亡国の黒将と世界樹の迷宮   作:清海深々

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第十六刀 正面へ至る者

 

海都来訪六十九日目。

 

冒険者ギルドの掲示板に、新しい名前が加わった。

 

蒼華の剣

第一階層七階到達

ムロツミと合同探索

負傷者なし

 

その札の前で、リッドは腕を組んでいた。

 

何度見ても飽きないらしい。

 

朝から同じ場所に立ち、少し離れて眺め、また近づき、文字を指でなぞろうとして受付係に止められている。

 

「いいな」

 

リッドは満足そうに言った。

 

「やっぱり、すごくいい」

 

ファラが呆れたように横を見る。

 

「朝から何回言ってるの」

 

「三回くらい」

 

「九回」

 

セレネが訂正した。

 

「数えてたのかよ」

 

「暇だった」

 

カイルは札を見上げ、得意げに鼻を鳴らす。

 

「名前ってのは大事だな。昨日までより二割くらい強そうに見える」

 

「二割しか変わらないのか?」

 

「実力が急に上がるわけじゃないからな」

 

「そこはもっと景気よく言えよ」

 

リッド一行ではない。

 

誰かの弟子でもない。

 

黒華五刀の後を追うだけの子供達でもない。

 

蒼華の剣。

 

未熟な蒼い花と、これから鍛えられる剣の名だった。

 

---

 

少し離れた場所から、黒蘭がその札を見ていた。

 

隣には椿。

 

半歩後ろに百合。

 

薔薇は訓練場へ顔を出し、牡丹は商会で補給品を確認している。

 

黒蘭は、蒼華という文字を黙って見上げた。

 

遠い黒華の地にも、黒い花へ憧れる子供達がいた。

 

国中に咲く黒い花のそばで、枝を刀に見立て、黒号持ちの真似をしていた。

 

自分達もいつか黒を賜る。

 

国を守る刃になる。

 

そう叫びながら、泥だらけになっていた。

 

顔も、名も、ほとんど残っていない。

 

ただ、その声だけは覚えている。

 

「若い名ですね」

 

椿が言った。

 

「そうだな」

 

「黒華に似せたことを、無礼と受け取る者もいるかもしれません」

 

百合が短く言う。

 

「身の程は知るべきです」

 

椿が少し困ったように百合を見る。

 

だが、百合は続けた。

 

「ただし、名乗ること自体は罪ではありません」

 

黒蘭は札から目を離さない。

 

「軽い名だ」

 

「やはり、お気に召しませんか」

 

椿が尋ねる。

 

黒蘭は首を振った。

 

「軽いことは悪くない」

 

「これから背負うものを載せられる」

 

「最初から重すぎる名は、持ち上げるだけで終わる」

 

椿は静かに頷いた。

 

蒼華の剣。

 

今はまだ軽い。

 

だからこそ、何にでもなれる。

 

---

 

リッドが黒蘭達に気付いた。

 

一瞬だけ緊張した顔をし、それから真っ直ぐ駆け寄ってくる。

 

「黒蘭!」

 

ファラが後ろから声を上げた。

 

「ちょっと、リッド!」

 

リッドは止まらない。

 

黒蘭の前へ来ると、掲示板の札を指した。

 

「見たか?」

 

「見た」

 

「蒼華の剣」

 

「ああ」

 

「変じゃないか?」

 

黒蘭はリッドを見る。

 

「なぜ俺に聞く」

 

「黒華五刀に似てるから」

 

リッドは少しだけ言いにくそうにする。

 

「勝手に付けたって怒られるかと思った」

 

百合の細い目が、わずかにリッドへ向く。

 

リッドの背筋が伸びた。

 

それでも、逃げない。

 

黒蘭は答えた。

 

「名は、付けた後の行動で決まる」

 

「今は軽い」

 

リッドの顔が少し曇る。

 

「やっぱり駄目か」

 

「軽いことは悪くないと言った」

 

「まだ言われてない」

 

「今言った」

 

リッドは少し考えた。

 

「じゃあ、これから重くすればいいんだな」

 

「ああ」

 

「黒華五刀くらい?」

 

「それを俺に聞くな」

 

「でも並びたいんだ」

 

黒蘭は黙ってリッドを見る。

 

言葉だけなら、誰でも言える。

 

強者への憧れも、英雄になりたいという夢も、酒場ではいくらでも聞く。

 

だが、リッドの目には打算がない。

 

自分がどれほど遠くにいるかも、まだよく分かっていない。

 

ただ、追いつきたいと思っている。

 

黒蘭は言った。

 

「なら、まず十階まで生きて行け」

 

「行く」

 

「行くと言う者は多い」

 

「俺は行く」

 

子供じみた答えだった。

 

だが、リッドらしかった。

 

黒蘭はそれ以上否定しない。

 

