海都来訪七十四日目。
ラウルス家の事件から二日。
黒華五刀に科された七日間の公的依頼受注停止は、三日目を迎えていた。
迷宮へ入ること自体を禁じられたわけではない。
私的な探索も、商会との取引も制限されていない。
だが黒蘭は、この七日間は迷宮へ入らないと決めた。
処分の抜け道を使えば、警備隊と貴族へ余計な口実を与える。
それに、三十三階から先へ進む前に見直すべきものがあった。
装備。
地図。
連携。
そして、自分達の戦い方。
海都へ来て七十四日。
黒華五刀は一度も敗れていない。
それでも、海都で初めて知る戦術や技術はあった。
五人が完成していることと、これ以上強くなれないことは同じではない。
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その朝。
黒蘭達が借りたのは、冒険者ギルド裏手にある第二訓練場だった。
第一訓練場より狭い。
周囲を石壁で囲まれ、普段は上位冒険者の対人訓練や、危険な術式の試験に使われている。
床は厚い石畳。
壁際には武器棚。
中央には、白線で円が描かれていた。
黒蘭が刃引きされた二本の刀を確認する。
実戦用より僅かに重い。
刃は潰されているが、まともに受ければ骨は折れる。
椿も二刀を受け取った。
片方の刀の柄頭には、細長い黒帯が結ばれている。
帯は装飾ではない。
刀の位置を視界の端で知るため。
味方へ自分の位置を示すため。
時には敵の目を惑わせ、時には号令を視覚として届けるためのものだった。
牡丹が黒帯の結び目を確認する。
「緩みはありません」
椿は刀を一度振り、帯の流れを見る。
「ありがとうございます」
薔薇は壁際へ籠手を置き、腕を組んでいた。
「本当にやるのか」
「ああ」
黒蘭が答える。
「久しぶりですね」
椿は静かに言った。
「いつ以来だ」
「海を渡る前です」
薔薇が笑う。
「それを久しぶりって言うんだ」
百合は訓練場の入口へ顔を向けた。
「見物人が来ます」
黒蘭も足音を聞いていた。
一人や二人ではない。
「閉めたはずでは?」
椿が問う。
牡丹が答える。
「借用申請は非公開ではありません」
「ギルド内の記録を見れば、場所と時間は分かります」
薔薇が入口を睨む。
「また内通者か?」
「今回は違います」
牡丹は無表情のまま続けた。
「レオン殿が許可しました」
黒蘭が僅かに眉を寄せる。
---
最初に現れたのは、ガルドとダリオだった。
その後ろに、エナ、ボリス、ティム。
新人講習に参加した三人である。
さらにアルベルト。
月下猟姫のセリア。
獣王爪牙のバルト。
訓練中の若手冒険者が数名。
最後に、クジュラが入ってきた。
警備隊の装束ではない。
腰には自分の刀。
明らかに、警備のためではなく剣士として見に来ている。
黒蘭は入口脇に立つレオンを見る。
「見世物にしたか」
「訓練を見ることを許しただけだ」
レオンは悪びれない。
「七日間も黒華五刀を閉じ込めておけば、何をしているか気になる奴は出る」
「断ればよかった」
「断ったら、壁に穴を開けて覗く奴が出る」
セリアが遠くから言った。
「私はそこまでしないわよ」
バルトが隣で答える。
「お前なら高い木を立てかける」
「穴を開けるより上品でしょう」
黒蘭はレオンを見る。
「人数を増やすな」
「これ以上は入れない」
「貴族の使いは」
レオンの表情が僅かに変わる。
「二人来た」
「断った」
百合が訓練場の高窓を見る。
「外にいます」
レオンが顔を上げた。
「どこだ」
「向かいの屋根に一人」
「鐘楼に一人」
クジュラが舌打ちする。
「追い払うか」
黒蘭は首を振った。
「見せればいい」
貴族達は、黒蘭を危険視している。
ならば中途半端に隠せば、好きな形へ噂を作る。
実際に見せた方が早い。
「ただし近づけるな」
クジュラが答える。
「警備隊へ伝える」
今度は黒蘭も拒まなかった。
---
見物人達が石壁沿いへ並ぶ。
訓練場の中央に残るのは、黒蘭と椿。
二人はまだ刀を抜いていない。
牡丹と百合は、新人三人の近くへ移動した。
