亡国の黒将と世界樹の迷宮   作:清海深々

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第十八刀 忍の仕事

 

新人実地講習の翌朝。

 

牡丹は、宿の窓辺に座っていた。

 

机の上には一枚の紙片が置かれている。

 

昨日、冒険者ギルドで破棄された公文書の一部。

 

黒華五刀が新人教育へ協力した事実を、海都防衛義務の受諾実績へ書き換えようとした書類だった。

 

牡丹は灰色の瞳で紙を見つめる。

 

指先で厚みを測り、朝日に透かす。

 

薄い波状の透かし。

 

紙の端に残った朱印。

 

筆圧と、乾き方の違う二種類の墨。

 

扉が開く音はしなかった。

 

それでも牡丹は、百合が入ってきたことに気付いていた。

 

「まだ調べているのですか」

 

百合が机の横へ立つ。

 

細い目は閉じているように見える。

 

「はい」

 

「紙が好きでしたか」

 

「人よりは、嘘が少ないので」

 

牡丹は紙片を裏返した。

 

「元老院の紙ではありません」

 

「港湾管理局のものです」

 

「印は」

 

「本物です」

 

「では、役人が作った」

 

「役人だけでは、この印は使えません」

 

牡丹は朱印の残りを指先でなぞる。

 

「貸した者がいます」

 

百合は短刀の柄へ触れた。

 

「斬りますか」

 

「誰を?」

 

「印を貸した者を」

 

「誰か分かりません」

 

「調べてから斬ります」

 

「その前に、次の手を見ましょう」

 

百合がわずかに首を傾ける。

 

黒華にいた頃から、二人の役割は違っていた。

 

百合は敵の気配を見つける。

 

見つければ、最短で断つ。

 

牡丹は敵がどこから来たかを見る。

 

誰から命令され、何を受け取り、どこへ帰るのか。

 

百合が刃ならば、牡丹は網だった。

 

「次の手が来ると思いますか」

 

「一度失敗した程度で諦めるなら、最初から公文書を偽りません」

 

牡丹は紙片を畳んだ。

 

「次は、もう少し直接的です」

 

---

 

その日の昼前。

 

冒険者ギルドから呼び出しが届いた。

 

レオンの執務室には、ガルドとダリオが待っていた。

 

机の上に新しい依頼書が置かれている。

 

十二階にある旧休息地の調査。

 

地図の更新。

 

非常用物資の設置。

 

三日前、若手冒険者の一組が十二階で道を失ったため、避難経路を再確認するという内容だった。

 

依頼主は港湾管理局。

 

資金提供者は、海都貴族のラウルス家。

 

牡丹は依頼書を手に取った。

 

昨日と同じ紙。

 

同じ透かし。

 

「断ってもいい」

 

レオンが言った。

 

「俺も信用していない」

 

黒蘭が依頼書を見る。

 

「なぜ俺達へ回した」

 

「名指しだ」

 

レオンは椅子の背へ身体を預けた。

 

「昨日の新人講習で、黒華五刀の評判がさらに上がった」

 

「黒華五刀と大地の記録者が調査すれば、若手も安心して十二階へ入れる。表向きはそういう話だ」

 

薔薇が依頼書を覗く。

 

「裏向きは?」

 

「善意だけで金を出す家ではない」

 

椿が尋ねた。

 

「ラウルス家は、検査税にも関係しているのですか」

 

「直接の証拠はない」

 

「関係はある?」

 

薔薇が続けて問う。

 

「あると見ている」

 

百合が言った。

 

「ならば斬っても問題ありません」

 

ダリオが咳き込んだ。

 

レオンは百合を睨む。

 

「問題しかない」

 

「証拠があれば?」

 

「斬る以外の方法を考えろ」

 

「検討します」

 

百合の返答からは、検討する意思がほとんど感じられなかった。

 

黒蘭は依頼書を取る。

 

「受ける」

 

レオンの眉が動く。

 

「罠でもか」

 

「罠だからだ」

 

「わざわざ踏みに行くのか」

 

「踏まない」

 

黒蘭は答えた。

 

「仕掛けた者を見る」

 

---

 

同行するのは、ガルドとダリオ。

 