ファラ達も追いついてきた。

 

「ごめんなさい。朝からずっと浮かれてて」

 

ファラが頭を下げる。

 

リッドがむっとする。

 

「別に謝ることじゃないだろ」

 

「こういう時は謝るの」

 

セレネが札を見ながら言った。

 

「浮かれすぎ」

 

「セレネも悪くないって言っただろ」

 

「名前は」

 

「俺は?」

 

「保留」

 

カイルが笑う。

 

「いい仲間だな、リーダー」

 

「うるさい」

 

その時、百合がわずかに顔を動かした。

 

リッド達から、微かな金属と薬草の匂いがする。

 

海都の武具とは違う金属。

 

血ではない液体。

 

未知の魔力。

 

リッド達は何かを隠している。

 

百合は黒蘭を見る。

 

黒蘭も気付いていた。

 

だが、何も言わない。

 

今ここで尋ねれば、リッドは下手な嘘をつくだろう。

 

そして、問い詰めるほどの理由もまだない。

 

黒蘭は言った。

 

「隠すなら、隠し通せ」

 

リッドの顔が固まった。

 

ファラとカイルも動きを止める。

 

セレネだけが、ほとんど表情を変えない。

 

「何のことだ?」

 

リッドは分かりやすく目を逸らした。

 

黒蘭はそれ以上追及しない。

 

「知らないなら、それでいい」

 

百合が静かに言った。

 

「将軍は、知らないものを知ったとは言いません」

 

リッドは困ったように口を閉じた。

 

ファラが小声で言う。

 

「絶対気付かれてる」

 

「分かってる」

 

「声が大きい」

 

セレネが言った。

 

黒蘭は彼らに背を向ける。

 

「死なせるな」

 

リッドが顔を上げる。

 

誰を、と聞く必要はなかった。

 

「うん」

 

今度の返事には、少しだけ重さがあった。

 

---

 

受付係が黒蘭を呼んだ。

 

「黒蘭さん。ギルドマスターがお待ちです」

 

「分かった」

 

「黒華椿様も、できればご一緒に」

 

椿がわずかに眉を動かす。

 

ただの探索報告ではないらしい。

 

百合も当然のようについていこうとしたが、受付係は止めなかった。

 

三人がギルド奥へ向かう。

 

リッドはその背中を見送った。

 

「何だろうな」

 

カイルが言う。

 

「俺達には関係ない話だろ」

 

「でも気になる」

 

「お前は何でも気になるな」

 

ファラがリッドの腕を引く。

 

「今日はイリスのところに戻るの」

 

「分かってるって」

 

「分かってない顔」

 

リッドはもう一度だけ、黒蘭の消えた廊下を見る。

 

蒼華の剣。

 

その名を背負った最初の日。

 

黒蘭達は、また自分達よりずっと先へ進もうとしていた。

 

---

 

ギルドマスター室には、レオンだけではなく、海都の上位冒険者達が集まっていた。

 

ロイヤルガードのアルベルト。

 

月下猟姫のセリア。

 

獣王爪牙のバルト。

 

大地の記録者のガルド。

 

いずれも、第二階層を長く歩いてきた者達である。

 

机の上には、複数の地図が広げられていた。

 

黒華五刀の地図。

 

大地の記録者の採取地図。

 

月下猟姫の射撃地点図。

 

獣王爪牙の生態記録。

 

そして、ロイヤルガードが過去に持ち帰った古い地図。

 

黒蘭は部屋を見回す。

 

「何があった」

 

レオンが答える。

 

「三十三階へ入る前に、話しておくことがある」

 

アルベルトの顔は硬かった。

 

黒蘭は彼を見る。

 

「ロイヤルガードの記録か」

 

アルベルトが頷いた。

 

「そうだ」

 

レオンが古い地図を指す。

 

「公的な記録では、ロイヤルガードは第二階層を越え、四十一階相当の区域へ到達したことになっている」

 

「嘘ではない」

 

アルベルトが言う。

 

「だが、正確でもない」

 

部屋の空気が少し重くなる。

 

アルベルトは自分の言葉で続けた。

 

「我々は、第二階層の主を倒していない」

 

椿が目を上げる。

 

セリアとバルトは黙っている。

 

彼らはすでに知っているか、薄々察していたのだろう。

 

「四十階近くで主と遭遇した」

 

アルベルトは言った。

 

「戦った」

 

「負けた」

 

「撤退路を失い、異常潮流へ飛び込んだ」

 

「その先で、これまで記録のなかった区域に出た」

 

「そこが四十一階相当と判定された」

 

「だが、我々は正面から階層を越えたわけではない」

 

黒蘭は古い地図を見る。

 

南側へ大きく逸れた線。

 

途中から記録が乱れている。

 

帰還地点だけが妙に明瞭。

 

