亡国の黒将と世界樹の迷宮   作:清海深々

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第二十刀 黒扇と黒翼

 

海都来訪七十四日目。

 

ラウルス家の事件から二日。

 

黒華五刀に科された七日間の公的依頼受注停止は、三日目を迎えていた。

 

迷宮へ入ること自体を禁じられたわけではない。

 

私的な探索も、商会との取引も制限されていない。

 

だが黒蘭は、この七日間は迷宮へ入らないと決めた。

 

処分の抜け道を使えば、警備隊と貴族へ余計な口実を与える。

 

それに、三十三階から先へ進む前に見直すべきものがあった。

 

装備。

 

地図。

 

連携。

 

そして、自分達の戦い方。

 

海都へ来て七十四日。

 

黒華五刀は一度も敗れていない。

 

それでも、海都で初めて知る戦術や技術はあった。

 

五人が完成していることと、これ以上強くなれないことは同じではない。

 

---

 

その朝。

 

黒蘭達が借りたのは、冒険者ギルド裏手にある第二訓練場だった。

 

第一訓練場より狭い。

 

周囲を石壁で囲まれ、普段は上位冒険者の対人訓練や、危険な術式の試験に使われている。

 

床は厚い石畳。

 

壁際には武器棚。

 

中央には、白線で円が描かれていた。

 

黒蘭が刃引きされた二本の刀を確認する。

 

実戦用より僅かに重い。

 

刃は潰されているが、まともに受ければ骨は折れる。

 

椿も二刀を受け取った。

 

片方の刀の柄頭には、細長い黒帯が結ばれている。

 

帯は装飾ではない。

 

刀の位置を視界の端で知るため。

 

味方へ自分の位置を示すため。

 

時には敵の目を惑わせ、時には号令を視覚として届けるためのものだった。

 

牡丹が黒帯の結び目を確認する。

 

「緩みはありません」

 

椿は刀を一度振り、帯の流れを見る。

 

「ありがとうございます」

 

薔薇は壁際へ籠手を置き、腕を組んでいた。

 

「本当にやるのか」

 

「ああ」

 

黒蘭が答える。

 

「久しぶりですね」

 

椿は静かに言った。

 

「いつ以来だ」

 

「海を渡る前です」

 

薔薇が笑う。

 

「それを久しぶりって言うんだ」

 

百合は訓練場の入口へ顔を向けた。

 

「見物人が来ます」

 

黒蘭も足音を聞いていた。

 

一人や二人ではない。

 

「閉めたはずでは?」

 

椿が問う。

 

牡丹が答える。

 

「借用申請は非公開ではありません」

 

「ギルド内の記録を見れば、場所と時間は分かります」

 

薔薇が入口を睨む。

 

「また内通者か?」

 

「今回は違います」

 

牡丹は無表情のまま続けた。

 

「レオン殿が許可しました」

 

黒蘭が僅かに眉を寄せる。

 

---

 

最初に現れたのは、ガルドとダリオだった。

 

その後ろに、エナ、ボリス、ティム。

 

新人講習に参加した三人である。

 

さらにアルベルト。

 

月下猟姫のセリア。

 

獣王爪牙のバルト。

 

訓練中の若手冒険者が数名。

 

最後に、クジュラが入ってきた。

 

警備隊の装束ではない。

 

腰には自分の刀。

 

明らかに、警備のためではなく剣士として見に来ている。

 

黒蘭は入口脇に立つレオンを見る。

 

「見世物にしたか」

 

「訓練を見ることを許しただけだ」

 

レオンは悪びれない。

 

「七日間も黒華五刀を閉じ込めておけば、何をしているか気になる奴は出る」

 

「断ればよかった」

 

「断ったら、壁に穴を開けて覗く奴が出る」

 

セリアが遠くから言った。

 

「私はそこまでしないわよ」

 

バルトが隣で答える。

 

「お前なら高い木を立てかける」

 

「穴を開けるより上品でしょう」

 

黒蘭はレオンを見る。

 

「人数を増やすな」

 

「これ以上は入れない」

 

「貴族の使いは」

 

レオンの表情が僅かに変わる。

 

「二人来た」

 

「断った」

 

百合が訓練場の高窓を見る。

 

「外にいます」

 

レオンが顔を上げた。

 

「どこだ」

 

「向かいの屋根に一人」

 

「鐘楼に一人」

 

クジュラが舌打ちする。

 

「追い払うか」

 

