亡国の黒将と世界樹の迷宮   作:清海深々

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第二刀 冒険者の街

 

黒蘭一行が冒険者として登録された日の夕方。

 

海都アーモロードは、昼とは違う顔を見せていた。

 

港には帰ってきた船が並び、魚の匂いと酒の匂いが混じる。露店では焼いた貝が売られ、宿屋の前には迷宮帰りの冒険者達が座り込んでいた。

 

笑っている者。

 

黙って手当てを受けている者。

 

地図を広げて口論している者。

 

そして、帰らなかった仲間の名を小さく呟いている者。

 

黒蘭はその全てを見ていた。

 

「賑やかだな」

 

黒薔薇が言う。

 

「戦の後の陣みたいだ」

 

黒牡丹が少し首を傾げる。

 

「ですが、空気は軽いですね」

 

黒百合は短く言う。

 

「油断が多い」

 

黒華椿は周囲を見ながら答えた。

 

「ここでは、これが日常なのでしょう」

 

黒蘭は頷いた。

 

「そういう土地だ」

 

昼にアルベルトへ言った言葉。

 

ここは黒華ではない。

 

戦乱に焼かれた国でもない。

 

迷宮で死者は出る。

 

だが、街そのものが戦場ではない。

 

人々は明日も世界が続くと思って笑っている。

 

それは弱さではない。

 

この海都が積み上げてきた強さでもあった。

 

---

 

五人が向かったのは、ネイピア商会だった。

 

冒険者向けの武具、道具、薬、食糧を扱う店である。

 

店内には、剣、槍、盾、杖、弓、火薬、瓶詰めの薬、保存食が所狭しと並んでいた。

 

店主ネイピアは、黒づくめの五人を見るなり目を細めた。

 

「あなた達が噂の新入り?」

 

黒薔薇が笑う。

 

「もう噂か」

 

「海都は狭いのよ」

 

ネイピアは黒蘭の腰の刀を見る。

 

「武器を見る?」

 

「不要だ」

 

即答。

 

ネイピアは少し驚いた。

 

「試しもしないの?」

 

「手に馴染んだものがある」

 

「じゃあ何を買うの」

 

黒蘭は店内を見回した。

 

「帰るための物」

 

ネイピアは一瞬黙った。

 

そして少しだけ笑った。

 

「冒険者らしくないわね」

 

「そうか」

 

「普通は、強い武器とか派手な防具を見るものよ」

 

「武器で腹は満たせない」

 

黒牡丹が前へ出る。

 

「水袋を五つ。予備を二つ。包帯、止血布、消毒薬、火打石、油、縄、折り畳み鍋、保存食を六日分」

 

ネイピアの眉が上がる。

 

「六日?」

 

「はい」

 

「初探索で?」

 

「初めての土地ですので」

 

黒薔薇が横から言う。

 

「本当は三日で戻ると思うぞ」

 

黒牡丹は柔らかく返した。

 

「三日分の準備で三日歩くのは愚かです」

 

「はいはい」

 

ネイピアは品物を並べながら黒蘭を見た。

 

「普通の新人は一日分。慎重な新人で二日分。Aランクでも三日から五日が多いわ」

 

黒蘭は頷く。

 

「なら六日で足りる」

 

「なぜ?」

 

「この街の上位が五日なら、それ以上は補給か帰還手段に問題がある」

 

ネイピアの手が止まった。

 

「……本当に新入り?」

 

黒蘭は答えなかった。

 

代わりに牡丹が微笑む。

 

「新入りです。少なくとも、海都では」

 

---

 

商会を出る頃には、空は薄紫になっていた。

 

黒薔薇が荷を担ぎながら言う。

 

「本当に明日から潜るのか?」

 

「ああ」

 

「少し街を見てもいいんじゃないか」

 

黒蘭は周囲を見る。

 

港。

 

酒場。

 

冒険者ギルド。

 

宿。

 

武具屋。

 

治療院。

 

「見ている」

 

黒薔薇は笑った。

 

「そういう意味じゃない」

 

黒華椿が静かに言う。

 

「薔薇、今は目的を優先しましょう」

 

「分かってるよ、姫様」

 

椿の眉が少し動く。

 

「ここではその呼び方は控えてください」

 

「はいはい」

 

黒百合が冷たく言う。

 

「軽い」

 

黒薔薇は肩をすくめた。

 

「お前は重すぎる」

 

二人のやり取りを、黒牡丹が微笑んで見ている。

 

黒蘭は足を止めた。

 

宿屋の前。

 

迷宮帰りの冒険者が一人、治療を受けていた。

 