「敗走したのか」

 

黒蘭が言う。

 

アルベルトは目を逸らさない。

 

「ああ」

 

「仲間を二人失った」

 

「私が退却を決めた」

 

「それを恥じているのか」

 

アルベルトの表情がわずかに動く。

 

「恥じていないと言えば嘘になる」

 

黒蘭は地図から目を上げる。

 

「生きて帰った判断を恥じるな」

 

「だが、越えたと誤解される記録は正せ」

 

アルベルトは少し黙った。

 

「厳しいな」

 

「記録を誤れば、次が死ぬ」

 

ガルドが深く頷いた。

 

「その通りだ」

 

セリアも腕を組む。

 

「私達もロイヤルガードが越えたと思って、何度か南側を探したわ」

 

バルトが言う。

 

「獣は嫌がっていた」

 

「だから俺達は奥まで追わなかった」

 

黒蘭は南側の地図を見る。

 

「逃げ道としては正しい」

 

「だが、目的地へは行かない」

 

アルベルトは黒蘭を見る。

 

「お前達が見つけた中央潮路が、正規の道かもしれない」

 

「かもしれない、だ」

 

「ああ」

 

アルベルトは認めた。

 

「私達には確かめられなかった」

 

その言葉は、敗北の告白ではない。

 

託す言葉だった。

 

---

 

レオンが一通の封書を机に置いた。

 

「元老院からだ」

 

黒蘭は手を伸ばさない。

 

「誰の言葉だ」

 

「姫だ」

 

椿が封書を見る。

 

封蝋には海都王家の紋。

 

レオンが続ける。

 

「公的な命令ではない」

 

「探索を進めろとも、戻れとも書かれていない」

 

「直接読めということだ」

 

黒蘭は封を切った。

 

中には、短い文が記されていた。

 

南へ流される道は、生き延びるための道。

正面の潮路は、辿り着くための道。

もし白き女に会ったなら、まず刃を向けず、その周囲を見よ。

揺れていないものにこそ、意味がある。

 

署名はない。

 

だが、姫からの文であることは明らかだった。

 

黒蘭は二度読む。

 

椿も隣から文を見る。

 

「白き女」

 

百合が呟く。

 

「知っているのですね」

 

レオンは答えない。

 

答えられないのだろう。

 

アルベルトが低く言う。

 

「私達は、その女を見ていない」

 

「敗走時にもか」

 

「人影らしきものを見た者はいた」

 

「だが、潮流と負傷で記録が曖昧だった」

 

セリアが黒蘭を見る。

 

「姫がわざわざ書くくらいよ」

 

「普通の女じゃないでしょうね」

 

バルトのそばに伏せていた巨大な狼が、低く喉を鳴らす。

 

何もいない部屋の隅を警戒している。

 

バルトは狼の首筋へ手を置く。

 

「この話を始めてから、こいつが落ち着かん」

 

黒蘭は狼を見る。

 

「知っている匂いか」

 

「いや」

 

バルトは首を振る。

 

「知らないから嫌がってる」

 

牡丹なら、この反応をどう見るか。

 

黒蘭はそう考え、すぐに地図へ視線を戻す。

 

「明日、三十三階へ行く」

 

レオンが眉を上げる。

 

「準備は」

 

「終わっている」

 

「ずいぶん早いな」

 

「進む理由ができた」

 

アルベルトが言う。

 

「ロイヤルガードが三十二階まで同行する」

 

黒蘭は彼を見る。

 

「必要ない」

 

「お前達を守るためではない」

 

アルベルトは静かに答えた。

 

「退路を守る」

 

セリアが続ける。

 

「月下猟姫は高所に射線を作る」

 

バルトも言った。

 

「獣王爪牙は反流の変化を見る」

 

ガルドが地図を指す。

 

「大地の記録者は三十階から三十二階までの避難路を更新する」

 

黒蘭は集まった者達を見る。

 

海都の上位冒険者達。

 

第一章の初めには、黒華五刀を得体の知れない異国人として見ていた者達。

 

今は違う。

 

彼らは黒華五刀のために道を空けるのではない。

 

自分達が届かなかった場所へ向かう者の、帰路を守ろうとしている。

 

黒蘭は言った。

 

「分かった」

 

「借りる」

 

アルベルトがわずかに笑った。

 

「貸しではない」

 

「海都の探索だ」

 

黒蘭は首を振る。

 

「借りたものは借りたものだ」

 

「返す」

 

セリアが肩をすくめる。

 

「律儀なのか、頑固なのか分からないわね」

 

百合が短く言う。

 

「両方です」

 

椿が少しだけ笑った。

 

---

 

その夜。

 

黒華五刀は、宿で最後の準備を整えた。

 

牡丹は密閉容器、浮き袋、滑り止め、解毒薬、眠り粉、止血布を並べる。

 

