海都の夜は、完全には眠らない。
港では夜明け前に出る船の準備が始まり、商会の倉庫では翌日の荷が積み替えられる。
酒場からは酔客の声が漏れ、冒険者ギルドには帰還予定を過ぎた者を待つ灯りが残る。
人が動く場所には、必ず影が生まれる。
港湾区の外れ。
ラウルス家が所有する第七倉庫にも、深夜になってなお灯りが残っていた。
正面の扉には、家紋を付けた衛兵が二人。
裏手は運河。
左右の建物は同じ家が所有し、屋根の上にも見張りがいる。
海都の商人ならば、厳重な倉庫だと思うだろう。
百合には、逃げ道を四つ用意した建物に見えた。
---
百合は、倉庫から三軒離れた屋根に伏せていた。
黒い装束が夜へ溶けている。
瞳は見えないほど細い。
それでも、倉庫の窓の動き、見張りの呼吸、運河を流れる舟の位置まで捉えていた。
正面に二人。
屋根に三人。
運河側に二人。
倉庫の中には、少なくとも十二人。
そのうち四人は足音が重い。
戦闘員。
二人は書記。
一人は、昨夜まで冒険者ギルドで依頼記録を扱っていた男。
名はセルジュ。
百合が冒険者ギルドへ刺した、四本目の針だった。
百合の隣に牡丹が現れる。
屋根板は鳴らない。
「十五人です」
牡丹が告げた。
「地下に三人」
百合が顔を向ける。
「地下室が?」
「運河の水位より低い空間があります」
牡丹は倉庫の壁を指した。
石積みの一部だけ、苔の生え方が違う。
排水口から流れる水には、微かな薬品の匂いが混じっていた。
「水へ入れた薬を作った場所でしょう」
「証拠は」
「まだです」
百合の指先に針が現れる。
「では、入りましょう」
「待ってください」
「なぜです」
「黒蘭様の合図がまだです」
百合は不満を口にしなかった。
だが、針をしまうこともしなかった。
---
倉庫の正面から離れた路地。
黒蘭は壁へ背を預けていた。
隣には椿。
薔薇は少し離れ、荷車に腰を下ろしている。
三人とも黒い外套をまとい、武器を隠していた。
ガルドとダリオは同行していない。
今夜の目的は、罠を証明することではない。
すでに証拠はある。
薬入りの水。
改竄された地図。
待ち伏せした男達。
異常に早く到着した救助隊。
目的は、その上にいる者を引きずり出すことだった。
「百合と牡丹だけで十分じゃないか?」
薔薇が小声で尋ねる。
「入るだけならな」
黒蘭が答えた。
「出た後がある」
「殺すのか」
「必要なら」
椿は倉庫の明かりを見ている。
「見せる相手を選ぶ、とおっしゃいましたね」
「ああ」
「ラウルス家の者を?」
「まだ決めていない」
椿が黒蘭を見る。
「中にいる者を見てから?」
「行動を見てからだ」
黒蘭が罰するのは、家名ではない。
血筋でもない。
行ったことだった。
命令した者。
実行した者。
知りながら利用した者。
それぞれを同じには扱わない。
だが、誰も責任を負わないまま終わらせるつもりもなかった。
「今までの海都では、下の者だけが切られた」
椿が言う。
「今回は逆にする」
黒蘭が答える。
「下に押しつけた者を残さない」
薔薇が籠手を締める。
「分かりやすくていいな」
「薔薇」
椿がたしなめる。
「楽しんではいけません」
「楽しんでない」
薔薇は立ち上がった。
「腹が立ってるだけだ」
新人達を利用した。
地図を偽った。
水へ薬を入れた。
それを、冒険者の失敗として記録しようとした。
薔薇にとっては、刃を向けられるより腹立たしい行為だった。
---
倉庫の裏口が開いた。
冒険者ギルドの内通者、セルジュが姿を現す。
周囲を何度も確認してから中へ入る。
百合が屋根の上で指を一本立てた。
牡丹が小さな鏡を傾ける。
月明かりが路地へ一度だけ届いた。
合図。
黒蘭が壁から離れた。
「始める」
---
牡丹は運河へ降りた。
水面へ波紋を作らず、石壁に片手を添える。
排水口の鉄格子。
錆びているように見える。
実際には、何度も開閉されている。
牡丹は袖から細い工具を取り出した。
鍵は複雑ではない。
外から開けられることを想定していないだけだった。
小さな音。
格子が外れる。
牡丹は暗い排水路へ身体を滑らせた。
百合は屋根を進む。
見張りの一人が欠伸をした。
もう一人は港の方を見ている。
三人目だけが、風の異変に気付いた。
振り返る。
百合はすでに背後にいた。
