第一階層七階。
リッド達は、ムロツミのアガタとカナエに同行していた。
リッド。
ファラ。
セレネ。
カイル。
四人になったリッド達の歩き方は、以前よりは安定している。
ただし、安定しているだけであって、落ち着いているわけではない。
「右、蛙」
カイルが軽く言う。
腰にはサーベル。
背には小型銃。
昨日、正式にリッド達へ加わったパイレーツだ。
チャラチャラしている。
口も軽い。
だが、目はよく動く。
船の上で鍛えた感覚なのか、水音や葉擦れへの反応は早かった。
「見えないけど」
リッドが剣を構える。
「見えてからじゃ遅いんだって」
カイルは笑う。
「海でも迷宮でも、先に気付いた方が勝つ」
茂みが揺れた。
トノサマガエルが飛び出す。
リッドは踏み込んだ。
「よし、来い!」
「リッド!」
ファラが叫ぶ。
リッドは前に出すぎた。
蛙の跳躍を剣で受けようとする。
だが、横から細い影が走った。
アガタだった。
短剣。
いや、短刀に近い刃。
彼はリッドより先に蛙の横へ入り、軽く足を切った。
深くはない。
だが、跳躍の軸がずれる。
蛙はリッドの正面ではなく、少し右へ落ちた。
「今だ!」
アガタが笑う。
「え、あ、今!?」
リッドは慌てて剣を振る。
ファラの拳が追い、セレネの星術が落ちた。
蛙は地面に転がり、動かなくなった。
リッドは息を吐く。
「助かった」
アガタは胸を張る。
「だろ?」
「俺、強いからな」
カナエが小さく言う。
「アガタ、前に出すぎ」
「大丈夫だって」
「大丈夫じゃない時も、そう言う」
カナエはゾディアックだった。
細い杖を握り、いつも少し不安そうに周囲を見ている。
冷静というより、怖がり。
けれど、怖がっているからこそ、よく見ていた。
足元。
水音。
魔物の影。
仲間の位置。
彼女の注意は、臆病さから来るものだった。
アガタはそんなカナエを見て、明るく笑う。
「カナエは心配しすぎなんだよ」
「心配する」
「俺がいるだろ」
「それが一番心配」
カイルが吹き出した。
「いいコンビだな」
アガタはカイルを見る。
「だろ?」
カナエは小さく首を振った。
リッドは二人を見て、少し羨ましくなった。
兄弟のようだった。
言い合って、止めて、また進む。
アガタは自分より少し年上に見える。
けれど、黒蘭のように遠い大人ではない。
リッドに近い。
そして、少し先を走っている。
そんな感じがした。
---
「お前、リッドだっけ」
アガタが歩きながら言う。
「そう」
「黒華五刀の黒蘭に憧れてるって聞いたぞ」
リッドはむせた。
「誰からだよ」
「酒場」
「誰だよ言ったの」
ファラが横を見る。
「顔に出てるからじゃない?」
セレネが短く言う。
「常時」
「そんなに?」
カイルが頷く。
「わりと」
リッドは耳を赤くした。
アガタは笑う。
「いいじゃん」
「強い奴に憧れるのは悪くない」
リッドは少しほっとする。
だがアガタは続けた。
「でも、追いつくなら名前も要るよな」
「名前?」
「ギルド名だよ」
カイルが待ってましたとばかりに口を挟む。
「そこなんだよなあ」
「俺は青帆の灯を推してたんだけど」
ファラが眉を寄せる。
「勝手に推してただけでしょ」
「いい名前だろ?」
セレネが言う。
「悪くない。でも軽い」
「おっと、意外と厳しい」
アガタは黒華五刀の札を思い出すように、指を鳴らした。
「黒華五刀に並びたいなら、もっと剣っぽくていいんじゃないか」
リッドは目を上げる。
「剣か」
ファラが言う。
「リッドは剣だしね」
セレネが短く言う。
「単純」
「悪かったな」
カナエは少し迷ってから、静かに言った。
「黒華に並ぶなら、黒ではなく、別の色の華」
リッドはカナエを見る。
「別の色?」
