亡国の黒将と世界樹の迷宮   作:清海深々

17 / 24
第二章
第十七刀 強者の歩き方


# 黒華迷宮譚

 

## 第二章 深き都と二人の王

 

## 第十七話① 強者の歩き方

 

黒華五刀が正面の石門を発見した翌日。

 

海都では、門そのものより先に、別のものが増えた。

 

新人冒険者だった。

 

黒華五刀が海都へ来て七十日足らずで三十三階へ到達した。

 

ロイヤルガードでさえ見つけられなかった正規の道を発見した。

 

門番を名乗る人型存在と接触した。

 

そうした噂が広がると、海都の迷宮は以前よりも容易な場所に見え始める。

 

強者が道を開いた。

 

なら、自分達もその道を歩ける。

 

そう勘違いする者が現れた。

 

掲示板には、華々しい記録だけが並ぶ。

 

三十三階到達。

 

中央潮路発見。

 

正規経路確認。

 

負傷者なし。

 

その裏にある六十九日分の反復探索、撤退、地図の清書、素材処理、補給計画までは書かれない。

 

人は結果を見る。

 

過程は見ない。

 

そして、見えないものを簡単だったと思い込む。

 

---

 

朝の冒険者ギルドは、いつも以上に騒がしかった。

 

登録窓口の前には、剣や槍を抱えた若者達が並んでいる。

 

真新しい鎧。

 

まだ泥の付いていない靴。

 

肩に力の入った立ち方。

 

酒場から転向した傭兵。

 

港を抜け出した船員。

 

黒華五刀の噂を聞きつけ、近隣の島から渡ってきた者までいた。

 

レオンは二階の手すりから、その列を見下ろしていた。

 

嬉しそうには見えない。

 

「また増えたな」

 

隣に立つアルベルトが言った。

 

「登録者が増えること自体は悪くない」

 

「戻ってくるならな」

 

レオンの片目が細くなる。

 

昨日だけで、第一階層へ入った新人二組が予定時間を越えた。

 

一組は自力で帰還。

 

もう一組は鉄靴の梟が救助した。

 

死者は出ていない。

 

だが、このままなら時間の問題だった。

 

「黒華五刀のせいにする気か」

 

アルベルトが問う。

 

「まさか」

 

レオンは鼻を鳴らした。

 

「あいつらは、一度も迷宮を軽く見ていない」

 

「勝手に軽く見た連中の問題だ」

 

レオンは一階へ視線を向ける。

 

その中央で、ガルドが新人達を集めていた。

 

隣には、鉄靴の梟のダリオ。

 

ガルドは地図筒を背負い、ダリオは大盾を床に置いている。

 

どちらも派手な英雄には見えない。

 

だからこそ、講師として選ばれた。

 

「今日から新人講習を必須にする」

 

レオンは言った。

 

アルベルトが少し驚く。

 

「元老院の許可は」

 

「まだだ」

 

「先に始めるのか」

 

「許可を待って死者が出たら、誰が墓を掘る」

 

アルベルトは答えなかった。

 

レオンはギルドを、ただ依頼を仲介する場所ではなく、冒険者を統率できる組織に変えようとしている。

 

新人講習も、その一つだった。

 

冒険者を守るため。

 

そして、冒険者を一つの力にするため。

 

二つの意図は、まだ同じ方向を向いていた。

 

---

 

「集まれ!」

 

ガルドの声が一階へ響く。

 

新人達が慌てて並ぶ。

 

潮騒の針の若者達。

 

昨日登録したばかりの三人組。

 

槍を持つ少女。

 

大斧を背負った大男。

 

杖を握る少年。

 

総勢十四人。

 

後方には、見学者もいる。

 

彼らの視線はガルドではなく、入口へ向いていた。

 

黒い五人が入ってきたからだ。

 

黒蘭。

 

椿。

 

薔薇。

 

牡丹。

 

百合。

 

黒華五刀。

 

黒い彼岸花を思わせる模様が入った衣装。

 

黒髪。

 

控えめな金。

 

紫と深紅。

 

彼らが姿を見せた瞬間、新人達の姿勢が変わった。

 

小さな歓声まで上がる。

 

ガルドが眉をひそめる。

 

「黒華五刀を見に来た奴は帰れ」

 

空気が止まった。

 

新人の一人が戸惑う。

 

「え?」

 

「今日は英雄見物じゃない」

 

