亡国の黒将と世界樹の迷宮   作:清海深々

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第二十一刀 正面潮路の先

 

海都来訪七十九日目。

 

黒華五刀に科された、七日間の公的依頼受注停止が明けた。

 

朝。

 

冒険者ギルドの掲示板から、黒華五刀の名の横に貼られていた停止札が取り外された。

 

祝う者はいない。

 

そもそも、彼ら自身が処分を大したものとは考えていなかった。

 

迷宮へ入れなかったわけではない。

 

食料にも困らない。

 

訓練する時間が増えた程度のことである。

 

それでも、ギルドに集まった冒険者達は黒蘭達の姿を見て、自然と道を空けた。

 

ラウルス家の事件以前とは、視線の意味が違う。

 

以前は、強い異国人を見る目だった。

 

今は、貴族の身分すら刃を止める理由にしなかった男を見る目である。

 

憧れ。

 

恐れ。

 

警戒。

 

それらが入り交じっていた。

 

黒蘭は気に留めず、受付へ探索届を差し出した。

 

「目的地は三十三階以降」

 

受付係が記録する。

 

「予定帰還日は?」

 

「五日後」

 

「七日分の物資をお持ちだと伺っていますが」

 

牡丹が答えた。

 

「二日分は予備です」

 

「予定を延ばすためのものではありません」

 

受付係は一瞬、言葉に詰まる。

 

後ろで話を聞いていた新人達が、牡丹の言葉を記憶しようとしていた。

 

予備があるから、長く進める。

 

そう考える者は多い。

 

黒華五刀にとって予備とは、予定外が起きても帰るためのものである。

 

黒蘭が探索届へ指を置く。

 

「五日目までに戻らなければ、六日目の朝に救助を出せ」

 

「七日目ではなく?」

 

「七日目の食料は、救助隊と合流できなかった時の分だ」

 

受付係は頷いた。

 

黒蘭達が立ち去った後、その内容を別の紙へ書き写した。

 

新人講習の資料にするつもりだった。

 

---

 

ギルドの外にはクジュラがいた。

 

警備隊の装束。

 

数人の兵を連れている。

 

薔薇が足を止める。

 

「また捕まえに来たのか」

 

「今度は、まだ何もしていないだろう」

 

クジュラが答える。

 

「まだ、とは何だ」

 

「言葉通りだ」

 

百合が糸のように閉じた目をクジュラへ向ける。

 

クジュラは百合を見ないふりをした。

 

「元老院からの伝言だ」

 

「中央潮路と石門に関する発見は、帰還後すぐに報告しろ」

 

黒蘭が言う。

 

「姫からか」

 

「元老院からだ」

 

「姫ではないと言ったか」

 

クジュラは答えなかった。

 

薔薇が笑う。

 

「分かりやすいな」

 

「黙れ」

 

クジュラは黒蘭へ一枚の小さな札を渡した。

 

海都警備隊の印。

 

「三十階磁軸から先で、海都の探索隊と遭遇した場合に使え」

 

「今回の探索が元老院に認められたものだと示す札だ」

 

椿が札を見る。

 

「私達を守るためですか」

 

「逆だ」

 

クジュラは言った。

 

「お前達が他の探索隊を勝手に退かせたと、貴族に騒がせないためだ」

 

黒蘭は札を牡丹へ渡す。

 

「必要なら使う」

 

「できれば必要になる前に使え」

 

クジュラは少し間を置いた。

 

「それと」

 

「何だ」

 

「外から妙な戦士が来るという噂がある」

 

黒蘭は反応しない。

 

薔薇が問う。

 

「強いのか」

 

「知らん」

 

「なら、来てからでいい」

 

黒蘭が歩き出す。

 

クジュラはその背中を見送った。

 

貴族達が黒蘭の評判を落とすため、国外の強者を招こうとしている。

 

警備隊として確かな証拠は得ていない。

 

今は、それ以上言えなかった。

 

---

 