黒蘭は首を振った。

 

「見せればいい」

 

貴族達は、黒蘭を危険視している。

 

ならば中途半端に隠せば、好きな形へ噂を作る。

 

実際に見せた方が早い。

 

「ただし近づけるな」

 

クジュラが答える。

 

「警備隊へ伝える」

 

今度は黒蘭も拒まなかった。

 

---

 

見物人達が石壁沿いへ並ぶ。

 

訓練場の中央に残るのは、黒蘭と椿。

 

二人はまだ刀を抜いていない。

 

牡丹と百合は、新人三人の近くへ移動した。

 

説明役を務めるつもりらしい。

 

その様子を見て、ガルドが眉を寄せた。

 

「ちょっと待て」

 

牡丹が顔を向ける。

 

「何でしょう」

 

「お前達の国の流派なんだろう」

 

「ああいうものは、普通、外の者に簡単に教えないんじゃないのか」

 

クジュラも視線だけを向ける。

 

刀を持つ者ほど、その疑問は強い。

 

秘伝。

 

口伝。

 

門外不出。

 

優れた武術ほど、その技理を隠す。

 

それは海都でも、黒華でも同じだった。

 

ダリオが周囲を見回す。

 

「しかも、屋根には貴族の監視までいる」

 

「そんなにペラペラ話していいのか?」

 

牡丹はすぐには答えなかった。

 

椿を見る。

 

椿は地面へ刺す予定の刀を持ったまま、静かに見物人達へ向き直った。

 

「黒華という国は、もうありません」

 

訓練場の空気が僅かに変わる。

 

「土地は失われました」

 

「城も、家も、流派を継ぐ者の多くも」

 

椿の声は穏やかだった。

 

悲嘆を訴える調子ではない。

 

すでに背負うと決めた者の声だった。

 

「隠し続けた結果、誰にも知られないまま消えてしまえば、黒華に存在しなかったことと同じになります」

 

エナが椿を見つめる。

 

「だから、教えるんですか」

 

「全てを教えるわけではありません」

 

椿は答えた。

 

「見ただけで習得できるほど、浅い武術でもありません」

 

黒蘭も口を開く。

 

「形を真似るだけなら、好きにすればいい」

 

「骨と呼吸と、何を守るために作られた技かを知らなければ、同じものにはならない」

 

クジュラの指が、腰の刀の柄へ触れる。

 

武術は動作だけではない。

 

生まれた土地。

 

戦った敵。

 

守ったもの。

 

積み重ねた死。

 

それらが形となったものだ。

 

外形を写しただけでは、流派にはならない。

 

薔薇が腕を組んだまま言った。

 

「国はなくなった」

 

「でも、私達まで恥じて隠す理由はない」

 

その声には、椿よりも直接的な感情があった。

 

「強かったことも」

 

「馬鹿みたいに何度も戦ったことも」

 

「綺麗な技を作った奴がいたことも」

 

「誰かには知ってほしい」

 

百合が静かに続ける。

 

「記録がなければ、人は忘れます」

 

牡丹も言った。

 

「誰にも知られない誇りは、最後の一人が死ねば消えます」

 

「私達だけで抱えて終わるより、誰か一人でも覚えている方がよい」

 

ガルドは黒華五刀を見る。

 

故郷を失った五人。

 

その五人が、自分達の技を見せる。

 

自慢のためではない。

 

海都へ取り入るためでもない。

 

失われた国が確かに存在したと、誰かの記憶へ残すため。

 

「……そうか」

 

ガルドはそれ以上、止めなかった。

 

クジュラが言う。

 

「なら、よく見ておく」

 

「東方に、こういう刀があったと」

 

黒蘭は短く答えた。

 

「ああ」

 

---

 

椿が円の中央へ進む。

 

左手の刀を抜く。

 

その刀を、自分の正面より僅かに右へ突き立てた。

 

切っ先が石畳の隙間へ入る。

 

刀は直立する。

 

柄頭から伸びた黒帯が、朝の風を受けて静かになびいた。

 

椿の左手は、突き立てた刀の柄へ重なる。

 

右手がもう一方の刀を逆手に抜く。

 

腕を真横へ伸ばす。

 

剣先は黒蘭へ向いた。

 

背筋は真っ直ぐ。

 

顎は引かれ、足は左右へ開かれている。

 

大和撫子を思わせる静かな立ち姿。

 

それでいて、侵しがたい威厳があった。

 