説明役を務めるつもりらしい。
その様子を見て、ガルドが眉を寄せた。
「ちょっと待て」
牡丹が顔を向ける。
「何でしょう」
「お前達の国の流派なんだろう」
「ああいうものは、普通、外の者に簡単に教えないんじゃないのか」
クジュラも視線だけを向ける。
刀を持つ者ほど、その疑問は強い。
秘伝。
口伝。
門外不出。
優れた武術ほど、その技理を隠す。
それは海都でも、黒華でも同じだった。
ダリオが周囲を見回す。
「しかも、屋根には貴族の監視までいる」
「そんなにペラペラ話していいのか?」
牡丹はすぐには答えなかった。
椿を見る。
椿は地面へ刺す予定の刀を持ったまま、静かに見物人達へ向き直った。
「黒華という国は、もうありません」
訓練場の空気が僅かに変わる。
「土地は失われました」
「城も、家も、流派を継ぐ者の多くも」
椿の声は穏やかだった。
悲嘆を訴える調子ではない。
すでに背負うと決めた者の声だった。
「隠し続けた結果、誰にも知られないまま消えてしまえば、黒華に存在しなかったことと同じになります」
エナが椿を見つめる。
「だから、教えるんですか」
「全てを教えるわけではありません」
椿は答えた。
「見ただけで習得できるほど、浅い武術でもありません」
黒蘭も口を開く。
「形を真似るだけなら、好きにすればいい」
「骨と呼吸と、何を守るために作られた技かを知らなければ、同じものにはならない」
クジュラの指が、腰の刀の柄へ触れる。
武術は動作だけではない。
生まれた土地。
戦った敵。
守ったもの。
積み重ねた死。
それらが形となったものだ。
外形を写しただけでは、流派にはならない。
薔薇が腕を組んだまま言った。
「国はなくなった」
「でも、私達まで恥じて隠す理由はない」
その声には、椿よりも直接的な感情があった。
「強かったことも」
「馬鹿みたいに何度も戦ったことも」
「綺麗な技を作った奴がいたことも」
「誰かには知ってほしい」
百合が静かに続ける。
「記録がなければ、人は忘れます」
牡丹も言った。
「誰にも知られない誇りは、最後の一人が死ねば消えます」
「私達だけで抱えて終わるより、誰か一人でも覚えている方がよい」
ガルドは黒華五刀を見る。
故郷を失った五人。
その五人が、自分達の技を見せる。
自慢のためではない。
海都へ取り入るためでもない。
失われた国が確かに存在したと、誰かの記憶へ残すため。
「……そうか」
ガルドはそれ以上、止めなかった。
クジュラが言う。
「なら、よく見ておく」
「東方に、こういう刀があったと」
黒蘭は短く答えた。
「ああ」
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椿が円の中央へ進む。
左手の刀を抜く。
その刀を、自分の正面より僅かに右へ突き立てた。
切っ先が石畳の隙間へ入る。
刀は直立する。
柄頭から伸びた黒帯が、朝の風を受けて静かになびいた。
椿の左手は、突き立てた刀の柄へ重なる。
右手がもう一方の刀を逆手に抜く。
腕を真横へ伸ばす。
剣先は黒蘭へ向いた。
背筋は真っ直ぐ。
顎は引かれ、足は左右へ開かれている。
大和撫子を思わせる静かな立ち姿。
それでいて、侵しがたい威厳があった。
ティムが息を呑む。
「綺麗だ」
百合が言った。
「美しいと思うのは正しい見方です」
ダリオが百合を見る。
「武術なのに?」
「武術だからです」
牡丹が続ける。
「黒扇刀流」
「黒華の王族にのみ許された流派です」
クジュラの目が僅かに動いた。
「黒扇刀流」
その名を知っているようだった。
だが何も言わない。
---
牡丹は、椿の構えを見ながら説明する。
「黒華は、権力を持つ者へ相応の武力を求める国でした」
「武家だけではありません」
「王族も、自ら戦えなければなりません」
「しかし、黒華王家の者は、純粋な膂力や武芸の才に恵まれないことが多かった」
エナが椿を見る。
「弱かったんですか」
「かつては」
牡丹は否定しなかった。
「源流を辿れば武者の家系です」