三十階磁軸。

 

青白い光が消える。

 

第二階層、海嶺ノ水林の湿った空気が五人を包んだ。

 

七日間離れていた。

 

それでも、黒蘭達の足取りに迷いはない。

 

水位。

 

潮の流れ。

 

天井から落ちる雫。

 

以前に付けた印。

 

全てを確認しながら、三十三階へ向かう。

 

途中、二体の魔物と遭遇した。

 

薔薇が一体を籠手で弾く。

 

百合の針がもう一体の関節へ刺さる。

 

牡丹が誘引香を逆方向へ投げた。

 

戦闘は十息も続かなかった。

 

倒してはいない。

 

進路を変えただけである。

 

椿が問う。

 

「以前より魔物が増えていますね」

 

「ああ」

 

黒蘭が水面を見る。

 

「中央潮路が開いた影響かもしれない」

 

「門が開いたことで、流れが変わった?」

 

「あるいは、門番が変えた」

 

百合が前方へ顔を向ける。

 

「見られています」

 

薔薇が刀へ手を置く。

 

「オランピアか」

 

「分かりません」

 

百合は答えた。

 

「以前より遠いです」

 

「ですが、大きい」

 

---

 

三十三階。

 

中央潮路。

 

以前、オランピアが現れた場所。

 

石門は消えていた。

 

壁には、何の継ぎ目もない。

 

白い根と青い岩。

 

知らずに来れば、ここに巨大な門が現れたとは思えない。

 

薔薇が壁を叩く。

 

鈍い音。

 

「隠したのか」

 

牡丹が壁へ触れる。

 

「幻ではありません」

 

「今は、本当に壁です」

 

椿が地図を見る。

 

「四十階へ至れと言われました」

 

「門から先へ進むのではないのですね」

 

黒蘭は周囲を見回す。

 

「ここは入口の入口だと言っていた」

 

「扉そのものではない」

 

水音。

 

雫。

 

根が軋む音。

 

全て、前回と同じように聞こえる。

 

だが黒蘭は動かなかった。

 

薔薇も壁から手を離す。

 

椿の黒い瞳が、潮路の奥へ向く。

 

牡丹が指先で小さな印を結ぶ。

 

百合だけが、僅かに顔を上げた。

 

五人が同じ方向を見る。

 

そこには何もない。

 

アルベルト達が同行していれば、そう言っただろう。

 

だが黒華五刀には分かった。

 

何もない場所が、不自然に大きい。

 

水流は左右へ分かれている。

 

雫も落ちている。

 

魔力も途切れていない。

 

それなのに、その一点だけ、迷宮のあらゆる動きが避けて通っている。

 

「前回とは逆だな」

 

薔薇が言う。

 

オランピアは以前、迷宮と完全に同じ周期へ自分を重ねていた。

 

今回は違う。

 

そこだけ、迷宮から切り離されている。

 

気配がないのではない。

 

気配が存在できない空白。

 

百合が言う。

 

「隠している者はいません」

 

牡丹が続ける。

 

「ですが、何かが通った跡があります」

 

椿が水面を見る。

 

「波が、そこを避けています」

 

黒蘭は一歩進んだ。

 

「出てこい」

 

返事はない。

 

二歩目。

 

水面が揺れた。

 

何もなかった場所から、白い髪が現れる。

 

次に青白い顔。

 

人の輪郭。

 

オランピアが、迷宮から切り取られるように姿を現した。

 

「前回とは異なる隠蔽を行いました」

 

平坦な声。

 

薔薇が笑う。

 

「やっぱり試してたのか」

 

「確認です」

 

オランピアは五人を順に見る。

 

「人間は、一度見たものを基準にします」

 

「同じ方法を用いなければ、認識できないと予測していました」

 

黒蘭が答える。

 

「敵が同じことを繰り返すと思う者から死ぬ」

 

オランピアは僅かに首を傾ける。

 

「あなた方の国の教えですか」

 