ティムが息を呑む。

 

「綺麗だ」

 

百合が言った。

 

「美しいと思うのは正しい見方です」

 

ダリオが百合を見る。

 

「武術なのに?」

 

「武術だからです」

 

牡丹が続ける。

 

「黒扇刀流」

 

「黒華の王族にのみ許された流派です」

 

クジュラの目が僅かに動いた。

 

「黒扇刀流」

 

その名を知っているようだった。

 

だが何も言わない。

 

---

 

牡丹は、椿の構えを見ながら説明する。

 

「黒華は、権力を持つ者へ相応の武力を求める国でした」

 

「武家だけではありません」

 

「王族も、自ら戦えなければなりません」

 

「しかし、黒華王家の者は、純粋な膂力や武芸の才に恵まれないことが多かった」

 

エナが椿を見る。

 

「弱かったんですか」

 

「かつては」

 

牡丹は否定しなかった。

 

「源流を辿れば武者の家系です」

 

「ですが代を重ねるにつれ、歌、舞、書、絵といった芸術へ才能が偏っていきました」

 

「平和な時代なら、それでよかった」

 

「けれど、黒華は戦国でした」

 

黒華王族もまた、戦場へ立つ必要があった。

 

弱いから戦わない。

 

才能がないから守られる。

 

それでは、黒華の王族ではいられない。

 

「彼らは、自分達の弱さを隠しませんでした」

 

牡丹は言う。

 

「力で勝てないなら、力とは別の強さを作ろうとした」

 

「舞の重心移動」

 

「歌の呼吸」

 

「扇の軌道」

 

「身体の柔らかさ」

 

「関節の滑らかさ」

 

「それらを刀へ移した」

 

「そうして生まれたものが、黒扇刀流です」

 

風が黒帯を持ち上げる。

 

椿の右手の刀が、扇のようにゆっくりと回った。

 

手首だけではない。

 

肘。

 

肩。

 

背骨。

 

腰。

 

全ての関節が、途切れず一つの円を作る。

 

刀身の重さが消えたように見えた。

 

「黒の字は、王家と黒号にのみ許されます」

 

牡丹が続ける。

 

「流派名へ黒を入れることを許された武術は、黒扇刀流だけです」

 

「王族の誇りそのものですから」

 

椿が小さく息を吸った。

 

「立て」

 

誰に命じたのか。

 

自分自身へ。

 

「恐れるな」

 

声は静かだった。

 

それでも、空気が震えた。

 

「進め」

 

椿の身体から、僅かな威圧が広がる。

 

普段は味方全体へ分け与える号令。

 

それを、今は自分一人へ集中している。

 

足運びが変わる。

 

呼吸が深くなる。

 

筋肉の動きが、無駄なく揃っていく。

 

アルベルトの顔から、観察者の余裕が消えた。

 

「支援役ではないな」

 

薔薇が笑う。

 

「最初から誰も、そうは言ってない」

 

---

 

黒蘭が二本の刀を抜いた。

 

左右とも順手。

 

右刀は腰の高さ。

 

左刀は胸の前。

 

構え自体は低い。

 

華やかさはない。

 

椿の黒帯のような目を引くものもない。

 

ただ立っている。

 

ボリスが首を傾げる。

 

「黒蘭さんの方は、普通に見える」

 

百合が言った。

 

「普通に見えるよう、全てを削っています」

 

「流派は?」

 

エナが尋ねる。

 

百合は答えた。

 

「紫貴双刀流」

 

その名に、クジュラが今度こそ黒蘭を見た。

 

「紫貴……」

 

セリアが聞き返す。

 

「知っているの?」

 

「東方の古い流派名だ」

 

クジュラは短く答える。

 

「二刀流の原点と呼ばれたこともある」

 

黒蘭はクジュラを見ない。

 

百合も説明を止めない。

 

「小手先の速さではありません」

 

「人体の構造を極限まで使います」

 

「右の斬撃が左の斬撃を生み」

 

「左の回転が次の踏み込みを作る」

 

「一撃ごとに構え直さない」

 

「骨、関節、筋、呼吸、重心」

 

「全てを一つの連続した運動へ変えます」

 

ダリオが黒蘭の肩を見る。

 

ほとんど動いていない。

 

「それで、どれくらい速い」

 

百合は細い目のまま答える。

 

「人が一度振る間に、八度」

 

沈黙。

 

ティムが聞き間違いを疑う。

 