「ですが代を重ねるにつれ、歌、舞、書、絵といった芸術へ才能が偏っていきました」
「平和な時代なら、それでよかった」
「けれど、黒華は戦国でした」
黒華王族もまた、戦場へ立つ必要があった。
弱いから戦わない。
才能がないから守られる。
それでは、黒華の王族ではいられない。
「彼らは、自分達の弱さを隠しませんでした」
牡丹は言う。
「力で勝てないなら、力とは別の強さを作ろうとした」
「舞の重心移動」
「歌の呼吸」
「扇の軌道」
「身体の柔らかさ」
「関節の滑らかさ」
「それらを刀へ移した」
「そうして生まれたものが、黒扇刀流です」
風が黒帯を持ち上げる。
椿の右手の刀が、扇のようにゆっくりと回った。
手首だけではない。
肘。
肩。
背骨。
腰。
全ての関節が、途切れず一つの円を作る。
刀身の重さが消えたように見えた。
「黒の字は、王家と黒号にのみ許されます」
牡丹が続ける。
「流派名へ黒を入れることを許された武術は、黒扇刀流だけです」
「王族の誇りそのものですから」
椿が小さく息を吸った。
「立て」
誰に命じたのか。
自分自身へ。
「恐れるな」
声は静かだった。
それでも、空気が震えた。
「進め」
椿の身体から、僅かな威圧が広がる。
普段は味方全体へ分け与える号令。
それを、今は自分一人へ集中している。
足運びが変わる。
呼吸が深くなる。
筋肉の動きが、無駄なく揃っていく。
アルベルトの顔から、観察者の余裕が消えた。
「支援役ではないな」
薔薇が笑う。
「最初から誰も、そうは言ってない」
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黒蘭が二本の刀を抜いた。
左右とも順手。
右刀は腰の高さ。
左刀は胸の前。
構え自体は低い。
華やかさはない。
椿の黒帯のような目を引くものもない。
ただ立っている。
ボリスが首を傾げる。
「黒蘭さんの方は、普通に見える」
百合が言った。
「普通に見えるよう、全てを削っています」
「流派は?」
エナが尋ねる。
百合は答えた。
「紫貴双刀流」
その名に、クジュラが今度こそ黒蘭を見た。
「紫貴……」
セリアが聞き返す。
「知っているの?」
「東方の古い流派名だ」
クジュラは短く答える。
「二刀流の原点と呼ばれたこともある」
黒蘭はクジュラを見ない。
百合も説明を止めない。
「小手先の速さではありません」
「人体の構造を極限まで使います」
「右の斬撃が左の斬撃を生み」
「左の回転が次の踏み込みを作る」
「一撃ごとに構え直さない」
「骨、関節、筋、呼吸、重心」
「全てを一つの連続した運動へ変えます」
ダリオが黒蘭の肩を見る。
ほとんど動いていない。
「それで、どれくらい速い」
百合は細い目のまま答える。
「人が一度振る間に、八度」
沈黙。
ティムが聞き間違いを疑う。
「八回?」
「はい」
「本当に?」
薔薇が答えた。
「本当だ」
ガルドが眉をひそめる。
「見えないだろ、そんなもの」
百合は言った。
「見えないから、数える者が必要です」
「お前は数えられるのか」
「はい」
「牡丹は?」
「五撃目までは」
牡丹が無表情に答える。
「残りは音と傷で判断します」
ボリスが黒蘭を見る。
「八連撃に、名前はあるんですか」
百合は一拍置いた。
「黒翼」
訓練場の空気が変わった。
「八つの斬撃が、一羽の鳥の羽ばたきに見えることから、そう呼ばれます」
「黒華建国の英雄の両脇には、翼の字を冠した二人の武者がいたと伝わっています」
「紫貴双刀流は、その者達から続く武術です」
クジュラの指が、無意識に刀の柄を撫でた。
伝承と、目の前の男。
何かを結び付けようとしている。
だが、本当の名には届かない。
黒蘭は黒蘭でしかない。
今はまだ。
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レオンが円の外から問う。
「勝敗はどう決める」
黒蘭が答える。
「一本」
「刃引きしていても、直撃すれば死ぬぞ」
「当てない」
椿も言う。