「黒華は重い名前」
「あなた達はまだ若い」
「だから……蒼」
カイルが口角を上げる。
「蒼華の剣」
その場が少し静かになった。
蒼華の剣。
青い花。
若い剣。
黒華五刀に憧れ、いつか並ぼうとする者達の名。
リッドはその響きを何度か胸の中で転がした。
「蒼華の剣……」
ファラが頷く。
「いいと思う」
セレネも言う。
「悪くない。覚えやすい」
カイルは得意げに笑う。
「俺が言った」
「元はカナエ」
セレネが即座に刺す。
「細かいなあ」
アガタはリッドの肩を叩いた。
「いいじゃん、蒼華の剣」
「黒華五刀に並ぶなら、それくらい言っとけ」
リッドは少し照れながらも、笑った。
「じゃあ、それにしよう」
蒼華の剣。
その名が、後に黒蘭へ小さな記憶を呼び起こすことになる。
黒華にいた頃。
黒い彼岸花に似た国花が咲く野で、黒号持ちへ憧れて木刀を振っていた子供達がいた。
自分達もいつか黒の刃のように。
そう叫んでいた少年達がいた。
蒼華の剣という名は、どこかその眩しさに似ていた。
だが、この時のリッドはまだ知らない。
黒蘭がその名を聞いた時、ほんの一瞬だけ遠い故国を見ることを。
---
七階の奥へ進むにつれ、空気が湿ってきた。
第一階層の森はまだ浅い。
しかし、七階ともなれば、入口付近とは違う。
木々は太くなり、根は絡み、魔物は小さな隙を狙う。
アガタは軽い足取りで前へ出る。
「こっちだ」
カナエがすぐ言う。
「待って」
「大丈夫だって」
「大丈夫じゃない」
アガタは振り返る。
「カナエはほんと怖がりだな」
カナエの顔が少し曇った。
「怖いのは、悪いことじゃない」
その声に、いつもの弱さとは違う硬さがあった。
アガタは一瞬だけ黙る。
「……悪かった」
リッドは二人を見る。
何かある。
そう思ったが、聞けなかった。
ファラも同じように感じたのか、黙っていた。
カイルだけが、少しだけ視線を落とした。
---
帰路に入る少し前。
金属音が聞こえた。
小さく、硬い音。
剣戟ではない。
鎧でもない。
木の根に、金属の爪が触れたような音。
リッドはすぐ顔を上げる。
「まただ」
ファラが袖を掴む。
「またって、昨日の?」
「うん」
セレネが周囲を見る。
「同じ方向」
カイルが銃に手をかける。
「今度は近いな」
アガタは目を輝かせた。
「行こうぜ」
カナエがすぐ首を振る。
「だめ」
「何でだよ」
「目的外」
「でも、誰かいるかもしれない」
「罠かもしれない」
「罠なら見破ればいい」
「アガタ!」
カナエの声が少し震えた。
アガタは驚いたように彼女を見る。
カナエは自分でも声を荒げたことに驚いたのか、唇を噛む。
「……ごめん」
リッドは迷った。
昨日は追わなかった。
今日も追わないのが正しいのかもしれない。
でも、同じ音が二日続けて聞こえた。
もし誰かが倒れているなら。
もし助けを求めているなら。
置いていけない。
リッドは言った。
「少しだけ見る」
ファラが鋭く見る。
「リッド」
「分かってる」
「少しだけ」
「危なかったら戻る」
カイルが苦笑する。
「その約束、守れる?」
リッドは胸を張った。
「守る」
セレネが短く言う。
「怪しい」
アガタは笑った。
「俺が見てやるよ」
カナエは不安そうに杖を握る。
「本当に、少しだけ」
リッドは頷いた。
「うん」
無鉄砲さは、まだ消えていない。
けれど、以前と違うのは、止める声を聞こうとしていることだった。
完全ではない。
それでも、少しだけ変わっていた。
---
茂みの奥には、細い脇道があった。
地図にはない。
いや、正確には道ではない。
獣が通った跡。
根が折れ、枝が押し広げられ、何かが無理に通った痕跡。
アガタがしゃがむ。
「新しいな」
