亡国の黒将と世界樹の迷宮   作:清海深々

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第十九刀 夜に咲くもの

 

海都の夜は、完全には眠らない。

 

港では夜明け前に出る船の準備が始まり、商会の倉庫では翌日の荷が積み替えられる。

 

酒場からは酔客の声が漏れ、冒険者ギルドには帰還予定を過ぎた者を待つ灯りが残る。

 

人が動く場所には、必ず影が生まれる。

 

港湾区の外れ。

 

ラウルス家が所有する第七倉庫にも、深夜になってなお灯りが残っていた。

 

正面の扉には、家紋を付けた衛兵が二人。

 

裏手は運河。

 

左右の建物は同じ家が所有し、屋根の上にも見張りがいる。

 

海都の商人ならば、厳重な倉庫だと思うだろう。

 

百合には、逃げ道を四つ用意した建物に見えた。

 

---

 

百合は、倉庫から三軒離れた屋根に伏せていた。

 

黒い装束が夜へ溶けている。

 

瞳は見えないほど細い。

 

それでも、倉庫の窓の動き、見張りの呼吸、運河を流れる舟の位置まで捉えていた。

 

正面に二人。

 

屋根に三人。

 

運河側に二人。

 

倉庫の中には、少なくとも十二人。

 

そのうち四人は足音が重い。

 

戦闘員。

 

二人は書記。

 

一人は、昨夜まで冒険者ギルドで依頼記録を扱っていた男。

 

名はセルジュ。

 

百合が冒険者ギルドへ刺した、四本目の針だった。

 

百合の隣に牡丹が現れる。

 

屋根板は鳴らない。

 

「十五人です」

 

牡丹が告げた。

 

「地下に三人」

 

百合が顔を向ける。

 

「地下室が?」

 

「運河の水位より低い空間があります」

 

牡丹は倉庫の壁を指した。

 

石積みの一部だけ、苔の生え方が違う。

 

排水口から流れる水には、微かな薬品の匂いが混じっていた。

 

「水へ入れた薬を作った場所でしょう」

 

「証拠は」

 

「まだです」

 

百合の指先に針が現れる。

 

「では、入りましょう」

 

「待ってください」

 

「なぜです」

 

「黒蘭様の合図がまだです」

 

百合は不満を口にしなかった。

 

だが、針をしまうこともしなかった。

 

---

 

倉庫の正面から離れた路地。

 

黒蘭は壁へ背を預けていた。

 

隣には椿。

 

薔薇は少し離れ、荷車に腰を下ろしている。

 

三人とも黒い外套をまとい、武器を隠していた。

 

ガルドとダリオは同行していない。

 

今夜の目的は、罠を証明することではない。

 

すでに証拠はある。

 

薬入りの水。

 

改竄された地図。

 

待ち伏せした男達。

 

異常に早く到着した救助隊。

 

目的は、その上にいる者を引きずり出すことだった。

 

「百合と牡丹だけで十分じゃないか?」

 

薔薇が小声で尋ねる。

 

「入るだけならな」

 

黒蘭が答えた。

 

「出た後がある」

 

「殺すのか」

 

「必要なら」

 

椿は倉庫の明かりを見ている。

 

「見せる相手を選ぶ、とおっしゃいましたね」

 

「ああ」

 

「ラウルス家の者を?」

 

「まだ決めていない」

 

椿が黒蘭を見る。

 

「中にいる者を見てから?」

 

「行動を見てからだ」

 

黒蘭が罰するのは、家名ではない。

 

血筋でもない。

 

行ったことだった。

 

命令した者。

 

実行した者。

 

知りながら利用した者。

 

それぞれを同じには扱わない。

 

だが、誰も責任を負わないまま終わらせるつもりもなかった。

 

「今までの海都では、下の者だけが切られた」

 

椿が言う。

 

「今回は逆にする」

 

黒蘭が答える。

 

「下に押しつけた者を残さない」

 

薔薇が籠手を締める。

 

「分かりやすくていいな」

 

「薔薇」

 

椿がたしなめる。

 

「楽しんではいけません」

 

「楽しんでない」

 

薔薇は立ち上がった。

 

「腹が立ってるだけだ」

 

新人達を利用した。

 

地図を偽った。

 

水へ薬を入れた。

 

それを、冒険者の失敗として記録しようとした。

 

薔薇にとっては、刃を向けられるより腹立たしい行為だった。

 

---

 

倉庫の裏口が開いた。

 

冒険者ギルドの内通者、セルジュが姿を現す。

 

周囲を何度も確認してから中へ入る。

 

百合が屋根の上で指を一本立てた。

 

牡丹が小さな鏡を傾ける。

 

月明かりが路地へ一度だけ届いた。

 

合図。

 

黒蘭が壁から離れた。

 

「始める」

 

---

 

牡丹は運河へ降りた。

 

水面へ波紋を作らず、石壁に片手を添える。

 

排水口の鉄格子。

 

錆びているように見える。

 

実際には、何度も開閉されている。

 

牡丹は袖から細い工具を取り出した。

 

鍵は複雑ではない。

 

外から開けられることを想定していないだけだった。

 

小さな音。

 

格子が外れる。

 

牡丹は暗い排水路へ身体を滑らせた。

 

百合は屋根を進む。

 

見張りの一人が欠伸をした。

 

もう一人は港の方を見ている。

 

三人目だけが、風の異変に気付いた。

 