「八回?」

 

「はい」

 

「本当に?」

 

薔薇が答えた。

 

「本当だ」

 

ガルドが眉をひそめる。

 

「見えないだろ、そんなもの」

 

百合は言った。

 

「見えないから、数える者が必要です」

 

「お前は数えられるのか」

 

「はい」

 

「牡丹は?」

 

「五撃目までは」

 

牡丹が無表情に答える。

 

「残りは音と傷で判断します」

 

ボリスが黒蘭を見る。

 

「八連撃に、名前はあるんですか」

 

百合は一拍置いた。

 

「黒翼」

 

訓練場の空気が変わった。

 

「八つの斬撃が、一羽の鳥の羽ばたきに見えることから、そう呼ばれます」

 

「黒華建国の英雄の両脇には、翼の字を冠した二人の武者がいたと伝わっています」

 

「紫貴双刀流は、その者達から続く武術です」

 

クジュラの指が、無意識に刀の柄を撫でた。

 

伝承と、目の前の男。

 

何かを結び付けようとしている。

 

だが、本当の名には届かない。

 

黒蘭は黒蘭でしかない。

 

今はまだ。

 

---

 

レオンが円の外から問う。

 

「勝敗はどう決める」

 

黒蘭が答える。

 

「一本」

 

「刃引きしていても、直撃すれば死ぬぞ」

 

「当てない」

 

椿も言う。

 

「寸前で止めます」

 

ガルドが呆れた顔をする。

 

「二人とも止められる前提なんだな」

 

薔薇が答えた。

 

「止められないなら、最初からやらない」

 

「万が一は?」

 

「その時は牡丹が治す」

 

牡丹が薔薇を見る。

 

「治せない傷もあります」

 

「じゃあ百合が止める」

 

百合が淡々と言った。

 

「間に入りたくはありません」

 

訓練場の何人かが笑う。

 

だがクジュラとアルベルトは笑わなかった。

 

二人の構えを見れば分かる。

 

間に入れば、巻き込まれる。

 

---

 

黒蘭と椿が向かい合う。

 

距離は十二歩。

 

椿は片方の刀を地面へ刺したまま。

 

右の刀を逆手に構える。

 

黒蘭は二刀を抜き、動かない。

 

風が吹く。

 

黒帯が一度、大きくなびいた。

 

薔薇が右手を上げる。

 

「始め」

 

腕が下りた。

 

椿が消えた。

 

-----

 

最初に動いたのは、椿の黒帯だった。

 

風に流されていた帯が、突然、横へ伸びる。

 

その下を椿が走った。

 

地面へ刺していた刀を抜かない。

 

左手は柄を握ったまま。

 

右手の逆手刀だけを回し、黒蘭へ迫る。

 

十二歩。

 

十歩。

 

八歩。

 

黒蘭は動かない。

 

エナには、椿が正面から駆けているようにしか見えなかった。

 

だが牡丹が言う。

 

「歩幅を見てください」

 

椿の歩幅は一定ではない。

 

大きく踏み込んだ直後、半歩だけ狭くなる。

 

次はさらに狭く。

 

その次は急に広く。

 

身体は滑らかに進んでいるのに、距離の縮まり方が読めない。

 

「舞の拍子です」

 

牡丹が説明する。

 

「一定に見せながら、足だけが拍子を外しています」

 

「相手は間合いを誤ります」

 

黒蘭の右刀が動く。

 

椿の右手から伸びた逆手刀と触れた。

 

金属音。

 

一度。

 

椿は受け止めない。

 

刃の側面へ沿わせ、黒蘭の刀を外側へ流す。

 

身体が回る。

 

黒い髪が弧を描く。

 

黒帯が遅れてついてくる。

 

右の逆手刀が、今度は黒蘭の脇腹へ入る。

 

黒蘭の左刀が受ける。

 

二度目の金属音。

 

その瞬間、椿の左手が動いた。

 

地面へ刺していた刀を引き抜く。

 

石畳から火花。

 

抜き上げた刀が、黒蘭の顎へ向かう。

 

ダリオが息を呑む。

 

三撃目。

 

黒蘭は半歩だけ下がった。

 

刀は顎の下を通過する。

 

黒い帯が黒蘭の視界を覆った。

 

「帯で隠した!」

 

ティムが叫ぶ。

 

牡丹は首を振る。

 

「隠したのではありません」

 

「見せる場所を選ばせました」

 

