海都来訪六十九日目。
冒険者ギルドの掲示板に、新しい名前が加わった。
蒼華の剣
第一階層七階到達
ムロツミと合同探索
負傷者なし
その札の前で、リッドは腕を組んでいた。
何度見ても飽きないらしい。
朝から同じ場所に立ち、少し離れて眺め、また近づき、文字を指でなぞろうとして受付係に止められている。
「いいな」
リッドは満足そうに言った。
「やっぱり、すごくいい」
ファラが呆れたように横を見る。
「朝から何回言ってるの」
「三回くらい」
「九回」
セレネが訂正した。
「数えてたのかよ」
「暇だった」
カイルは札を見上げ、得意げに鼻を鳴らす。
「名前ってのは大事だな。昨日までより二割くらい強そうに見える」
「二割しか変わらないのか?」
「実力が急に上がるわけじゃないからな」
「そこはもっと景気よく言えよ」
リッド一行ではない。
誰かの弟子でもない。
黒華五刀の後を追うだけの子供達でもない。
蒼華の剣。
未熟な蒼い花と、これから鍛えられる剣の名だった。
---
少し離れた場所から、黒蘭がその札を見ていた。
隣には椿。
半歩後ろに百合。
薔薇は訓練場へ顔を出し、牡丹は商会で補給品を確認している。
黒蘭は、蒼華という文字を黙って見上げた。
遠い黒華の地にも、黒い花へ憧れる子供達がいた。
国中に咲く黒い花のそばで、枝を刀に見立て、黒号持ちの真似をしていた。
自分達もいつか黒を賜る。
国を守る刃になる。
そう叫びながら、泥だらけになっていた。
顔も、名も、ほとんど残っていない。
ただ、その声だけは覚えている。
「若い名ですね」
椿が言った。
「そうだな」
「黒華に似せたことを、無礼と受け取る者もいるかもしれません」
百合が短く言う。
「身の程は知るべきです」
椿が少し困ったように百合を見る。
だが、百合は続けた。
「ただし、名乗ること自体は罪ではありません」
黒蘭は札から目を離さない。
「軽い名だ」
「やはり、お気に召しませんか」
椿が尋ねる。
黒蘭は首を振った。
「軽いことは悪くない」
「これから背負うものを載せられる」
「最初から重すぎる名は、持ち上げるだけで終わる」
椿は静かに頷いた。
蒼華の剣。
今はまだ軽い。
だからこそ、何にでもなれる。
---
リッドが黒蘭達に気付いた。
一瞬だけ緊張した顔をし、それから真っ直ぐ駆け寄ってくる。
「黒蘭!」
ファラが後ろから声を上げた。
「ちょっと、リッド!」
リッドは止まらない。
黒蘭の前へ来ると、掲示板の札を指した。
「見たか?」
「見た」
「蒼華の剣」
「ああ」
「変じゃないか?」
黒蘭はリッドを見る。
「なぜ俺に聞く」
「黒華五刀に似てるから」
リッドは少しだけ言いにくそうにする。
「勝手に付けたって怒られるかと思った」
百合の細い目が、わずかにリッドへ向く。
リッドの背筋が伸びた。
それでも、逃げない。
黒蘭は答えた。
「名は、付けた後の行動で決まる」
「今は軽い」
リッドの顔が少し曇る。
「やっぱり駄目か」
「軽いことは悪くないと言った」
「まだ言われてない」
「今言った」
リッドは少し考えた。
「じゃあ、これから重くすればいいんだな」
「ああ」
「黒華五刀くらい?」
「それを俺に聞くな」
「でも並びたいんだ」
黒蘭は黙ってリッドを見る。
言葉だけなら、誰でも言える。
強者への憧れも、英雄になりたいという夢も、酒場ではいくらでも聞く。
だが、リッドの目には打算がない。
自分がどれほど遠くにいるかも、まだよく分かっていない。
ただ、追いつきたいと思っている。
黒蘭は言った。
「なら、まず十階まで生きて行け」
「行く」
「行くと言う者は多い」
「俺は行く」
子供じみた答えだった。
だが、リッドらしかった。
黒蘭はそれ以上否定しない。
ファラ達も追いついてきた。
「ごめんなさい。朝からずっと浮かれてて」
ファラが頭を下げる。
リッドがむっとする。
「別に謝ることじゃないだろ」
「こういう時は謝るの」
セレネが札を見ながら言った。