「寸前で止めます」
ガルドが呆れた顔をする。
「二人とも止められる前提なんだな」
薔薇が答えた。
「止められないなら、最初からやらない」
「万が一は?」
「その時は牡丹が治す」
牡丹が薔薇を見る。
「治せない傷もあります」
「じゃあ百合が止める」
百合が淡々と言った。
「間に入りたくはありません」
訓練場の何人かが笑う。
だがクジュラとアルベルトは笑わなかった。
二人の構えを見れば分かる。
間に入れば、巻き込まれる。
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黒蘭と椿が向かい合う。
距離は十二歩。
椿は片方の刀を地面へ刺したまま。
右の刀を逆手に構える。
黒蘭は二刀を抜き、動かない。
風が吹く。
黒帯が一度、大きくなびいた。
薔薇が右手を上げる。
「始め」
腕が下りた。
椿が消えた。
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最初に動いたのは、椿の黒帯だった。
風に流されていた帯が、突然、横へ伸びる。
その下を椿が走った。
地面へ刺していた刀を抜かない。
左手は柄を握ったまま。
右手の逆手刀だけを回し、黒蘭へ迫る。
十二歩。
十歩。
八歩。
黒蘭は動かない。
エナには、椿が正面から駆けているようにしか見えなかった。
だが牡丹が言う。
「歩幅を見てください」
椿の歩幅は一定ではない。
大きく踏み込んだ直後、半歩だけ狭くなる。
次はさらに狭く。
その次は急に広く。
身体は滑らかに進んでいるのに、距離の縮まり方が読めない。
「舞の拍子です」
牡丹が説明する。
「一定に見せながら、足だけが拍子を外しています」
「相手は間合いを誤ります」
黒蘭の右刀が動く。
椿の右手から伸びた逆手刀と触れた。
金属音。
一度。
椿は受け止めない。
刃の側面へ沿わせ、黒蘭の刀を外側へ流す。
身体が回る。
黒い髪が弧を描く。
黒帯が遅れてついてくる。
右の逆手刀が、今度は黒蘭の脇腹へ入る。
黒蘭の左刀が受ける。
二度目の金属音。
その瞬間、椿の左手が動いた。
地面へ刺していた刀を引き抜く。
石畳から火花。
抜き上げた刀が、黒蘭の顎へ向かう。
ダリオが息を呑む。
三撃目。
黒蘭は半歩だけ下がった。
刀は顎の下を通過する。
黒い帯が黒蘭の視界を覆った。
「帯で隠した!」
ティムが叫ぶ。
牡丹は首を振る。
「隠したのではありません」
「見せる場所を選ばせました」
帯が視界へ入れば、人は帯を見る。
見ないよう意識すれば、その意識が遅れになる。
どちらを選んでも、椿の刀は動いている。
黒蘭の紫の瞳だけが、帯の向こうで椿を捉えていた。
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椿は止まらない。
抜き上げた左刀を、そのまま上段へ持ち上げる。
右の逆手刀を胸元へ畳む。
身体を捻る。
左足が石畳を蹴った。
跳ぶ。
「空中へ?」
エナが声を上げた。
椿の身体は、黒蘭の頭上へ上がった。
黒扇刀流は、空中からの攻撃を多用する。
膂力で跳ぶのではない。
走る勢い。
腰の捻り。
刀を振る反動。
複数の運動を重ね、身体を舞台の上へ押し上げる。
空中で椿が回転した。
黒帯が大きな円を描く。
二本の刀が、扇を開くように左右へ広がった。
上から二つの刃が落ちる。
黒蘭は右刀を上げる。
左刀を横へ置く。
二本を別々に受けるつもりではない。
椿の右刀へ左を当て、軌道を変える。
変えられた刀を、もう一方の刀へぶつける。
椿自身の二刀が交差した。
一つの接触で、二撃を外した。
アルベルトが低く言う。
「二本を一度に」
クジュラは黒蘭の手元を見ている。
「違う」
「一度ではない」
「何?」
「今、三度触れた」
アルベルトには、一度の音にしか聞こえなかった。
百合が言った。
「クジュラ殿の方が近いです」
「三度です」
最初に左刀の角度を変える。
次に右刀の根元を押す。
最後に、二本がぶつかる直前に力を抜く。