薔薇は大きな籠手の留め具を一つずつ確認する。

 

百合は針の数と短刀の刃を確かめる。

 

椿は二刀の柄に結んだ帯を整え、地図の余白を増やす。

 

黒蘭は姫の文を見ていた。

 

揺れていないものにこそ、意味がある。

 

薔薇が言う。

 

「分かるか?」

 

「まだ分からない」

 

「珍しいな」

 

「知らないものを知ったと言わないだけだ」

 

牡丹が静かに微笑むことなく、荷紐を締める。

 

「白い女性が現れること自体は、姫は確信しているのでしょう」

 

百合が言う。

 

「ならば、こちらを見ています」

 

椿は黒蘭を見る。

 

「敵でしょうか」

 

「敵なら、姫は刃を向けるなとは書かない」

 

「味方なら?」

 

「周囲を見ろとは書かない」

 

薔薇が籠手を鳴らす。

 

「どっちでもないか」

 

「ああ」

 

黒蘭は文を畳んだ。

 

「門を守る者かもしれない」

 

誰もその先を聞かなかった。

 

明日、確かめればいい。

 

黒蘭は立ち上がる。

 

「眠れ」

 

薔薇が黒蘭を見る。

 

「黒蘭もな」

 

「分かっている」

 

牡丹が無表情のまま言った。

 

「信用できません」

 

「俺も寝る」

 

「横になっただけでは、眠ったことにはなりません」

 

百合が短く言う。

 

「監視します」

 

「必要ない」

 

「必要です」

 

椿はわずかに口元を緩めた。

 

黒華五刀は、戦場へ向かう前と同じように夜を過ごした。

 

笑い声は少ない。

 

大仰な誓いもない。

 

ただ、それぞれが自分の役目を確認する。

 

翌朝。

 

海都の誰も正面から越えられなかった道へ、五つの黒い刃が向かう。

 

-----

 

三十階磁軸が青白く光った。

 

黒華五刀が姿を現す。

 

その後方には、ロイヤルガードのアルベルト達。

 

さらに遅れて、月下猟姫と獣王爪牙の一部が転移してくる。

 

大地の記録者は二十階から徒歩で退避路を更新していた。

 

黒華五刀が海都へ来た頃なら、これだけの上位冒険者が一つの探索に関わることはなかった。

 

今日は違う。

 

第二階層の正面。

 

誰も確かめられなかった中央潮路。

 

海都にとって、それは一つの大規模探索だった。

 

---

 

三十一階。

 

月下猟姫が高根へ上がる。

 

「ここから先の射線は確保するわ」

 

セリアが言った。

 

「ただし、中央潮路の奥までは届かない」

 

黒蘭は頷く。

 

「十分だ」

 

三十二階。

 

獣王爪牙が反流の変化を確認する。

 

鳥を肩に乗せたリアナが、羽の動きを見る。

 

「南側が強い」

 

「中央は静かすぎる」

 

巨大な狼も中央を見て、毛を逆立てていた。

 

バルトが低く言う。

 

「こいつは中央を嫌がっている」

 

「南は?」

 

「嫌がるが、逃げようとはしない」

 

「中央は帰りたがっている」

 

黒蘭は狼を見る。

 

「なら、中央だ」

 

バルトが苦笑する。

 

「普通は逆じゃないか」

 

「目的が安全ならな」

 

今日は、安全な道を探しに来たのではない。

 

正しい道を探しに来た。

 

---

 

三十二階奥。

 

中央潮路と南側反流の分岐。

 

アルベルトは、南側の水を見ていた。

 

顔に苦い記憶が浮かんでいる。

 

「私達は、ここから南へ流された」

 

「この先か」

 

黒蘭が問う。

 

「ああ」

 

「逃げ道としては正しかった」

 

「だが、二度と同じ潮には乗れなかった」

 

黒蘭は中央を見る。

 

水面は静かだった。

 

波紋が少ない。

 

泡もない。

 

魔物の姿もない。

 

南側は、いかにも何かがありそうな流れだ。

 

枝も葉も、古い建材の欠片も引き込む。

 

中央は何も示さない。

 

だからこそ、不自然だった。

 

黒蘭は言う。

 

「ここからは五人で行く」

 

アルベルトが反論しかける。

 

「しかし」

 

「退路を頼む」

 

その一言で、アルベルトは口を閉じた。

 

黒蘭はロイヤルガードを戦力外と見ているのではない。

 

役目を渡している。

 

アルベルトは理解した。

 

「分かった」

 

「必ず戻れ」

 

黒蘭は答えない。

 

必ず帰ると、軽く口にする者ではない。

 

代わりに椿が言った。

 

「戻ります」

 

その声は静かだったが、迷いはなかった。

 

---

 