帯が視界へ入れば、人は帯を見る。

 

見ないよう意識すれば、その意識が遅れになる。

 

どちらを選んでも、椿の刀は動いている。

 

黒蘭の紫の瞳だけが、帯の向こうで椿を捉えていた。

 

---

 

椿は止まらない。

 

抜き上げた左刀を、そのまま上段へ持ち上げる。

 

右の逆手刀を胸元へ畳む。

 

身体を捻る。

 

左足が石畳を蹴った。

 

跳ぶ。

 

「空中へ?」

 

エナが声を上げた。

 

椿の身体は、黒蘭の頭上へ上がった。

 

黒扇刀流は、空中からの攻撃を多用する。

 

膂力で跳ぶのではない。

 

走る勢い。

 

腰の捻り。

 

刀を振る反動。

 

複数の運動を重ね、身体を舞台の上へ押し上げる。

 

空中で椿が回転した。

 

黒帯が大きな円を描く。

 

二本の刀が、扇を開くように左右へ広がった。

 

上から二つの刃が落ちる。

 

黒蘭は右刀を上げる。

 

左刀を横へ置く。

 

二本を別々に受けるつもりではない。

 

椿の右刀へ左を当て、軌道を変える。

 

変えられた刀を、もう一方の刀へぶつける。

 

椿自身の二刀が交差した。

 

一つの接触で、二撃を外した。

 

アルベルトが低く言う。

 

「二本を一度に」

 

クジュラは黒蘭の手元を見ている。

 

「違う」

 

「一度ではない」

 

「何?」

 

「今、三度触れた」

 

アルベルトには、一度の音にしか聞こえなかった。

 

百合が言った。

 

「クジュラ殿の方が近いです」

 

「三度です」

 

最初に左刀の角度を変える。

 

次に右刀の根元を押す。

 

最後に、二本がぶつかる直前に力を抜く。

 

三つの操作。

 

音は一つ。

 

「まだ黒翼ではありません」

 

百合が付け加える。

 

クジュラの目が鋭くなる。

 

これですら違う。

 

---

 

椿は着地しない。

 

黒蘭の刀を足場にした。

 

刃引きされた刀の背へ、一瞬だけ足裏を置く。

 

黒蘭が刀を引けば、椿は体勢を崩す。

 

押せば、その力を跳躍へ変える。

 

どちらを選んでも、椿は次へ進める。

 

黒蘭は動かさなかった。

 

椿はその静止を利用し、再び跳んだ。

 

今度は黒蘭の背後へ。

 

空中で身体を反転させる。

 

右の逆手刀が首へ。

 

左刀が膝裏へ。

 

上下同時。

 

薔薇が腕を組んだまま笑う。

 

「椿らしい」

 

ガルドには、どこが椿らしいのか分からない。

 

「首と脚を同時に狙うのがか?」

 

「違う」

 

「黒蘭が片方しか守れないとは思ってない」

 

薔薇は答える。

 

「両方守る前提で、その後を狙ってる」

 

黒蘭の二刀が動く。

 

首への刃を右で流す。

 

膝裏への刃を左で止める。

 

椿の身体が、受けられた反動でさらに回る。

 

黒帯が黒蘭の腕へ巻きつく。

 

エナが叫ぶ。

 

「捕まえた!」

 

牡丹は首を振る。

 

「捕まえたのではありません」

 

「繋いだのです」

 

黒帯は拘束具ではない。

 

黒蘭の右腕と、椿の左刀を一瞬だけ結んだ。

 

黒蘭が腕を動かせば、その動きが帯を通じて椿へ伝わる。

 

椿は目で見なくても、次の動きを知ることができる。

 

椿が着地した。

 

低い姿勢。

 

右刀は黒蘭の胸元。

 

左刀は帯を張ったまま、外側へ。

 

黒蘭の右手が僅かに動く。

 

椿も同時に動いた。

 

「先に反応した」

 

ダリオが言う。

 

百合が答える。

 

「動きを読んだのではありません」

 

「触れているのです」

 

「黒扇刀流は、目だけで相手を見ません」

 

「刃、帯、風、床」

 

「触れた全てから動きを読みます」

 

---

 

黒蘭が初めて大きく踏み込んだ。

 

椿が動きを知ったのと同時。

 

右刀が椿の胸へ向かう。

 

椿は帯を緩め、身体を沈める。

 

黒蘭の左刀が低い位置から上がる。

 