腕に深い傷。

 

仲間らしき者が二人、青い顔で立っている。

 

「一階だって聞いたのに」

 

「魚だぞ、魚」

 

「何であんなに噛むんだよ」

 

新人だろう。

 

黒蘭はしばらく見ていた。

 

黒華椿が尋ねる。

 

「助けますか」

 

「治療は足りている」

 

「はい」

 

「だが」

 

黒蘭は続けた。

 

「明日、同じものを見る」

 

椿は頷いた。

 

第一階層。

 

新人が死ぬ場所。

 

海都の者にとっては入口でも、黒蘭達にとっては未知の敵地だった。

 

---

 

その夜。

 

宿の一室。

 

黒蘭達は食卓を囲んでいた。

 

食事は牡丹が用意した。

 

商会で買った保存食を、そのまま食べるのではなく、湯で戻し、干し肉と薬草を加え、簡単な汁物にしている。

 

黒薔薇が椀を持ち上げた。

 

「やっぱり牡丹がいると違うな」

 

「迷宮でも温かいものを食べられるかどうかで、翌日の動きが変わります」

 

「戦は胃から、か」

 

「はい」

 

椿は地図の白紙を広げていた。

 

ギルドから支給された第一階層の簡易図。

 

入口周辺しか描かれていない。

 

「既存地図は使いますか」

 

黒蘭は首を振った。

 

「参考にする」

 

「信用はしない」

 

「はい」

 

黒百合が窓際から言う。

 

「作成者の癖がある」

 

黒蘭は頷く。

 

「地図は事実ではない。見た者の記録だ」

 

椿はその言葉を書き留める。

 

黒薔薇は椀を置いた。

 

「しかし、迷宮か」

 

「黒華の地穴とは違うんだろうな」

 

牡丹が静かに答える。

 

「規模が違います」

 

「魔物も、植生も、湿度も」

 

百合が短く言う。

 

「油断すれば死ぬ」

 

黒薔薇は笑った。

 

「分かってる」

 

黒蘭は会話を聞きながら、明日の行程を書いた。

 

初日。

 

入口周辺の確認。

 

魔物の行動範囲。

 

水場。

 

休息可能地点。

 

退路。

 

罠。

 

採取物。

 

交戦は必要最低限。

 

五人は強い。

 

だが、黒蘭は強さを信用しない。

 

知らない土地で強さに頼る者から死ぬ。

 

それを、彼はよく知っていた。

 

---

 

翌朝。

 

海都来訪二日目。

 

黒蘭一行は、日の出前に宿を出た。

 

ギルド前にはすでに冒険者が集まっている。

 

その中に、リッドとファラもいた。

 

リッドが手を振る。

 

「黒蘭!」

 

黒百合の目が細くなる。

 

黒薔薇が笑う。

 

「元気だな、あいつ」

 

リッドは駆け寄ってきた。

 

「今日、潜るんだろ?」

 

「ああ」

 

「俺達も行く!」

 

ファラがすぐに訂正する。

 

「入口付近だけです」

 

「同じだろ」

 

「全然違う」

 

黒蘭はリッドを見た。

 

「二人か」

 

「そうだ!」

 

ファラが少し気まずそうにする。

 

「まだ仲間を探している途中で……」

 

黒蘭は言った。

 

「浅く行け」

 

リッドが首を傾げる。

 

「浅く?」

 

「入口から見える範囲で戻れ」

 

「でも、昨日一階は」

 

「一階を軽く見るな」

 

声は荒くない。

 

だが、リッドは黙った。

 

黒蘭は続ける。

 

「二人で潜るなら、戦うためではなく覚えるために潜れ」

 

「覚える?」

 

「道」

 

「音」

 

「匂い」

 

「魔物の動き」

 

「逃げる方向」

 

「助けを呼べる距離」

 

リッドは言葉を飲み込んだ。

 

昨日の試験で、黒蘭がどれほど強いか見た。

 

その男が、最初に言うのは戦い方ではなかった。

 

逃げ方だった。

 

ファラは真剣に頷いた。

 

「分かりました」

 

黒蘭は彼女を見た。

 

「お前が止めろ」

 

ファラは一瞬驚き、それから頷いた。

 

「はい」

 

リッドが不満げに言う。

 

「俺に言えよ」

 

黒薔薇が笑う。

 

「お前は止まらなそうだからな」

 

「そんなことない!」

 

ファラが即答する。

 

「あるんだから!」

 

---

 

世界樹の迷宮の入口は、海都の奥にあった。

 

巨大な樹。

 

空へ伸びる幹。

 

根元に開いた緑の門。

 