振り返る。

 

百合はすでに背後にいた。

 

針が首筋へ触れる。

 

「声を出さないでください」

 

男の肩が跳ねる。

 

「誰だ」

 

「質問する側を間違えています」

 

男が腰の警笛へ手を伸ばす。

 

百合の針が皮膚へ沈む。

 

男の指が止まる。

 

「次は息が止まります」

 

男は動かなくなった。

 

百合は警笛を取り上げ、男の身体を屋根の陰へ寝かせる。

 

殺してはいない。

 

まだ。

 

二人目の見張りは、異変に気付かない。

 

百合はその背後を通り過ぎた。

 

今は倒す必要がなかった。

 

---

 

地下室では、三人の男が薬瓶を木箱へ詰めていた。

 

「全部、今夜のうちに船へ移せ」

 

「書類は?」

 

「焼く」

 

「冒険者どもが騒いでいるらしいぞ」

 

「ラウルス様が何とかする」

 

牡丹は天井近くの梁から会話を聞いていた。

 

黒華の忍びが使う潜入は、姿を消す術ではない。

 

人が見ない場所へ、見ない瞬間に移る技術である。

 

男達は目の前の仕事に追われ、頭上を見る余裕がない。

 

牡丹は薬瓶を確認する。

 

筋力を落とす薬。

 

眠り薬。

 

致死性の毒。

 

魔物を誘引する香。

 

冒険者の装備へ塗る腐食油。

 

倉庫には、探索事故を作るための道具が揃っていた。

 

偶然ではない。

 

今回だけでもない。

 

牡丹は棚の奥に、革表紙の帳簿を見つけた。

 

鍵が掛かっている。

 

開ける必要はない。

 

帳簿ごと持ち帰ればよい。

 

牡丹が手を伸ばした時、地下室の扉が開いた。

 

豪奢な上着をまとった男が降りてくる。

 

三十歳前後。

 

指にはラウルス家の印章指輪。

 

エドガー・ラウルス。

 

当主の長男。

 

倉庫の名義上の管理者だった。

 

「処分は進んでいるか」

 

「はい、エドガー様」

 

「捕らえられた連中は?」

 

「ギルドの地下です」

 

エドガーの顔が歪む。

 

「馬鹿どもが」

 

「黒華五刀など、少し名が売れただけの異国人だろう」

 

「なぜ一つの仕事もできない」

 

牡丹は梁の上から、無表情に見下ろす。

 

「救助隊の者は、戻っています」

 

「なら始末しろ」

 

男達の手が止まった。

 

「全員ですか」

 

「当然だ」

 

「口を割られれば、ラウルス家まで辿られる」

 

「ギルドの書記もですか」

 

「セルジュは今夜、記録を持ち出す」

 

「終われば同じ船へ乗せろ」

 

「港外で落とせばいい」

 

地下室の空気が冷えた。

 

男達は命令を受け入れている。

 

止めようとはしない。

 

エドガーは続ける。

 

「新人講習に参加した三人も監視しろ」

 

「黒華五刀と近い」

 

「使えるなら使う」

 

「使えなければ、迷宮で死なせろ」

 

牡丹の指が止まった。

 

表情は変わらない。

 

だが、次の瞬間には帳簿へ伸ばしていた手を引いていた。

 

先に、命令を最後まで聞く。

 

誰が対象か。

 

誰が実行するか。

 

どこまで繋がっているか。

 

それを記憶する。

 

怒りで動けば、必要な情報を失う。

 

それを最もよく知っているのが牡丹だった。

 

---

 

一階。

 

セルジュは机の上へ書類を広げていた。

 

港湾管理局の印。

 

冒険者ギルドの依頼記録。

 

救助隊の報告書。

 

黒華五刀に関する記録だけが抜き出されている。

 

エドガーの側近らしい男が、書類を一枚ずつ火鉢へ入れる。

 

「全部か」

 

セルジュが尋ねる。

 

「全部だ」

 

「私の報酬は」

 

「船へ乗ってから渡す」

 

「話が違う」

 

「お前はギルドを裏切った」

 

側近が笑う。

 

「そんな男を、ラウルス家が信用するとでも?」

 

セルジュの顔から血の気が引く。

 

自分が切り捨てられることに、ようやく気付いた。

 

逃げようと後ろへ下がる。

 

倉庫の扉は閉ざされている。

 

側近が剣を抜いた。

 

「騒ぐな」

 

「すぐ終わる」

 

その瞬間、天井から一本の針が落ちた。

 

側近の手の甲へ刺さる。

 

剣が床へ落ちる。

 

「誰だ!」

 

百合が棚の上に立っていた。

 

糸のように細い目。

 

黒髪に飾られた百合の花。

 

片手には短刀。

 

もう片方には、複数の針。

 

「黒百合……」

 

側近が名を呼ぶ。

 

外部の者が恐怖とともに口にする、黒号。

 

百合は棚から降りた。

 

「その方は、まだ必要です」

 

側近が左手で短剣を抜く。

 

百合は動かない。

 

男が踏み込んだ。

 

百合の姿が視界から消える。

 

次に見えた時、男の喉には短刀が通っていた。

 

一度だけ。

 

声は出なかった。

 

百合が刃を引くと、男は床へ崩れた。

 

セルジュが後ずさる。

 

「殺した……」

 

「はい」

 

百合は答えた。

 

「私の警告を無視しました」

 