「戦場の教えだ」

 

「その国は、なぜ滅びたのです」

 

椿の指が刀の柄へ触れた。

 

薔薇の笑みが消える。

 

百合の指先には針が現れている。

 

牡丹だけは無表情のまま、オランピアを見ていた。

 

黒蘭は答えない。

 

オランピアも追及しなかった。

 

「四十階へ進むのですね」

 

「ああ」

 

「ならば、中央を進みなさい」

 

オランピアが右手を上げる。

 

壁の一部が水へ変わった。

 

硬い岩が崩れたのではない。

 

初めから水だったものが、岩の形をやめたように流れ落ちる。

 

その先に、細い通路が現れた。

 

「南側の反流は、四十一階相当区域へ繋がります」

 

「ですが、正規経路ではありません」

 

椿が問う。

 

「ロイヤルガードが到達した場所ですね」

 

「名称は知りません」

 

「複数の人間が、瀕死の状態で流れ着いた記録があります」

 

アルベルト達だ。

 

「なぜ、四十一階相当の場所へ繋がるのですか」

 

「階層という概念は、人間が付けたものです」

 

オランピアは答えた。

 

「迷宮内部の構造は、上下だけではありません」

 

「海流」

 

「保守路」

 

「排水路」

 

「防衛経路」

 

「異なる目的を持つ空間が接続されています」

 

「彼らが見たものは、次の階層ではない?」

 

「深度は同等です」

 

「しかし、進んではいません」

 

ロイヤルガードの過去の到達。

 

海都が長く誇ってきた四十一階相当の記録。

 

それは偽りではない。

 

だが、正面突破でもなかった。

 

逃げた末に、別の深い場所へ流れ着いただけ。

 

黒蘭は通路を見る。

 

「この先は」

 

「三十四階中央域」

 

オランピアは言った。

 

「ただし、今日の潮路は五人を通すためのものではありません」

 

「何のためだ」

 

「選ぶためです」

 

「何を」

 

オランピアの瞳が黒蘭へ向く。

 

「捨てるものを」

 

---

 

通路へ入った瞬間、後方の壁が水へ戻った。

 

退路が消える。

 

薔薇が振り返る。

 

「閉じたぞ」

 

「見れば分かる」

 

百合が言う。

 

「嫌味か?」

 

「事実です」

 

黒蘭は前を向いたまま告げる。

 

「戻れないとは決まっていない」

 

「進む」

 

通路は狭い。

 

左右の壁の向こうに、水圧を感じる。

 

巨大な水塊が、人ひとり分の薄い壁を挟んで存在している。

 

椿が地図へ線を引く。

 

「直線です」

 

牡丹が答える。

 

「距離は信用できません」

 

三十三階中央潮路と同じ。

 

歩数と実際の距離が一致しない。

 

十歩が百歩になる。

 

百歩進んでも景色が変わらない。

 

黒蘭は壁へ手を触れない。

 

水圧の変化だけを読む。

 

やがて、通路が三つに分かれた。

 

左。

 

中央。

 

右。

 

どの道も同じ幅。

 

同じ明るさ。

 

同じ水音。

 

床には、それぞれ別の物が置かれている。

 

左には、折れた刀。

 

中央には、黒華の国花に似た黒い花。

 

右には、海都で使われる金貨。

 

薔薇が顔をしかめる。

 

「趣味が悪いな」

 

椿は黒い花を見る。

 

本物の黒華ではない。

 

形だけを似せた、迷宮の花。

 

「選ばせるというのは、これですか」

 

百合が周囲を見る。

 

「罠です」

 

「全部か」

 

「はい」

 

牡丹が左の折れた刀へ近づく。

 

「刀は黒華のものではありません」

 

「鍛え方が違います」

 

次に花。

 

「この花にも、黒華の匂いはありません」

 

右の金貨。

 

「海都の鋳造ですが、新しすぎます」

 

薔薇が言う。

 

「なら、どれも選ばない」

 

