」
「敵はいい」
セリアは顎で後方を示した。
「足場が死にかけてる」
「撃ちながら退くには少し面倒」
黒蘭は椿を見る。
椿は即座に周囲を確認した。
「黒薔薇、右根を支えてください」
「黒百合、水中の腕を止めて」
「黒牡丹、退路に薬粉を」
「黒蘭様、左のハイウォルラスを牽制」
「月下猟姫は射撃継続で」
セリアが片眉を上げる。
「私達にも指示?」
椿は静かに返す。
「不要なら訂正を」
セリアは一瞬だけ椿を見た。
そして笑った。
「いいえ、そのままで」
黒蘭は左へ動く。
薔薇が崩れかけた根を籠手で押さえる。
百合が水面へ短刀を投げ、水中の腕を止める。
牡丹が滑り止めの粉を撒く。
月下猟姫の弩が鳴る。
ハイウォルラスの肩を貫く。
黒蘭はもう一体の突進を、斬らずに逸らした。
倒す必要はない。
射線を保ち、退路を作ればいい。
数十呼吸後、月下猟姫は無事に高根から降りた。
セリアが息を吐く。
「助かったわ、黒華椿」
椿は少しだけ頭を下げる。
「状況が見えただけです」
「それが難しいのよ」
セリアは黒蘭を見る。
「あなた、本当に良い指揮官を連れてるわね、黒蘭」
黒蘭は答えた。
「当然だ」
椿がわずかに目を伏せた。
薔薇がにやりと笑ったが、何も言わなかった。
帰還前、セリアは三十二階側の情報を渡した。
「水音が変なの」
「私達は南側で聞いた」
「魔物の足音じゃない」
黒蘭が聞く。
「見たのか」
「いいえ」
セリアは首を振る。
「何も見えない」
「でも、潮が奥から押し返してくる」
「水路の形と合ってないのよ」
牡丹が静かに言う。
「自然な流れではない、ということですか」
「ええ」
セリアは肩をすくめる。
「まるで、奥に大きな穴か、門でもあるみたい」
椿の筆が止まった。
門。
その言葉に、黒蘭も少しだけ目を細めた。
セリアはそれに気付かず続ける。
「どちらにせよ、今はまだ撃つ相手もいない」
「調べるなら足場を固めてからね」
黒蘭は頷いた。
「情報に感謝する」
セリアは笑った。
「貸し一つにしておくわ」
薔薇が言う。
「ちゃっかりしてるな」
「冒険者だもの」
黒蘭は否定しなかった。
貸し借りもまた、海都の道の一つだった。
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三十二階へ進むのは、その二日後になった。
月下猟姫から情報を得た翌日、黒華五刀は一度海都へ戻っている。
理由は単純だった。
三十一階の情報が、想定より多かったからだ。
根に擬態する魔物。
落下物を引き込む細魚。
崩れる高根。
月下猟姫の射撃地点。
南側水路の異常潮流。
その全てを整理せずに進む理由はない。
黒蘭は、そう判断した。
薔薇は呆れたように言った。
「本当に進まないな」
「進んだ」
「一階層分じゃなくて?」
「三十一階を理解した」
「そういう進む、か」
牡丹は微笑んだ。
「黒蘭様らしいですね」
百合は短く言う。
「無駄がありません」
「いや、無駄はあるだろ」
薔薇が言うと、百合は少しだけ首を傾げた。
「どこに」
「……いい」
椿は地図を重ねていた。
戦闘路。
退避路。
月下猟姫の射撃路。
大地の記録者から得た採取路の考え方。
同じ三十一階でも、目的ごとに道が違う。
それを、椿は少しずつ地図へ反映していた。
一方、その頃。
元老院の奥では、別の報告が読まれていた。
黒華五刀、三十一階到達。
南側水路にて異常潮流確認。
月下猟姫と接触。
三十二階探索準備中。
報告書を読んでいたのは、海都の姫だった。
白い指が紙面をなぞる。
その隣には、クジュラが立っている。
元老院の老人達は、卓の向こうで黙っていた。
沈黙には意味がある。
知らない者の沈黙ではない。