針が首筋へ触れる。
「声を出さないでください」
男の肩が跳ねる。
「誰だ」
「質問する側を間違えています」
男が腰の警笛へ手を伸ばす。
百合の針が皮膚へ沈む。
男の指が止まる。
「次は息が止まります」
男は動かなくなった。
百合は警笛を取り上げ、男の身体を屋根の陰へ寝かせる。
殺してはいない。
まだ。
二人目の見張りは、異変に気付かない。
百合はその背後を通り過ぎた。
今は倒す必要がなかった。
---
地下室では、三人の男が薬瓶を木箱へ詰めていた。
「全部、今夜のうちに船へ移せ」
「書類は?」
「焼く」
「冒険者どもが騒いでいるらしいぞ」
「ラウルス様が何とかする」
牡丹は天井近くの梁から会話を聞いていた。
黒華の忍びが使う潜入は、姿を消す術ではない。
人が見ない場所へ、見ない瞬間に移る技術である。
男達は目の前の仕事に追われ、頭上を見る余裕がない。
牡丹は薬瓶を確認する。
筋力を落とす薬。
眠り薬。
致死性の毒。
魔物を誘引する香。
冒険者の装備へ塗る腐食油。
倉庫には、探索事故を作るための道具が揃っていた。
偶然ではない。
今回だけでもない。
牡丹は棚の奥に、革表紙の帳簿を見つけた。
鍵が掛かっている。
開ける必要はない。
帳簿ごと持ち帰ればよい。
牡丹が手を伸ばした時、地下室の扉が開いた。
豪奢な上着をまとった男が降りてくる。
三十歳前後。
指にはラウルス家の印章指輪。
エドガー・ラウルス。
当主の長男。
倉庫の名義上の管理者だった。
「処分は進んでいるか」
「はい、エドガー様」
「捕らえられた連中は?」
「ギルドの地下です」
エドガーの顔が歪む。
「馬鹿どもが」
「黒華五刀など、少し名が売れただけの異国人だろう」
「なぜ一つの仕事もできない」
牡丹は梁の上から、無表情に見下ろす。
「救助隊の者は、戻っています」
「なら始末しろ」
男達の手が止まった。
「全員ですか」
「当然だ」
「口を割られれば、ラウルス家まで辿られる」
「ギルドの書記もですか」
「セルジュは今夜、記録を持ち出す」
「終われば同じ船へ乗せろ」
「港外で落とせばいい」
地下室の空気が冷えた。
男達は命令を受け入れている。
止めようとはしない。
エドガーは続ける。
「新人講習に参加した三人も監視しろ」
「黒華五刀と近い」
「使えるなら使う」
「使えなければ、迷宮で死なせろ」
牡丹の指が止まった。
表情は変わらない。
だが、次の瞬間には帳簿へ伸ばしていた手を引いていた。
先に、命令を最後まで聞く。
誰が対象か。
誰が実行するか。
どこまで繋がっているか。
それを記憶する。
怒りで動けば、必要な情報を失う。
それを最もよく知っているのが牡丹だった。
---
一階。
セルジュは机の上へ書類を広げていた。
港湾管理局の印。
冒険者ギルドの依頼記録。
救助隊の報告書。
黒華五刀に関する記録だけが抜き出されている。
エドガーの側近らしい男が、書類を一枚ずつ火鉢へ入れる。
「全部か」
セルジュが尋ねる。
「全部だ」
「私の報酬は」
「船へ乗ってから渡す」
「話が違う」
「お前はギルドを裏切った」
側近が笑う。
「そんな男を、ラウルス家が信用するとでも?」
セルジュの顔から血の気が引く。
自分が切り捨てられることに、ようやく気付いた。
逃げようと後ろへ下がる。
倉庫の扉は閉ざされている。
側近が剣を抜いた。
「騒ぐな」
「すぐ終わる」
その瞬間、天井から一本の針が落ちた。
側近の手の甲へ刺さる。
剣が床へ落ちる。
「誰だ!」
百合が棚の上に立っていた。
糸のように細い目。
黒髪に飾られた百合の花。
片手には短刀。
もう片方には、複数の針。
「黒百合……」
側近が名を呼ぶ。
外部の者が恐怖とともに口にする、黒号。
百合は棚から降りた。
「その方は、まだ必要です」
側近が左手で短剣を抜く。
百合は動かない。
男が踏み込んだ。
百合の姿が視界から消える。
次に見えた時、男の喉には短刀が通っていた。
一度だけ。
声は出なかった。
百合が刃を引くと、男は床へ崩れた。
セルジュが後ずさる。
「殺した……」
「はい」
百合は答えた。
「私の警告を無視しました」
「私は、何も」
「知っています」
百合は短刀の血を布で拭う。
「ですから、あなたは生かします」
「なぜ」