黒蘭は三つの道を見ない。

 

上を見る。

 

通路の天井。

 

雫が一筋だけ、真上へ落ちている。

 

重力に逆らい、水滴が天井へ吸い込まれていた。

 

「道は三つではない」

 

黒蘭が二刀を抜く。

 

天井へ向ける。

 

「上だ」

 

椿が一刀を地面へ刺す。

 

柄頭の黒帯が上へ引かれた。

 

重力が反転している。

 

薔薇が籠手で壁を掴む。

 

牡丹と百合が同時に印を結ぶ。

 

黒蘭が天井へ跳んだ。

 

次の瞬間、五人の身体が上方へ引かれた。

 

天井に見えた水面を抜ける。

 

視界が反転した。

 

---

 

五人は、巨大な水林へ落ちた。

 

三十四階。

 

頭上には、今通ってきた水面が浮いている。

 

床ではない。

 

空中に、逆さまの湖がある。

 

周囲には白い巨木。

 

その根の間を、青い水路が幾重にも走る。

 

遠くには、人工物の柱が見えた。

 

以前拾った破片と同じ文様。

 

海都より古い。

 

迷宮が生まれるより前から存在していたような構造物。

 

薔薇が立ち上がる。

 

「捨てるものを選べと言ってたな」

 

黒蘭が刀を納める。

 

「ああ」

 

椿が黒い花のあった方向を見上げる。

 

「過去、武力、富」

 

「どれかを選ばせたかった?」

 

牡丹は首を振る。

 

「選べば、その選択へ拘束されたのでしょう」

 

百合が言う。

 

「目の前に示されたものから選ぶ必要はありません」

 

黒蘭は人工物の柱を見る。

 

「他人が作った選択肢を、答えだと思う者から死ぬ」

 

水林の奥で、何かが鳴いた。

 

低い。

 

遠い。

 

一度の声で、水面が震える。

 

薔薇が刀へ手を置く。

 

「大きいな」

 

「階層主か」

 

椿が問う。

 

黒蘭は首を振った。

 

「遠すぎる」

 

「だが、こちらを見た」

 

牡丹が水路へ指を触れる。

 

波紋が一方向からではなく、三方から戻ってくる。

 

「一体ではありません」

 

百合が細い目を閉じたまま言う。

 

「三体」

 

「いえ」

 

僅かな沈黙。

 

「一体です」

 

「身体が三か所にあります」

 

薔薇が笑う。

 

「面白い」

 

黒蘭が言う。

 

「今日は位置だけを確認する」

 

「戦わない」

 

「まだ何も見てないぞ」

 

「だからだ」

 

五人は三十四階の地図を広げた。

 

正面潮路は、ようやく次の深さへ繋がった。

 

だが四十階までは、まだ遠い。

 

その先で待つものは、門番だけではなかった。

 

----

 

黒華五刀が海都へ来て七十九日目。

 

蒼華の剣が結成されてからは、二十日あまりが過ぎていた。

 

その間、リッド達も立ち止まっていたわけではない。

 

第一階層を歩いた。

 

何度も迷った。

 

魔物から逃げた。

 

採取物を持ちすぎ、帰路で捨てた。

 

水を節約しすぎ、逆に動けなくなった。

 

十階磁軸へ登録した日の夜には、リッドが酒場で騒ぎ、ファラに殴られた。

 

十五階ではカイルが海風と迷宮の風を読み違え、全員で半日遠回りした。

 

セレネは魔力を使い切って倒れ、次から三割を残すようになった。

 

リッドは一人で前へ出る癖を直せなかった。

 

だが、前へ出る前に一度だけ後ろを見るようにはなった。

 

イリスはムロツミの仮宿と迷宮を行き来した。

 

全身を外套で隠し、人前ではほとんど話さない。

 

魔物との戦闘では、必要以上の力を使わなかった。

 

それでも、蒼華の剣の誰よりも強いことは明らかだった。

 