知っている者の沈黙だった。
姫は静かに言った。
「早いですね」
老人の一人が答える。
「三十階磁軸を登録した以上、いずれそうなる」
「問題は、四十階へ至るかどうかです」
クジュラは報告書を見ていた。
「まだ三十一階だ」
「だが、あの連中は階層を踏むごとに迷宮へ慣れている」
「止まっているようで、無駄がない」
姫は目を伏せる。
「ならば、期待すべきなのでしょうね」
その言葉に、老人達の一人が眉を動かした。
「姫様」
「黒華五刀を止める理由はありません」
姫は静かに言った。
「むしろ、進んでほしい」
部屋の空気がわずかに揺れる。
クジュラは黙っている。
姫は続けた。
「深都への扉は、いまだ閉じたままです」
「これまで四十階周辺へ到達した者はいました」
「けれど、誰も正しい扉を越えていない」
老人が低く言う。
「ロイヤルガードは四十階を越えた記録があります」
「越えた、というより逃げ延びたのです」
姫は紙面から目を離さない。
「第二階層の主を倒せず、潮流に追われ、脇道へ流された」
「その先で、四十一階相当の区域を見つけた」
「けれど、あれは正規の道ではありません」
「深都へ至る扉ではない」
老人達は黙る。
海都の記録では、ロイヤルガードは第二階層の先へ到達したことになっている。
それは嘘ではない。
だが、全てでもない。
彼らは壁を越えたわけではない。
門を開いたわけでもない。
敗走の果てに、脇道を見つけただけだった。
それでも偉業であることに変わりはない。
ただ、深都へ届く道ではなかった。
クジュラが口を開いた。
「門番は」
姫は少しだけ目を伏せた。
「動いています」
「オランピアか」
その名が出ると、老人達の顔が硬くなる。
オランピア。
海都の民には知られていない名。
冒険者達が酒場で語る魔物でも、FOEでもない。
深都の側に立つ者。
扉を守る者。
人でありながら、人ではないもの。
クジュラは鼻を鳴らす。
「なら、普通の冒険者では無理だ」
老人が言う。
「では黒華五刀なら?」
クジュラは少し黙った。
「分からん」
「だが、黒蘭は相手を見ずに斬りに行く男ではない」
「そこが希望であり、厄介でもある」
姫は報告書を閉じた。
「補助はできません」
「深都の名を出せば、海都そのものが揺らぎます」
「けれど、進む者が現れたなら、私は止めません」
「もし、彼らがあの壁を越えられるなら」
姫は静かに言った。
「託したい」
その声には、王族としての迷いと、ひとりの人間としての願いが混じっていた。
クジュラは姫を見た。
「黒華の王族もいる」
「黒華の将もいる」
「厄介な連中だ」
姫はわずかに微笑んだ。
「だからこそ、届くかもしれません」
誰もそれ以上言わなかった。
海都の下には海がある。
海の下には、沈んだ都がある。
そして、その扉の前には、まだ誰も越えられない壁がある。
同じ頃。
第一階層六階。
リッド達はムロツミのアガタ、カナエと共に進んでいた。
リッド。
ファラ。
セレネ。
カイル。
四人になったリッド達は、以前より明らかに安定していた。
カイルは軽口を叩くが、視線はよく動く。
水辺の影。
木の上の鳥。
魔物の足跡。
海で鍛えた目は、迷宮でも役に立った。
「左、何かいる」
カイルが言う。
セレネが星術の準備をする。
ファラがリッドの袖を掴む。
「突っ込まない」
「分かってる」
リッドは剣を構えた。
アガタが笑う。
「いい反応だな」
カナエが言う。
「でも、足が前に出すぎです」
「え?」
「一歩退けますか」
リッドは言われた通りに下がる。
次の瞬間、茂みからトノサマガエルが飛び出した。
リッドがさっきの位置にいたら、体ごと弾かれていた。
ファラが息を呑む。