ガルドは測量棒で床を叩く。

 

「迷宮から帰るための講習だ」

 

薔薇が黒蘭へ小声で言った。

 

「私達、帰った方がいいか?」

 

「呼ばれた」

 

黒蘭は答える。

 

レオンから正式に、実地講習への協力を頼まれていた。

 

黒蘭は一度断った。

 

教えることを生業にしていない。

 

新人の面倒まで見る義務もない。

 

しかし、ガルドが言った。

 

黒華五刀を真似して死ぬ奴が出る。

 

そう聞いて、黒蘭は参加を受けた。

 

自分達の名が人を殺すなら、無関係ではいられない。

 

---

 

ガルドが新人達を見る。

 

「最初に聞く」

 

「黒華五刀が三十三階まで進めた理由は何だ」

 

何人かの手が上がる。

 

大斧を背負った男が答えた。

 

「強いからです」

 

「半分正解」

 

槍の少女が言う。

 

「地図が上手いから」

 

「それも半分」

 

杖の少年が答える。

 

「連携が取れているからです」

 

「それも間違いではない」

 

ガルドは黒華五刀を見る。

 

「だが、全部足りない」

 

「こいつらが奥へ行ける一番の理由は、奥へ行く前から帰ることを考えているからだ」

 

新人達が静かになる。

 

「黒蘭なら、第一階層の魔物なんて全部倒せるんじゃないですか」

 

誰かが尋ねた。

 

ガルドは鼻で笑った。

 

「だから怖いんだ」

 

「全部倒せる奴が、倒さない方を選んでいる」

 

黒蘭は何も言わない。

 

ガルドは続ける。

 

「強い奴が戦わない時、弱い奴には見えていない理由がある」

 

「今日は、それを見ろ」

 

ダリオが大盾を持ち上げる。

 

「実地講習は第八階層――じゃない、第八階だ」

 

緊張して言い間違えたらしい。

 

薔薇が笑う。

 

「講師も緊張するんだな」

 

ダリオは顔を赤くする。

 

「黒薔薇さんが後ろにいるからですよ」

 

「私は何もしないぞ」

 

「それが一番怖いんです」

 

新人達の間に小さな笑いが起きた。

 

ガルドが手を叩く。

 

「笑えるうちに聞け」

 

「迷宮では、笑っていられる時に準備する」

 

---

 

講習に参加する新人達へ、簡易地図が配られた。

 

そこには第八階までの主要路だけが記されている。

 

採取地。

 

水場。

 

既知の魔物出現域。

 

退避可能な空洞。

 

だが、全ては書かれていない。

 

新人の一人が不満そうに言った。

 

「完全な地図じゃないんですか」

 

ガルドが答える。

 

「完全な地図って何だ」

 

「全部の道が書いてある地図です」

 

「昨日の道が今日もあると思うのか」

 

「え?」

 

「倒れた木で塞がる」

 

「魔物が巣を作る」

 

「FOEの巡回が変わる」

 

「雨で土が崩れる」

 

「地図は答えじゃない」

 

ガルドは自分の地図筒を叩く。

 

「過去に誰かが持ち帰った質問集だ」

 

椿がわずかに目を上げた。

 

ガルドの表現を記憶したのだろう。

 

黒蘭も、彼を見た。

 

ガルドはそれに気付く。

 

「何だ」

 

「良い言葉だ」

 

黒蘭が答える。

 

ガルドは少しだけ胸を張った。

 

新人達がざわつく。

 

黒蘭が誰かを褒めるところを初めて見た者も多い。

 

それだけで、ガルドを見る目が変わった。

 

ガルドは苦い顔をした。

 

「俺を見る目を変えるな」

 

「今まで軽く見てたってことだろ」

 

---

 

出発前の荷物検査が始まった。

 

ダリオが新人一人ずつの装備を確認する。

 

水。

 

糸。

 

止血布。

 

予備靴紐。

 

携帯食。

 

灯り。

 

地図具。

 

槍の少女は武器を三本持っていた。

 

ダリオが一本を置かせる。

 

「減らせ」

 

「全部使えます」

 

「持って帰れるのか」

 

「使わなければ持って帰れます」

 

「疲れた仲間を背負う時もか」

 

少女は黙った。

 

ダリオは一本だけ残させた。

 

大斧の男は携帯食をほとんど持っていなかった。

 

「半日で戻るんですよね」

 

「予定通りならな」

 