「私は、何も」

 

「知っています」

 

百合は短刀の血を布で拭う。

 

「ですから、あなたは生かします」

 

「なぜ」

 

「証言していただくためです」

 

セルジュの脚が震える。

 

百合は一歩近づいた。

 

「逃げれば殺します」

 

「嘘をついても殺します」

 

「正直に話せば?」

 

セルジュが尋ねる。

 

百合は少し考えた。

 

「黒蘭が決めます」

 

それは、助かるという約束ではなかった。

 

だからこそ、セルジュには信じられた。

 

---

 

地下室。

 

牡丹は帳簿を手に取った。

 

同時に、エドガーが顔を上げる。

 

「誰だ」

 

牡丹は梁から降りた。

 

足音はない。

 

灰色の瞳。

 

光のない目。

 

牡丹の花飾り。

 

男達の一人が叫ぶ。

 

「黒牡丹!」

 

牡丹は帳簿を袖へ入れた。

 

「お話は全て伺いました」

 

エドガーが後ずさる。

 

「どうやって入った」

 

「入口からではありません」

 

「それは見れば分かる!」

 

男達が武器を抜く。

 

牡丹は両手で印を結んだ。

 

「帳簿と、薬をいただきます」

 

「捕らえろ!」

 

三人が同時に動く。

 

牡丹はその場から逃げない。

 

指先に細い紫電が集まる。

 

床に置かれた金属製の薬箱。

 

壁際の水桶。

 

湿った石床。

 

全てが一本の術式へ繋がる。

 

牡丹が印を閉じた。

 

紫電が走る。

 

男達の身体が跳ねた。

 

一人は武器を落とす。

 

一人は膝から崩れる。

 

最後の一人だけが、木箱の上へ乗って雷を避けた。

 

牡丹へ短剣を投げる。

 

牡丹は顔を僅かに傾ける。

 

短剣が頬の横を通り過ぎた。

 

男は次の短剣を抜く。

 

牡丹の手から、細い鎖が飛んだ。

 

短剣を持つ手首へ絡む。

 

一度引く。

 

男の身体が木箱から落ちた。

 

牡丹は倒れた男の胸へ足を置く。

 

印を結び直す。

 

紫電が鎖を伝う。

 

男の身体が痙攣し、動かなくなった。

 

エドガーは階段へ走る。

 

牡丹は追わない。

 

「逃げました」

 

耳元の小さな伝声具へ告げる。

 

黒華で使用していた、糸と金属片で振動を伝える簡易道具。

 

屋根にいる百合へ繋がっている。

 

返事は短かった。

 

「予定通りです」

 

---

 

エドガーは一階へ駆け上がった。

 

そこには百合と、倒れた側近。

 

震えるセルジュ。

 

「何をしている!」

 

エドガーは剣を抜く。

 

百合はセルジュの襟を掴み、横へ避けた。

 

エドガーは正面扉へ向かう。

 

鍵を外す。

 

扉を開く。

 

外には薔薇が立っていた。

 

大きな籠手。

 

逆の手には抜き身の刀。

 

「夜逃げか?」

 

エドガーが息を呑む。

 

後ろへ下がる。

 

裏口へ向かう。

 

椿が待っていた。

 

片方の刀は地面へ刺さっている。

 

柄頭から伸びた黒い帯が、夜風になびく。

 

もう一方の刀は逆手。

 

腕を真横へ伸ばし、剣先をエドガーへ向けている。

 

「お戻りください」

 

エドガーは左右を見る。

 

屋根。

 

運河。

 

正面。

 

裏口。

 

逃げ道は全て閉じている。

 

「貴様ら、誰に手を出しているか分かっているのか!」

 

椿が静かに答える。

 

「あなたは、誰に手を出したか分かっていなかったようですね」

 

エドガーは裏口から出ることを諦め、再び倉庫へ入った。

 

中央には黒蘭が立っていた。

 

いつ入ったのか分からない。

 

二刀は鞘に収まっている。

 

「エドガー・ラウルス」

 

黒蘭が名を呼ぶ。

 

「明日の朝、冒険者ギルドへ来い」

 

エドガーは怒鳴った。

 

「命令するな!」

 

「命令ではない」

 

黒蘭は答えた。

 

「選べ」

 

「自分の足で来るか」

 

「百合に運ばれるか」

 

百合が短刀を持ったまま、エドガーの背後に立つ。

 

エドガーは振り返れない。

 

「今ここで捕らえないのか」

 

椿が黒蘭を見る。

 

「ああ」

 

「なぜ」

 

「夜の倉庫で消えれば、貴族は何とでも言える」

 

黒蘭はエドガーを見た。

 

「海都中に、自分で何をしたか話させる」

 

エドガーの顔が歪む。

 

「誰が話すものか」

 

黒蘭は牡丹を見る。

 

牡丹は革表紙の帳簿を掲げた。

 

次に、百合がセルジュを前へ出す。

 

地下では、薬を詰めていた男達が痺れたまま倒れている。

 

「話さなくても構わない」

 

黒蘭が言う。

 

「証拠と証人はある」

 

「お前の口は、確認に使うだけだ」

 

エドガーは何も答えられなかった。

 

黒蘭は倉庫の外へ向かう。

 

「夜明けまで見張れ」

 

百合が尋ねる。

 

「逃げれば」

 

黒蘭は足を止めない。

 

「片脚を落とせ」

 