カナエが不安げに周囲を見る。
「戻ろう」
「まだ見てないだろ」
「見てからじゃ遅いこともある」
リッドは泥の上を見た。
足跡がある。
人の足に似ている。
だが、重さが違う。
踵が深く沈まず、つま先の跡も曖昧。
そして、その横に金属が擦れた線がある。
ファラが小さく言う。
「何、これ」
誰も答えられなかった。
アガタは短剣を抜く。
「俺が先に見る」
カナエが止める。
「アガタ」
「大丈夫」
「またそれ」
アガタは笑った。
「俺、強いから」
その言葉は明るい。
けれど、カナエの顔は明るくならなかった。
---
脇道の奥。
倒れた根の下に、それはいた。
少女だった。
少なくとも、遠目にはそう見えた。
薄い銀色の髪。
白い肌。
細い腕。
年は、リッド達と同じか、少し下に見える。
だが、人ではなかった。
左腕の皮膚が裂け、内側に金属の骨組みが見えている。
肩のあたりから、青白い光がかすかに漏れている。
胸元には古い傷。
脚には泥と根が絡み、動けない。
少女は顔を上げた。
瞳が、光った。
「……識別、不能」
声は小さい。
水底から響くような、かすれた声だった。
リッドは息を呑む。
ファラが後ずさる。
セレネは表情を変えないが、杖を握る指に力が入った。
カイルは銃を抜きかけ、止めた。
アガタが口笛を吹きかけ、途中でやめる。
「何だ、あれ」
カナエは青ざめていた。
「人……じゃない」
少女はもう一度口を開いた。
「現在地……不明」
「帰投路……消失」
「命令……」
そこで声が途切れる。
少女の身体が小さく震えた。
リッドは一歩踏み出した。
ファラが腕を掴む。
「リッド」
「でも」
「分からない相手よ」
「分かってる」
それでも、リッドは少女から目を離せなかった。
魔物には見えない。
人にも見えない。
だが、助けを求めているように見えた。
---
「罠かもしれない」
カイルが言う。
セレネが頷く。
「可能性あり」
アガタは短剣を構えた。
「罠なら俺が切る」
カナエが震える声で言う。
「切って済むものばかりじゃない」
アガタは少し困った顔をした。
「カナエ」
「嫌な感じがする」
「この場所、嫌」
「戻ろう」
その声には、理由のない怯えがあった。
いや、本人にも理由が分からない怯えだった。
カナエは、何かを恐れている。
しかし、それが何なのか自分でも分かっていない。
ただ身体だけが先に震える。
アガタは理由を知らない。
ただ、カナエが本気で怯えていることだけは分かった。
だから、彼は少し声を柔らかくした。
「じゃあ、助けたらすぐ戻る」
「アガタ」
「置いていけないだろ」
カナエは何も言えなかった。
リッドはアガタを見る。
この人も、自分と似ている。
そう思った。
怖いと言われても、危ないと言われても、困っている誰かを置いていけない。
リッドはその無鉄砲さを、少し眩しく感じた。
そして、自分も同じだと思った。
---
少女の脚には蔓が絡んでいた。
棘を持つ蔓。
人食いサンゴの幼体に似ている。
ファラが治療袋を開く。
「先に蔓を外さないと」
セレネが杖を構える。
「氷で止める」
カイルが周囲の音を聞く。
「急げよ。何か来るかもしれない」
アガタが前に出る。
「俺が切る」
カナエが震えながら言う。
「切る位置を間違えると、締まる」
「じゃあ教えてくれ」
「え?」
「カナエが見て。俺が切る」
カナエは戸惑った。
それでも、杖を握り直す。
「……左の細い蔓から」
「分かった」
アガタの短剣が走る。
速い。
雑に見えて、手元は正確だった。
カナエの指示に合わせ、蔓を一本ずつ切る。
ファラが棘を避けて少女の脚を支える。
セレネの氷が蔓の動きを鈍らせる。
リッドは少女の正面に立った。