「予定外になった時の食料だ」

 

牡丹は荷物検査を見ながら、無表情のまま言った。

 

「水より食料を減らす判断は分かります」

 

男が少し安心する。

 

「ですが、あなたは水も足りません」

 

「……どれくらい必要ですか」

 

牡丹は彼の体格、鎧、武器を見る。

 

「今の倍」

 

「そんなに?」

 

「あなたは汗をかきやすい」

 

男が驚く。

 

「見ただけで?」

 

「鎧の襟に塩が浮いています」

 

牡丹は淡々と答えた。

 

男は慌てて襟を見る。

 

昨日の訓練で染みた汗の跡が白く残っていた。

 

新人達が牡丹を見る。

 

黒華五刀の兵站役。

 

それまで、戦闘に参加しない荷物持ちだと思っていた者もいる。

 

だが、牡丹は一人ひとりの体格、歩幅、装備、発汗、利き手を見ていた。

 

「迷宮で不足に気付いても遅いです」

 

牡丹が言う。

 

「足りないものは、入る前に見つけてください」

 

---

 

百合は新人の装備を見ていなかった。

 

人を見ていた。

 

視線。

 

立ち方。

 

手の震え。

 

誰が強がっているか。

 

誰が他人の荷物を気にしているか。

 

誰が自分だけ先へ行こうとしているか。

 

百合の細い目が、杖を持つ少年で止まる。

 

「あなた」

 

少年がびくりとする。

 

「はい」

 

「帰りたいなら、今帰りなさい」

 

周囲が静まる。

 

少年の顔が赤くなる。

 

「怖がってません」

 

「そうですか」

 

百合はそれ以上言わない。

 

少年は唇を噛む。

 

黒蘭が百合を見る。

 

「理由は」

 

「右足を三度引きました」

 

「入口を見ています」

 

「杖を握る手が逆です」

 

少年は自分の手を見る。

 

普段は右手で持つ杖を、左手で握っていた。

 

無意識だった。

 

百合が言う。

 

「怖いことは問題ではありません」

 

「怖くないふりをして、申告しないことが問題です」

 

少年は俯いた。

 

「……怖いです」

 

百合は短く答えた。

 

「なら、覚えておきなさい」

 

「怖さが消えた時より、怖いと言えなくなった時の方が危険です」

 

ガルドが百合を見た。

 

予想していなかった言葉らしい。

 

薔薇が小さく笑う。

 

「黒百合、優しいな」

 

百合は糸目のまま薔薇へ顔を向ける。

 

「訂正しますか」

 

「しなくていい」

 

---

 

全員の準備が整った。

 

実地講習の編成は、新人十四人。

 

講師のガルドとダリオ。

 

黒華五刀。

 

さらに鉄靴の梟から二人、救護補助としてモンク一人。

 

通常の探索としては過剰な戦力だった。

 

だが、目的は踏破ではない。

 

観察と教育。

 

レオンは入口で全員を見送る。

 

黒蘭がその横を通る時、低く言った。

 

「人数が多い」

 

「分かってる」

 

レオンは答える。

 

「だから、お前達を入れた」

 

「俺達がいれば死なないと思っているなら、間違いだ」

 

「思ってない」

 

レオンの声が少し硬くなる。

 

「お前達が何を見ているか、新人に見せたい」

 

黒蘭はレオンを見る。

 

「見て分かるなら、苦労しない」

 

「だからガルドとダリオに説明させる」

 

レオンは笑う。

 

「お前は黙っていつも通り歩け」

 

黒蘭は少しだけ眉を寄せた。

 

「難しい注文だな」

 

レオンは一瞬驚き、それから笑った。

 

黒蘭の冗談だったのか。

 

本人にそのつもりがあったのかは分からない。

 

「帰ってこい」

 

「ああ」

 

黒華五刀と新人達は、第一階層へ入った。

 

----

 

第一階層八階。

 

木々は高く、根は太い。

 

入口に近い階と比べれば、魔物の気配も濃い。

 

しかし、黒華五刀にとっては低階層だった。

 

薔薇一人でも、ほとんどの魔物を処理できる。

 

百合と牡丹だけで進んでも、危険は少ない。

 

黒蘭が刀を抜く必要など、通常ならない。

 

だからこそ、新人教育には向いている。

 

黒華五刀が戦えば、一瞬で終わる。

 

戦わずにどう歩くかを見せられる。

 