「証言していただくためです」
セルジュの脚が震える。
百合は一歩近づいた。
「逃げれば殺します」
「嘘をついても殺します」
「正直に話せば?」
セルジュが尋ねる。
百合は少し考えた。
「黒蘭が決めます」
それは、助かるという約束ではなかった。
だからこそ、セルジュには信じられた。
---
地下室。
牡丹は帳簿を手に取った。
同時に、エドガーが顔を上げる。
「誰だ」
牡丹は梁から降りた。
足音はない。
灰色の瞳。
光のない目。
牡丹の花飾り。
男達の一人が叫ぶ。
「黒牡丹!」
牡丹は帳簿を袖へ入れた。
「お話は全て伺いました」
エドガーが後ずさる。
「どうやって入った」
「入口からではありません」
「それは見れば分かる!」
男達が武器を抜く。
牡丹は両手で印を結んだ。
「帳簿と、薬をいただきます」
「捕らえろ!」
三人が同時に動く。
牡丹はその場から逃げない。
指先に細い紫電が集まる。
床に置かれた金属製の薬箱。
壁際の水桶。
湿った石床。
全てが一本の術式へ繋がる。
牡丹が印を閉じた。
紫電が走る。
男達の身体が跳ねた。
一人は武器を落とす。
一人は膝から崩れる。
最後の一人だけが、木箱の上へ乗って雷を避けた。
牡丹へ短剣を投げる。
牡丹は顔を僅かに傾ける。
短剣が頬の横を通り過ぎた。
男は次の短剣を抜く。
牡丹の手から、細い鎖が飛んだ。
短剣を持つ手首へ絡む。
一度引く。
男の身体が木箱から落ちた。
牡丹は倒れた男の胸へ足を置く。
印を結び直す。
紫電が鎖を伝う。
男の身体が痙攣し、動かなくなった。
エドガーは階段へ走る。
牡丹は追わない。
「逃げました」
耳元の小さな伝声具へ告げる。
黒華で使用していた、糸と金属片で振動を伝える簡易道具。
屋根にいる百合へ繋がっている。
返事は短かった。
「予定通りです」
---
エドガーは一階へ駆け上がった。
そこには百合と、倒れた側近。
震えるセルジュ。
「何をしている!」
エドガーは剣を抜く。
百合はセルジュの襟を掴み、横へ避けた。
エドガーは正面扉へ向かう。
鍵を外す。
扉を開く。
外には薔薇が立っていた。
大きな籠手。
逆の手には抜き身の刀。
「夜逃げか?」
エドガーが息を呑む。
後ろへ下がる。
裏口へ向かう。
椿が待っていた。
片方の刀は地面へ刺さっている。
柄頭から伸びた黒い帯が、夜風になびく。
もう一方の刀は逆手。
腕を真横へ伸ばし、剣先をエドガーへ向けている。
「お戻りください」
エドガーは左右を見る。
屋根。
運河。
正面。
裏口。
逃げ道は全て閉じている。
「貴様ら、誰に手を出しているか分かっているのか!」
椿が静かに答える。
「あなたは、誰に手を出したか分かっていなかったようですね」
エドガーは裏口から出ることを諦め、再び倉庫へ入った。
中央には黒蘭が立っていた。
いつ入ったのか分からない。
二刀は鞘に収まっている。
「エドガー・ラウルス」
黒蘭が名を呼ぶ。
「明日の朝、冒険者ギルドへ来い」
エドガーは怒鳴った。
「命令するな!」
「命令ではない」
黒蘭は答えた。
「選べ」
「自分の足で来るか」
「百合に運ばれるか」
百合が短刀を持ったまま、エドガーの背後に立つ。
エドガーは振り返れない。
「今ここで捕らえないのか」
椿が黒蘭を見る。
「ああ」
「なぜ」
「夜の倉庫で消えれば、貴族は何とでも言える」
黒蘭はエドガーを見た。
「海都中に、自分で何をしたか話させる」
エドガーの顔が歪む。
「誰が話すものか」
黒蘭は牡丹を見る。
牡丹は革表紙の帳簿を掲げた。
次に、百合がセルジュを前へ出す。
地下では、薬を詰めていた男達が痺れたまま倒れている。
「話さなくても構わない」
黒蘭が言う。
「証拠と証人はある」
「お前の口は、確認に使うだけだ」
エドガーは何も答えられなかった。
黒蘭は倉庫の外へ向かう。
「夜明けまで見張れ」
百合が尋ねる。
「逃げれば」
黒蘭は足を止めない。
「片脚を落とせ」
エドガーの顔から、完全に血の気が消えた。
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翌朝。
冒険者ギルドの前には、人が集まっていた。
黒華五刀が、ラウルス家の倉庫へ押し入った。
地下から薬と帳簿が見つかった。
