黒蘭一行が冒険者として登録された日の夕方。
海都アーモロードは、昼とは違う顔を見せていた。
港には帰ってきた船が並び、魚の匂いと酒の匂いが混じる。露店では焼いた貝が売られ、宿屋の前には迷宮帰りの冒険者達が座り込んでいた。
笑っている者。
黙って手当てを受けている者。
地図を広げて口論している者。
そして、帰らなかった仲間の名を小さく呟いている者。
黒蘭はその全てを見ていた。
「賑やかだな」
黒薔薇が言う。
「戦の後の陣みたいだ」
黒牡丹が少し首を傾げる。
「ですが、空気は軽いですね」
黒百合は短く言う。
「油断が多い」
黒華椿は周囲を見ながら答えた。
「ここでは、これが日常なのでしょう」
黒蘭は頷いた。
「そういう土地だ」
昼にアルベルトへ言った言葉。
ここは黒華ではない。
戦乱に焼かれた国でもない。
迷宮で死者は出る。
だが、街そのものが戦場ではない。
人々は明日も世界が続くと思って笑っている。
それは弱さではない。
この海都が積み上げてきた強さでもあった。
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五人が向かったのは、ネイピア商会だった。
冒険者向けの武具、道具、薬、食糧を扱う店である。
店内には、剣、槍、盾、杖、弓、火薬、瓶詰めの薬、保存食が所狭しと並んでいた。
店主ネイピアは、黒づくめの五人を見るなり目を細めた。
「あなた達が噂の新入り?」
黒薔薇が笑う。
「もう噂か」
「海都は狭いのよ」
ネイピアは黒蘭の腰の刀を見る。
「武器を見る?」
「不要だ」
即答。
ネイピアは少し驚いた。
「試しもしないの?」
「手に馴染んだものがある」
「じゃあ何を買うの」
黒蘭は店内を見回した。
「帰るための物」
ネイピアは一瞬黙った。
そして少しだけ笑った。
「冒険者らしくないわね」
「そうか」
「普通は、強い武器とか派手な防具を見るものよ」
「武器で腹は満たせない」
黒牡丹が前へ出る。
「水袋を五つ。予備を二つ。包帯、止血布、消毒薬、火打石、油、縄、折り畳み鍋、保存食を六日分」
ネイピアの眉が上がる。
「六日?」
「はい」
「初探索で?」
「初めての土地ですので」
黒薔薇が横から言う。
「本当は三日で戻ると思うぞ」
黒牡丹は柔らかく返した。
「三日分の準備で三日歩くのは愚かです」
「はいはい」
ネイピアは品物を並べながら黒蘭を見た。
「普通の新人は一日分。慎重な新人で二日分。Aランクでも三日から五日が多いわ」
黒蘭は頷く。
「なら六日で足りる」
「なぜ?」
「この街の上位が五日なら、それ以上は補給か帰還手段に問題がある」
ネイピアの手が止まった。
「……本当に新入り?」
黒蘭は答えなかった。
代わりに牡丹が微笑む。
「新入りです。少なくとも、海都では」
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商会を出る頃には、空は薄紫になっていた。
黒薔薇が荷を担ぎながら言う。
「本当に明日から潜るのか?」
「ああ」
「少し街を見てもいいんじゃないか」
黒蘭は周囲を見る。
港。
酒場。
冒険者ギルド。
宿。
武具屋。
治療院。
「見ている」
黒薔薇は笑った。
「そういう意味じゃない」
黒華椿が静かに言う。
「薔薇、今は目的を優先しましょう」
「分かってるよ、姫様」
椿の眉が少し動く。
「ここではその呼び方は控えてください」
「はいはい」
黒百合が冷たく言う。
「軽い」
黒薔薇は肩をすくめた。
「お前は重すぎる」
二人のやり取りを、黒牡丹が微笑んで見ている。
黒蘭は足を止めた。
宿屋の前。
迷宮帰りの冒険者が一人、治療を受けていた。
腕に深い傷。
仲間らしき者が二人、青い顔で立っている。
「一階だって聞いたのに」
「魚だぞ、魚」
「何であんなに噛むんだよ」
新人だろう。