---

 

先頭はダリオ。

 

新人達が二列で続く。

 

中央にガルド。

 

黒華五刀は列の外側を歩いた。

 

黒蘭は最後尾ではない。

 

先頭でもない。

 

列全体が見える斜め後方。

 

椿は中央寄り。

 

薔薇は右側。

 

牡丹は荷の近く。

 

百合は定位置がない。

 

気付けば前にいる。

 

次に見れば後方の木陰にいる。

 

新人達は何度も百合を探し、そのたびに見失った。

 

「黒百合さんは、どこにいるんですか」

 

槍の少女が小声で尋ねる。

 

ガルドは答えた。

 

「分からないなら正常だ」

 

「敵も同じ気持ちになる」

 

---

 

最初の分岐。

 

主要路は左。

 

右は細い獣道。

 

地図では左が安全路として記されている。

 

ダリオが足を止め、新人達へ問う。

 

「どちらへ行く」

 

ほとんどが左を指した。

 

一人だけ右と言う。

 

「理由は」

 

「右の方が近道に見えます」

 

「近道かどうかを聞いてない」

 

ダリオは左を見る。

 

「地図では左だ」

 

大斧の男が言う。

 

「なら左でいいんじゃないですか」

 

黒蘭が口を開く。

 

「今日は右だ」

 

新人達が驚く。

 

ダリオも振り返る。

 

「理由を説明しても?」

 

黒蘭は頷く。

 

ダリオは左の道を指す。

 

「何が見える」

 

新人達は道を見る。

 

落ち葉。

 

低い草。

 

折れた枝。

 

特に異常はない。

 

「安全そうです」

 

誰かが答えた。

 

ダリオは黒蘭を見る。

 

黒蘭は言う。

 

「鳥がいない」

 

全員が上を見る。

 

確かに、左側だけ鳥の声がしない。

 

薔薇が続ける。

 

「あと、枝が折れてる」

 

「高い位置だ」

 

人の肩よりずっと上。

 

巨大な何かが通った跡。

 

牡丹が左の土を指す。

 

「樹液の匂いがあります」

 

「木が傷付いてから、あまり時間が経っていません」

 

百合の声が、いつの間にか左奥から聞こえた。

 

「三十分前」

 

新人達が一斉にそちらを見る。

 

百合は木の上に立っていた。

 

「大型個体が通過」

 

「戻る可能性があります」

 

ガルドが新人達を見る。

 

「地図が左でも、今日は右だ」

 

「これが、地図を答えにするなって意味だ」

 

---

 

右の獣道は狭かった。

 

新人達は一列になって進む。

 

枝が装備に引っかかる。

 

大斧の男は何度も立ち止まった。

 

薔薇が彼の背後から言う。

 

「斧を横に背負うな」

 

「でも、この留め方しか」

 

「柄を下げろ」

 

薔薇が紐を一度外し、斧の角度を変える。

 

「肩より上に出すと枝に取られる」

 

「武器を抜く時は?」

 

「狭い道で大斧を振るつもりか?」

 

男は黙る。

 

薔薇は笑う。

 

「使えない場所では、良い武器も荷物だ」

 

「道に合わせろ」

 

「道を武器に合わせるな」

 

---

 

やがて、小さな広場へ出た。

 

中央に薬草。

 

採取に適した場所だった。

 

新人達が目を輝かせる。

 

ガルドが止める前に、一人が薬草へ近づこうとする。

 

黒蘭が言った。

 

「触るな」

 

若者は足を止めた。

 

「毒草ですか」

 

牡丹が首を振る。

 

「薬草です」

 

「なら、なぜ」

 

牡丹は周囲を指す。

 

「食痕がありません」

 

「この辺りには草食性の魔物がいます」

 

「薬草だけ残っているのは不自然です」

 

ガルドが杖で地面を探る。

 

薬草の周囲に細い糸が張られている。

 

自然の蔓ではない。

 

奥の茂みに、小型魔物が潜んでいた。

 

獲物が薬草へ近づくのを待っている。

 

新人達が息を呑む。

 

百合の針が飛んだ。

 

茂みの奥で小さな声が上がる。

 

魔物は逃げていった。

 

殺してはいない。

 

槍の少女が尋ねる。

 

「倒さないんですか」

 

百合は答えない。

 

ガルドが代わりに説明する。

 

「ここはあいつの狩り場だ」

 