冒険者ギルドの書記が、貴族へ情報を流していた。
倉庫では一人が殺された。
噂は夜明けより早く海都を巡っていた。
集まったのは冒険者だけではない。
商人。
港湾労働者。
役人。
貴族家の使者。
そして、海都警備隊。
ギルド前の広場を、青と白の装束を着た兵達が囲んでいる。
槍兵。
盾兵。
弓兵。
港の警備を担う者だけではなく、元老院直属の兵まで混じっていた。
その中央に、クジュラが立っていた。
腰には刀。
いつもの皮肉めいた表情はない。
「黒華五刀」
クジュラが呼ぶ。
「全員、武器から手を離せ」
広場が静まる。
薔薇の赤い瞳が、周囲の兵を見回す。
百合の指先には、まだ針がない。
牡丹は帳簿を抱えている。
椿は黒蘭の隣に直立していた。
黒蘭が尋ねる。
「俺達を捕らえるのか」
「必要ならな」
クジュラは答えた。
「昨夜、ラウルス家所有の倉庫へ無許可で侵入」
「私兵一名を殺害」
「複数名を負傷させ、財物を持ち出した」
「事実か」
百合が平然と答える。
「一名を斬ったのは私です」
警備隊の槍が僅かに上がる。
クジュラは百合を見る。
「理由は」
「証人を殺そうとしました」
「警告後も武器を抜きました」
「だから斬ったと?」
「はい」
百合に罪悪感は見えない。
クジュラは次に牡丹を見る。
「帳簿と薬品を持ち出したのは」
「私です」
「所有者の許可は」
「ありません」
「随分と素直だな」
「隠す必要がありませんので」
クジュラの口元が僅かに歪む。
笑ったのではない。
頭痛を堪えたような表情だった。
「黒蘭」
「昨夜の行動を命じたのはお前か」
「ああ」
「貴族家の倉庫へ侵入すれば、どうなるか理解していたか」
「理解していた」
「私兵が死ぬ可能性も?」
「ああ」
「ならば、お前達は現在、薬物事件の告発者であると同時に、住居侵入、強盗、傷害、殺人の嫌疑を受ける者だ」
広場がざわめいた。
冒険者の間から、不満の声が漏れる。
「黒華五刀は罠を暴いたんだぞ」
「貴族が先に殺そうとした!」
クジュラが振り返る。
「黙れ!」
その一声で、広場が静まる。
「貴族が罪を犯したことと、勝手に屋敷へ押し入り、人を斬ってよいかは別の話だ」
「法が身分で曲がることを責めながら、自分達だけ法の外へ立つことを許せば同じことになる」
黒蘭は反論しなかった。
クジュラの言葉は正しい。
少なくとも、海都の法に照らせば。
「武器を預けろ」
クジュラが言った。
「事情が明らかになるまで、警備隊の監視下へ置く」
薔薇が黒蘭を見る。
戦う意思を確認したのではない。
従うかどうかを見た。
黒蘭は二刀を鞘ごと外した。
クジュラへ差し出す。
「逃げる理由はない」
椿も二刀を外す。
薔薇は刀を渡し、大きな籠手を外した。
牡丹は短刀と忍具を机へ並べる。
百合だけは動かない。
クジュラが百合を見る。
「お前もだ」
「全て出せば、一日かかります」
「出せるものを出せ」
百合は袖、髪、帯、靴、襟元から、次々と針や小刃を取り出した。
石畳の上に金属音が続く。
警備兵の顔が引きつる。
薔薇が言った。
「まだあるだろ」
「あります」
「全部出せと言われたぞ」
「出せるものを、と言われました」
クジュラが額を押さえた。
「もういい」
---
その時、貴族街の方から馬車が入ってきた。
ラウルス家の家紋。
六人の私兵。
港湾管理局の役人。
家令。
そして、エドガー・ラウルス。
右手には、家の印章指輪。
昨夜、倉庫で追い詰められた時とは違う。
正式な貴族衣装をまとい、有力貴族の長男として振る舞っている。
エドガーは馬車を降りると、黒華五刀が武器を預けている姿を見た。
僅かに笑う。
「クジュラ殿」
「迅速な対応、感謝する」
クジュラの目が冷える。
「まだ、お前の味方になった覚えはない」
「しかし、犯罪者を拘束したのでしょう」
エドガーは広場へ声を張った。
「昨夜、異国の冒険者がラウルス家の倉庫を襲撃した!」
「衛兵を殺し、保管品を盗み、使用人を拉致した!」
「これは貴族家への明白な反逆である!」
一部の役人が頷く。
貴族の使者達は、黒蘭達ではなくクジュラを見ている。
警備隊がどちらへ動くか。
それを確かめようとしていた。
クジュラはエドガーへ向き直る。
「なら、お前も武器を預けろ」
エドガーの顔から笑みが消える。