エドガーの顔から、完全に血の気が消えた。

 

-----

 

翌朝。

 

冒険者ギルドの前には、人が集まっていた。

 

黒華五刀が、ラウルス家の倉庫へ押し入った。

 

地下から薬と帳簿が見つかった。

 

冒険者ギルドの書記が、貴族へ情報を流していた。

 

倉庫では一人が殺された。

 

噂は夜明けより早く海都を巡っていた。

 

集まったのは冒険者だけではない。

 

商人。

 

港湾労働者。

 

役人。

 

貴族家の使者。

 

そして、海都警備隊。

 

ギルド前の広場を、青と白の装束を着た兵達が囲んでいる。

 

槍兵。

 

盾兵。

 

弓兵。

 

港の警備を担う者だけではなく、元老院直属の兵まで混じっていた。

 

その中央に、クジュラが立っていた。

 

腰には刀。

 

いつもの皮肉めいた表情はない。

 

「黒華五刀」

 

クジュラが呼ぶ。

 

「全員、武器から手を離せ」

 

広場が静まる。

 

薔薇の赤い瞳が、周囲の兵を見回す。

 

百合の指先には、まだ針がない。

 

牡丹は帳簿を抱えている。

 

椿は黒蘭の隣に直立していた。

 

黒蘭が尋ねる。

 

「俺達を捕らえるのか」

 

「必要ならな」

 

クジュラは答えた。

 

「昨夜、ラウルス家所有の倉庫へ無許可で侵入」

 

「私兵一名を殺害」

 

「複数名を負傷させ、財物を持ち出した」

 

「事実か」

 

百合が平然と答える。

 

「一名を斬ったのは私です」

 

警備隊の槍が僅かに上がる。

 

クジュラは百合を見る。

 

「理由は」

 

「証人を殺そうとしました」

 

「警告後も武器を抜きました」

 

「だから斬ったと?」

 

「はい」

 

百合に罪悪感は見えない。

 

クジュラは次に牡丹を見る。

 

「帳簿と薬品を持ち出したのは」

 

「私です」

 

「所有者の許可は」

 

「ありません」

 

「随分と素直だな」

 

「隠す必要がありませんので」

 

クジュラの口元が僅かに歪む。

 

笑ったのではない。

 

頭痛を堪えたような表情だった。

 

「黒蘭」

 

「昨夜の行動を命じたのはお前か」

 

「ああ」

 

「貴族家の倉庫へ侵入すれば、どうなるか理解していたか」

 

「理解していた」

 

「私兵が死ぬ可能性も?」

 

「ああ」

 

「ならば、お前達は現在、薬物事件の告発者であると同時に、住居侵入、強盗、傷害、殺人の嫌疑を受ける者だ」

 

広場がざわめいた。

 

冒険者の間から、不満の声が漏れる。

 

「黒華五刀は罠を暴いたんだぞ」

 

「貴族が先に殺そうとした!」

 

クジュラが振り返る。

 

「黙れ!」

 

その一声で、広場が静まる。

 

「貴族が罪を犯したことと、勝手に屋敷へ押し入り、人を斬ってよいかは別の話だ」

 

「法が身分で曲がることを責めながら、自分達だけ法の外へ立つことを許せば同じことになる」

 

黒蘭は反論しなかった。

 

クジュラの言葉は正しい。

 

少なくとも、海都の法に照らせば。

 

「武器を預けろ」

 

クジュラが言った。

 

「事情が明らかになるまで、警備隊の監視下へ置く」

 

薔薇が黒蘭を見る。

 

戦う意思を確認したのではない。

 

従うかどうかを見た。

 

黒蘭は二刀を鞘ごと外した。

 

クジュラへ差し出す。

 

「逃げる理由はない」

 

椿も二刀を外す。

 

薔薇は刀を渡し、大きな籠手を外した。

 

牡丹は短刀と忍具を机へ並べる。

 

百合だけは動かない。

 

クジュラが百合を見る。

 

「お前もだ」

 

「全て出せば、一日かかります」

 

「出せるものを出せ」

 

百合は袖、髪、帯、靴、襟元から、次々と針や小刃を取り出した。

 

石畳の上に金属音が続く。

 

警備兵の顔が引きつる。

 

薔薇が言った。

 

「まだあるだろ」

 

「あります」

 

「全部出せと言われたぞ」

 

「出せるものを、と言われました」

 

クジュラが額を押さえた。

 

「もういい」

 

---

 

その時、貴族街の方から馬車が入ってきた。

 

ラウルス家の家紋。

 

六人の私兵。

 

港湾管理局の役人。

 

家令。

 

そして、エドガー・ラウルス。

 

右手には、家の印章指輪。

 

昨夜、倉庫で追い詰められた時とは違う。

 

正式な貴族衣装をまとい、有力貴族の長男として振る舞っている。

 

エドガーは馬車を降りると、黒華五刀が武器を預けている姿を見た。

 

僅かに笑う。

 

「クジュラ殿」

 

「迅速な対応、感謝する」

 

クジュラの目が冷える。

 

「まだ、お前の味方になった覚えはない」

 

「しかし、犯罪者を拘束したのでしょう」

 

エドガーは広場へ声を張った。

 

「昨夜、異国の冒険者がラウルス家の倉庫を襲撃した!」

 

「衛兵を殺し、保管品を盗み、使用人を拉致した!」

 