黒蘭はしばらく見ていた。
黒華椿が尋ねる。
「助けますか」
「治療は足りている」
「はい」
「だが」
黒蘭は続けた。
「明日、同じものを見る」
椿は頷いた。
第一階層。
新人が死ぬ場所。
海都の者にとっては入口でも、黒蘭達にとっては未知の敵地だった。
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その夜。
宿の一室。
黒蘭達は食卓を囲んでいた。
食事は牡丹が用意した。
商会で買った保存食を、そのまま食べるのではなく、湯で戻し、干し肉と薬草を加え、簡単な汁物にしている。
黒薔薇が椀を持ち上げた。
「やっぱり牡丹がいると違うな」
「迷宮でも温かいものを食べられるかどうかで、翌日の動きが変わります」
「戦は胃から、か」
「はい」
椿は地図の白紙を広げていた。
ギルドから支給された第一階層の簡易図。
入口周辺しか描かれていない。
「既存地図は使いますか」
黒蘭は首を振った。
「参考にする」
「信用はしない」
「はい」
黒百合が窓際から言う。
「作成者の癖がある」
黒蘭は頷く。
「地図は事実ではない。見た者の記録だ」
椿はその言葉を書き留める。
黒薔薇は椀を置いた。
「しかし、迷宮か」
「黒華の地穴とは違うんだろうな」
牡丹が静かに答える。
「規模が違います」
「魔物も、植生も、湿度も」
百合が短く言う。
「油断すれば死ぬ」
黒薔薇は笑った。
「分かってる」
黒蘭は会話を聞きながら、明日の行程を書いた。
初日。
入口周辺の確認。
魔物の行動範囲。
水場。
休息可能地点。
退路。
罠。
採取物。
交戦は必要最低限。
五人は強い。
だが、黒蘭は強さを信用しない。
知らない土地で強さに頼る者から死ぬ。
それを、彼はよく知っていた。
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翌朝。
海都来訪二日目。
黒蘭一行は、日の出前に宿を出た。
ギルド前にはすでに冒険者が集まっている。
その中に、リッドとファラもいた。
リッドが手を振る。
「黒蘭!」
黒百合の目が細くなる。
黒薔薇が笑う。
「元気だな、あいつ」
リッドは駆け寄ってきた。
「今日、潜るんだろ?」
「ああ」
「俺達も行く!」
ファラがすぐに訂正する。
「入口付近だけです」
「同じだろ」
「全然違う」
黒蘭はリッドを見た。
「二人か」
「そうだ!」
ファラが少し気まずそうにする。
「まだ仲間を探している途中で……」
黒蘭は言った。
「浅く行け」
リッドが首を傾げる。
「浅く?」
「入口から見える範囲で戻れ」
「でも、昨日一階は」
「一階を軽く見るな」
声は荒くない。
だが、リッドは黙った。
黒蘭は続ける。
「二人で潜るなら、戦うためではなく覚えるために潜れ」
「覚える?」
「道」
「音」
「匂い」
「魔物の動き」
「逃げる方向」
「助けを呼べる距離」
リッドは言葉を飲み込んだ。
昨日の試験で、黒蘭がどれほど強いか見た。
その男が、最初に言うのは戦い方ではなかった。
逃げ方だった。
ファラは真剣に頷いた。
「分かりました」
黒蘭は彼女を見た。
「お前が止めろ」
ファラは一瞬驚き、それから頷いた。
「はい」
リッドが不満げに言う。
「俺に言えよ」
黒薔薇が笑う。
「お前は止まらなそうだからな」
「そんなことない!」
ファラが即答する。
「あるんだから!」
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世界樹の迷宮の入口は、海都の奥にあった。
巨大な樹。
空へ伸びる幹。
根元に開いた緑の門。
初めて見る者は、誰もが息を呑む。
黒華の五人も例外ではなかった。
ただし、声は上げない。
黒蘭は樹を見上げた。
「大きいな」
黒薔薇が笑う。
「感想それだけか」
「十分だ」