「何?」
「お前には、冒険者への薬物使用、偽造地図の作成、計画的な襲撃、殺人教唆の疑いがある」
「貴族へ向かって何を!」
「聞こえなかったか」
クジュラの手が刀の柄へ乗る。
「剣を預けろ、エドガー・ラウルス」
私兵達が動きかける。
広場を囲む警備隊の槍が、一斉に彼らへ向けられた。
エドガーは周囲を見る。
ここで拒めば、黒華五刀と同じ場所で拘束される。
それだけは避けたい。
剣を家令へ渡し、前へ出た。
「茶番だ」
「異国人の言葉を信じ、海都の貴族を疑うのか」
牡丹が帳簿を持って前へ出る。
「言葉だけではありません」
---
牡丹は革表紙の帳簿を開いた。
六年前から続く薬品の出入り。
偽造地図。
魔物の誘引香。
装備を傷める腐食油。
冒険者の判断力を鈍らせる薬。
各頁には、倉庫印と港湾管理局の検査印が残っている。
「偽物だ!」
エドガーが叫ぶ。
牡丹は平坦に返した。
「では、専門家に確認していただきましょう」
ネイピア商会から来た紙商人。
ギルドの薬師。
大地の記録者のガルド。
三者が帳簿と薬品を確認する。
紙の古さ。
墨の乾き。
印章の摩耗。
薬品の成分。
短時間で断定できる範囲だけでも、昨夜作られた偽物ではないことは明らかだった。
ガルドは改竄された地図を掲げる。
「更新年月だけが削られている」
「崩落した橋へ誘導し、隠し通路へ入らせる地図だ」
ダリオも証言した。
「鐘を鳴らして十五分で救助隊が現れた」
「最初から近くで待っていた」
百合が、内通者セルジュを前へ出す。
「依頼記録を渡しました」
セルジュは震えながら認めた。
「黒華五刀だけではありません」
「検査税に抗議した冒険者」
「ラウルス家と争った商人」
「元老院へ訴えようとした者の依頼記録も」
レオンの顔が険しくなる。
「何件だ」
「十二件です」
広場の冒険者達から怒号が上がった。
警備隊が槍を構える。
クジュラは制止しない。
怒らせるために、事実を人前で出したのだと理解していた。
---
エドガーは次第に表情を失っていく。
それでも、まだ逃げられると思っていた。
貴族が直接、薬を調合するわけではない。
地図を描くわけでもない。
実行した使用人や役人へ罪を押しつければよい。
「仮に帳簿が本物でも」
エドガーは言った。
「倉庫の管理は使用人へ任せている」
「私が全てを知るはずがない」
「水へ薬を入れた者を罰すればよい」
「地図を選んだ役人にも責任がある」
「金を受け取った冒険者も、自らの意思で引き受けたのだろう」
レオンの拳が固く握られる。
かつてと同じだった。
下の者を切る。
知らなかったと言う。
死んだ冒険者には、自己責任の言葉を被せる。
黒蘭が尋ねる。
「地下で、何を命じた」
エドガーの声が止まる。
「何の話だ」
「救助隊を殺せと命じた」
「セルジュも船から落とせと」
「新人三人も、使えなければ迷宮で死なせろと言った」
「証拠はあるのか!」
「私が聞きました」
牡丹が答える。
エドガーが嘲る。
「仲間の証言だ!」
「異国人同士で口を合わせれば何とでも言える!」
「そうですね」
牡丹は素直に認めた。
そして、警備隊の後ろへ視線を向ける。
「ですから、もう一人います」
倉庫地下で薬を詰めていた男が連れ出された。
「エドガー様から命じられました」
男は俯く。
「救助隊を始末しろと」
「セルジュも」
「新人三人も監視し、必要なら迷宮で死なせろと」
エドガーが男へ詰め寄る。
「貴様!」
「家族を守ると言ったではありませんか!」
「黙れ!」
エドガーが拳を振り上げる。
薔薇は武器を預けている。
それでも一歩前へ出ようとした。
クジュラが先に動いた。
鞘に入った刀で、エドガーの腕を受け止める。
「証人へ触るな」
「これはラウルス家の使用人だ!」
「今は警備隊の保護下にいる証人だ」
エドガーがクジュラを睨む。
「貴様、誰に仕えている!」
クジュラの目が細くなる。
「少なくとも、お前ではない」
---
広場の空気が変わった。
エドガーは追い詰められていた。
貴族としての習慣だけが、彼を支えている。
自分は捕まらない。
家が守る。
金を払えばよい。
役人を切ればよい。
それでも駄目なら、証人を消せばよい。
エドガーは突然、隣にいた私兵の剣を奪った。
「動くな!」