さらに、昨日の新人講習に参加した三人が希望者として加わった。

 

槍を一本に減らした少女、エナ。

 

大斧を背負うボリス。

 

そして、FOEを前に列を離れた少年、ティム。

 

ティムは百合を見ると、先に口を開いた。

 

「怖いです」

 

「歩けますか」

 

「はい」

 

「なら、問題ありません」

 

百合の短い答えに、ティムは頷いた。

 

昨日よりも杖を握る手が安定している。

 

---

 

出発前。

 

港湾管理局が用意した物資が運び込まれた。

 

水袋。

 

保存食。

 

止血布。

 

簡易解毒剤。

 

照明油。

 

休息地へ設置する木箱。

 

役人が封印を示す。

 

「全て当局の検査を通しています」

 

牡丹は答えず、水袋を一つ持ち上げた。

 

振る。

 

耳を近づける。

 

栓を外さず、次の袋を取る。

 

十二袋を調べ、四袋だけを右へ分けた。

 

「黒牡丹殿」

 

役人が不快そうに呼ぶ。

 

外部の者が使う時は、黒号を含む呼び方になる。

 

「何か問題でも?」

 

「検査済みなのでしょう」

 

牡丹が尋ねる。

 

「当然です」

 

「では、この四袋も設置先まで運びます」

 

役人は満足そうに頷いた。

 

その背中が見えなくなると、薔薇が右の袋を指した。

 

「何が入っている」

 

「まだ分かりません」

 

「毒か」

 

「即効性の毒ではありません」

 

牡丹は針先に水を一滴取り、紙へ落とす。

 

乾いた跡に白い輪が残った。

 

「睡眠を誘うか、筋力を落とす薬でしょう」

 

椿が水袋を見る。

 

「四袋だけ?」

 

「私達が休息地へ設置する分です」

 

「設置後に誰かが飲むことを狙ったのではなく、私達が途中で使用することを想定していた可能性もあります」

 

黒蘭が問う。

 

「持っていくか」

 

「はい」

 

牡丹は薬入りの水を別の密閉容器へ移した。

 

水袋には通常の水を詰め直す。

 

さらに栓の内側へ、紫色の微粉を薄く塗った。

 

百合が見ている。

 

「印ですか」

 

「触れた者の爪に残ります」

 

「洗えば」

 

「一日は残ります」

 

百合の口元が、ほんの僅かに動く。

 

「便利ですね」

 

「百合にも塗りましょうか」

 

「必要ありません」

 

「残念です」

 

---

 

一行は十階磁軸を使用した。

 

青白い光が消える。

 

第一階層の奥。

 

入口付近よりも空気は湿り、根は太く、魔物の鳴き声も近い。

 

依頼書に添付された地図には、十二階旧休息地までの推奨経路が描かれていた。

 

ガルドは一目見るなり顔をしかめた。

 

「古い」

 

「どの程度だ」

 

黒蘭が問う。

 

「三年前」

 

ガルドは地図の一点を指す。

 

「この道は去年の根崩れで塞がった」

 

「代替路は提出した」

 

ダリオが言う。

 

「役所が更新していないだけでは」

 

「あり得る」

 

ガルドは答えた。

 

「だが、更新年月が消されている」

 

牡丹も余白を確認する。

 

地図には作成者番号だけが残され、年月の部分だけが擦られていた。

 

古い地図だと気付かれないようにしている。

 

百合が森へ顔を向けた。

 

「二人」

 

ダリオの手が盾へ伸びる。

 

エナ達も武器を構えようとする。

 

黒蘭が止めた。

 

「抜くな」

 

エナが声を抑える。

 

「どこにいるんですか」

 

百合は答えない。

 

代わりに、指の間へ針を挟んだ。

 

「敵意はありません」

 

一拍置く。

 

「今は」

 

黒蘭は古い地図を畳んだ。

 

「指定された道を行く」

 

ガルドが振り返る。

 

「塞がっているぞ」

 

「塞がった場所まで行く」

 

「尾行されているのに?」

 

「だから行く」

 

椿は新人三人へ向き直った。

 

「危険が増した時点で、あなた方は引き返します」

 