椿は静かに手を合わせた。
祈りではない。
礼。
未知の土地へ踏み込む前の作法。
牡丹も頭を下げる。
百合は周囲の気配を確認している。
やがて黒蘭が言った。
「行くぞ」
五人は迷宮へ入った。
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第一階層。
緑の迷宮。
光が葉の隙間から落ち、湿った土の匂いが満ちていた。
海の街のすぐそばに、これほど濃い森がある。
その異様さを、黒蘭はすぐに受け入れた。
受け入れたうえで、疑った。
「牡丹」
「はい」
「水」
牡丹が土を触る。
「地下水が浅いです。ですが飲用は未確認」
「椿」
「入口から南へ緩やかな傾斜。東は獣道。西は湿地に近い気配があります」
「百合」
「上に鳥型。遠いです。敵意なし」
「薔薇」
「前は空いてる。ただ、茂みが深いな」
黒蘭は頷く。
「南へ」
椿が地図に線を引く。
黒蘭達の探索は速くなかった。
むしろ遅い。
一歩進むごとに見る。
音を聞く。
枝を折らない。
土を踏み比べる。
リッドが見れば、なぜもっと早く進まないのかと思ったかもしれない。
だが、黒華の五人にとって、それは当然だった。
迷宮は敵地。
敵地で走る者は、敵に居場所を教える。
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最初の魔物は、かみつき魚だった。
湿地から跳ねるように現れ、黒薔薇の足へ噛みつこうとする。
黒薔薇は籠手で口を逸らした。
「昨日のやつだ」
椿の声。
「薔薇、殺さず」
「はいよ」
黒薔薇は魚の背を軽く叩く。
気絶。
牡丹がすぐに観察する。
「歯の形状は肉食。皮膚は湿潤。陸上活動時間は長くなさそうです」
百合が周囲を見る。
「群れではありません」
黒蘭は魚を見た。
「水辺を避けるだけでは足りないな」
「はい」
椿は地図に書き加える。
湿地付近、跳躍型魔物。
単独確認。
黒薔薇が笑う。
「倒して進む方が早いぞ」
「早いことと、分かったことは違う」
「分かってるよ」
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しばらく進むと、遠くから声が聞こえた。
リッドだった。
「うわっ! 来た!」
「下がって!」
ファラの声。
黒百合が反応する。
「接敵」
黒蘭は止まった。
「数」
「二」
「距離」
「近いですが、こちらには来ません」
黒薔薇が黒蘭を見る。
「助けるか?」
黒蘭は耳を澄ませた。
剣が何かを叩く音。
ファラの叱る声。
リッドの叫び。
魔物の水音。
「不要」
「いいのか?」
「まだ余裕がある」
椿は少しだけ心配そうに視線を向けたが、口は挟まなかった。
黒蘭は続けた。
「助けすぎれば、覚えない」
黒薔薇は肩をすくめた。
「厳しいな」
「死にそうなら助ける」
「そういうところは優しいんだか冷たいんだか」
「どちらでもない」
戦闘音はしばらく続いた。
やがて、リッドの声がした。
「勝った!」
すぐにファラの声。
「だから突っ込みすぎ!」
黒薔薇が笑う。
「生きてるな」
黒蘭は歩き出した。
「ならいい」
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昼過ぎ。
黒蘭達は入口からかなり離れた場所にいた。
普通の新人なら一日で戻る距離。
だが、彼らにとってはまだ入口周辺の確認にすぎなかった。
そこで初めて、黒蘭は休息を命じた。
牡丹が布を広げ、簡単な食事を用意する。
乾燥米。
干し肉。
薬草を煮出した湯。
温かい汁の匂いが森に溶けた。
黒薔薇が椀を受け取る。
「迷宮で飯を食うと、妙に美味いな」
牡丹が微笑む。
「生きている証です」
黒百合は周囲を見張りながら、短く言う。
「匂いが出ます」
「風下です」
「ならいい」