少女の瞳がリッドを見る。
「敵性……未確定」
「対象……生体」
「保護……不要」
リッドは言った。
「助ける」
少女は瞬きをした。
「命令外」
「命令とか知らない」
「危ないなら助ける」
ファラが横から言う。
「リッド、あんまり変なこと言って刺激しないで」
「ごめん」
少女はリッドの言葉を理解したのか、していないのか。
ただ、目の光がわずかに弱くなった。
蔓が外れる。
アガタが得意げに笑った。
「よし、俺すごい」
カナエが小さく息を吐く。
「今回は」
「今回はって何だよ」
その瞬間、少女の身体が傾いた。
リッドが支える。
軽い。
いや、重い。
見た目よりずっと重い。
金属の重さがある。
リッドは歯を食いしばった。
「大丈夫か」
少女は答えない。
ただ、リッドの服を弱く掴んだ。
その指は冷たかった。
---
「連れて帰るのか?」
アガタが聞いた。
リッドは少女を支えたまま、迷った。
ギルドに報告するべきだ。
普通ならそうする。
でも、この少女をそのまま連れて行けばどうなる。
元老院。
研究者。
好奇の目。
少女は、人ではない。
だから、人として扱われる保証がない。
リッドはまだ世界を知らない。
だが、それくらいは分かった。
カイルが小さく言う。
「表へ出すと、面倒になるぞ」
セレネも頷く。
「確実に」
ファラは少女の腕を見る。
「でも、治療しないと」
カナエが不安そうに言った。
「まずは安全な場所へ」
アガタが胸を張る。
「ムロツミの仮宿なら、一晩くらい隠せる」
カナエが驚く。
「アガタ」
「大丈夫だって」
「それ、信用できない言葉」
「ひどいな」
リッドは二人を見る。
「いいのか」
アガタは笑った。
「困ってる奴を置いていけないだろ」
「それに、俺も気になる」
カナエは不安そうに周囲を見ながらも、否定しなかった。
リッドは少女を背負った。
重い。
だが、置いていく気にはなれなかった。
少女はリッドの背で、かすかに呟いた。
「イ……リ……」
リッドが聞き返す。
「名前?」
少女の瞳が一瞬だけ光る。
「識別名……イリス」
それきり、少女は動かなくなった。
リッドは小さく言った。
「イリス」
その名が、彼の中に残った。
---
その日の夕方。
リッド達の札は、少しだけ更新された。
蒼華の剣
第一階層七階到達
ムロツミと合同探索
負傷者なし
カイルが札を見て満足げに頷いた。
「いいねえ、蒼華の剣」
ファラが言う。
「まだ正式に決めたばっかりだけど」
「名前なんて名乗ったもん勝ちだって」
セレネが短く言う。
「悪くない」
リッドは札を見ていた。
リッド一行ではなく、蒼華の剣。
自分達の名前。
小さな名前だ。
黒華五刀とは比べものにならない。
それでも、自分達の足で進むための名前だった。
その背後で、アガタが得意げに笑い、カナエが不安そうに周囲を見ていた。
そして、ギルドの表には出ていないもう一つの出来事。
壊れかけた少女、イリス。
その存在が、リッド達の進む道を少しずつ変え始めていた。
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夜のムロツミ仮宿は、静かではなかった。
「いやいやいや、これ隠せるか?」
カイルが小声で叫ぶ。
小声なのに、十分うるさい。
「どう見ても人じゃないぞ」
「声が大きい」
セレネが言う。
「小声だろ」
「小声の形をした大声」
「器用な指摘だな」
ファラは寝台の横で、イリスの腕を見ていた。
裂けた皮膚の下に、金属の骨組みがある。
血は少ない。
代わりに、青白い光が弱く漏れている。
傷口というより、壊れた機械の継ぎ目に見えた。
「治療術、効いてるのかな」
ファラが不安そうに言う。