エナが反論しかける。

 

椿は穏やかに続けた。

 

「勇気と、任務を混同しないでください」

 

「あなた方の役目は、私達と同じ場所へ行くことではありません」

 

「自力で帰れる場所を知ることです」

 

黒蘭も言った。

 

「行ける距離と、帰れる距離は違う」

 

三人は頷いた。

 

誰かが見ている。

 

黒華五刀が古い地図を信じ、失敗するのを待っている。

 

黒蘭達は、それを承知で歩き始めた。

 

----

 

古い地図は、途中まで正しかった。

 

根の形。

 

浅い水場。

 

三本に分かれた大樹。

 

全て、ガルドの記憶と一致している。

 

だからこそ危険だった。

 

最初から全てが誤っていれば、誰でも疑う。

 

最後の一つだけが違う地図は、人を奥まで運んでから殺す。

 

牡丹は歩きながら、小さな木片を一定の間隔で落としていた。

 

新人達には帰路の目印に見える。

 

だが木片には、人間にはほとんど分からない香が染み込ませてあった。

 

背後で、落としたはずの香が動く。

 

「三つ拾われました」

 

牡丹が小さく言う。

 

「同じ者か」

 

黒蘭が問う。

 

「二人です」

 

百合の声が前方の木上から降る。

 

「一人は左利き」

 

「もう一人は、右脚を引きずっています」

 

ダリオが振り返った。

 

「姿も見えていないのに?」

 

「枝の戻り方が違います」

 

それ以上の説明はなかった。

 

---

 

十一階南側。

 

地図に描かれていた橋は、中央から崩れていた。

 

古い根を束ねた足場が、泥沼へ半ば沈んでいる。

 

牡丹が長い枝を差し入れる。

 

途中から抵抗がなくなり、枝はそのまま泥へ吸い込まれた。

 

「底が柔らかいです」

 

「人が落ちれば、自力では上がれません」

 

エナが地図を見る。

 

「この道しか書かれていません」

 

「だから古い地図は危険なんだ」

 

ガルドが言った。

 

ボリスが周囲を見回す。

 

「迂回は?」

 

椿は右手の斜面を見る。

 

「風が通っています」

 

葉が一方向へ揺れている。

 

閉じた崖ではない。

 

その先に道がある。

 

ただし足場は細く、重装備の者や新人を連れて進むには危険だった。

 

黒蘭が決める。

 

「新人は戻れ」

 

エナが唇を噛む。

 

今度は反論しなかった。

 

「ダリオが十階磁軸まで送る」

 

ダリオが頷く。

 

「ガルドは残る」

 

「俺は戦えんぞ」

 

「地図を読む者が必要だ」

 

薔薇が笑う。

 

「私が守る」

 

ガルドは嫌そうな顔をした。

 

「守り方が荒い」

 

「死なないならいいだろ」

 

「よくない」

 

黒蘭は新人三人を見る。

 

「帰ったら、ここまでに見たものを書け」

 

ティムが尋ねる。

 

「橋が落ちていたことを?」

 

「泥の深さ」

 

「斜面の風」

 

「尾行」

 

「全部だ」

 

「尾行も地図に書くんですか」

 

「見たものを残せ」

 

黒蘭は答えた。

 

「地図は道だけではない」

 

三人は、ダリオとともに来た道を戻っていく。

 

百合が木の上から見送る。

 

「一人、追いました」

 

「どちらだ」

 

「右脚を引きずる方」

 

「任せる」

 

返事はない。

 

百合の姿も消えていた。

 

---

 

斜面を越えた先には、古い石造りの通路があった。

 

自然の根に半ば飲み込まれながらも、人の手で作られた形を残している。

 

ガルドが壁を見る。

 

「こんな道は知らん」

 

牡丹は蝋の跡へ触れた。

 

「最近も使われています」

 

「何度だ」

 

薔薇が問う。

 

「三度」

 

「なぜ分かる」

 

「蝋が三層に重なっています」

 

床の水面には、薄い油が浮いている。

 

荷物を運んだ跡。

 

灯りを使った跡。

 

人が待機した跡。

 

「案内されています」

 

牡丹が言った。

 