椿は跳ぶ。

 

予想通りの回避。

 

百合が言った。

 

「ここからです」

 

黒蘭の右刀は空を切った。

 

左刀も椿の足元を通過する。

 

二本とも外れた。

 

そう見えた。

 

だが、最初の右刀が戻る前に、黒蘭の左肩が僅かに回る。

 

外れた左刀の勢いが腰へ移る。

 

腰の回転が右脚を前へ出す。

 

踏み込みが右刀を戻す。

 

戻る右刀が、次の左刀を押し出す。

 

一つの動作が終わる前に、次が始まっている。

 

金属音が鳴った。

 

一つ。

 

椿の刀が二本とも弾かれた。

 

黒帯が切れた。

 

空中の椿の周囲へ、八本の細い線が走った。

 

髪。

 

袖。

 

帯。

 

胸元。

 

脇腹。

 

肩。

 

脚。

 

喉元。

 

刃は身体へ触れていない。

 

衣服と帯だけが、異なる八か所で裂けた。

 

黒蘭は椿の背後へ立っていた。

 

二刀を振り抜いた姿勢。

 

誰も呼吸をしない。

 

黒帯の切れ端が、ゆっくりと落ちる。

 

「今のが」

 

ティムの声が掠れた。

 

百合が答える。

 

「黒翼です」

 

一羽の鳥が羽ばたいた。

 

そう見えた者すら、ほとんどいない。

 

見えたのは、黒蘭の周囲で黒い影が広がった一瞬だけ。

 

ガルドが石壁を見る。

 

椿の後方。

 

壁に八本の浅い傷が残っている。

 

すべて異なる角度。

 

すべて同じ高さではない。

 

「八回……」

 

百合は頷いた。

 

「はい」

 

クジュラだけは、黒蘭ではなく椿を見ていた。

 

「まだ終わっていない」

 

---

 

椿の足が床へ触れる。

 

切れた黒帯が舞う。

 

二刀は弾かれた。

 

右刀は手に残っている。

 

左刀は空中。

 

普通なら、ここで終わりだった。

 

椿は右手の刀を逆手のまま地面へ突き立てた。

 

勢いを殺すのではない。

 

刀を軸に身体を回す。

 

関節が滑らかに連なる。

 

肩。

 

肘。

 

手首。

 

腰。

 

膝。

 

足首。

 

落下していた左刀を、回転の途中で蹴り上げる。

 

刀が宙へ戻る。

 

椿は左手で受け取った。

 

観客から声が上がる。

 

そのまま一回転。

 

低い位置から左刀が黒蘭の背へ向かう。

 

黒蘭は振り向かない。

 

左刀を背後へ回し、椿の刃を止める。

 

金属音。

 

椿の右手が、地面へ刺した刀の柄を離す。

 

身体だけが前へ進む。

 

地面の刀を置き去りにし、左の一刀で黒蘭へ踏み込む。

 

右手は空。

 

だが空いた手が、黒蘭の手首を取る。

 

自分の力で押さえるのではない。

 

黒蘭の関節が最も曲がりにくい角度へ、手の位置を置く。

 

一瞬だけ、黒蘭の左刀が止まった。

 

椿の左刀が、黒蘭の首元へ迫る。

 

セリアが息を呑む。

 

「届く」

 

剣先が黒蘭の喉へ近づく。

 

黒蘭の右刀も、椿の胸へ向いていた。

 

互いの刃が相手へ届く。

 

先に止まったのは、椿だった。

 

黒蘭の右刀は、椿の胸元から指一本分。

 

椿の刀は、黒蘭の喉から指二本分。

 

ほとんど同時。

 

だが黒蘭の方が僅かに近い。

 

訓練場に静寂が落ちる。

 

黒蘭が言った。

 

「一本」

 

椿は刀を下ろす。

 

一歩退く。

 

深く一礼した。

 

「ありがとうございました」

 

黒蘭も刀を下ろす。

 

「腕を上げたな」

 

椿の黒い瞳が、僅かに揺れた。

 

勝敗よりも、その一言の方が大きかった。

 

「光栄です」

 

声は変わらない。

 

だが薔薇には分かった。

 

椿は喜んでいる。

 

---

 

見物人達は、すぐには声を出せなかった。

 

最初に息を吐いたのはガルドだった。

 

「これが、久しぶりの訓練か」

 

「そうだ」

 

薔薇が答える。

 