カナエは静かに言った。
「敵を見る前に、敵が来る場所を見ます」
リッドは頷いた。
黒蘭なら、たぶん同じようなことを言っただろう。
だが、カナエの言葉は黒蘭より柔らかい。
だから、今のリッドにも入ってきた。
戦闘は短く終わった。
リッドが正面を止め、ファラが支える。
セレネが星術を落とす。
カイルが横からサーベルで足を払う。
アガタが槍で追撃する。
カナエは全体を見ていた。
「良い連携です」
リッドは少し照れた。
「ありがとうございます」
アガタが笑う。
「ただ、まだ帰りの分の体力を残す癖が薄いな」
リッドは言葉に詰まる。
カイルが横から言う。
「それは俺も思った」
「お前まで」
「船でも同じだぜ」
カイルは肩をすくめる。
「行きに帆を全部使い切ったら、帰りに沈む」
ファラが頷く。
「ほら」
リッドは苦笑した。
「分かったって」
その時、少し離れた茂みの奥で、金属のような音がした。
小さく、硬い音。
剣ではない。
鎧でもない。
何かが、木の根に触れたような音。
セレネが顔を上げる。
「今の」
カイルが銃に手をかける。
「魔物か?」
カナエが静かに周囲を見る。
「分かりません」
アガタが一歩前に出る。
「確認するか?」
リッドは少し迷った。
以前なら、すぐ行った。
今は違う。
「今日は行かない」
ファラが目を丸くする。
リッドは続けた。
「今の目的は七階までの地図と帰還」
「分からない音を追って迷うのは違う」
カナエが微笑んだ。
「良い判断です」
リッドは少し嬉しそうに笑った。
だが、茂みの奥で、もう一度だけ金属音がした。
そこに何がいたのか。
この時のリッド達は、まだ知らない。
後に彼らが出会うことになる、壊れかけたアンドロの少女。
その最初の気配だけが、第一階層の奥に微かに残っていた。
三十二階探索当日。
黒華五刀は三十階磁軸から入った。
三十一階を抜けるのに、以前より時間はかからなかった。
道を知ったからではない。
道の変わり方を少し覚えたからだ。
どの根が動くか。
どの水音が深みか。
どの擬態個体は眠らせれば通れるか。
どの場所で月下猟姫が射線を取ったか。
歩いた記憶が、地図の上に重なっていく。
黒蘭はそれを確認しながら進んだ。
「速くなりましたね」
椿が言う。
「慣れた」
「ですが、油断はありません」
「油断できるほど知らない」
薔薇が笑う。
「黒蘭にとっては、知っても油断しないだろ」
黒蘭は答えない。
その通りだった。
三十二階。
そこは、水の音が違った。
上から落ちる音。
下へ流れる音。
横へ滑る音。
そして、奥から押し返す音。
複数の水音が重なり、耳が方向を誤る。
百合がわずかに眉を寄せた。
「聞きづらい」
薔薇が驚く。
「百合が?」
「はい」
「珍しいな」
牡丹が水面に薬粉を落とす。
粉は広がらず、一方向へ引き込まれた。
「見た目と流れが違います」
椿が記録する。
「三十二階、反流あり。水音による方向錯誤」
黒蘭は言った。
「声を短く」
椿が頷く。
「はい」
この階では、声が届きにくい。
だから椿の号令は、さらに短くなる。
右。
止まれ。
下。
引け。
斬れ。
一言で、全員が動く。
それは、長い演説よりずっと強い号令だった。
昼過ぎ。
黒華五刀は、奇妙なものを見つけた。
水路の底。
根と珊瑚の間に、灰色の欠片が挟まっている。
自然石ではない。
表面が滑らかすぎる。
黒蘭はしゃがみ、手を伸ばす前に止まった。
「百合」
「はい」
百合が周囲を確認する。
「魔物なし」
牡丹が細い鉤で欠片を引き寄せる。
それは、石でも骨でもなかった。
古い建材の破片。
人の手で磨かれたもの。
縁には、見慣れない文様が刻まれている。
薔薇が眉を寄せる。
「迷宮に、建物の欠片か?」