尾行者が、わざとこの斜面を通った。

 

自分達を、この通路へ導くために。

 

ガルドが黒蘭を見る。

 

「帰るか」

 

「帰路は確保した」

 

「罠だぞ」

 

「分かっている」

 

「なら、なぜ入る」

 

黒蘭は石造りの奥を見る。

 

「ここで止まれば、仕掛けた者は次の罠を作る」

 

「今日は、終わらせるために来た」

 

---

 

通路の奥へ入る。

 

直後、前後の木板が落ちた。

 

退路が塞がれる。

 

天井の隙間から白い粉が降る。

 

牡丹が即座に告げる。

 

「吸わないでください」

 

椿が帯で口元を覆う。

 

薔薇はガルドを外套の内側へ押し込んだ。

 

「扱いが雑だ!」

 

「生きてるだろ!」

 

「まだ死んでないだけだ!」

 

牡丹は指先に粉を取り、匂いだけを確認する。

 

「水に入っていたものと同系統です」

 

「筋力を落とします」

 

黒蘭が問う。

 

「効くか」

 

「この量では足りません」

 

「風が奥へ抜けています」

 

前方の木板が開いた。

 

顔を布で隠した四人の男が現れる。

 

冒険者の装備に似せているが、靴底に迷宮の泥が染み込んでいない。

 

男の一人が剣を抜く。

 

「動くな」

 

薔薇が笑う。

 

「動くなと言われて、本当に動けない相手を待っていたのか」

 

「薬を吸った。じきに立てなくなる」

 

牡丹が平坦に答えた。

 

「調合が拙いです」

 

男達の動きが止まる。

 

「この空間なら、今の三倍は必要でした」

 

一人が仲間を見る。

 

指揮官はいない。

 

全員、雇われた者。

 

命令された通りに動いているだけ。

 

黒蘭が言った。

 

「牡丹」

 

牡丹は印を結ぶ。

 

水面へ、細い紫電が走った。

 

男達が気付いた時には遅い。

 

雷は床の水を伝い、四人の脚から身体へ登る。

 

声を上げる間もなく、全員が膝から崩れた。

 

剣が石床へ落ちる。

 

ガルドが薔薇の外套から顔を出した。

 

「殺したのか」

 

「呼吸しています」

 

牡丹は無表情で答えた。

 

「数刻は指も動かせません」

 

「十分危険だろ」

 

「生きています」

 

「黒華の人間は皆それを言うのか」

 

---

 

背後の木板が開いた。

 

待機していた二人の男が入ってくる。

 

その背後には、すでに百合がいた。

 

右手に短刀。

 

左手に毒針。

 

男が振り向こうとする。

 

針が首筋へ触れた。

 

「動かないでください」

 

もう一人が短剣を抜く。

 

百合の姿が消える。

 

次の瞬間には、男の手首へ針が刺さっていた。

 

指が開く。

 

短剣が落ちる。

 

百合は男の背後へ回り、短刀を喉へ添えた。

 

「六人」

 

百合が告げる。

 

「ここにいる者で全員です」

 

薔薇が刀を肩へ載せた。

 

「私の出番がない」

 

椿が答える。

 

「良いことではありませんか」

 

「少しくらい残してほしい」

 

「敵は食事ではありません」

 

---

 

男達を通路の中央へ並べた。

 

牡丹が一人ずつ手を確認する。

 

四人目の爪の間に、ごく薄い紫色の粉が残っていた。

 

水袋の栓へ塗った印。

 

「この方です」

 

男の顔が強張る。

 

黒蘭が問う。

 

「水へ薬を入れたか」

 

「知らない」

 

「嘘です」

 

百合が即答する。

 

男が声を荒らげる。

 

「証拠があるのか!」

 

牡丹は男の爪から粉を取り、白い紙へ落とした。

 

「出発前、栓へ触れた者に残る粉です」

 

「あなたは、検査後の水袋を開けています」

 

男の顔から血の気が引く。

 

「役人に言われたんだ」

 

「誰だ」

 

「名前は知らない」

 

百合の短刀が僅かに動く。

 

首に赤い線が浮かぶ。

 

「嘘です」

 