「浮かれすぎ」
「セレネも悪くないって言っただろ」
「名前は」
「俺は?」
「保留」
カイルが笑う。
「いい仲間だな、リーダー」
「うるさい」
その時、百合がわずかに顔を動かした。
リッド達から、微かな金属と薬草の匂いがする。
海都の武具とは違う金属。
血ではない液体。
未知の魔力。
リッド達は何かを隠している。
百合は黒蘭を見る。
黒蘭も気付いていた。
だが、何も言わない。
今ここで尋ねれば、リッドは下手な嘘をつくだろう。
そして、問い詰めるほどの理由もまだない。
黒蘭は言った。
「隠すなら、隠し通せ」
リッドの顔が固まった。
ファラとカイルも動きを止める。
セレネだけが、ほとんど表情を変えない。
「何のことだ?」
リッドは分かりやすく目を逸らした。
黒蘭はそれ以上追及しない。
「知らないなら、それでいい」
百合が静かに言った。
「将軍は、知らないものを知ったとは言いません」
リッドは困ったように口を閉じた。
ファラが小声で言う。
「絶対気付かれてる」
「分かってる」
「声が大きい」
セレネが言った。
黒蘭は彼らに背を向ける。
「死なせるな」
リッドが顔を上げる。
誰を、と聞く必要はなかった。
「うん」
今度の返事には、少しだけ重さがあった。
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受付係が黒蘭を呼んだ。
「黒蘭さん。ギルドマスターがお待ちです」
「分かった」
「黒華椿様も、できればご一緒に」
椿がわずかに眉を動かす。
ただの探索報告ではないらしい。
百合も当然のようについていこうとしたが、受付係は止めなかった。
三人がギルド奥へ向かう。
リッドはその背中を見送った。
「何だろうな」
カイルが言う。
「俺達には関係ない話だろ」
「でも気になる」
「お前は何でも気になるな」
ファラがリッドの腕を引く。
「今日はイリスのところに戻るの」
「分かってるって」
「分かってない顔」
リッドはもう一度だけ、黒蘭の消えた廊下を見る。
蒼華の剣。
その名を背負った最初の日。
黒蘭達は、また自分達よりずっと先へ進もうとしていた。
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ギルドマスター室には、レオンだけではなく、海都の上位冒険者達が集まっていた。
ロイヤルガードのアルベルト。
月下猟姫のセリア。
獣王爪牙のバルト。
大地の記録者のガルド。
いずれも、第二階層を長く歩いてきた者達である。
机の上には、複数の地図が広げられていた。
黒華五刀の地図。
大地の記録者の採取地図。
月下猟姫の射撃地点図。
獣王爪牙の生態記録。
そして、ロイヤルガードが過去に持ち帰った古い地図。
黒蘭は部屋を見回す。
「何があった」
レオンが答える。
「三十三階へ入る前に、話しておくことがある」
アルベルトの顔は硬かった。
黒蘭は彼を見る。
「ロイヤルガードの記録か」
アルベルトが頷いた。
「そうだ」
レオンが古い地図を指す。
「公的な記録では、ロイヤルガードは第二階層を越え、四十一階相当の区域へ到達したことになっている」
「嘘ではない」
アルベルトが言う。
「だが、正確でもない」
部屋の空気が少し重くなる。
アルベルトは自分の言葉で続けた。
「我々は、第二階層の主を倒していない」
椿が目を上げる。
セリアとバルトは黙っている。
彼らはすでに知っているか、薄々察していたのだろう。
「四十階近くで主と遭遇した」
アルベルトは言った。
「戦った」
「負けた」
「撤退路を失い、異常潮流へ飛び込んだ」
「その先で、これまで記録のなかった区域に出た」
「そこが四十一階相当と判定された」
「だが、我々は正面から階層を越えたわけではない」
黒蘭は古い地図を見る。
南側へ大きく逸れた線。
途中から記録が乱れている。
帰還地点だけが妙に明瞭。
「敗走したのか」
黒蘭が言う。
アルベルトは目を逸らさない。