「これは貴族家への明白な反逆である!」

 

一部の役人が頷く。

 

貴族の使者達は、黒蘭達ではなくクジュラを見ている。

 

警備隊がどちらへ動くか。

 

それを確かめようとしていた。

 

クジュラはエドガーへ向き直る。

 

「なら、お前も武器を預けろ」

 

エドガーの顔から笑みが消える。

 

「何?」

 

「お前には、冒険者への薬物使用、偽造地図の作成、計画的な襲撃、殺人教唆の疑いがある」

 

「貴族へ向かって何を!」

 

「聞こえなかったか」

 

クジュラの手が刀の柄へ乗る。

 

「剣を預けろ、エドガー・ラウルス」

 

私兵達が動きかける。

 

広場を囲む警備隊の槍が、一斉に彼らへ向けられた。

 

エドガーは周囲を見る。

 

ここで拒めば、黒華五刀と同じ場所で拘束される。

 

それだけは避けたい。

 

剣を家令へ渡し、前へ出た。

 

「茶番だ」

 

「異国人の言葉を信じ、海都の貴族を疑うのか」

 

牡丹が帳簿を持って前へ出る。

 

「言葉だけではありません」

 

---

 

牡丹は革表紙の帳簿を開いた。

 

六年前から続く薬品の出入り。

 

偽造地図。

 

魔物の誘引香。

 

装備を傷める腐食油。

 

冒険者の判断力を鈍らせる薬。

 

各頁には、倉庫印と港湾管理局の検査印が残っている。

 

「偽物だ!」

 

エドガーが叫ぶ。

 

牡丹は平坦に返した。

 

「では、専門家に確認していただきましょう」

 

ネイピア商会から来た紙商人。

 

ギルドの薬師。

 

大地の記録者のガルド。

 

三者が帳簿と薬品を確認する。

 

紙の古さ。

 

墨の乾き。

 

印章の摩耗。

 

薬品の成分。

 

短時間で断定できる範囲だけでも、昨夜作られた偽物ではないことは明らかだった。

 

ガルドは改竄された地図を掲げる。

 

「更新年月だけが削られている」

 

「崩落した橋へ誘導し、隠し通路へ入らせる地図だ」

 

ダリオも証言した。

 

「鐘を鳴らして十五分で救助隊が現れた」

 

「最初から近くで待っていた」

 

百合が、内通者セルジュを前へ出す。

 

「依頼記録を渡しました」

 

セルジュは震えながら認めた。

 

「黒華五刀だけではありません」

 

「検査税に抗議した冒険者」

 

「ラウルス家と争った商人」

 

「元老院へ訴えようとした者の依頼記録も」

 

レオンの顔が険しくなる。

 

「何件だ」

 

「十二件です」

 

広場の冒険者達から怒号が上がった。

 

警備隊が槍を構える。

 

クジュラは制止しない。

 

怒らせるために、事実を人前で出したのだと理解していた。

 

---

 

エドガーは次第に表情を失っていく。

 

それでも、まだ逃げられると思っていた。

 

貴族が直接、薬を調合するわけではない。

 

地図を描くわけでもない。

 

実行した使用人や役人へ罪を押しつければよい。

 

「仮に帳簿が本物でも」

 

エドガーは言った。

 

「倉庫の管理は使用人へ任せている」

 

「私が全てを知るはずがない」

 

「水へ薬を入れた者を罰すればよい」

 

「地図を選んだ役人にも責任がある」

 

「金を受け取った冒険者も、自らの意思で引き受けたのだろう」

 

レオンの拳が固く握られる。

 

かつてと同じだった。

 

下の者を切る。

 

知らなかったと言う。

 

死んだ冒険者には、自己責任の言葉を被せる。

 

黒蘭が尋ねる。

 

「地下で、何を命じた」

 

エドガーの声が止まる。

 

「何の話だ」

 

「救助隊を殺せと命じた」

 

「セルジュも船から落とせと」

 

「新人三人も、使えなければ迷宮で死なせろと言った」

 

「証拠はあるのか!」

 

「私が聞きました」

 

牡丹が答える。

 

エドガーが嘲る。

 

「仲間の証言だ!」

 

「異国人同士で口を合わせれば何とでも言える!」

 

「そうですね」

 

牡丹は素直に認めた。

 

そして、警備隊の後ろへ視線を向ける。

 

「ですから、もう一人います」

 

倉庫地下で薬を詰めていた男が連れ出された。

 

「エドガー様から命じられました」

 

男は俯く。

 

「救助隊を始末しろと」

 

「セルジュも」

 

「新人三人も監視し、必要なら迷宮で死なせろと」

 

エドガーが男へ詰め寄る。

 

「貴様!」

 

「家族を守ると言ったではありませんか!」

 

「黙れ!」

 

エドガーが拳を振り上げる。

 

薔薇は武器を預けている。

 

それでも一歩前へ出ようとした。

 

クジュラが先に動いた。

 

鞘に入った刀で、エドガーの腕を受け止める。

 

「証人へ触るな」

 

「これはラウルス家の使用人だ!」

 

「今は警備隊の保護下にいる証人だ」

 

エドガーがクジュラを睨む。

 

「貴様、誰に仕えている!」

 

クジュラの目が細くなる。

 

「少なくとも、お前ではない」

 

---

 

広場の空気が変わった。

 

エドガーは追い詰められていた。

 