「本当に知らない!」

 

百合は何も言わない。

 

牡丹が男の呼吸を見る。

 

「今度は本当です」

 

百合は短刀を離した。

 

男達は、依頼主の名前を知らされていなかった。

 

港の倉庫で薬と武具を受け取り、この通路で待つよう命じられた。

 

黒華五刀が古い地図に従う。

 

崩れた橋で迂回路へ誘導される。

 

通路で薬を吸わせ、動けなくする。

 

殺す必要はない。

 

装備を乱し、数時間放置する。

 

その後、待機している救助隊が発見する。

 

記録に残るのは、

 

黒華五刀が古い地図を見抜けず、第一階層で救助された。

 

その一文だけ。

 

目的は殺害ではない。

 

評判を落とすこと。

 

黒蘭は倒れた男を見る。

 

「救助隊はどこだ」

 

「鐘を鳴らせば来る」

 

通路奥に小さな銅鐘があった。

 

黒蘭が紐を引く。

 

澄んだ音が石壁へ響いた。

 

ガルドが顔を上げる。

 

「呼ぶのか」

 

「ああ」

 

「無傷なのに?」

 

「無傷だから呼ぶ」

 

---

 

鐘を鳴らして十五分。

 

五人の冒険者が現れた。

 

腕章には、港湾管理局救助協力隊の印。

 

早すぎる。

 

十一階や十二階の別区域から来たのではない。

 

最初から近くで待っていた。

 

先頭の男が、倒れた者達と黒華五刀を見比べる。

 

「救助要請を受けて――」

 

黒蘭が遮る。

 

「どこで待っていた」

 

「十一階で別の任務を」

 

ガルドが言った。

 

「十一階から十五分では来られん」

 

男は黙る。

 

百合が退路へ立つ。

 

牡丹は救助隊の靴を見る。

 

「赤土が付いていません」

 

「十一階南側を通ってはいませんね」

 

一人が剣へ手を伸ばす。

 

椿が片方の刀を地面へ突き立てた。

 

柄頭から伸びる黒い帯が、通路を流れる風にたなびく。

 

もう片方の刀を逆手に抜く。

 

腕は真横。

 

剣先は、五人の中央へ向く。

 

「抜かないでください」

 

椿の声は穏やかだった。

 

その一声が、狭い通路全体を支配する。

 

王族の号令。

 

黒扇刀流の構え。

 

救助隊の男達は、剣の柄へ触れたまま動けなくなった。

 

黒蘭は、ガルドが修正した地図を先頭の男へ差し出す。

 

落ちた橋。

 

深い泥沼。

 

斜面。

 

隠し通路。

 

薬の罠。

 

待機地点。

 

全てが書かれている。

 

「地図が古かった」

 

黒蘭が言う。

 

「直しておいた」

 

男は受け取ろうとしない。

 

百合が背後から手首を持ち上げ、地図を握らせた。

 

「落とさないでください」

 

細い目は閉じたまま。

 

「持ち帰るまでが、あなたの役目です」

 

男の手が震える。

 

黒蘭が続ける。

 

「依頼主へ伝えろ」

 

「次は失敗を待たない」

 

「こちらから行く」

 

---

 

男達をその場で殺しはしなかった。

 

罠を仕掛けた六人は拘束し、ガルドとともにギルドへ引き渡す。

 

救助隊の五人は逃がした。

 

逃がすために呼んだ。

 

百合は、五人全員へ目に見えない香を付けていた。

 

牡丹が水袋に塗ったものとは別の印。

 

歩いた道に、僅かな匂いが落ちる。

 

「追えるか」

 

ガルドが問う。

 

百合は頷く。

 

「海都まで」

 

「最初から、そのつもりだったのか」

 

「鐘を鳴らした時からです」

 

「黒蘭は知ってたのか」

 

「百合ならそうすると考えた」

 

黒蘭が答える。

 

ガルドは五人を順に見る。

 

「お前達、話し合わないのか」

 

薔薇が笑う。

 

「必要なら話す」

 

「今のは必要じゃないのか?」

 

「分かるからな」

 

「分かる前提で動くな」

 

---

 