黒華五刀は中央潮路へ入った。

 

浅い水。

 

白い根。

 

重なり合う水音。

 

一歩進むたびに、後ろの気配が遠くなる。

 

百合が振り返る。

 

「音が切れました」

 

薔薇も後方を見る。

 

アルベルト達の姿はまだ見える。

 

だが、声が届かない。

 

水音が遮っているのではない。

 

距離そのものが伸びたような感覚。

 

牡丹が指先で印を結び、小さな雷光を水面へ落とす。

 

紫の光が波紋を作る。

 

波紋は途中で消えた。

 

「空間が続いていません」

 

椿が地図を見る。

 

「同じ場所に見えます」

 

「見えているだけだ」

 

黒蘭は言った。

 

「向こうとこちらで、距離が違う」

 

薔薇が籠手を構える。

 

「迷宮が道を閉じたのか」

 

「まだ閉じていない」

 

百合が言った。

 

「選んでいます」

 

誰を通すか。

 

どこまで進ませるか。

 

水林そのものが見ている。

 

そんな感覚だった。

 

---

 

中央潮路を進む。

 

曲がり角はない。

 

分岐もない。

 

ただ真っ直ぐに見える。

 

だが、椿の歩数と地図上の距離が合わない。

 

百歩進んでも、三十歩ほどしか移動していない時がある。

 

反対に、十歩で根の柱を三本も越えることがある。

 

薔薇が苛立ったように足元を見る。

 

「気持ち悪い道だな」

 

牡丹が無表情のまま答える。

 

「こちらの感覚を基準にしてはいけません」

 

「何を基準にする」

 

黒蘭が水を見る。

 

「変わらないものだ」

 

姫の文。

 

揺れていないものにこそ、意味がある。

 

水は揺れる。

 

根も揺れる。

 

音も、光も、距離も変わる。

 

だが、何か一つだけ、変わらないものがあるはずだった。

 

黒蘭は歩きながら周囲を見る。

 

百合は気配を読む。

 

牡丹は魔力の流れを見る。

 

椿は歩数と水音の間隔を記録する。

 

薔薇は籠手の重さと足裏の圧を確かめる。

 

五人は別々の方法で、同じ異常を探した。

 

---

 

最初に足を止めたのは百合だった。

 

「前」

 

全員が止まる。

 

白い根の向こう。

 

ひとりの女が立っていた。

 

白に近い髪。

 

青白い肌。

 

海都では見ない衣装。

 

細身。

 

武器は持っていないように見える。

 

ただ立っているだけだった。

 

殺気はない。

 

魔力も感じない。

 

呼吸音すらない。

 

美しい女性。

 

それだけに見える。

 

薔薇は籠手を上げる。

 

椿は一刀を地面へ刺し、もう一刀を逆手に抜く。

 

柄の端から伸びた帯が、風もないのにわずかになびく。

 

牡丹は指で印を結ぶ。

 

百合の指の間には、いつの間にか毒針が挟まれていた。

 

黒蘭は二刀を抜かない。

 

まだ。

 

女は五人を見る。

 

「人間」

 

声は平坦だった。

 

「中央潮路へ至りましたか」

 

黒蘭は答える。

 

「お前は誰だ」

 

「答える必要はありません」

 

百合がわずかに重心を落とす。

 

女の視線が百合へ向く。

 

「敵意」

 

「違います」

 

百合は細い目を開かないまま答える。

 

「確認です」

 

「同義です」

 

百合は返さない。

 

女は再び黒蘭を見る。

 

「戻りなさい」

 

「この先は、人間が進む場所ではありません」

 

薔薇が低く笑う。

 

「よく言われるな、そういうの」

 

椿が言う。

 

「理由を伺えますか」

 

「理解できません」

 

「人間には」

 

その言葉に、黒華五刀の誰も怒らなかった。

 

女は侮辱しているのではない。

 

事実を述べている。

 

少なくとも、本人はそう認識している。

 

---

 

後方。

 

空間の向こうにいるアルベルト達には、白い女の姿がかろうじて見えていた。

 

だが、何も感じない。

 

セリアが弩を構える。

 

「何なの、あれ」

 

アルベルトは首を振る。

 

「分からない」

 

バルトの狼だけが伏せ、低く唸っている。

 

「魔力は?」

 

月下猟姫のゾディアックが首を振る。

 

「ほとんどない」

 

「殺気もない」

 

「普通の人間にしか見えない」

 

アルベルトは黒華五刀を見る。

 

五人全員が、同じ瞬間に構えている。

 

彼らだけが何かを見ている。

 

---

 

黒蘭は女の周囲を見た。

 

水面。

 

髪。

 

衣服。

 

影。

 

呼吸。

 

何も揺れていない。

 

いや。

 

違う。

 

揺れていないのではない。

 