貴族としての習慣だけが、彼を支えている。

 

自分は捕まらない。

 

家が守る。

 

金を払えばよい。

 

役人を切ればよい。

 

それでも駄目なら、証人を消せばよい。

 

エドガーは突然、隣にいた私兵の剣を奪った。

 

「動くな!」

 

クジュラが叫ぶ。

 

エドガーは聞かない。

 

黒蘭へ向かったのではない。

 

証言した倉庫の男へ走った。

 

口を封じるため。

 

警備隊の盾兵が間に合わない。

 

クジュラも、エドガーとの距離が僅かに遠い。

 

黒蘭の二刀は、警備兵の手にあった。

 

だが、血の付いた方の刀だけは、証拠確認のため机の上に置かれていた。

 

黒蘭が刀を取る。

 

鞘走りの音が一度。

 

エドガーの剣が宙を舞った。

 

遅れて、右手が石畳へ落ちた。

 

印章指輪を付けたまま。

 

広場から音が消えた。

 

エドガーは切断された腕を見る。

 

一瞬、何が起きたのか理解できない。

 

血が噴き出す。

 

「手が!」

 

絶叫が響いた。

 

薔薇がエドガーを蹴り倒し、傷口より上を押さえる。

 

椿が帯を外し、腕を縛った。

 

牡丹が止血薬を取り出す。

 

殺すつもりはない。

 

クジュラは一歩遅れて黒蘭の前へ立った。

 

刀を抜いている。

 

刃先は黒蘭へ向いていた。

 

「刀を置け」

 

黒蘭はクジュラを見る。

 

「証人を守った」

 

「分かっている」

 

「なら」

 

「お前は警備隊ではない!」

 

クジュラの声が広場へ響く。

 

「ここには俺がいた」

 

「兵もいた」

 

「それでもお前は、自分の判断で海都の貴族の手を斬った」

 

黒蘭は血の付いた刀を見る。

 

言い訳はしない。

 

「間に合わなかった」

 

クジュラの眉が動く。

 

「何?」

 

「お前達では、証人が斬られていた」

 

クジュラの表情が険しくなる。

 

事実だった。

 

だが、それを公衆の前で認めるわけにはいかない。

 

「刀を置け」

 

黒蘭は従った。

 

刀が石畳へ置かれる。

 

警備兵が黒蘭の両脇へ立つ。

 

冒険者達がざわめく。

 

薔薇が前へ出ようとする。

 

椿が止めた。

 

「黒蘭様は逃げません」

 

クジュラが言う。

 

「黒華五刀全員を、ギルド内へ移せ」

 

「エドガー・ラウルスも拘束」

 

「私兵、港湾役人、セルジュ、倉庫関係者も全員だ」

 

エドガーが痛みに呻きながら叫ぶ。

 

「私は貴族だぞ!」

 

クジュラは振り返らない。

 

「だから、まだ生きている」

 

---

 

冒険者ギルド二階。

 

黒華五刀は会議室へ入れられた。

 

扉の外には警備兵。

 

窓の下にも兵がいる。

 

形式上は拘束だった。

 

薔薇は椅子へ座り、腕を組む。

 

「斬って逃げた方が早かったな」

 

椿が答える。

 

「海都と戦争をするつもりですか」

 

「そこまでは言ってない」

 

「百合、窓を調べないでください」

 

百合はすでに窓枠へ指を掛けていた。

 

「逃げ道を確認しているだけです」

 

「逃げません」

 

「確認するだけです」

 

牡丹は帳簿の写しを作っている。

 

原本は警備隊へ渡した。

 

「黒蘭様」

 

牡丹が言う。

 

「右手を落とす必要はありましたか」

 

「あった」

 

「殺さず、二度と印を押せない傷」

 

黒蘭は答えた。

 

「それ以上でも以下でもない」

 

椿が黒蘭を見る。

 

「ですが、海都の法では」

 

「罪になる」

 

黒蘭も理解している。

 

貴族への傷害。

 

無許可の倉庫侵入。

 

私兵の殺害。

 

正当な理由があったとしても、黒華の法ではなく海都の法が裁く。

 

薔薇が尋ねる。

 

「処刑されるか?」

 

「可能性はある」

 

椿の顔が僅かに強張る。

 

黒蘭は淡々と続けた。

 

「俺達全員を処刑すれば、冒険者が黙らない」

 

「無罪にすれば、貴族が黙らない」

 

「だから、どちらにもしない」

 

牡丹が顔を上げる。

 

「うやむやにする、と?」

 

「ああ」

 

黒蘭は扉を見る。

 

「海都が国なら、それしかない」

 

---

 

しばらくして、クジュラとレオンが入ってきた。

 

二人とも不機嫌だった。

 

「お前は、ああなると分かっていたのか」

 

クジュラが黒蘭へ問う。

 

「何が」

 

「事件が正式な裁判にならないことだ」

 

「ある程度は」

 

クジュラが机を叩く。

 

「だから斬ったのか」

 

「違う」

 

「証人が死ぬから斬った」

 

黒蘭は目を逸らさない。

 

「その後に海都がどう処理するかは、海都の問題だ」

 

クジュラの手が刀の柄へ乗る。

 

レオンが間に入る。

 

「今ここでやるな」

 

「元はと言えば、お前がこいつらを止めなかったからだ」

 

クジュラがレオンを見る。

 

レオンは一枚の封書を机へ置いた。

 