本来の依頼である非常用物資は、別の場所へ設置した。

 

退路が二つ。

 

水場から離れている。

 

大型魔物が身体を休める痕跡もない。

 

ガルドが場所を選び、牡丹が安全な物資を収める。

 

椿が地図を更新する。

 

薔薇が入口の倒木を移動させ、魔物が真っ直ぐ入れないようにする。

 

黒蘭は周囲を一周し、巡回路を確認した。

 

百合は戻らない。

 

救助隊を追っている。

 

---

 

夕刻。

 

黒蘭達は海都へ帰還した。

 

拘束した六人。

 

薬入りの水。

 

偽造された地図。

 

救助隊の待機地点。

 

レオンは報告を聞き、机へ拳を叩きつけた。

 

「公表する」

 

「まだだ」

 

黒蘭が止める。

 

「これだけ揃っている!」

 

「雇われた者は依頼主を知らない」

 

「港湾管理局の物資だ!」

 

「担当役人一人へ押しつけて終わる」

 

「それでも何もしないよりはいい!」

 

レオンの声が執務室へ響く。

 

黒蘭は静かに返した。

 

「何もしないとは言っていない」

 

部屋が静まる。

 

「これまでは、敵がどこまで繋がっているかを見る必要があった」

 

「もう十分だ」

 

ガルドが黒蘭を見る。

 

薔薇も笑みを消している。

 

椿は何も言わず、黒蘭の横顔を見た。

 

「次は、泳がせない」

 

黒蘭が言う。

 

「下の者だけを捕らえても、また別の者が使われる」

 

「上まで引きずり出す」

 

レオンが問う。

 

「捕らえるのか」

 

黒蘭は即答しなかった。

 

「相手次第だ」

 

その言葉に、レオンの表情が固まる。

 

黒蘭は、海都の法に従うとは言わなかった。

 

同時に、無意味に斬るとも言わない。

 

必要な結果を得る。

 

そのために必要なら、生かす。

 

必要なら、斬る。

 

それだけだった。

 

---

 

夜。

 

百合が宿の窓から戻った。

 

牡丹が海都の地図を机へ広げる。

 

百合は針を一本ずつ刺した。

 

港湾区。

 

ラウルス家所有の倉庫。

 

役所の一室。

 

元老院の外郭庁舎。

 

そして、冒険者ギルド。

 

最後の針だけ、部屋の空気を変えた。

 

椿が尋ねる。

 

「ギルドにも?」

 

「救助隊が戻る前に、知らせを受け取った者がいます」

 

「誰だ」

 

黒蘭が問う。

 

「依頼記録を扱う男です」

 

「レオン殿への報告はありません」

 

薔薇が腕を組む。

 

「内からも漏れてるのか」

 

牡丹が四本の針を線で結ぶ。

 

港。

 

役所。

 

元老院。

 

ギルド。

 

一つの家だけではない。

 

複数の者が利益のために繋がっている。

 

百合が尋ねる。

 

「今度こそ、斬りますか」

 

黒蘭は地図を見る。

 

「全員ではない」

 

百合の細い目が、ほんの僅かに開いた。

 

紫の瞳が灯火を映す。

 

「見せる相手を選ぶ」

 

黒蘭は言った。

 

「海都の権力者は、捕まった者が翌日には戻ると思っている」

 

「金を払えば、下の者を切れば、自分は残れると」

 

「その考えを一度、壊す」

 

牡丹が問う。

 

「誰を残し、誰を落としますか」

 

黒蘭は四本の針のうち、ラウルス家の倉庫へ刺さった一本を抜いた。

 

「まず、ここだ」

 

百合が短刀へ触れる。

 

薔薇は僅かに笑う。

 

椿は黒蘭を止めなかった。

 

紙の罠は失敗した。

 

薬も、地図も、内通者も見つかった。

 

だが、それだけでは海都の権力者は変わらない。

 

ならば次は、失敗した者を捕らえるだけでは終わらせない。

 

誰か一人には、黒華五刀へ手を出した結果を背負わせる。

 

それを海都中へ見せる。

 

黒蘭はもう、敵が次の手を打つのを待つつもりはなかった。

 

第十八話 了

 

 

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