すべてが、迷宮の揺れと完全に重なっている。

 

水が一度波打てば、女の衣も同じだけ揺れる。

 

根が軋めば、髪が同じ間隔で動く。

 

魔力が満ちれば、女の気配も同じ濃度になる。

 

迷宮と女の境界がない。

 

隠しているのではない。

 

合わせている。

 

完全に。

 

黒蘭は言った。

 

「お前は気配を消していない」

 

女の瞳が、わずかに動いた。

 

「……何を見ましたか」

 

「迷宮に合わせている」

 

黒蘭は続ける。

 

「呼吸も」

 

「魔力も」

 

「髪の揺れも」

 

「すべて、この場所と同じ間隔だ」

 

「だから普通の人間には、お前と迷宮の境目が見えない」

 

女は初めて沈黙した。

 

後方のアルベルト達には、何を話しているか聞こえない。

 

ただ、白い女が止まったことだけが分かる。

 

---

 

薔薇が言う。

 

「でも、右肩だけ少し遅い」

 

女の視線が薔薇へ動く。

 

薔薇は巨大な籠手を構えたまま続ける。

 

「髪が動いてから、肩の布が揺れるまでがほんの少し遅い」

 

「武器か何か隠してるだろ」

 

牡丹が無表情のまま言った。

 

「左手の指先だけ、水の匂いが違います」

 

「雷を通した跡があります」

 

百合が針を構えたまま言う。

 

「影が半歩先に動きます」

 

「実体と影の位置が一致していません」

 

椿も刀を地面へ刺したまま、女を見る。

 

「迷宮と同じ周期に見せていますが、完全ではありません」

 

「七度に一度だけ、水滴の落下が遅れます」

 

「私達を見ている時だけです」

 

女の表情は変わらない。

 

だが、空気が変わった。

 

それまで無かったはずの圧が、わずかに満ちる。

 

海の底で巨大な何かが目を開けたような圧。

 

後方のアルベルト達が、ようやく異常に気付く。

 

セリアの指が弩の引き金へかかる。

 

バルトの狼が吠えた。

 

アルベルトが盾を構える。

 

だが、彼らが感じた時には、黒華五刀はすでにその圧の中心を見ていた。

 

女は黒蘭へ問いかける。

 

「なぜ分かるのです」

 

黒蘭は答える。

 

「揺らぎを隠す者は多い」

 

「だが、揺らぎを完全に消せる者はいない」

 

「お前も同じだ」

 

女の瞳に、初めて明確な感情が浮かんだ。

 

驚き。

 

ほんの僅かなものだった。

 

だが、五人はそれを見逃さない。

 

「人間には、判別できないはずです」

 

女が言う。

 

黒蘭は二刀の柄へ手を置いた。

 

「人間を知らないようだな」

 

薔薇が笑う。

 

「少なくとも、私達の国じゃ、それを見逃すと死んだ」

 

牡丹が印を解かないまま言う。

 

「完全を装うものほど、小さな不完全が目立ちます」

 

百合は糸目のまま、針を女の喉へ向けている。

 

「次は、もう少し上手く隠すことです」

 

椿が静かに言う。

 

「百合、それは挑発です」

 

「助言です」

 

女は五人を順に見た。

 

黒蘭。

 

椿。

 

薔薇。

 

牡丹。

 

百合。

 

その視線は、初めて彼らを単なる人間ではなく、個として見ていた。

 

---

 

「私はオランピア」

 

女が名乗った。

 

「この先へ至る道を守る者です」

 

黒蘭は名を繰り返さない。

 

覚えただけだ。

 

「道を守る理由は」

 

「あなた方には、まだ答えられません」

 

「なら、通す気はないか」

 

「現時点では」

 

薔薇が小さく笑う。

 

「戦うか?」

 

オランピアは薔薇を見る。

 

「それを選ぶなら、ここで終わります」

 

脅しではない。

 

事実。

 

黒蘭には分かった。

 

この女は強い。

 

おそらく、海都で見た誰よりも。

 

ガレスとも、アルベルトとも、レオンとも違う。

 

魔物とも違う。

 

人の形をした、別の戦力。

 

今戦えば勝てない、とは思わない。

 

だが、戦う理由がない。

 

そして、この場所では勝敗以上に、道そのものを失う可能性がある。

 

黒蘭は刀から手を離した。

 

「今日は戦わない」

 

オランピアが問う。

 

「恐れましたか」

 

「違う」

 

「理由がない」

 

「通れないなら、通る条件を調べる」

 

「お前を斬ることが条件なら、その時斬る」

 

「違うなら斬らない」

 

オランピアはしばらく黒蘭を見ていた。

 

「理解できません」

 

「人間には分からないと言ったのは、お前だ」

 

薔薇が吹き出しかけた。

 