黒華五刀が昨夜、ラウルス家の倉庫へ向かう前に、レオンが警備隊へ送った報告書だった。

 

「俺は知らせた」

 

「倉庫に証拠があり、今夜処分される可能性があると」

 

クジュラが封書を睨む。

 

「届いたのは、黒華五刀が侵入した後だ」

 

「港の伝令が遅らせた」

 

レオンは答えた。

 

「その伝令も拘束済みだ」

 

貴族の手は、警備隊への連絡にまで伸びていた。

 

「つまりどうなる」

 

薔薇が尋ねる。

 

クジュラは吐き捨てるように答えた。

 

「警備隊が動く前に、黒華五刀が証拠を押さえた」

 

「黒華五刀が動かなければ、帳簿も薬も燃やされ、証人も死んでいた」

 

「だが、無許可侵入と殺人が消えるわけではない」

 

椿が問う。

 

「正式に裁判を行えば?」

 

「貴族院は黒蘭の処刑か、最低でも海都追放を求める」

 

「ラウルス家は?」

 

「薬品事件と殺人教唆で裁かれる」

 

「ただし、家全体ではなくエドガー個人へ責任を集めるだろう」

 

レオンが鼻で笑う。

 

「いつも通りだ」

 

クジュラは続ける。

 

「さらに裁判で帳簿を全て公開すれば、他の貴族家、元老院の役人、ギルドの関係者まで出る」

 

「海都の行政が一時止まる」

 

「警備隊も無傷では済まない」

 

黒蘭が言う。

 

「だから閉じる」

 

「ああ」

 

クジュラは不本意そうに認めた。

 

「姫の命令だ」

 

---

 

姫の命令は、表向きには存在しなかった。

 

元老院から警備隊へ渡された、署名のない処理方針。

 

事件の正式名称は、

 

**港湾第七倉庫・禁制薬品密輸事件**

 

とされた。

 

ラウルス家の倉庫は、禁制薬品を保管していた疑いで警備隊が捜索した。

 

その捜索には、情報提供者として黒華五刀と冒険者ギルドが同行した。

 

実際には順序が逆である。

 

だが、記録上はそうなる。

 

倉庫で死亡した私兵は、証人殺害を図り、捜索協力者へ襲いかかったため死亡。

 

百合の名は、公式記録には残さない。

 

エドガーの右手は、公衆の前で証人を殺害しようとした際、制止を振り切ったことで失われた。

 

誰が斬ったかは記録しない。

 

黒蘭の名も残さない。

 

黒華五刀は厳重注意。

 

七日間、ギルドの公的依頼受注を停止。

 

押収品は全て警備隊へ提出。

 

事件の詳細を自ら広めない。

 

それが処罰だった。

 

処刑でもない。

 

無罪でもない。

 

記録の上では、黒華五刀は事件の中心から消される。

 

「随分と都合がいいな」

 

薔薇が言う。

 

クジュラは苦い顔をする。

 

「国とはそういうものだ」

 

「真実だけで動けば、国は一日で壊れる」

 

黒蘭が問う。

 

「エドガーは」

 

「右手を失ったまま拘束」

 

「ラウルス家の継承権を剥奪」

 

「表向きは倉庫管理の不備と、証人への暴行」

 

「殺人教唆は?」

 

「非公開の審問へ回す」

 

「死刑にはならない」

 

レオンが言った。

 

「貴族だからか」

 

クジュラは答えない。

 

それが答えだった。

 

百合が静かに言う。

 

「今から首を落とせば解決します」

 

「解決しない!」

 

クジュラが怒鳴る。

 

百合は僅かに首を傾ける。

 

「少なくとも、同じ命令は出せなくなります」

 

「お前は黙っていろ」

 

「承知しました」

 

---

 

黒蘭は処理方針の紙を見る。

 

事実は歪められている。

 

自分達の行動も消される。

 

ラウルス家の罪も、全ては明かされない。

 

「受けるのか」

 

レオンが尋ねる。

 

黒蘭は紙を机へ戻した。

 

「七日でいいのか」

 

クジュラが眉を寄せる。

 

「軽すぎると思うか」

 

「迷宮へ行けないだけだろう」

 

「公的依頼が受けられないだけだ」

 

「私的な訓練と、商会での売買までは止めない」

 

黒蘭は頷いた。

 

「なら受ける」

 

クジュラが呆れたように息を吐く。

 

「お前は、自分が貴族の手を落としたことを少しは重く考えろ」

 

黒蘭は答えた。

 

「重く考えたから、首ではなく手にした」

 

部屋が静まる。

 

クジュラはしばらく黒蘭を見る。

 

「次に同じことをすれば、俺がお前を斬るかもしれん」

 

「その時は、お前が正しいと思う方を選べ」

 

挑発ではない。

 

黒蘭は、本気でそう言っている。

 

クジュラは何も返さなかった。

 

---

 

昼過ぎ。

 

黒華五刀はギルドの裏口から解放された。

 

表では、公式発表が行われている。

 

港湾倉庫から禁制薬品が発見された。

 

ラウルス家の長男が、証人への暴行と倉庫管理責任を問われ拘束された。

 

複数の港湾役人とギルド職員も取り調べを受ける。

 

黒華五刀の名は、ほとんど出なかった。

 

だが、広場にいた者達は見ている。

 

誰がエドガーの手を斬ったか。

 

誰が帳簿を持ち出したか。

 