「ああ」
「仲間を二人失った」
「私が退却を決めた」
「それを恥じているのか」
アルベルトの表情がわずかに動く。
「恥じていないと言えば嘘になる」
黒蘭は地図から目を上げる。
「生きて帰った判断を恥じるな」
「だが、越えたと誤解される記録は正せ」
アルベルトは少し黙った。
「厳しいな」
「記録を誤れば、次が死ぬ」
ガルドが深く頷いた。
「その通りだ」
セリアも腕を組む。
「私達もロイヤルガードが越えたと思って、何度か南側を探したわ」
バルトが言う。
「獣は嫌がっていた」
「だから俺達は奥まで追わなかった」
黒蘭は南側の地図を見る。
「逃げ道としては正しい」
「だが、目的地へは行かない」
アルベルトは黒蘭を見る。
「お前達が見つけた中央潮路が、正規の道かもしれない」
「かもしれない、だ」
「ああ」
アルベルトは認めた。
「私達には確かめられなかった」
その言葉は、敗北の告白ではない。
託す言葉だった。
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レオンが一通の封書を机に置いた。
「元老院からだ」
黒蘭は手を伸ばさない。
「誰の言葉だ」
「姫だ」
椿が封書を見る。
封蝋には海都王家の紋。
レオンが続ける。
「公的な命令ではない」
「探索を進めろとも、戻れとも書かれていない」
「直接読めということだ」
黒蘭は封を切った。
中には、短い文が記されていた。
南へ流される道は、生き延びるための道。
正面の潮路は、辿り着くための道。
もし白き女に会ったなら、まず刃を向けず、その周囲を見よ。
揺れていないものにこそ、意味がある。
署名はない。
だが、姫からの文であることは明らかだった。
黒蘭は二度読む。
椿も隣から文を見る。
「白き女」
百合が呟く。
「知っているのですね」
レオンは答えない。
答えられないのだろう。
アルベルトが低く言う。
「私達は、その女を見ていない」
「敗走時にもか」
「人影らしきものを見た者はいた」
「だが、潮流と負傷で記録が曖昧だった」
セリアが黒蘭を見る。
「姫がわざわざ書くくらいよ」
「普通の女じゃないでしょうね」
バルトのそばに伏せていた巨大な狼が、低く喉を鳴らす。
何もいない部屋の隅を警戒している。
バルトは狼の首筋へ手を置く。
「この話を始めてから、こいつが落ち着かん」
黒蘭は狼を見る。
「知っている匂いか」
「いや」
バルトは首を振る。
「知らないから嫌がってる」
牡丹なら、この反応をどう見るか。
黒蘭はそう考え、すぐに地図へ視線を戻す。
「明日、三十三階へ行く」
レオンが眉を上げる。
「準備は」
「終わっている」
「ずいぶん早いな」
「進む理由ができた」
アルベルトが言う。
「ロイヤルガードが三十二階まで同行する」
黒蘭は彼を見る。
「必要ない」
「お前達を守るためではない」
アルベルトは静かに答えた。
「退路を守る」
セリアが続ける。
「月下猟姫は高所に射線を作る」
バルトも言った。
「獣王爪牙は反流の変化を見る」
ガルドが地図を指す。
「大地の記録者は三十階から三十二階までの避難路を更新する」
黒蘭は集まった者達を見る。
海都の上位冒険者達。
第一章の初めには、黒華五刀を得体の知れない異国人として見ていた者達。
今は違う。
彼らは黒華五刀のために道を空けるのではない。
自分達が届かなかった場所へ向かう者の、帰路を守ろうとしている。
黒蘭は言った。
「分かった」
「借りる」
アルベルトがわずかに笑った。
「貸しではない」
「海都の探索だ」
黒蘭は首を振る。
「借りたものは借りたものだ」
「返す」
セリアが肩をすくめる。
「律儀なのか、頑固なのか分からないわね」
百合が短く言う。
「両方です」
椿が少しだけ笑った。
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その夜。
黒華五刀は、宿で最後の準備を整えた。