「一体倒せば終わりじゃない」

 

「血の匂いが残る」

 

「別の魔物が寄る」

 

「採取地も荒れる」

 

少女は薬草を見る。

 

「でも、採れますよね」

 

牡丹が言った。

 

「今日は採取依頼ではありません」

 

「必要のない利益を拾うために、予定外の危険を増やさないでください」

 

黒蘭が短く付け加える。

 

「目的を増やすな」

 

その言葉を、ダリオが新人達に繰り返した。

 

「迷宮で死ぬ者の多くは、最初の目的以外を増やす」

 

「素材があった」

 

「近道が見えた」

 

「弱そうな魔物がいた」

 

「もう少しだけ進めそうだった」

 

「一つずつは小さい」

 

「重なると帰れなくなる」

 

---

 

昼前。

 

予定していた訓練地点へ着いた。

 

低い岩壁に囲まれた空間。

 

一方向だけが開いている。

 

新人達が休息の準備を始める。

 

だが、椿が言った。

 

「ここでは休みません」

 

ダリオが周囲を見る。

 

「地図では休息地点です」

 

「以前は、でしょう」

 

椿は地面へ視線を落とす。

 

「壁際の苔が剥がれています」

 

「何かが身体を擦った跡です」

 

薔薇が岩壁へ手を当てる。

 

「まだ湿ってるな」

 

牡丹は土の窪みに指を入れる。

 

「大型個体が伏せた跡です」

 

大斧の男が周囲を見回す。

 

「でも、今はいません」

 

百合が言う。

 

「戻ります」

 

「なぜ分かるんですか」

 

「糞が新しい」

 

百合は木陰を指す。

 

新人達が顔をしかめる。

 

ガルドは笑った。

 

「迷宮を知りたいなら、綺麗なものだけ見るな」

 

黒蘭は入口側を見る。

 

「移動する」

 

ダリオが尋ねる。

 

「代わりの休息地点は」

 

椿が地図を広げる。

 

「ここから東へ百二十歩」

 

「狭いですが、退路が二つあります」

 

ガルドが驚く。

 

「いつ見つけた」

 

「往路で確認しました」

 

「歩きながら?」

 

「はい」

 

ガルドは新人達へ向き直る。

 

「聞いたか」

 

「こいつらは目的地へ行く途中で、目的地が使えなかった時の場所まで見つけてる」

 

新人の一人が言う。

 

「そんなの、毎回やるんですか」

 

黒蘭が答える。

 

「毎回だ」

 

「疲れませんか」

 

「死ぬよりは軽い」

 

---

 

東の休息地点へ向かう途中だった。

 

地面が小さく揺れた。

 

新人達の何人かが足を止める。

 

黒蘭達は止まらない。

 

百合だけが、進行方向とは逆を見た。

 

「左後方」

 

薔薇が新人達の外側へ移る。

 

牡丹が荷紐を締める。

 

椿が即座に声を通す。

 

「走らないでください」

 

「二列を維持」

 

「ダリオ殿、先頭を東へ」

 

「ガルド殿、人数確認」

 

命令は短い。

 

新人達は意味が分からないまま動く。

 

ダリオが前へ出る。

 

ガルドが人数を数える。

 

「十四!」

 

椿が言う。

 

「薔薇、右後方」

 

「百合、位置確認」

 

「牡丹、匂いを消して」

 

「黒蘭様、最後尾を」

 

黒蘭が最後尾へ下がる。

 

その時、左の木々が大きく揺れた。

 

現れたのは、豹に似たFOE。

 

低階層の冒険者にとっては、遭遇しただけで死を覚悟する個体。

 

新人達の顔から血の気が引く。

 

誰かが叫ぶ。

 

列が乱れかける。

 

薔薇が籠手を打ち鳴らした。

 

「走るな!」

 

声が広場へ響く。

 

FOEは動くものを追う。

 

恐慌状態で散れば、各個に狩られる。

 

新人達は踏みとどまった。

 

一人を除いて。

 

杖を持つ少年が、列から外れた。

 

百合に怖いと言った少年。

 

恐怖に耐えきれず、右の茂みへ走る。

 

FOEの顔がそちらへ向く。

 

ダリオが叫ぶ。

 

「戻れ!」

 

間に合わない。

 

少年は根に足を取られ、倒れた。

 

FOEが跳ぶ。

 

---

 

黒蘭が動いた。

 