誰が証人を連れてきたか。

 

公式記録から消しても、人の記憶からは消えない。

 

むしろ、記録されなかったことで噂は膨らんだ。

 

黒蘭は貴族の手を落とした。

 

警備隊に拘束された。

 

それでも、その日のうちに戻ってきた。

 

姫が庇った。

 

ギルドが庇った。

 

クジュラですら、処刑できなかった。

 

真実と誤解が混ざり、海都を巡り始めた。

 

---

 

同日夜。

 

貴族街の一角。

 

海都の有力家の当主達が、密かに集まっていた。

 

灯りの少ない部屋。

 

窓は閉じられ、使用人も遠ざけられている。

 

「ラウルス家の失態だ」

 

一人の老貴族が言う。

 

「異国人一組も処理できず、自ら証拠を残した」

 

別の男が首を振る。

 

「問題はそこではない」

 

「黒蘭は、公衆の前で貴族の手を落とした」

 

「そして、生きてギルドから出てきた」

 

「姫が庇ったというのか」

 

「少なくとも、処刑を許さなかった」

 

「冒険者ギルドも黒蘭を支持している」

 

「民衆もだ」

 

若い貴族が机を叩く。

 

「ならば早く追放すべきだ!」

 

「どうやって?」

 

老貴族が尋ねる。

 

「警備隊を動かせば、クジュラは証拠を求める」

 

「暗殺者を送れば、ラウルス家と同じ末路だ」

 

「迷宮で死なせる?」

 

「奴らに迷宮で勝てる者がいるのか」

 

誰も答えない。

 

別の貴族が低く言った。

 

「黒蘭の危険は、強いことではない」

 

「身分を恐れないことだ」

 

「金を求めない」

 

「地位も求めない」

 

「脅しても退かず、取り込もうとしても従わない」

 

「なら、何を望んでいる」

 

「迷宮の奥だ」

 

「それだけか?」

 

「それだけだから危険なのだ」

 

目的が単純な者は、買収できない。

 

海都の権力争いに興味がない者は、利益を与えても縛れない。

 

そして黒蘭の周囲には、四人の黒号持ちがいる。

 

冒険者達からの信頼も増している。

 

貴族の一人が窓の外を見る。

 

「今日、広場の冒険者達は、誰を見ていた」

 

誰も答えない。

 

警備隊長のクジュラではない。

 

ギルド長のレオンでもない。

 

元老院の役人でもない。

 

貴族でもない。

 

黒蘭だった。

 

「奴は冒険者ではない」

 

老貴族が呟く。

 

「軍を持たぬ将軍だ」

 

別の者が続ける。

 

「今は、五人しかいない」

 

「だが冒険者達が従えば?」

 

「ギルドが兵站を担えば?」

 

「姫が正当性を与えれば?」

 

部屋が静まった。

 

誰かが、最も口にしたくない言葉を言う。

 

「王になる」

 

すぐに別の男が否定した。

 

「異国人だぞ」

 

「だから何だ」

 

広場で黒蘭が言った言葉を、全員が思い出していた。

 

肩書きで敵が死ぬなら、俺の国は滅んでいない。

 

彼は貴族を否定したのではない。

 

肩書きが刃を止めるという、彼らの常識を否定した。

 

「監視を増やせ」

 

老貴族が決める。

 

「これ以上、冒険者達の支持を集めさせるな」

 

「深層の発見も、黒華五刀だけの功績にしてはならない」

 

「だが、直接手を出すな」

 

若い貴族が不満そうに問う。

 

「では、どうする」

 

老貴族は答えた。

 

「黒蘭より強い者を用意する」

 

「海都の外からでもよい」

 

「奴が無敵ではないと示す」

 

「それまでは、刺激するな」

 

貴族達の会合は、夜遅くまで続いた。

 

ラウルス家の事件は収まった。

 

だが、黒蘭への警戒は、事件の前より遥かに強くなっていた。

 

---

 

宿へ戻った黒華五刀は、三十三階以降の地図を広げていた。

 

七日間、公的依頼は受けられない。

 

だからといって、することがないわけではない。

 

椿と黒蘭の訓練。

 

装備の調整。

 

中央潮路の再検討。

 

オランピアの揺らぎ。

 

四十階へ至るための準備。

 

薔薇が椅子へ深く座る。

 

「貴族の連中、これで諦めると思うか?」

 

「思わない」

 

黒蘭は答えた。

 

百合が言う。

 

「次は、より上手く隠すでしょう」

 

牡丹は帳簿の写しを閉じる。

 

「あるいは、自分達の手を使わなくなります」

 

椿が黒蘭を見る。

 

「海都の外から人を呼ぶ可能性もありますね」

 

「来るなら来ればいい」

 

黒蘭は三十三階の地図へ指を置いた。

 

「相手の都合で、こちらの目的は変えない」

 

海都の法は、黒蘭の刃を裁ききれなかった。

 

黒蘭の刃もまた、海都の腐敗を全て断ったわけではない。

 

事件は終わっていない。

 

ただ、表から隠された。

 

それでも一つだけ、以前とは変わったことがある。

 

海都の貴族達は、黒華五刀を扱いにくい異国人とは見なくなった。

 

自分達の権力の外側に立つ、危険な力として見始めた。

 

そして黒蘭は、その視線を気に留めることなく、迷宮の奥を見ていた。

 

第十九話 了

 

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