牡丹は密閉容器、浮き袋、滑り止め、解毒薬、眠り粉、止血布を並べる。
薔薇は大きな籠手の留め具を一つずつ確認する。
百合は針の数と短刀の刃を確かめる。
椿は二刀の柄に結んだ帯を整え、地図の余白を増やす。
黒蘭は姫の文を見ていた。
揺れていないものにこそ、意味がある。
薔薇が言う。
「分かるか?」
「まだ分からない」
「珍しいな」
「知らないものを知ったと言わないだけだ」
牡丹が静かに微笑むことなく、荷紐を締める。
「白い女性が現れること自体は、姫は確信しているのでしょう」
百合が言う。
「ならば、こちらを見ています」
椿は黒蘭を見る。
「敵でしょうか」
「敵なら、姫は刃を向けるなとは書かない」
「味方なら?」
「周囲を見ろとは書かない」
薔薇が籠手を鳴らす。
「どっちでもないか」
「ああ」
黒蘭は文を畳んだ。
「門を守る者かもしれない」
誰もその先を聞かなかった。
明日、確かめればいい。
黒蘭は立ち上がる。
「眠れ」
薔薇が黒蘭を見る。
「黒蘭もな」
「分かっている」
牡丹が無表情のまま言った。
「信用できません」
「俺も寝る」
「横になっただけでは、眠ったことにはなりません」
百合が短く言う。
「監視します」
「必要ない」
「必要です」
椿はわずかに口元を緩めた。
黒華五刀は、戦場へ向かう前と同じように夜を過ごした。
笑い声は少ない。
大仰な誓いもない。
ただ、それぞれが自分の役目を確認する。
翌朝。
海都の誰も正面から越えられなかった道へ、五つの黒い刃が向かう。
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三十階磁軸が青白く光った。
黒華五刀が姿を現す。
その後方には、ロイヤルガードのアルベルト達。
さらに遅れて、月下猟姫と獣王爪牙の一部が転移してくる。
大地の記録者は二十階から徒歩で退避路を更新していた。
黒華五刀が海都へ来た頃なら、これだけの上位冒険者が一つの探索に関わることはなかった。
今日は違う。
第二階層の正面。
誰も確かめられなかった中央潮路。
海都にとって、それは一つの大規模探索だった。
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三十一階。
月下猟姫が高根へ上がる。
「ここから先の射線は確保するわ」
セリアが言った。
「ただし、中央潮路の奥までは届かない」
黒蘭は頷く。
「十分だ」
三十二階。
獣王爪牙が反流の変化を確認する。
鳥を肩に乗せたリアナが、羽の動きを見る。
「南側が強い」
「中央は静かすぎる」
巨大な狼も中央を見て、毛を逆立てていた。
バルトが低く言う。
「こいつは中央を嫌がっている」
「南は?」
「嫌がるが、逃げようとはしない」
「中央は帰りたがっている」
黒蘭は狼を見る。
「なら、中央だ」
バルトが苦笑する。
「普通は逆じゃないか」
「目的が安全ならな」
今日は、安全な道を探しに来たのではない。
正しい道を探しに来た。
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三十二階奥。
中央潮路と南側反流の分岐。
アルベルトは、南側の水を見ていた。
顔に苦い記憶が浮かんでいる。
「私達は、ここから南へ流された」
「この先か」
黒蘭が問う。
「ああ」
「逃げ道としては正しかった」
「だが、二度と同じ潮には乗れなかった」
黒蘭は中央を見る。
水面は静かだった。
波紋が少ない。
泡もない。
魔物の姿もない。
南側は、いかにも何かがありそうな流れだ。
枝も葉も、古い建材の欠片も引き込む。
中央は何も示さない。
だからこそ、不自然だった。
黒蘭は言う。
「ここからは五人で行く」
アルベルトが反論しかける。
「しかし」
「退路を頼む」
その一言で、アルベルトは口を閉じた。
黒蘭はロイヤルガードを戦力外と見ているのではない。
役目を渡している。
アルベルトは理解した。
「分かった」
「必ず戻れ」