リッドは何度か尋ねた。

 

「本気を出したら、どれくらい強いんだ?」

 

イリスは毎回答えた。

 

「比較対象不足」

 

「黒蘭とどっちが強い?」

 

「比較不能」

 

「じゃあ俺とは?」

 

「対象リッドの敗北確率、九十九・八――」

 

「最後まで言わなくていい!」

 

そんなやり取りを繰り返しながら、彼らは二十階へ到達した。

 

階層主ナルメルは、数日前にロイヤルガードと鉄靴の梟によって再討伐されていた。

 

復活までの短い期間。

 

第二階層へ進むための公的な通行期間が設けられる。

 

蒼華の剣は、その隊列へ加わった。

 

自分達だけで階層主を倒したわけではない。

 

黒華五刀のように初見で討伐したわけでもない。

 

それでも、二十一階へ自分の足で下りたことに変わりはなかった。

 

---

 

第二階層、海嶺ノ水林。

 

リッドは入口で立ち止まった。

 

「海だ」

 

カイルが言う。

 

「迷宮の中だけどな」

 

頭上には水面がある。

 

だが落ちてこない。

 

壁の一部は透明な水で、その向こうを魚のような魔物が泳いでいる。

 

白い根。

 

青い光。

 

第一階層とは、空気から違った。

 

ファラがリッドの背中を押す。

 

「入口で止まらないの」

 

「見てただけだ」

 

「後ろが詰まってる」

 

ロイヤルガードの補助隊が、呆れた顔で待っている。

 

リッドは慌てて前へ進んだ。

 

アガタが隣で笑う。

 

「二十一階に来ただけで固まるなよ」

 

「お前は平気なのか」

 

「俺、強いから」

 

「関係ないだろ」

 

「強い奴は、いちいち驚かない」

 

後ろでカナエが小さく言った。

 

「私は帰りたい」

 

アガタが振り返る。

 

「まだ入ったばかりだぞ」

 

「だから」

 

カナエは杖を胸元へ抱える。

 

「今なら、すぐ戻れる」

 

その声には、いつもの臆病さ以上のものがあった。

 

顔色が悪い。

 

呼吸も浅い。

 

セレネがカナエを見る。

 

「魔力酔い?」

 

「分からない」

 

ファラが近づく。

 

「気分悪い?」

 

「違う」

 

カナエは水林の奥を見る。

 

「ここ、知ってる気がする」

 

アガタの表情が少しだけ変わった。

 

「来たことあるのか」

 

「ない」

 

「なら気のせいだろ」

 

「でも、嫌」

 

カナエの手が震える。

 

「何かが、私を知ってる」

 

---

 

イリスが突然、足を止めた。

 

外套の奥で、胸元の光が僅かに強くなる。

 

「信号を受信」

 

リッドが振り返る。

 

「何の?」

 

「識別不能」

 

「深都から?」

 

ファラが周囲を見る。

 

「声が大きい」

 

カイルがリッドの頭を小突いた。

 

深都という言葉を、他の冒険者に聞かせるわけにはいかない。

 

リッドは声を落とす。

 

「帰る場所に近づいたのか」

 

イリスは水林の奥を向いた。

 

「既知の構造体と類似」

 

「しかし、座標情報が破損」

 

「防衛網の一部が起動しています」

 

「危ない?」

 

「肯定」

 

「帰るか?」

 

リッドが即座に尋ねる。

 

イリスはリッドを見る。

 

「対象リッドは、帰還を選択できますか」

 

「できる」

 

少し前なら、できないと言ったかもしれない。

 

進めるなら進む。

 

誰かが困っているなら助ける。

 

危険でも、自分がやれば何とかなる。

 

それが英雄だと思っていた。

 

今も助けたいという気持ちは変わらない。

 

だが、自分一人の勢いで仲間全員を危険へ連れていくことが、正しいとは思わなくなった。

 

「ファラ達が危ないなら戻る」

 

リッドは答えた。

 