椿は破片を見つめる。
「古い……ですが、自然にできたものではありません」
黒蘭は破片を手に取らない。
濡れた布の上に置かせ、記録する。
「持ち帰る」
牡丹が頷く。
「保存容器に入れます」
百合が奥を見る。
「水流、奥から」
椿は地図に印を付ける。
「三十二階、人工物様破片。文様あり。反流方向より漂着した可能性」
薔薇が言う。
「これ、海都に出したら騒ぎになるか?」
黒蘭は答えた。
「出し先を選ぶ」
「ギルドじゃなく?」
「ギルドには報告する」
「ただし、誰に見せるかは考える」
椿は黒蘭を見た。
黒蘭は迷宮の秘密を知らない。
だが、これが単なる素材ではないことは分かっている。
地図でも、魔物でも、FOEでもない。
人の痕跡。
それも、この深い水林の底に沈んでいたもの。
海都へ帰還したのは、日が傾く頃だった。
報告は慎重に行われた。
黒華五刀
三十二階到達
三十二階南側にて反流確認
人工物様破片を回収
水音による方向錯誤を報告
受付係は、人工物様破片という言葉で手を止めた。
「人工物、ですか」
「ああ」
「見せていただいても?」
黒蘭は牡丹を見る。
牡丹が保存容器を出す。
受付係は中を覗き込み、表情を変えた。
冒険者の受付が、全ての秘密を知っているわけではない。
だが、普通の素材ではないことくらいは分かる。
「これは、ギルドマスターへ直接回します」
「そうしろ」
黒蘭は短く答えた。
「公示は」
受付係が問う。
黒蘭は少し考えた。
「三十二階到達と反流報告だけでいい」
「人工物は、まだ札に出すな」
受付係は頷いた。
「承知しました」
その夜。
レオンは保存容器の中身を見て、しばらく黙っていた。
「……出たか」
その声は小さかった。
そこへ、クジュラが入ってくる。
「何が出た」
レオンは蓋を閉じる。
「お前、元老院から聞いてないのか」
「全部は聞かん」
クジュラは容器を見る。
「黒華五刀か」
「ああ」
「三十二階で拾った」
クジュラは眉を寄せる。
「三十二階でこれなら、早いな」
「何がだ」
レオンが問う。
クジュラは答えない。
代わりに、低く言った。
「元老院へ回せ」
「隠すな」
「隠せば、黒蘭は気付く」
レオンは片目を細める。
「もう気付いてるかもしれないぜ」
クジュラは鼻を鳴らした。
「だろうな」
二人の間に沈黙が落ちる。
深都。
その名は出さない。
だが、二人とも同じものを見ていた。
海都の下。
迷宮の奥。
四十階の向こうへ続く、沈んだ秘密の影。
そして、その扉の前に立つ門番の姿を。
宿で、黒華五刀は三十二階の地図を広げていた。
椿の地図には、新しい印が増えている。
水音錯誤。
反流。
人工物様破片。
漂着方向。
接近注意。
牡丹が補給表を見直す。
「水位変化に備えて、浮き袋を増やします」
薔薇が顔を上げる。
「浮き袋?」
「荷用です」
「人用は?」
「必要なら作ります」
薔薇が少し嫌そうな顔をする。
「着けるのか」
百合が短く言う。
「沈むより良いです」
「それはそうだけどさ」
黒蘭は地図を見ていた。
「次は三十二階の反流を調べる」
椿が問う。
「三十三階へは」
「まだ」
「人工物が流れてきた方向を確認する」
「ただし、奥へ入りすぎない」
「知らないものを見つけた時ほど、進みすぎるな」
椿は頷き、筆を置いた。
黒華五刀は、また進まない準備を始めた。
外から見れば遅い。
だが、その遅さが彼らを生かす。
そして、その遅さの中で、第二階層の奥に沈む秘密は、少しずつ形を持ち始めていた。
水底のどこかで、古い都の欠片が静かに流れている。
まだ誰も、その名を口にしない。
だが、知る者達はすでに気付き始めていた。
黒華五刀は、いずれそこへ届く。
第十四話 了