セレネは首を振る。
「半分くらい」
「半分?」
「生体反応と魔力回路が混在」
「つまり?」
カイルが聞く。
「分からない」
「分からないって言うために難しいこと言ったのか?」
「正確に分からない」
「もっと分からないな」
リッドはイリスの横に座っていた。
イリスは眠っている。
眠っている、という表現でいいのかは分からない。
胸元の光が、ゆっくり明滅している。
リッドはその光を見ていた。
命なのか。
魔力なのか。
火なのか。
何も分からない。
でも、消えたらいけないものだということだけは分かった。
---
アガタは窓際に立ち、外を見ている。
短剣を指で回していた。
危ない回し方だった。
カナエが小さく言う。
「アガタ、刃をしまって」
「大丈夫」
「危ない」
「俺、上手いから」
「そういう問題じゃない」
アガタは笑って短剣をしまった。
「はいはい」
カナエは落ち着かない様子で、杖を抱えている。
視線が何度もイリスへ向かい、それから窓へ向かう。
怖がっている。
けれど、逃げようとはしていない。
リッドは言った。
「カナエ、大丈夫か」
カナエはびくりとする。
「大丈夫」
アガタが振り返る。
「大丈夫じゃない時の言い方だな」
「アガタに言われたくない」
「俺はいつでも大丈夫」
「それも大丈夫じゃない人の言い方」
リッドは少し笑った。
アガタとカナエのやり取りは、緊張した部屋を少しだけ軽くする。
兄と妹。
あるいは、無茶な弟と心配性の姉。
そんな感じだった。
---
イリスが目を開けた。
青白い瞳が、天井を見つめる。
「現在地……不明」
リッドが身を乗り出す。
「ここは海都だ」
「海……都」
イリスの瞳が一瞬だけ揺れる。
「登録情報……欠損」
「深……」
セレネが反応する。
「深?」
イリスは続けようとして、声が乱れた。
「命令系統……断絶」
「帰投……不能」
「敵性……不明」
ファラが優しく言う。
「大丈夫。今は敵はいないよ」
イリスはファラを見る。
「敵性……なし?」
「うん」
「治療……行為?」
「そう。治療」
「理解……不能」
ファラは少し困った顔をした。
「理解できなくてもいいよ」
「痛いなら、痛いって言って」
イリスはしばらく黙る。
そして、小さく言った。
「痛覚……不安定」
「痛いのか?」
リッドが聞く。
イリスはリッドを見る。
「痛い、とは」
リッドは言葉に詰まった。
痛いとは何か。
そんなことを聞かれるとは思っていなかった。
カイルが頭を掻く。
「こりゃ、思ったより難しいな」
アガタが明るく言う。
「でも助けたんだ。何とかなるだろ」
カナエが小さく震えた。
「何とかならないこともある」
部屋が少し静かになる。
アガタは、しまったという顔をした。
「カナエ」
「ごめん」
カナエは俯く。
「でも、嫌な感じがする」
「この子が嫌なんじゃなくて」
「何か、近くにあるみたいで」
リッドはカナエを見た。
「近く?」
カナエは首を振る。
「分からない」
「でも、怖い」
理由は分からない。
言葉にもできない。
それでも、カナエの指は震えていた。
アガタが明るく言おうとして、やめた。
今のカナエに、大丈夫だと言っても届かない。
それくらいは、彼にも分かった。
---
イリスが小さく呟いた。
「恐怖……行動制御因子」
セレネが見た。
「何か分かるの?」
イリスは答えない。
ただ、リッドの方へ視線を向けた。
「対象リッド」
「無謀傾向」
リッドは固まった。
カイルが吹き出す。
ファラが笑いを堪える。
セレネが頷く。
「正確」
「初対面で言う?」
リッドが抗議する。
イリスは無表情に瞬きした。
「観測結果」
アガタが腹を抱えて笑った。
「いいな、この子」