初めて見る者は、誰もが息を呑む。

 

黒華の五人も例外ではなかった。

 

ただし、声は上げない。

 

黒蘭は樹を見上げた。

 

「大きいな」

 

黒薔薇が笑う。

 

「感想それだけか」

 

「十分だ」

 

椿は静かに手を合わせた。

 

祈りではない。

 

礼。

 

未知の土地へ踏み込む前の作法。

 

牡丹も頭を下げる。

 

百合は周囲の気配を確認している。

 

やがて黒蘭が言った。

 

「行くぞ」

 

五人は迷宮へ入った。

 

---

 

第一階層。

 

緑の迷宮。

 

光が葉の隙間から落ち、湿った土の匂いが満ちていた。

 

海の街のすぐそばに、これほど濃い森がある。

 

その異様さを、黒蘭はすぐに受け入れた。

 

受け入れたうえで、疑った。

 

「牡丹」

 

「はい」

 

「水」

 

牡丹が土を触る。

 

「地下水が浅いです。ですが飲用は未確認」

 

「椿」

 

「入口から南へ緩やかな傾斜。東は獣道。西は湿地に近い気配があります」

 

「百合」

 

「上に鳥型。遠いです。敵意なし」

 

「薔薇」

 

「前は空いてる。ただ、茂みが深いな」

 

黒蘭は頷く。

 

「南へ」

 

椿が地図に線を引く。

 

黒蘭達の探索は速くなかった。

 

むしろ遅い。

 

一歩進むごとに見る。

 

音を聞く。

 

枝を折らない。

 

土を踏み比べる。

 

リッドが見れば、なぜもっと早く進まないのかと思ったかもしれない。

 

だが、黒華の五人にとって、それは当然だった。

 

迷宮は敵地。

 

敵地で走る者は、敵に居場所を教える。

 

---

 

最初の魔物は、かみつき魚だった。

 

湿地から跳ねるように現れ、黒薔薇の足へ噛みつこうとする。

 

黒薔薇は籠手で口を逸らした。

 

「昨日のやつだ」

 

椿の声。

 

「薔薇、殺さず」

 

「はいよ」

 

黒薔薇は魚の背を軽く叩く。

 

気絶。

 

牡丹がすぐに観察する。

 

「歯の形状は肉食。皮膚は湿潤。陸上活動時間は長くなさそうです」

 

百合が周囲を見る。

 

「群れではありません」

 

黒蘭は魚を見た。

 

「水辺を避けるだけでは足りないな」

 

「はい」

 

椿は地図に書き加える。

 

湿地付近、跳躍型魔物。

 

単独確認。

 

黒薔薇が笑う。

 

「倒して進む方が早いぞ」

 

「早いことと、分かったことは違う」

 

「分かってるよ」

 

---

 

しばらく進むと、遠くから声が聞こえた。

 

リッドだった。

 

「うわっ! 来た!」

 

「下がって!」

 

ファラの声。

 

黒百合が反応する。

 

「接敵」

 

黒蘭は止まった。

 

「数」

 

「二」

 

「距離」

 

「近いですが、こちらには来ません」

 

黒薔薇が黒蘭を見る。

 

「助けるか?」

 

黒蘭は耳を澄ませた。

 

剣が何かを叩く音。

 

ファラの叱る声。

 

リッドの叫び。

 

魔物の水音。

 

「不要」

 

「いいのか?」

 

「まだ余裕がある」

 

椿は少しだけ心配そうに視線を向けたが、口は挟まなかった。

 

黒蘭は続けた。

 

「助けすぎれば、覚えない」

 

黒薔薇は肩をすくめた。

 

「厳しいな」

 

「死にそうなら助ける」

 

「そういうところは優しいんだか冷たいんだか」

 

「どちらでもない」

 

戦闘音はしばらく続いた。

 

やがて、リッドの声がした。

 

「勝った!」

 

すぐにファラの声。

 

「だから突っ込みすぎ!」

 

黒薔薇が笑う。

 

「生きてるな」

 

黒蘭は歩き出した。

 

「ならいい」

 

---

 

昼過ぎ。

 

黒蘭達は入口からかなり離れた場所にいた。

 

普通の新人なら一日で戻る距離。

 

だが、彼らにとってはまだ入口周辺の確認にすぎなかった。

 

そこで初めて、黒蘭は休息を命じた。

 

牡丹が布を広げ、簡単な食事を用意する。

 

乾燥米。

 

干し肉。

 

薬草を煮出した湯。

 

温かい汁の匂いが森に溶けた。

 

黒薔薇が椀を受け取る。

 