椿は表情を崩さない。

 

百合は針を下ろさない。

 

牡丹だけが、無表情のまま指先の雷を消した。

 

---

 

オランピアが一歩下がる。

 

その瞬間。

 

中央潮路の水が割れた。

 

左右へ。

 

剣で切ったのではない。

 

星術でもない。

 

迷宮そのものが命令を受けたように、水が退く。

 

白い根の奥。

 

今まで壁にしか見えなかった場所に、巨大な石門が現れた。

 

古い文様。

 

海都では見ない造り。

 

黒華五刀が三十二階で拾った人工物の欠片と、同じ文様。

 

椿が息を呑む。

 

薔薇も笑みを消した。

 

百合の糸目が、ほんの僅かに開く。

 

牡丹は無表情のまま石門を見つめる。

 

黒蘭だけが、オランピアから目を離さない。

 

「その門の先か」

 

「まだ先ではありません」

 

オランピアは答えた。

 

「これは、入口の入口」

 

「あなた方が正面の道を見つけた証です」

 

「四十階へ至りなさい」

 

「海嶺ノ水林の主を越えなさい」

 

「その後に、門があなた方を選びます」

 

遠くで、低い鳴動が響いた。

 

魔物の咆哮ではない。

 

水林全体が軋む音。

 

後方のアルベルト達にも、石門が見えた。

 

セリアが呆然と呟く。

 

「そんなもの、今まで……」

 

アルベルトは答えられない。

 

ロイヤルガードが何年探しても見つけられなかった正面の門。

 

それが今、黒華五刀の前に現れている。

 

---

 

オランピアは最後に黒蘭へ言った。

 

「黒華五刀」

 

その呼称を、彼女が知っていることに椿が反応する。

 

「あなた方がどこまで人間でいられるか、見届けます」

 

薔薇が眉を上げる。

 

「どういう意味だ」

 

オランピアは答えない。

 

白い髪が水に溶けるように薄れる。

 

姿が消える。

 

気配も消える。

 

だが、黒蘭は最後まで彼女の位置を見ていた。

 

姿が消えた後も、水滴が一つだけ不自然に遅れて落ちる。

 

黒蘭は言った。

 

「まだいる」

 

空間のどこかで、オランピアの声がした。

 

「……やはり、見えますか」

 

それを最後に、今度こそ気配が消えた。

 

---

 

後方との距離が戻った。

 

音が戻る。

 

アルベルト達が黒華五刀のもとへ駆け寄る。

 

アルベルトは石門を見上げる。

 

「これが」

 

「正面の道だ」

 

黒蘭が言う。

 

アルベルトの顔には、悔しさと安堵が混じっていた。

 

自分達が見つけられなかったもの。

 

だが、海都の誰かがついに見つけたもの。

 

「何を話した」

 

黒蘭は答える。

 

「四十階へ来いと言われた」

 

「門番に?」

 

「ああ」

 

「名はオランピア」

 

レオンへ報告すれば、元老院は動くだろう。

 

姫も。

 

海都も。

 

だが今はまだ、石門は閉じている。

 

黒蘭は門を見る。

 

「戻る」

 

セリアが驚く。

 

「ここまで来て?」

 

「四十階へ至れと言われた」

 

「今日は三十三階だ」

 

「準備せず進む理由はない」

 

アルベルトが静かに笑った。

 

「お前なら、そう言うと思った」

 

黒蘭は彼を見る。

 

「なら聞くな」

 

「確認だ」

 

薔薇が籠手を下ろす。

 

「門が出たのに帰るのか」

 

牡丹が答える。

 

「門は逃げません」

 

百合が短く言う。

 

「門番も」

 

椿は地図に、これまでで最も大きな印を付けた。

 

中央潮路。

 

石門。

 

門番オランピア。

 

そして、その先に四十階。

 

---

 

同じ頃。

 

海都のムロツミ仮宿。

 

イリスが突然、身体を起こした。

 

胸元の青白い光が強く灯る。

 

ファラが驚く。

 

「イリス?」

 

セレネが杖を取る。

 

「魔力上昇」

 

カイルが窓を閉める。

 

「何だ?」

 

リッドはイリスの前へ出た。

 

「どうした」

 

イリスは南を向いていた。

 

迷宮の方角。

 

「中央経路……起動」

 

「門番個体……応答」

 

「正規経路……再接続」

 

リッドには意味が分からない。

 

だが、イリスの瞳には、これまでにない光があった。

 

「帰れるのか?」

 

「不明」

 

「でも、道ができたんだろ」

 

「部分的肯定」

 

リッドは笑った。

 

「じゃあ行こう」

 

ファラがすぐ腕を掴む。

 

「今から行かないからね」

 

「今じゃないよ!」

 

「リッドならやりかねない」

 

セレネが頷く。

 