二刀は抜かない。

 

鞘に入ったままの左刀で、FOEの前脚を下から打つ。

 

跳躍の軸が一寸ずれる。

 

右の鞘で顎を押す。

 

巨体の進路がさらに外れる。

 

FOEは少年の横を通り過ぎ、地面へ着地した。

 

黒蘭はその間に少年の襟を掴み、列へ投げ戻す。

 

薔薇が受け止めた。

 

「立て!」

 

少年は泣きながら立ち上がる。

 

FOEが振り返る。

 

黒蘭は刀を抜かない。

 

抜けば倒せる。

 

新人達にも、それは分かった。

 

なぜ抜かないのかは分からない。

 

FOEが低く唸る。

 

黒蘭は一歩だけ前へ出た。

 

殺気を向ける。

 

ほんの一瞬。

 

FOEの身体が止まった。

 

自分より強いものを理解したのだ。

 

百合が左奥から針を投げる。

 

針はFOEではなく、木の幹へ刺さった。

 

薬の匂いが散る。

 

牡丹が逆側へ別の匂い袋を落とす。

 

獲物の匂い。

 

FOEはそちらへ顔を向ける。

 

薔薇が籠手で木を叩き、大きな音を出す。

 

誘導されたFOEは、黒華五刀とは別方向へ走り去った。

 

戦闘は終わった。

 

一度も刀身は抜かれていない。

 

---

 

新人達はしばらく動けなかった。

 

ダリオが少年の身体を確認する。

 

怪我は擦り傷だけ。

 

ガルドはFOEが消えた方向を見ていた。

 

「なぜ倒さなかったか、分かる奴」

 

誰も手を上げない。

 

大斧の男が言う。

 

「逃げる方が安全だから?」

 

「違う」

 

ガルドは黒蘭を見る。

 

黒蘭は答えない。

 

代わりに牡丹が言った。

 

「この個体は、左側の大型個体に追われていました」

 

新人達が理解できずに黙る。

 

牡丹は続ける。

 

「往路で見た枝の傷」

 

「鳥が消えていた道」

 

「休息地点に残っていた伏せ跡」

 

「全て別の個体です」

 

薔薇が言う。

 

「今のFOEをここで倒すと、血の匂いが残る」

 

百合が短く続ける。

 

「追っている個体が来ます」

 

椿が地図を示す。

 

「この人数では、二体目が来た時に退路が塞がれます」

 

ダリオが新人達を見る。

 

「黒蘭は今の一体を倒せる」

 

「黒薔薇さんでも倒せる」

 

「黒華五刀なら、二体来ても戦えるかもしれない」

 

「だが、お前達を守りながら戦う理由はない」

 

「だから倒さず、進路だけ変えた」

 

少年が震える声で言う。

 

「俺が、走ったから……」

 

百合が少年を見る。

 

「はい」

 

容赦のない答えだった。

 

だが、責める口調ではない。

 

「恐怖を申告したことは正しかった」

 

「恐怖に従って列を離れたことが誤りです」

 

少年は涙を拭く。

 

「ごめんなさい」

 

黒蘭が言った。

 

「謝る相手を間違えるな」

 

少年が顔を上げる。

 

「次に同じ状況で、列を離れるな」

 

「それでいい」

 

---

 

東の休息地点へ着いた。

 

新人達は今度こそ腰を下ろす。

 

誰も勝手に荷を開かない。

 

椿の指示を待つ。

 

ガルドはその変化を見て、小さく頷いた。

 

休息中、槍の少女が黒蘭へ尋ねた。

 

「黒蘭さん」

 

「ああ」

 

「さっき、刀を抜かなかったのは、二体目が来るからですか」

 

「それもある」

 

「ほかにも?」

 

「刀を抜く必要がなかった」

 

少女は言葉に詰まる。

 

黒蘭は水を一口飲む。

 

「必要のない力を使うな」

 

「力を使えば、次も使えると思う」

 

「使えなかった時に死ぬ」

 

少女は自分の槍を見る。

 

出発前に三本から一本へ減らされた槍。

 

「強くなれば、何でもできると思ってました」

 

黒蘭は答える。

 

「強さは、できることを増やす」

 

「だが、するべきことまで増やすわけではない」

 

ガルドが少し離れた場所で、その言葉を聞いていた。

 

新人達にも聞こえるよう、繰り返す。

 

「覚えとけ」

 