黒蘭は答えない。
必ず帰ると、軽く口にする者ではない。
代わりに椿が言った。
「戻ります」
その声は静かだったが、迷いはなかった。
---
黒華五刀は中央潮路へ入った。
浅い水。
白い根。
重なり合う水音。
一歩進むたびに、後ろの気配が遠くなる。
百合が振り返る。
「音が切れました」
薔薇も後方を見る。
アルベルト達の姿はまだ見える。
だが、声が届かない。
水音が遮っているのではない。
距離そのものが伸びたような感覚。
牡丹が指先で印を結び、小さな雷光を水面へ落とす。
紫の光が波紋を作る。
波紋は途中で消えた。
「空間が続いていません」
椿が地図を見る。
「同じ場所に見えます」
「見えているだけだ」
黒蘭は言った。
「向こうとこちらで、距離が違う」
薔薇が籠手を構える。
「迷宮が道を閉じたのか」
「まだ閉じていない」
百合が言った。
「選んでいます」
誰を通すか。
どこまで進ませるか。
水林そのものが見ている。
そんな感覚だった。
---
中央潮路を進む。
曲がり角はない。
分岐もない。
ただ真っ直ぐに見える。
だが、椿の歩数と地図上の距離が合わない。
百歩進んでも、三十歩ほどしか移動していない時がある。
反対に、十歩で根の柱を三本も越えることがある。
薔薇が苛立ったように足元を見る。
「気持ち悪い道だな」
牡丹が無表情のまま答える。
「こちらの感覚を基準にしてはいけません」
「何を基準にする」
黒蘭が水を見る。
「変わらないものだ」
姫の文。
揺れていないものにこそ、意味がある。
水は揺れる。
根も揺れる。
音も、光も、距離も変わる。
だが、何か一つだけ、変わらないものがあるはずだった。
黒蘭は歩きながら周囲を見る。
百合は気配を読む。
牡丹は魔力の流れを見る。
椿は歩数と水音の間隔を記録する。
薔薇は籠手の重さと足裏の圧を確かめる。
五人は別々の方法で、同じ異常を探した。
---
最初に足を止めたのは百合だった。
「前」
全員が止まる。
白い根の向こう。
ひとりの女が立っていた。
白に近い髪。
青白い肌。
海都では見ない衣装。
細身。
武器は持っていないように見える。
ただ立っているだけだった。
殺気はない。
魔力も感じない。
呼吸音すらない。
美しい女性。
それだけに見える。
薔薇は籠手を上げる。
椿は一刀を地面へ刺し、もう一刀を逆手に抜く。
柄の端から伸びた帯が、風もないのにわずかになびく。
牡丹は指で印を結ぶ。
百合の指の間には、いつの間にか毒針が挟まれていた。
黒蘭は二刀を抜かない。
まだ。
女は五人を見る。
「人間」
声は平坦だった。
「中央潮路へ至りましたか」
黒蘭は答える。
「お前は誰だ」
「答える必要はありません」
百合がわずかに重心を落とす。
女の視線が百合へ向く。
「敵意」
「違います」
百合は細い目を開かないまま答える。
「確認です」
「同義です」
百合は返さない。
女は再び黒蘭を見る。
「戻りなさい」
「この先は、人間が進む場所ではありません」
薔薇が低く笑う。
「よく言われるな、そういうの」
椿が言う。
「理由を伺えますか」
「理解できません」
「人間には」
その言葉に、黒華五刀の誰も怒らなかった。
女は侮辱しているのではない。
事実を述べている。
少なくとも、本人はそう認識している。
---
後方。
空間の向こうにいるアルベルト達には、白い女の姿がかろうじて見えていた。
だが、何も感じない。
セリアが弩を構える。
「何なの、あれ」
アルベルトは首を振る。
「分からない」
バルトの狼だけが伏せ、低く唸っている。
「魔力は?」
月下猟姫のゾディアックが首を振る。
「ほとんどない」
「殺気もない」
「普通の人間にしか見えない」
アルベルトは黒華五刀を見る。
五人全員が、同じ瞬間に構えている。
彼らだけが何かを見ている。
---
黒蘭は女の周囲を見た。
水面。
髪。
衣服。
影。
呼吸。
何も揺れていない。
いや。
違う。
揺れていないのではない。