クジュラが叫ぶ。
エドガーは聞かない。
黒蘭へ向かったのではない。
証言した倉庫の男へ走った。
口を封じるため。
警備隊の盾兵が間に合わない。
クジュラも、エドガーとの距離が僅かに遠い。
黒蘭の二刀は、警備兵の手にあった。
だが、血の付いた方の刀だけは、証拠確認のため机の上に置かれていた。
黒蘭が刀を取る。
鞘走りの音が一度。
エドガーの剣が宙を舞った。
遅れて、右手が石畳へ落ちた。
印章指輪を付けたまま。
広場から音が消えた。
エドガーは切断された腕を見る。
一瞬、何が起きたのか理解できない。
血が噴き出す。
「手が!」
絶叫が響いた。
薔薇がエドガーを蹴り倒し、傷口より上を押さえる。
椿が帯を外し、腕を縛った。
牡丹が止血薬を取り出す。
殺すつもりはない。
クジュラは一歩遅れて黒蘭の前へ立った。
刀を抜いている。
刃先は黒蘭へ向いていた。
「刀を置け」
黒蘭はクジュラを見る。
「証人を守った」
「分かっている」
「なら」
「お前は警備隊ではない!」
クジュラの声が広場へ響く。
「ここには俺がいた」
「兵もいた」
「それでもお前は、自分の判断で海都の貴族の手を斬った」
黒蘭は血の付いた刀を見る。
言い訳はしない。
「間に合わなかった」
クジュラの眉が動く。
「何?」
「お前達では、証人が斬られていた」
クジュラの表情が険しくなる。
事実だった。
だが、それを公衆の前で認めるわけにはいかない。
「刀を置け」
黒蘭は従った。
刀が石畳へ置かれる。
警備兵が黒蘭の両脇へ立つ。
冒険者達がざわめく。
薔薇が前へ出ようとする。
椿が止めた。
「黒蘭様は逃げません」
クジュラが言う。
「黒華五刀全員を、ギルド内へ移せ」
「エドガー・ラウルスも拘束」
「私兵、港湾役人、セルジュ、倉庫関係者も全員だ」
エドガーが痛みに呻きながら叫ぶ。
「私は貴族だぞ!」
クジュラは振り返らない。
「だから、まだ生きている」
---
冒険者ギルド二階。
黒華五刀は会議室へ入れられた。
扉の外には警備兵。
窓の下にも兵がいる。
形式上は拘束だった。
薔薇は椅子へ座り、腕を組む。
「斬って逃げた方が早かったな」
椿が答える。
「海都と戦争をするつもりですか」
「そこまでは言ってない」
「百合、窓を調べないでください」
百合はすでに窓枠へ指を掛けていた。
「逃げ道を確認しているだけです」
「逃げません」
「確認するだけです」
牡丹は帳簿の写しを作っている。
原本は警備隊へ渡した。
「黒蘭様」
牡丹が言う。
「右手を落とす必要はありましたか」
「あった」
「殺さず、二度と印を押せない傷」
黒蘭は答えた。
「それ以上でも以下でもない」
椿が黒蘭を見る。
「ですが、海都の法では」
「罪になる」
黒蘭も理解している。
貴族への傷害。
無許可の倉庫侵入。
私兵の殺害。
正当な理由があったとしても、黒華の法ではなく海都の法が裁く。
薔薇が尋ねる。
「処刑されるか?」
「可能性はある」
椿の顔が僅かに強張る。
黒蘭は淡々と続けた。
「俺達全員を処刑すれば、冒険者が黙らない」
「無罪にすれば、貴族が黙らない」
「だから、どちらにもしない」
牡丹が顔を上げる。
「うやむやにする、と?」
「ああ」
黒蘭は扉を見る。
「海都が国なら、それしかない」
---
しばらくして、クジュラとレオンが入ってきた。
二人とも不機嫌だった。
「お前は、ああなると分かっていたのか」
クジュラが黒蘭へ問う。
「何が」
「事件が正式な裁判にならないことだ」
「ある程度は」
クジュラが机を叩く。
「だから斬ったのか」
「違う」
「証人が死ぬから斬った」
黒蘭は目を逸らさない。
「その後に海都がどう処理するかは、海都の問題だ」
クジュラの手が刀の柄へ乗る。
レオンが間に入る。
「今ここでやるな」
「元はと言えば、お前がこいつらを止めなかったからだ」
クジュラがレオンを見る。
レオンは一枚の封書を机へ置いた。
黒華五刀が昨夜、ラウルス家の倉庫へ向かう前に、レオンが警備隊へ送った報告書だった。
「俺は知らせた」
「倉庫に証拠があり、今夜処分される可能性があると」
クジュラが封書を睨む。
「届いたのは、黒華五刀が侵入した後だ」
「港の伝令が遅らせた」
レオンは答えた。
「その伝令も拘束済みだ」