「できることと、するべきことは違う」

 

---

 

帰路は静かだった。

 

新人達は往路より周囲を見るようになっている。

 

鳥の声。

 

枝の高さ。

 

土の湿り。

 

草の食痕。

 

魔物の糞。

 

地図にないもの。

 

黒華五刀の誰も、新人達を褒めない。

 

だが、薔薇は一度だけ、大斧の男が武器を枝へ引っかけず通った時に笑った。

 

牡丹は水の配分を調整できた者へ、何も言わず予備袋を返した。

 

百合は杖の少年が恐怖を申告した時、短く「了解」と答えた。

 

椿は人数確認を、新人の一人に任せた。

 

黒蘭は最後まで、刀を抜かなかった。

 

---

 

海都へ戻ると、レオンが入口で待っていた。

 

「どうだった」

 

ガルドが答える。

 

「一人走った」

 

レオンの顔が硬くなる。

 

「怪我は」

 

「擦り傷だけ」

 

「黒蘭が拾った」

 

レオンは少年を見る。

 

少年は俯いた。

 

黒蘭が言う。

 

「次は走らない」

 

少年は強く頷く。

 

レオンはそれ以上責めなかった。

 

新人達が解散した後、ガルドが掲示板へ新しい札を掛ける。

 

新人実地講習

参加者十四名

帰還者十四名

FOE一体と遭遇

交戦回避

負傷者一名、軽傷

 

派手ではない。

 

討伐数もない。

 

到達階数も低い。

 

だが、十四人が入って、十四人が帰った。

 

それが今日の成果だった。

 

---

 

その隣へ、役人が別の書類を掛けようとした。

 

黒華五刀

新人教育協力

海都公共探索義務への参加実績として記録

 

牡丹が書類を見た。

 

「待ってください」

 

役人の手が止まる。

 

「何か」

 

牡丹は文面を指す。

 

「公共探索義務への参加実績、とは何ですか」

 

「新人教育への協力です」

 

「それは理解しています」

 

牡丹の灰色の瞳には、ほとんど光がない。

 

「ですが、この文言では、黒華五刀が海都防衛義務の一部を受諾したと解釈できます」

 

役人の顔が僅かに強張る。

 

レオンが書類を奪い取る。

 

内容を読み、舌打ちした。

 

Aランク昇格条件。

 

海都防衛義務。

 

公的任務への継続参加。

 

第一章で黒蘭が拒んだ鎖。

 

新人教育への協力を、その実績へ勝手に組み込もうとしている。

 

「誰の指示だ」

 

レオンが問う。

 

役人は答えない。

 

百合が、いつの間にか彼の背後に立っていた。

 

「答えてください」

 

役人の肩が跳ねる。

 

牡丹は淡々と言う。

 

「答えなくても構いません」

 

「書類には作成者の印があります」

 

文面の隅。

 

小さな貴族家の印章。

 

検査税を指示した港湾貴族と繋がる家だった。

 

黒蘭は書類を見る。

 

「破棄しろ」

 

レオンが紙を二つに破く。

 

さらに四つ。

 

「最初から存在しない」

 

役人が抗議する。

 

「元老院への正式記録です!」

 

レオンの片目が険しくなる。

 

「本人の同意がない契約を、正式記録とは言わん」

 

役人は顔を赤くし、去っていった。

 

百合はその背中を見る。

 

「追いますか」

 

黒蘭は首を振る。

 

「まだいい」

 

牡丹は破られた紙を拾う。

 

「一片、いただきます」

 

レオンが問う。

 

「何に使う」

 

「記録です」

 

牡丹は紙片を袖へしまう。

 

「商人は記録で戦うそうですから」

 

黒蘭が牡丹を見る。

 

「忍びもか」

 

「忍びは、記録がなくても戦えます」

 

牡丹の声は穏やかだった。

 

表情はない。

 

「ですが、記録があれば、より静かに勝てます」

 

百合の細い目が、役人の消えた扉へ向く。

 

「次は、紙では済まないでしょう」

 

黒蘭は答えた。

 

「分かっている」

 

新人教育は終わった。

 

十四人は生きて帰った。

 

だが、海都の中では別の道が動き始めている。

 

迷宮の奥にある正面の道。

 

そして、貴族達が黒華五刀を縛ろうとする、見えない道。

 

黒華五刀は、そのどちらも見落としてはいなかった。

 

第十七話 了

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。