三つの操作。
音は一つ。
「まだ黒翼ではありません」
百合が付け加える。
クジュラの目が鋭くなる。
これですら違う。
---
椿は着地しない。
黒蘭の刀を足場にした。
刃引きされた刀の背へ、一瞬だけ足裏を置く。
黒蘭が刀を引けば、椿は体勢を崩す。
押せば、その力を跳躍へ変える。
どちらを選んでも、椿は次へ進める。
黒蘭は動かさなかった。
椿はその静止を利用し、再び跳んだ。
今度は黒蘭の背後へ。
空中で身体を反転させる。
右の逆手刀が首へ。
左刀が膝裏へ。
上下同時。
薔薇が腕を組んだまま笑う。
「椿らしい」
ガルドには、どこが椿らしいのか分からない。
「首と脚を同時に狙うのがか?」
「違う」
「黒蘭が片方しか守れないとは思ってない」
薔薇は答える。
「両方守る前提で、その後を狙ってる」
黒蘭の二刀が動く。
首への刃を右で流す。
膝裏への刃を左で止める。
椿の身体が、受けられた反動でさらに回る。
黒帯が黒蘭の腕へ巻きつく。
エナが叫ぶ。
「捕まえた!」
牡丹は首を振る。
「捕まえたのではありません」
「繋いだのです」
黒帯は拘束具ではない。
黒蘭の右腕と、椿の左刀を一瞬だけ結んだ。
黒蘭が腕を動かせば、その動きが帯を通じて椿へ伝わる。
椿は目で見なくても、次の動きを知ることができる。
椿が着地した。
低い姿勢。
右刀は黒蘭の胸元。
左刀は帯を張ったまま、外側へ。
黒蘭の右手が僅かに動く。
椿も同時に動いた。
「先に反応した」
ダリオが言う。
百合が答える。
「動きを読んだのではありません」
「触れているのです」
「黒扇刀流は、目だけで相手を見ません」
「刃、帯、風、床」
「触れた全てから動きを読みます」
---
黒蘭が初めて大きく踏み込んだ。
椿が動きを知ったのと同時。
右刀が椿の胸へ向かう。
椿は帯を緩め、身体を沈める。
黒蘭の左刀が低い位置から上がる。
椿は跳ぶ。
予想通りの回避。
百合が言った。
「ここからです」
黒蘭の右刀は空を切った。
左刀も椿の足元を通過する。
二本とも外れた。
そう見えた。
だが、最初の右刀が戻る前に、黒蘭の左肩が僅かに回る。
外れた左刀の勢いが腰へ移る。
腰の回転が右脚を前へ出す。
踏み込みが右刀を戻す。
戻る右刀が、次の左刀を押し出す。
一つの動作が終わる前に、次が始まっている。
金属音が鳴った。
一つ。
椿の刀が二本とも弾かれた。
黒帯が切れた。
空中の椿の周囲へ、八本の細い線が走った。
髪。
袖。
帯。
胸元。
脇腹。
肩。
脚。
喉元。
刃は身体へ触れていない。
衣服と帯だけが、異なる八か所で裂けた。
黒蘭は椿の背後へ立っていた。
二刀を振り抜いた姿勢。
誰も呼吸をしない。
黒帯の切れ端が、ゆっくりと落ちる。
「今のが」
ティムの声が掠れた。
百合が答える。
「黒翼です」
一羽の鳥が羽ばたいた。
そう見えた者すら、ほとんどいない。
見えたのは、黒蘭の周囲で黒い影が広がった一瞬だけ。
ガルドが石壁を見る。
椿の後方。
壁に八本の浅い傷が残っている。
すべて異なる角度。
すべて同じ高さではない。
「八回……」
百合は頷いた。
「はい」
クジュラだけは、黒蘭ではなく椿を見ていた。
「まだ終わっていない」
---
椿の足が床へ触れる。
切れた黒帯が舞う。
二刀は弾かれた。
右刀は手に残っている。
左刀は空中。
普通なら、ここで終わりだった。
椿は右手の刀を逆手のまま地面へ突き立てた。
勢いを殺すのではない。
刀を軸に身体を回す。
関節が滑らかに連なる。
肩。
肘。
手首。
腰。
膝。
足首。
落下していた左刀を、回転の途中で蹴り上げる。
刀が宙へ戻る。
椿は左手で受け取った。
観客から声が上がる。
そのまま一回転。
低い位置から左刀が黒蘭の背へ向かう。
黒蘭は振り向かない。
左刀を背後へ回し、椿の刃を止める。
金属音。
椿の右手が、地面へ刺した刀の柄を離す。
身体だけが前へ進む。
地面の刀を置き去りにし、左の一刀で黒蘭へ踏み込む。
右手は空。
だが空いた手が、黒蘭の手首を取る。
自分の力で押さえるのではない。