「迷宮で飯を食うと、妙に美味いな」

 

牡丹が微笑む。

 

「生きている証です」

 

黒百合は周囲を見張りながら、短く言う。

 

「匂いが出ます」

 

「風下です」

 

「ならいい」

 

椿は地図を確認していた。

 

「入口からここまで、魔物の密度は低め。ただし湿地周辺に偏りがあります」

 

黒蘭は頷く。

 

「水場が縄張りだ」

 

「はい」

 

「今日はこれ以上深く行かない」

 

黒薔薇が不満げにする。

 

「まだ昼だぞ」

 

「だから戻る」

 

「何でだよ」

 

「明るいうちに退路を確認する」

 

黒薔薇は少しだけ黙った。

 

そして笑った。

 

「そうだったな」

 

黒蘭は地図を見る。

 

「夜の森は別の場所だ」

 

黒華の地穴でも同じだった。

 

昼に通れた道が、夜には死地になる。

 

水音。

 

虫の声。

 

魔物の移動。

 

闇。

 

知らないものは、日があるうちに知る。

 

それが生き残るための基本だった。

 

---

 

帰路。

 

黒蘭達は、リッドとファラに追いついた。

 

二人は入口近くで座り込んでいた。

 

リッドの腕には浅い傷。

 

ファラが包帯を巻いている。

 

「痛って」

 

「我慢」

 

「もうちょっと優しく」

 

「突っ込んだ罰」

 

黒蘭が近づくと、リッドは顔を上げた。

 

「黒蘭!」

 

ファラは慌てて立とうとする。

 

黒蘭は手で制した。

 

「座っていろ」

 

リッドは笑った。

 

「二体倒した!」

 

ファラが訂正する。

 

「一体は逃げた」

 

「追い払った!」

 

「逃げられた」

 

黒薔薇が笑う。

 

「まあ、生きて戻ったなら上出来だ」

 

リッドの顔が明るくなる。

 

「本当か!」

 

「新人にしてはな」

 

「新人にしては、か……」

 

黒蘭は二人を見た。

 

傷は浅い。

 

装備の消耗も少ない。

 

だが、息が乱れている。

 

二人だけでは長く潜れない。

 

「仲間を増やせ」

 

リッドが首を傾げる。

 

「仲間?」

 

「前衛と治療だけでは足りない」

 

ファラが頷く。

 

「私もそう思ってました」

 

「え、そうなの?」

 

「当たり前でしょ」

 

黒蘭は続けた。

 

「術師か、射手か、盾役」

 

「できれば判断の早い者」

 

リッドは考える。

 

「強いやつ?」

 

「生き残る者だ」

 

その言葉に、リッドはまた黙った。

 

黒蘭の言葉は、いつも少しずれる。

 

強さを聞いているのに、生き残る話をする。

 

勝ちたいと言えば、戻る話をする。

 

でも。

 

今日、リッドは少しだけ分かった。

 

迷宮では、勝つより先に帰らなければならない。

 

---

 

夕方。

 

黒蘭達は海都へ戻った。

 

初探索一日目。

 

到達階層は第一階層の浅部。

 

魔物討伐数は少数。

 

成果だけ見れば、目立つものではない。

 

だが、ギルドへ提出された地図を見て、受付嬢は言葉を失った。

 

道幅。

 

湿地の位置。

 

魔物の行動範囲。

 

足跡。

 

採取可能な草。

 

危険な草。

 

水場候補。

 

休息可能地点。

 

引き返しに必要な時間。

 

普通の新人が書く地図ではなかった。

 

レオンはそれを見て、低く笑った。

 

「やはり冒険者じゃないな」

 

受付嬢が尋ねる。

 

「どういう意味ですか?」

 

「こいつらは迷宮を歩いたんじゃない」

 

レオンは地図を指で叩いた。

 

「測ったんだ」

 

その頃、ギルドの掲示板の端では、ファラが新しい募集札を貼っていた。

 

---

 

仲間募集

前衛一名、治療一名

星術師、射手、盾役歓迎

無謀な前衛を止められる方、優先

 

---

 

リッドが横で抗議する。

 

「最後の一文いらないだろ!」

 

ファラは平然と言った。

 

「一番大事」

 

二人の後ろで、黒蘭はそれを一度だけ見た。

 

そして何も言わず、宿へ向かった。

 

海都来訪二日目。

 

黒華の五人は、まだ第一階層を少し歩いただけだった。

 

だが世界樹は、すでに彼らを見ていた。

 

そして彼らもまた、この迷宮がただの森ではないことを、少しずつ理解し始めていた。

 

第二話 了

 

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