「リッド、機械にも無謀って言われてるぞ」
「アガタだって無謀だろ」
「俺は強いからいいんだよ」
カナエが即座に言う。
「よくない」
部屋の空気が、少しだけ軽くなった。
---
その後、話し合いが続いた。
イリスをどうするか。
ギルドへ報告するか。
どこまで隠すか。
結論は、すぐには出なかった。
ただ、一つだけ決まった。
今夜はムロツミの仮宿で匿う。
明日、状態を見てから考える。
アガタは言った。
「俺達も手伝う」
カナエは不安そうだったが、頷いた。
「危ないと思ったら、すぐ相談して」
カイルが言う。
「相談先が必要だな」
ファラは少し考える。
「黒華五刀に……」
リッドは顔を上げた。
だが、すぐ首を振る。
「まだだ」
ファラが驚く。
「リッド?」
「黒蘭なら、正しいことを言うと思う」
「でも、それが俺達の答えになるとは限らない」
自分で言って、リッドは少し驚いた。
黒蘭に聞けばいい。
そう思うことは多い。
黒蘭ならどうするか。
黒蘭なら何を見るか。
でも、全部を黒蘭に預けてしまえば、自分の判断ではなくなる。
イリスを助けると決めたのは、自分だ。
なら、まず自分達で考えるべきだ。
セレネが小さく頷いた。
「微量どころではない成長」
リッドは少し照れた。
「今度は普通に褒めてる?」
「比較的」
「そこは断言しろよ」
カイルが笑う。
「蒼華の剣、初日から面倒な荷を拾ったな」
アガタが得意げに言う。
「いいじゃん。冒険って感じだ」
カナエは不安そうに呟く。
「冒険は、怖いもの」
リッドはイリスを見た。
「でも、進まないと分からない」
その言葉は、黒蘭のものではなかった。
リッド自身の言葉だった。
---
深夜。
リッドは一人、仮宿の外へ出た。
眠れなかった。
空には星が見える。
海都の夜風が、迷宮の湿気を少しだけ洗い流す。
背後から足音がした。
アガタだった。
「眠れないのか」
「うん」
「俺も」
アガタは隣に立つ。
「リッド、お前いい奴だな」
「急に何だよ」
「いや、さっき思った」
「イリスを背負った時、迷いはあったけど、置いていく気はなかっただろ」
リッドは黙る。
アガタは笑う。
「俺も同じだ」
「だから気に入った」
「弟みたいに?」
リッドが冗談で言うと、アガタはにやりとした。
「弟にしては生意気だな」
「そっちこそ兄にしては危なっかしい」
「言うようになったな」
二人は小さく笑った。
アガタは夜空を見る。
「俺はさ、強くなりたいんだ」
「黒華五刀みたいに?」
「いや、あそこまでは無理」
「でも、誰かを守れるくらいには」
リッドはアガタを見る。
アガタはいつものように笑っている。
けれど、その声は少しだけ真面目だった。
「カナエは怖がりだけど、すごいやつなんだ」
「俺よりよく見てる」
「だから、あいつが怖がるなら、本当は止まった方がいいんだろうな」
「でも俺は、先に行きたくなる」
リッドは小さく言った。
「分かる」
「だろ」
アガタは笑う。
「だから、俺達は止めてくれる奴を大事にしないとな」
リッドは頷いた。
この夜の会話を、リッドは後に何度も思い出すことになる。
止めてくれる者を大事にしろ。
先へ行きたい者ほど。
それは、アガタが残した最初の教えだった。
---
その頃、イリスは寝台の上で目を開けていた。
誰も気付かないほど静かに。
青白い瞳が、天井ではなく、どこか遠い場所を見ている。
「深都……」
小さな声。
「帰投……不可」
「新規対象……リッド」
「観測……継続」
胸元の光が、一度だけ強く灯った。
蒼華の剣。
小さなギルドの小さな名。
だが、その青い花は、黒華五刀とは別の道から、迷宮の奥に沈んだ都へ向かう細い道を照らし始めていた。
第十五話 了