「何年も繰り返してきたような動きだったぞ」

 

「子供の頃から見てる」

 

「黒蘭と椿が?」

 

「黒華では、王族も武家も訓練する」

 

薔薇は当然のこととして言った。

 

「互いの流派を知らずに、同じ戦場へ立てないだろ」

 

アルベルトが黒蘭へ近づく。

 

「最後、椿の刃も届いていた」

 

「ああ」

 

「黒翼を受けた後で」

 

「椿の流派は、崩れた姿勢から始まる技も多い」

 

黒蘭は答える。

 

「美しく舞うためには、崩れた時の戻り方を知る必要がある」

 

牡丹が椿の切れた帯を拾う。

 

「黒蘭様も、右袖を斬られています」

 

皆の視線が黒蘭へ向く。

 

右袖。

 

黒い布に、ごく細い裂け目があった。

 

いつ斬られたのか。

 

黒翼の直前。

 

帯で腕を繋いだ瞬間、椿の刃が触れていた。

 

薔薇が笑う。

 

「やるな、椿」

 

「一本にはなりません」

 

「でも斬っただろ」

 

「衣だけです」

 

黒蘭が言った。

 

「戦場なら、次へ繋がる傷だ」

 

椿は僅かに頭を下げた。

 

「次は、もう少し深く」

 

「深くするな」

 

薔薇が笑う。

 

訓練場の空気が、ようやく緩んだ。

 

---

 

エナは牡丹へ尋ねた。

 

「黒蘭さんの方が強いんですよね」

 

「はい」

 

牡丹は迷わず答える。

 

「では、椿さんの流派は、紫貴双刀流より弱い?」

 

「いいえ」

 

エナが困った顔をする。

 

牡丹は言葉を選ぶ。

 

「流派に順位を付ける意味はありません」

 

「紫貴双刀流は、相手を正面から最速で断つための武術です」

 

「黒扇刀流は、力で勝る相手の間合いと判断を崩し、戦場全体を支配する武術です」

 

「同じ目的ではありません」

 

百合も続ける。

 

「黒蘭は、紫貴双刀流を極めています」

 

「椿様も、黒扇刀流の皆伝者です」

 

「今日の勝敗は、流派の勝敗ではありません」

 

「二人の勝敗です」

 

クジュラが口を開いた。

 

「黒扇刀流は、王族のみ」

 

「紫貴双刀流は、王家を支えた武門の技」

 

黒蘭がクジュラを見る。

 

「詳しいな」

 

「刀を持つ者なら、東方の伝承を調べることもある」

 

クジュラは黒蘭の二刀を見る。

 

「だが、伝承では黒翼は失われたとされていた」

 

「残っている」

 

「見れば分かる」

 

クジュラは一歩、円の内側へ入る。

 

「いつか俺ともやれ」

 

薔薇が眉を上げる。

 

「今やればいいだろ」

 

クジュラは黒蘭を見たまま答える。

 

「今日は黒扇と黒翼を見に来た」

 

「俺の刀を混ぜる日ではない」

 

黒蘭は短く言う。

 

「分かった」

 

断らなかった。

 

クジュラの口元に、僅かな笑みが浮かぶ。

 

---

 

見物人が帰り始めた頃。

 

ティムは、石壁に残った八本の傷を見ていた。

 

隣にはガルド。

 

「今日見たこと、覚えていられると思うか」

 

ガルドが尋ねる。

 

ティムは傷へ指を近づける。

 

触れはしない。

 

「全部は無理です」

 

「だろうな」

 

「でも、黒華って国に、ああいう剣があったことは覚えています」

 

ガルドは少し黙った。

 

それから、椿達の方を見る。

 

牡丹が切れた黒帯を回収している。

 

薔薇が黒蘭の袖の傷をからかっている。

 

百合は床に残った足跡を見ている。

 

滅びた国の五人。

 

「なら、今日見せた意味はあったんだろう」

 

ティムは頷いた。

 

「誰かに話してもいいですか」

 

「勝手に技を教えるのはやめろ」

 

「教えられません」

 

ティムは素直に答える。

 

「何が起きたかも、ほとんど見えませんでしたから」

 

ガルドが笑った。

 

「それでいい」

 

---

 

訓練場の外。

 

向かいの屋根に潜んでいた貴族の監視者は、震える手で報告を書いていた。

 

黒華椿。

 

王族。

 

黒扇刀流皆伝。

 