「前科あり」

 

カイルは頭を抱える。

 

「こいつをリーダーにして大丈夫かね」

 

イリスがリッドを見る。

 

「対象リッド」

 

「危険性を理解していない」

 

「分かってるって」

 

「虚偽判定」

 

「イリスまで!」

 

室内に、小さな笑いが起こる。

 

カナエだけは窓の外を見ていた。

 

迷宮の方角。

 

理由の分からない恐怖が、胸の奥で僅かに強くなっている。

 

隣でアガタが短剣を回す。

 

「何があるか知らないけど、面白くなってきたな」

 

カナエがすぐ言う。

 

「面白くない」

 

「まだ何も起きてないだろ」

 

「だから怖いの」

 

アガタは笑う。

 

「大丈夫。俺がいる」

 

カナエはその言葉に、なぜかいつも以上の不安を覚えた。

 

だが、理由は分からなかった。

 

---

 

夕暮れ。

 

黒華五刀が海都へ帰還した。

 

掲示板には、すぐに新しい札が掛けられた。

 

黒華五刀

三十三階中央潮路到達

正規経路と思われる石門を確認

人型存在オランピアと接触

四十階への到達を要求される

負傷者なし

 

掲示板の前から、声が消えた。

 

誰もすぐには騒げなかった。

 

ロイヤルガードも見つけられなかった正面の門。

 

得体の知れない門番。

 

四十階への要求。

 

黒華五刀は、海都へ来てから七十日にも満たないうちに、海都が数十年かけて探してきた道へ触れた。

 

やがて、誰かが呟いた。

 

「黒華五刀が、門を見つけた」

 

その一言を境に、ざわめきが広がる。

 

酒場へ。

 

商会へ。

 

港へ。

 

元老院へ。

 

海都中へ。

 

---

 

元老院の高窓から、姫は迷宮の方角を見ていた。

 

クジュラが背後に立つ。

 

「石門が現れたそうです」

 

姫が言う。

 

「ああ」

 

「オランピアも名乗った」

 

「そうか」

 

姫の表情に、喜びだけはない。

 

期待。

 

恐れ。

 

祈り。

 

百年近く閉ざされてきたものが、動き始めている。

 

「彼らは越えられるでしょうか」

 

クジュラは少し考える。

 

「壁を斬れるかは知らん」

 

「だが、壁を壁として見つけた」

 

「それだけでも、今までとは違う」

 

姫は静かに目を閉じた。

 

「どうか、届いてください」

 

その願いは、黒華五刀には届かない。

 

今はまだ。

 

---

 

夜。

 

黒華五刀は宿で地図を広げていた。

 

石門の印。

 

中央潮路。

 

オランピア。

 

四十階。

 

薔薇が籠手を外しながら言う。

 

「強かったな」

 

「戦っていません」

 

椿が言う。

 

「だから分かる」

 

薔薇は自分の赤い瞳を細める。

 

「戦ったら強い奴は多い」

 

「戦う前から、勝つために何が要るか分からない相手は少ない」

 

牡丹が無表情のまま言う。

 

「迷宮そのものと繋がっています」

 

百合は針を一本、布の上へ置く。

 

「次に会う時は、より隠してきます」

 

黒蘭は言う。

 

「隠さない」

 

「なぜです」

 

椿が問う。

 

「あれは俺達を試した」

 

「次は、別のものを試す」

 

「戦力?」

 

薔薇が尋ねる。

 

「選択だ」

 

黒蘭は地図の四十階へ指を置く。

 

「門の先に何があるかは知らない」

 

「だが、門番は人間を見下しているだけではない」

 

「待っている」

 

「何を?」

 

「人間が、自分の理解を越えることを」

 

部屋が静かになる。

 

黒蘭は地図を閉じた。

 

「四十階へ行く」

 

それは宣言ではない。

 

次の行動の確認だった。

 

椿が頷く。

 

薔薇が笑う。

 

牡丹は新しい補給表を取り出す。

 

百合は針をしまう。

 

五人の黒髪が、灯火の中で揺れた。

 

その衣には、黒い彼岸花に似た国花の模様。

 

滅びた国の名を背負う五人。

 

彼らは海都で名を得た。

 

海都は彼らを知った。

 

上位冒険者達は彼らへ道を託した。

 

そして、迷宮の門番はついに彼らを見た。

 

一方。

 

小さな仮宿では、蒼華の剣が帰る場所を失った少女を囲んでいる。

 

黒き五つの刃。

 

蒼き未熟な剣。

 

二つの道は、まだ遠く離れている。

 

だが、その先には同じ沈んだ秘密がある。

 

海都の夜の下。

 

世界樹の根が、低く鳴った。

 

閉ざされていた扉が、ほんの僅かに開き始める。

 

第一章 了

 

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