すべてが、迷宮の揺れと完全に重なっている。
水が一度波打てば、女の衣も同じだけ揺れる。
根が軋めば、髪が同じ間隔で動く。
魔力が満ちれば、女の気配も同じ濃度になる。
迷宮と女の境界がない。
隠しているのではない。
合わせている。
完全に。
黒蘭は言った。
「お前は気配を消していない」
女の瞳が、わずかに動いた。
「……何を見ましたか」
「迷宮に合わせている」
黒蘭は続ける。
「呼吸も」
「魔力も」
「髪の揺れも」
「すべて、この場所と同じ間隔だ」
「だから普通の人間には、お前と迷宮の境目が見えない」
女は初めて沈黙した。
後方のアルベルト達には、何を話しているか聞こえない。
ただ、白い女が止まったことだけが分かる。
---
薔薇が言う。
「でも、右肩だけ少し遅い」
女の視線が薔薇へ動く。
薔薇は巨大な籠手を構えたまま続ける。
「髪が動いてから、肩の布が揺れるまでがほんの少し遅い」
「武器か何か隠してるだろ」
牡丹が無表情のまま言った。
「左手の指先だけ、水の匂いが違います」
「雷を通した跡があります」
百合が針を構えたまま言う。
「影が半歩先に動きます」
「実体と影の位置が一致していません」
椿も刀を地面へ刺したまま、女を見る。
「迷宮と同じ周期に見せていますが、完全ではありません」
「七度に一度だけ、水滴の落下が遅れます」
「私達を見ている時だけです」
女の表情は変わらない。
だが、空気が変わった。
それまで無かったはずの圧が、わずかに満ちる。
海の底で巨大な何かが目を開けたような圧。
後方のアルベルト達が、ようやく異常に気付く。
セリアの指が弩の引き金へかかる。
バルトの狼が吠えた。
アルベルトが盾を構える。
だが、彼らが感じた時には、黒華五刀はすでにその圧の中心を見ていた。
女は黒蘭へ問いかける。
「なぜ分かるのです」
黒蘭は答える。
「揺らぎを隠す者は多い」
「だが、揺らぎを完全に消せる者はいない」
「お前も同じだ」
女の瞳に、初めて明確な感情が浮かんだ。
驚き。
ほんの僅かなものだった。
だが、五人はそれを見逃さない。
「人間には、判別できないはずです」
女が言う。
黒蘭は二刀の柄へ手を置いた。
「人間を知らないようだな」
薔薇が笑う。
「少なくとも、私達の国じゃ、それを見逃すと死んだ」
牡丹が印を解かないまま言う。
「完全を装うものほど、小さな不完全が目立ちます」
百合は糸目のまま、針を女の喉へ向けている。
「次は、もう少し上手く隠すことです」
椿が静かに言う。
「百合、それは挑発です」
「助言です」
女は五人を順に見た。
黒蘭。
椿。
薔薇。
牡丹。
百合。
その視線は、初めて彼らを単なる人間ではなく、個として見ていた。
---
「私はオランピア」
女が名乗った。
「この先へ至る道を守る者です」
黒蘭は名を繰り返さない。
覚えただけだ。
「道を守る理由は」
「あなた方には、まだ答えられません」
「なら、通す気はないか」
「現時点では」
薔薇が小さく笑う。
「戦うか?」
オランピアは薔薇を見る。
「それを選ぶなら、ここで終わります」
脅しではない。
事実。
黒蘭には分かった。
この女は強い。
おそらく、海都で見た誰よりも。
ガレスとも、アルベルトとも、レオンとも違う。
魔物とも違う。
人の形をした、別の戦力。
今戦えば勝てない、とは思わない。
だが、戦う理由がない。
そして、この場所では勝敗以上に、道そのものを失う可能性がある。
黒蘭は刀から手を離した。
「今日は戦わない」
オランピアが問う。
「恐れましたか」
「違う」
「理由がない」
「通れないなら、通る条件を調べる」
「お前を斬ることが条件なら、その時斬る」
「違うなら斬らない」
オランピアはしばらく黒蘭を見ていた。
「理解できません」
「人間には分からないと言ったのは、お前だ」
薔薇が吹き出しかけた。
椿は表情を崩さない。
百合は針を下ろさない。
牡丹だけが、無表情のまま指先の雷を消した。