黒蘭の関節が最も曲がりにくい角度へ、手の位置を置く。
一瞬だけ、黒蘭の左刀が止まった。
椿の左刀が、黒蘭の首元へ迫る。
セリアが息を呑む。
「届く」
剣先が黒蘭の喉へ近づく。
黒蘭の右刀も、椿の胸へ向いていた。
互いの刃が相手へ届く。
先に止まったのは、椿だった。
黒蘭の右刀は、椿の胸元から指一本分。
椿の刀は、黒蘭の喉から指二本分。
ほとんど同時。
だが黒蘭の方が僅かに近い。
訓練場に静寂が落ちる。
黒蘭が言った。
「一本」
椿は刀を下ろす。
一歩退く。
深く一礼した。
「ありがとうございました」
黒蘭も刀を下ろす。
「腕を上げたな」
椿の黒い瞳が、僅かに揺れた。
勝敗よりも、その一言の方が大きかった。
「光栄です」
声は変わらない。
だが薔薇には分かった。
椿は喜んでいる。
---
見物人達は、すぐには声を出せなかった。
最初に息を吐いたのはガルドだった。
「これが、久しぶりの訓練か」
「そうだ」
薔薇が答える。
「何年も繰り返してきたような動きだったぞ」
「子供の頃から見てる」
「黒蘭と椿が?」
「黒華では、王族も武家も訓練する」
薔薇は当然のこととして言った。
「互いの流派を知らずに、同じ戦場へ立てないだろ」
アルベルトが黒蘭へ近づく。
「最後、椿の刃も届いていた」
「ああ」
「黒翼を受けた後で」
「椿の流派は、崩れた姿勢から始まる技も多い」
黒蘭は答える。
「美しく舞うためには、崩れた時の戻り方を知る必要がある」
牡丹が椿の切れた帯を拾う。
「黒蘭様も、右袖を斬られています」
皆の視線が黒蘭へ向く。
右袖。
黒い布に、ごく細い裂け目があった。
いつ斬られたのか。
黒翼の直前。
帯で腕を繋いだ瞬間、椿の刃が触れていた。
薔薇が笑う。
「やるな、椿」
「一本にはなりません」
「でも斬っただろ」
「衣だけです」
黒蘭が言った。
「戦場なら、次へ繋がる傷だ」
椿は僅かに頭を下げた。
「次は、もう少し深く」
「深くするな」
薔薇が笑う。
訓練場の空気が、ようやく緩んだ。
---
エナは牡丹へ尋ねた。
「黒蘭さんの方が強いんですよね」
「はい」
牡丹は迷わず答える。
「では、椿さんの流派は、紫貴双刀流より弱い?」
「いいえ」
エナが困った顔をする。
牡丹は言葉を選ぶ。
「流派に順位を付ける意味はありません」
「紫貴双刀流は、相手を正面から最速で断つための武術です」
「黒扇刀流は、力で勝る相手の間合いと判断を崩し、戦場全体を支配する武術です」
「同じ目的ではありません」
百合も続ける。
「黒蘭は、紫貴双刀流を極めています」
「椿様も、黒扇刀流の皆伝者です」
「今日の勝敗は、流派の勝敗ではありません」
「二人の勝敗です」
クジュラが口を開いた。
「黒扇刀流は、王族のみ」
「紫貴双刀流は、王家を支えた武門の技」
黒蘭がクジュラを見る。
「詳しいな」
「刀を持つ者なら、東方の伝承を調べることもある」
クジュラは黒蘭の二刀を見る。
「だが、伝承では黒翼は失われたとされていた」
「残っている」
「見れば分かる」
クジュラは一歩、円の内側へ入る。
「いつか俺ともやれ」
薔薇が眉を上げる。
「今やればいいだろ」
クジュラは黒蘭を見たまま答える。
「今日は黒扇と黒翼を見に来た」
「俺の刀を混ぜる日ではない」
黒蘭は短く言う。
「分かった」
断らなかった。
クジュラの口元に、僅かな笑みが浮かぶ。
---
見物人が帰り始めた頃。
ティムは、石壁に残った八本の傷を見ていた。
隣にはガルド。
「今日見たこと、覚えていられると思うか」
ガルドが尋ねる。
ティムは傷へ指を近づける。
触れはしない。
「全部は無理です」
「だろうな」
「でも、黒華って国に、ああいう剣があったことは覚えています」
ガルドは少し黙った。
それから、椿達の方を見る。
牡丹が切れた黒帯を回収している。
薔薇が黒蘭の袖の傷をからかっている。
百合は床に残った足跡を見ている。
滅びた国の五人。
「なら、今日見せた意味はあったんだろう」
ティムは頷いた。
「誰かに話してもいいですか」