貴族の手は、警備隊への連絡にまで伸びていた。
「つまりどうなる」
薔薇が尋ねる。
クジュラは吐き捨てるように答えた。
「警備隊が動く前に、黒華五刀が証拠を押さえた」
「黒華五刀が動かなければ、帳簿も薬も燃やされ、証人も死んでいた」
「だが、無許可侵入と殺人が消えるわけではない」
椿が問う。
「正式に裁判を行えば?」
「貴族院は黒蘭の処刑か、最低でも海都追放を求める」
「ラウルス家は?」
「薬品事件と殺人教唆で裁かれる」
「ただし、家全体ではなくエドガー個人へ責任を集めるだろう」
レオンが鼻で笑う。
「いつも通りだ」
クジュラは続ける。
「さらに裁判で帳簿を全て公開すれば、他の貴族家、元老院の役人、ギルドの関係者まで出る」
「海都の行政が一時止まる」
「警備隊も無傷では済まない」
黒蘭が言う。
「だから閉じる」
「ああ」
クジュラは不本意そうに認めた。
「姫の命令だ」
---
姫の命令は、表向きには存在しなかった。
元老院から警備隊へ渡された、署名のない処理方針。
事件の正式名称は、
**港湾第七倉庫・禁制薬品密輸事件**
とされた。
ラウルス家の倉庫は、禁制薬品を保管していた疑いで警備隊が捜索した。
その捜索には、情報提供者として黒華五刀と冒険者ギルドが同行した。
実際には順序が逆である。
だが、記録上はそうなる。
倉庫で死亡した私兵は、証人殺害を図り、捜索協力者へ襲いかかったため死亡。
百合の名は、公式記録には残さない。
エドガーの右手は、公衆の前で証人を殺害しようとした際、制止を振り切ったことで失われた。
誰が斬ったかは記録しない。
黒蘭の名も残さない。
黒華五刀は厳重注意。
七日間、ギルドの公的依頼受注を停止。
押収品は全て警備隊へ提出。
事件の詳細を自ら広めない。
それが処罰だった。
処刑でもない。
無罪でもない。
記録の上では、黒華五刀は事件の中心から消される。
「随分と都合がいいな」
薔薇が言う。
クジュラは苦い顔をする。
「国とはそういうものだ」
「真実だけで動けば、国は一日で壊れる」
黒蘭が問う。
「エドガーは」
「右手を失ったまま拘束」
「ラウルス家の継承権を剥奪」
「表向きは倉庫管理の不備と、証人への暴行」
「殺人教唆は?」
「非公開の審問へ回す」
「死刑にはならない」
レオンが言った。
「貴族だからか」
クジュラは答えない。
それが答えだった。
百合が静かに言う。
「今から首を落とせば解決します」
「解決しない!」
クジュラが怒鳴る。
百合は僅かに首を傾ける。
「少なくとも、同じ命令は出せなくなります」
「お前は黙っていろ」
「承知しました」
---
黒蘭は処理方針の紙を見る。
事実は歪められている。
自分達の行動も消される。
ラウルス家の罪も、全ては明かされない。
「受けるのか」
レオンが尋ねる。
黒蘭は紙を机へ戻した。
「七日でいいのか」
クジュラが眉を寄せる。
「軽すぎると思うか」
「迷宮へ行けないだけだろう」
「公的依頼が受けられないだけだ」
「私的な訓練と、商会での売買までは止めない」
黒蘭は頷いた。
「なら受ける」
クジュラが呆れたように息を吐く。
「お前は、自分が貴族の手を落としたことを少しは重く考えろ」
黒蘭は答えた。
「重く考えたから、首ではなく手にした」
部屋が静まる。
クジュラはしばらく黒蘭を見る。
「次に同じことをすれば、俺がお前を斬るかもしれん」
「その時は、お前が正しいと思う方を選べ」
挑発ではない。
黒蘭は、本気でそう言っている。
クジュラは何も返さなかった。
---
昼過ぎ。
黒華五刀はギルドの裏口から解放された。
表では、公式発表が行われている。
港湾倉庫から禁制薬品が発見された。
ラウルス家の長男が、証人への暴行と倉庫管理責任を問われ拘束された。
複数の港湾役人とギルド職員も取り調べを受ける。
黒華五刀の名は、ほとんど出なかった。
だが、広場にいた者達は見ている。
誰がエドガーの手を斬ったか。
誰が帳簿を持ち出したか。
誰が証人を連れてきたか。
公式記録から消しても、人の記憶からは消えない。
むしろ、記録されなかったことで噂は膨らんだ。
黒蘭は貴族の手を落とした。
警備隊に拘束された。
それでも、その日のうちに戻ってきた。
姫が庇った。
ギルドが庇った。