---
オランピアが一歩下がる。
その瞬間。
中央潮路の水が割れた。
左右へ。
剣で切ったのではない。
星術でもない。
迷宮そのものが命令を受けたように、水が退く。
白い根の奥。
今まで壁にしか見えなかった場所に、巨大な石門が現れた。
古い文様。
海都では見ない造り。
黒華五刀が三十二階で拾った人工物の欠片と、同じ文様。
椿が息を呑む。
薔薇も笑みを消した。
百合の糸目が、ほんの僅かに開く。
牡丹は無表情のまま石門を見つめる。
黒蘭だけが、オランピアから目を離さない。
「その門の先か」
「まだ先ではありません」
オランピアは答えた。
「これは、入口の入口」
「あなた方が正面の道を見つけた証です」
「四十階へ至りなさい」
「海嶺ノ水林の主を越えなさい」
「その後に、門があなた方を選びます」
遠くで、低い鳴動が響いた。
魔物の咆哮ではない。
水林全体が軋む音。
後方のアルベルト達にも、石門が見えた。
セリアが呆然と呟く。
「そんなもの、今まで……」
アルベルトは答えられない。
ロイヤルガードが何年探しても見つけられなかった正面の門。
それが今、黒華五刀の前に現れている。
---
オランピアは最後に黒蘭へ言った。
「黒華五刀」
その呼称を、彼女が知っていることに椿が反応する。
「あなた方がどこまで人間でいられるか、見届けます」
薔薇が眉を上げる。
「どういう意味だ」
オランピアは答えない。
白い髪が水に溶けるように薄れる。
姿が消える。
気配も消える。
だが、黒蘭は最後まで彼女の位置を見ていた。
姿が消えた後も、水滴が一つだけ不自然に遅れて落ちる。
黒蘭は言った。
「まだいる」
空間のどこかで、オランピアの声がした。
「……やはり、見えますか」
それを最後に、今度こそ気配が消えた。
---
後方との距離が戻った。
音が戻る。
アルベルト達が黒華五刀のもとへ駆け寄る。
アルベルトは石門を見上げる。
「これが」
「正面の道だ」
黒蘭が言う。
アルベルトの顔には、悔しさと安堵が混じっていた。
自分達が見つけられなかったもの。
だが、海都の誰かがついに見つけたもの。
「何を話した」
黒蘭は答える。
「四十階へ来いと言われた」
「門番に?」
「ああ」
「名はオランピア」
レオンへ報告すれば、元老院は動くだろう。
姫も。
海都も。
だが今はまだ、石門は閉じている。
黒蘭は門を見る。
「戻る」
セリアが驚く。
「ここまで来て?」
「四十階へ至れと言われた」
「今日は三十三階だ」
「準備せず進む理由はない」
アルベルトが静かに笑った。
「お前なら、そう言うと思った」
黒蘭は彼を見る。
「なら聞くな」
「確認だ」
薔薇が籠手を下ろす。
「門が出たのに帰るのか」
牡丹が答える。
「門は逃げません」
百合が短く言う。
「門番も」
椿は地図に、これまでで最も大きな印を付けた。
中央潮路。
石門。
門番オランピア。
そして、その先に四十階。
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同じ頃。
海都のムロツミ仮宿。
イリスが突然、身体を起こした。
胸元の青白い光が強く灯る。
ファラが驚く。
「イリス?」
セレネが杖を取る。
「魔力上昇」
カイルが窓を閉める。
「何だ?」
リッドはイリスの前へ出た。
「どうした」
イリスは南を向いていた。
迷宮の方角。
「中央経路……起動」
「門番個体……応答」
「正規経路……再接続」
リッドには意味が分からない。
だが、イリスの瞳には、これまでにない光があった。
「帰れるのか?」
「不明」
「でも、道ができたんだろ」
「部分的肯定」
リッドは笑った。
「じゃあ行こう」
ファラがすぐ腕を掴む。
「今から行かないからね」
「今じゃないよ!」
「リッドならやりかねない」
セレネが頷く。
「前科あり」
カイルは頭を抱える。
「こいつをリーダーにして大丈夫かね」
イリスがリッドを見る。
「対象リッド」