「勝手に技を教えるのはやめろ」
「教えられません」
ティムは素直に答える。
「何が起きたかも、ほとんど見えませんでしたから」
ガルドが笑った。
「それでいい」
---
訓練場の外。
向かいの屋根に潜んでいた貴族の監視者は、震える手で報告を書いていた。
黒華椿。
王族。
黒扇刀流皆伝。
空中戦を主体とし、自己への号令によって身体能力を強化。
黒蘭。
紫貴双刀流。
伝承上の八連撃、黒翼を使用。
目視困難。
椿の衣と帯を八か所同時に切断。
対人戦においても海都上位冒険者を遥かに超える可能性。
男は筆を止める。
事実だけを書けばよい。
だが、最後の一文だけは、自分の判断として加えた。
**黒蘭一人が脅威なのではない。**
**黒華五刀は、失われた国家の軍事体系そのものである。**
報告書は、その日のうちに貴族街へ運ばれた。
---
夕刻。
閉ざされた一室で、数人の貴族が報告を読んでいた。
「八連撃」
「誇張ではないのか」
「クジュラも確認している」
「王族の女も、黒蘭へ刃を届かせたとある」
「つまり黒蘭だけを排除しても、残りがいる」
誰かが低く言う。
「五人ではない」
「五人しか残っていないだけだ」
黒華という国は滅びた。
だが、その武術。
規律。
指揮。
忍び。
兵站。
王族。
将軍。
一つの国家を形作っていた要素が、五人の中に残っている。
老貴族が報告書を閉じた。
「海都の者では、黒蘭の格を落とせない」
若い貴族が問う。
「では、どうする」
「外から呼ぶ」
「誰を」
老貴族は卓上へ一通の書簡を置いた。
海都から遠く離れた北方国家。
その国で、最強と呼ばれる戦士。
数十の決闘で一度も敗れず、戦場では敵将を正面から討ち取った男。
自らを超える相手を求め、各地を巡っているという。
「黒蘭と戦える者を探している、と伝える」
「黒蘭が負ければ、無敵という評判は崩れる」
「勝った場合は?」
部屋が静まる。
老貴族は答えた。
「少なくとも、黒蘭の技をさらに見られる」
「負けても、損をするのは外国人だ」
書簡へ封蝋が落とされる。
ラウルス家のような直接的な罠ではない。
毒も使わない。
地図も偽らない。
ただ、強者へ強者の名を伝える。
来るかどうかは、相手の意思。
戦うかどうかも、黒蘭の意思。
貴族達はそう言い訳できる。
だが、その書簡に込められた目的は明白だった。
黒蘭を、公衆の前で敗北させる。
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同じ頃。
訓練を終えた黒華五刀は、宿で夕食を取っていた。
薔薇が椿の切れた帯を持ち上げる。
「捨てるのか?」
「繕います」
椿が答える。
「短くなるぞ」
「新しい布を継ぎます」
牡丹はすでに裁縫道具を出していた。
百合は黒蘭の袖を見ている。
「椿様の刃が届きました」
「ああ」
「将軍の負けですか」
「一本は取られていない」
「衣を斬られました」
「お前はどちらの味方だ」
「事実の味方です」
薔薇が声を上げて笑った。
椿は少しだけ口元を緩める。
黒蘭も、それ以上は言わなかった。
海都来訪七十四日目。
黒華五刀は、迷宮へ入らない一日にも新しいものを得た。
海都の冒険者達は、彼らが強い理由の一端を知った。
そして、滅びた黒華の武術を覚えた者が生まれた。
クジュラは、失われたはずの剣を見た。
貴族達は、黒蘭一人ではなく、五人全員を恐れるようになった。
その夜。
ティムは宿へ戻ると、借りていた紙へ一行だけ記した。
**黒華という国には、舞う王族と、翼のように刀を振るう剣士がいた。**
技の仕組みは書けなかった。
動きも、ほとんど理解できなかった。
それでも、その国があったことだけは書けた。
黒華五刀は、それを知らない。
知らなくてもよかった。
誰か一人の中に、黒華の名が残った。
それだけで、今日技を見せた意味はあった。
そして海都の外ではまだ、誰も知らない。
自国最強を名乗る一人の戦士へ向けて、黒蘭の名を記した書簡が送り出されたことを。
第二十話 了