椿は地図を確認していた。
「入口からここまで、魔物の密度は低め。ただし湿地周辺に偏りがあります」
黒蘭は頷く。
「水場が縄張りだ」
「はい」
「今日はこれ以上深く行かない」
黒薔薇が不満げにする。
「まだ昼だぞ」
「だから戻る」
「何でだよ」
「明るいうちに退路を確認する」
黒薔薇は少しだけ黙った。
そして笑った。
「そうだったな」
黒蘭は地図を見る。
「夜の森は別の場所だ」
黒華の地穴でも同じだった。
昼に通れた道が、夜には死地になる。
水音。
虫の声。
魔物の移動。
闇。
知らないものは、日があるうちに知る。
それが生き残るための基本だった。
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帰路。
黒蘭達は、リッドとファラに追いついた。
二人は入口近くで座り込んでいた。
リッドの腕には浅い傷。
ファラが包帯を巻いている。
「痛って」
「我慢」
「もうちょっと優しく」
「突っ込んだ罰」
黒蘭が近づくと、リッドは顔を上げた。
「黒蘭!」
ファラは慌てて立とうとする。
黒蘭は手で制した。
「座っていろ」
リッドは笑った。
「二体倒した!」
ファラが訂正する。
「一体は逃げた」
「追い払った!」
「逃げられた」
黒薔薇が笑う。
「まあ、生きて戻ったなら上出来だ」
リッドの顔が明るくなる。
「本当か!」
「新人にしてはな」
「新人にしては、か……」
黒蘭は二人を見た。
傷は浅い。
装備の消耗も少ない。
だが、息が乱れている。
二人だけでは長く潜れない。
「仲間を増やせ」
リッドが首を傾げる。
「仲間?」
「前衛と治療だけでは足りない」
ファラが頷く。
「私もそう思ってました」
「え、そうなの?」
「当たり前でしょ」
黒蘭は続けた。
「術師か、射手か、盾役」
「できれば判断の早い者」
リッドは考える。
「強いやつ?」
「生き残る者だ」
その言葉に、リッドはまた黙った。
黒蘭の言葉は、いつも少しずれる。
強さを聞いているのに、生き残る話をする。
勝ちたいと言えば、戻る話をする。
でも。
今日、リッドは少しだけ分かった。
迷宮では、勝つより先に帰らなければならない。
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夕方。
黒蘭達は海都へ戻った。
初探索一日目。
到達階層は第一階層の浅部。
魔物討伐数は少数。
成果だけ見れば、目立つものではない。
だが、ギルドへ提出された地図を見て、受付嬢は言葉を失った。
道幅。
湿地の位置。
魔物の行動範囲。
足跡。
採取可能な草。
危険な草。
水場候補。
休息可能地点。
引き返しに必要な時間。
普通の新人が書く地図ではなかった。
レオンはそれを見て、低く笑った。
「やはり冒険者じゃないな」
受付嬢が尋ねる。
「どういう意味ですか?」
「こいつらは迷宮を歩いたんじゃない」
レオンは地図を指で叩いた。
「測ったんだ」
その頃、ギルドの掲示板の端では、ファラが新しい募集札を貼っていた。
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仲間募集
前衛一名、治療一名
星術師、射手、盾役歓迎
無謀な前衛を止められる方、優先
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リッドが横で抗議する。
「最後の一文いらないだろ!」
ファラは平然と言った。
「一番大事」
二人の後ろで、黒蘭はそれを一度だけ見た。
そして何も言わず、宿へ向かった。
海都来訪二日目。
黒華の五人は、まだ第一階層を少し歩いただけだった。
だが世界樹は、すでに彼らを見ていた。
そして彼らもまた、この迷宮がただの森ではないことを、少しずつ理解し始めていた。
第二話 了