空中戦を主体とし、自己への号令によって身体能力を強化。

 

黒蘭。

 

紫貴双刀流。

 

伝承上の八連撃、黒翼を使用。

 

目視困難。

 

椿の衣と帯を八か所同時に切断。

 

対人戦においても海都上位冒険者を遥かに超える可能性。

 

男は筆を止める。

 

事実だけを書けばよい。

 

だが、最後の一文だけは、自分の判断として加えた。

 

**黒蘭一人が脅威なのではない。**

 

**黒華五刀は、失われた国家の軍事体系そのものである。**

 

報告書は、その日のうちに貴族街へ運ばれた。

 

---

 

夕刻。

 

閉ざされた一室で、数人の貴族が報告を読んでいた。

 

「八連撃」

 

「誇張ではないのか」

 

「クジュラも確認している」

 

「王族の女も、黒蘭へ刃を届かせたとある」

 

「つまり黒蘭だけを排除しても、残りがいる」

 

誰かが低く言う。

 

「五人ではない」

 

「五人しか残っていないだけだ」

 

黒華という国は滅びた。

 

だが、その武術。

 

規律。

 

指揮。

 

忍び。

 

兵站。

 

王族。

 

将軍。

 

一つの国家を形作っていた要素が、五人の中に残っている。

 

老貴族が報告書を閉じた。

 

「海都の者では、黒蘭の格を落とせない」

 

若い貴族が問う。

 

「では、どうする」

 

「外から呼ぶ」

 

「誰を」

 

老貴族は卓上へ一通の書簡を置いた。

 

海都から遠く離れた北方国家。

 

その国で、最強と呼ばれる戦士。

 

数十の決闘で一度も敗れず、戦場では敵将を正面から討ち取った男。

 

自らを超える相手を求め、各地を巡っているという。

 

「黒蘭と戦える者を探している、と伝える」

 

「黒蘭が負ければ、無敵という評判は崩れる」

 

「勝った場合は?」

 

部屋が静まる。

 

老貴族は答えた。

 

「少なくとも、黒蘭の技をさらに見られる」

 

「負けても、損をするのは外国人だ」

 

書簡へ封蝋が落とされる。

 

ラウルス家のような直接的な罠ではない。

 

毒も使わない。

 

地図も偽らない。

 

ただ、強者へ強者の名を伝える。

 

来るかどうかは、相手の意思。

 

戦うかどうかも、黒蘭の意思。

 

貴族達はそう言い訳できる。

 

だが、その書簡に込められた目的は明白だった。

 

黒蘭を、公衆の前で敗北させる。

 

---

 

同じ頃。

 

訓練を終えた黒華五刀は、宿で夕食を取っていた。

 

薔薇が椿の切れた帯を持ち上げる。

 

「捨てるのか?」

 

「繕います」

 

椿が答える。

 

「短くなるぞ」

 

「新しい布を継ぎます」

 

牡丹はすでに裁縫道具を出していた。

 

百合は黒蘭の袖を見ている。

 

「椿様の刃が届きました」

 

「ああ」

 

「将軍の負けですか」

 

「一本は取られていない」

 

「衣を斬られました」

 

「お前はどちらの味方だ」

 

「事実の味方です」

 

薔薇が声を上げて笑った。

 

椿は少しだけ口元を緩める。

 

黒蘭も、それ以上は言わなかった。

 

海都来訪七十四日目。

 

黒華五刀は、迷宮へ入らない一日にも新しいものを得た。

 

海都の冒険者達は、彼らが強い理由の一端を知った。

 

そして、滅びた黒華の武術を覚えた者が生まれた。

 

クジュラは、失われたはずの剣を見た。

 

貴族達は、黒蘭一人ではなく、五人全員を恐れるようになった。

 

その夜。

 

ティムは宿へ戻ると、借りていた紙へ一行だけ記した。

 

**黒華という国には、舞う王族と、翼のように刀を振るう剣士がいた。**

 

技の仕組みは書けなかった。

 

動きも、ほとんど理解できなかった。

 

それでも、その国があったことだけは書けた。

 

黒華五刀は、それを知らない。

 

知らなくてもよかった。

 

誰か一人の中に、黒華の名が残った。

 

それだけで、今日技を見せた意味はあった。

 

そして海都の外ではまだ、誰も知らない。

 

自国最強を名乗る一人の戦士へ向けて、黒蘭の名を記した書簡が送り出されたことを。

 

第二十話 了

 

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