「危険性を理解していない」
「分かってるって」
「虚偽判定」
「イリスまで!」
室内に、小さな笑いが起こる。
カナエだけは窓の外を見ていた。
迷宮の方角。
理由の分からない恐怖が、胸の奥で僅かに強くなっている。
隣でアガタが短剣を回す。
「何があるか知らないけど、面白くなってきたな」
カナエがすぐ言う。
「面白くない」
「まだ何も起きてないだろ」
「だから怖いの」
アガタは笑う。
「大丈夫。俺がいる」
カナエはその言葉に、なぜかいつも以上の不安を覚えた。
だが、理由は分からなかった。
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夕暮れ。
黒華五刀が海都へ帰還した。
掲示板には、すぐに新しい札が掛けられた。
黒華五刀
三十三階中央潮路到達
正規経路と思われる石門を確認
人型存在オランピアと接触
四十階への到達を要求される
負傷者なし
掲示板の前から、声が消えた。
誰もすぐには騒げなかった。
ロイヤルガードも見つけられなかった正面の門。
得体の知れない門番。
四十階への要求。
黒華五刀は、海都へ来てから七十日にも満たないうちに、海都が数十年かけて探してきた道へ触れた。
やがて、誰かが呟いた。
「黒華五刀が、門を見つけた」
その一言を境に、ざわめきが広がる。
酒場へ。
商会へ。
港へ。
元老院へ。
海都中へ。
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元老院の高窓から、姫は迷宮の方角を見ていた。
クジュラが背後に立つ。
「石門が現れたそうです」
姫が言う。
「ああ」
「オランピアも名乗った」
「そうか」
姫の表情に、喜びだけはない。
期待。
恐れ。
祈り。
百年近く閉ざされてきたものが、動き始めている。
「彼らは越えられるでしょうか」
クジュラは少し考える。
「壁を斬れるかは知らん」
「だが、壁を壁として見つけた」
「それだけでも、今までとは違う」
姫は静かに目を閉じた。
「どうか、届いてください」
その願いは、黒華五刀には届かない。
今はまだ。
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夜。
黒華五刀は宿で地図を広げていた。
石門の印。
中央潮路。
オランピア。
四十階。
薔薇が籠手を外しながら言う。
「強かったな」
「戦っていません」
椿が言う。
「だから分かる」
薔薇は自分の赤い瞳を細める。
「戦ったら強い奴は多い」
「戦う前から、勝つために何が要るか分からない相手は少ない」
牡丹が無表情のまま言う。
「迷宮そのものと繋がっています」
百合は針を一本、布の上へ置く。
「次に会う時は、より隠してきます」
黒蘭は言う。
「隠さない」
「なぜです」
椿が問う。
「あれは俺達を試した」
「次は、別のものを試す」
「戦力?」
薔薇が尋ねる。
「選択だ」
黒蘭は地図の四十階へ指を置く。
「門の先に何があるかは知らない」
「だが、門番は人間を見下しているだけではない」
「待っている」
「何を?」
「人間が、自分の理解を越えることを」
部屋が静かになる。
黒蘭は地図を閉じた。
「四十階へ行く」
それは宣言ではない。
次の行動の確認だった。
椿が頷く。
薔薇が笑う。
牡丹は新しい補給表を取り出す。
百合は針をしまう。
五人の黒髪が、灯火の中で揺れた。
その衣には、黒い彼岸花に似た国花の模様。
滅びた国の名を背負う五人。
彼らは海都で名を得た。
海都は彼らを知った。
上位冒険者達は彼らへ道を託した。
そして、迷宮の門番はついに彼らを見た。
一方。
小さな仮宿では、蒼華の剣が帰る場所を失った少女を囲んでいる。
黒き五つの刃。
蒼き未熟な剣。
二つの道は、まだ遠く離れている。
だが、その先には同じ沈んだ秘密がある。
海都の夜の下。
世界樹の根が、低く鳴った。
閉ざされていた扉が、ほんの僅かに開き始める。
第一章 了