クジュラですら、処刑できなかった。
真実と誤解が混ざり、海都を巡り始めた。
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同日夜。
貴族街の一角。
海都の有力家の当主達が、密かに集まっていた。
灯りの少ない部屋。
窓は閉じられ、使用人も遠ざけられている。
「ラウルス家の失態だ」
一人の老貴族が言う。
「異国人一組も処理できず、自ら証拠を残した」
別の男が首を振る。
「問題はそこではない」
「黒蘭は、公衆の前で貴族の手を落とした」
「そして、生きてギルドから出てきた」
「姫が庇ったというのか」
「少なくとも、処刑を許さなかった」
「冒険者ギルドも黒蘭を支持している」
「民衆もだ」
若い貴族が机を叩く。
「ならば早く追放すべきだ!」
「どうやって?」
老貴族が尋ねる。
「警備隊を動かせば、クジュラは証拠を求める」
「暗殺者を送れば、ラウルス家と同じ末路だ」
「迷宮で死なせる?」
「奴らに迷宮で勝てる者がいるのか」
誰も答えない。
別の貴族が低く言った。
「黒蘭の危険は、強いことではない」
「身分を恐れないことだ」
「金を求めない」
「地位も求めない」
「脅しても退かず、取り込もうとしても従わない」
「なら、何を望んでいる」
「迷宮の奥だ」
「それだけか?」
「それだけだから危険なのだ」
目的が単純な者は、買収できない。
海都の権力争いに興味がない者は、利益を与えても縛れない。
そして黒蘭の周囲には、四人の黒号持ちがいる。
冒険者達からの信頼も増している。
貴族の一人が窓の外を見る。
「今日、広場の冒険者達は、誰を見ていた」
誰も答えない。
警備隊長のクジュラではない。
ギルド長のレオンでもない。
元老院の役人でもない。
貴族でもない。
黒蘭だった。
「奴は冒険者ではない」
老貴族が呟く。
「軍を持たぬ将軍だ」
別の者が続ける。
「今は、五人しかいない」
「だが冒険者達が従えば?」
「ギルドが兵站を担えば?」
「姫が正当性を与えれば?」
部屋が静まった。
誰かが、最も口にしたくない言葉を言う。
「王になる」
すぐに別の男が否定した。
「異国人だぞ」
「だから何だ」
広場で黒蘭が言った言葉を、全員が思い出していた。
肩書きで敵が死ぬなら、俺の国は滅んでいない。
彼は貴族を否定したのではない。
肩書きが刃を止めるという、彼らの常識を否定した。
「監視を増やせ」
老貴族が決める。
「これ以上、冒険者達の支持を集めさせるな」
「深層の発見も、黒華五刀だけの功績にしてはならない」
「だが、直接手を出すな」
若い貴族が不満そうに問う。
「では、どうする」
老貴族は答えた。
「黒蘭より強い者を用意する」
「海都の外からでもよい」
「奴が無敵ではないと示す」
「それまでは、刺激するな」
貴族達の会合は、夜遅くまで続いた。
ラウルス家の事件は収まった。
だが、黒蘭への警戒は、事件の前より遥かに強くなっていた。
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宿へ戻った黒華五刀は、三十三階以降の地図を広げていた。
七日間、公的依頼は受けられない。
だからといって、することがないわけではない。
椿と黒蘭の訓練。
装備の調整。
中央潮路の再検討。
オランピアの揺らぎ。
四十階へ至るための準備。
薔薇が椅子へ深く座る。
「貴族の連中、これで諦めると思うか?」
「思わない」
黒蘭は答えた。
百合が言う。
「次は、より上手く隠すでしょう」
牡丹は帳簿の写しを閉じる。
「あるいは、自分達の手を使わなくなります」
椿が黒蘭を見る。
「海都の外から人を呼ぶ可能性もありますね」
「来るなら来ればいい」
黒蘭は三十三階の地図へ指を置いた。
「相手の都合で、こちらの目的は変えない」
海都の法は、黒蘭の刃を裁ききれなかった。
黒蘭の刃もまた、海都の腐敗を全て断ったわけではない。
事件は終わっていない。
ただ、表から隠された。
それでも一つだけ、以前とは変わったことがある。
海都の貴族達は、黒華五刀を扱いにくい異国人とは見なくなった。
自分達の権力の外側に立つ、危険な力として見始めた。
そして黒蘭は、その視線を気に留めることなく、迷宮の奥を見ていた。
第十九話 了