「でも、何が危ないか調べられるなら、そこまでは行く」

 

カイルが笑う。

 

「少しだけリーダーらしくなったな」

 

「少しだけは余計だ」

 

ファラはカナエを見る。

 

「今日は二十二階へ行かない」

 

「二十一階の磁軸候補と、帰り道だけ確認する」

 

アガタが不満そうに言う。

 

「慎重すぎないか」

 

リッドはアガタを見る。

 

「カナエが嫌がってる」

 

「怖いだけだろ」

 

「怖いって言ってる奴を、置いて進むのか?」

 

アガタは黙った。

 

カナエが小さくリッドを見る。

 

リッドは黒蘭の言葉を思い出していた。

 

怖いことが問題ではない。

 

怖いと言えなくなる方が危険。

 

百合がティムへ話していた言葉を、酒場で聞いた。

 

黒蘭達の真似をするつもりはない。

 

だが、正しいと思ったことは使えばいい。

 

「今日は、この階の入口を覚える」

 

リッドが言う。

 

「奥へ行くのは次だ」

 

アガタは少し不満そうだった。

 

それでも、カナエの青い顔を見ると反論をやめた。

 

「分かった」

 

「俺は強いからな」

 

「一日くらい待てる」

 

カナエが言う。

 

「その言い方、嫌い」

 

「元気あるじゃん」

 

---

 

一行は二十一階入口周辺の地図を作った。

 

カイルが水の流れを見る。

 

セレネが魔力の濃い場所を記録する。

 

ファラが安全に休める根の陰を探す。

 

アガタは先行しすぎるたび、リッドに呼び戻された。

 

カナエは中央を歩く。

 

イリスは最後尾。

 

以前なら、リッドが先頭を走っていただろう。

 

今はアガタと並び、そのさらに半歩後ろを歩いている。

 

前方の異変と、後方の仲間を同時に見られる場所。

 

黒蘭の立ち位置を無意識に真似ていた。

 

ただし、視野も判断も黒蘭には遠く及ばない。

 

それでも始まりとしては十分だった。

 

---

 

入口から遠くない場所で、人工物の一部を見つけた。

 

白い根に埋もれた、青銅の板。

 

表面には幾何学的な文様。

 

リッドが屈む。

 

「これ、イリスの身体にある模様と似てないか?」

 

ファラが止める。

 

「触らないで」

 

「まだ触ってない」

 

「触ろうとしてた」

 

イリスが前へ出る。

 

青銅板を見る。

 

胸元の光が脈打つ。

 

「接続端末」

 

「使用可能です」

 

カイルが周囲を見る。

 

「使わない方がいいんじゃないか」

 

「起動したら、居場所がばれるかもしれない」

 

セレネも頷く。

 

「魔力が繋がってる」

 

リッドはイリスを見る。

 

「使いたいか」

 

「判断不能」

 

「帰る場所が分かるかもしれない」

 

「危険も増加します」

 

リッドはすぐに触れなかった。

 

以前なら、イリスが帰りたいなら使おう、と言っただろう。

 

だが、帰りたいと決めつけることも違う。

 

「今日は場所だけ覚える」

 

「次に来るまでに考えよう」

 

イリスは青銅板を見つめる。

 

「了解」

 

その時。

 

板の中央に、青い光が一度だけ灯った。

 

誰も触れていない。

 

イリスが後ろへ下がる。

 

水林の奥から、低い音が響く。

 

人の声ではない。

 

魔物の咆哮でもない。

 

巨大な機構が、長い眠りから目覚めたような音。

 

カナエが頭を押さえた。

 

「来る」

 

アガタが短剣を抜く。

 

「何が」

 

「分からない」

 

カナエの声が震える。

 

「でも、前も来た」

 

「前っていつだ」

 

「知らない!」

 

水路の向こう。

 

白い根の間を、黒い影が横切った。

 

一瞬。

 

大きさは人間程度。

 

だが、水中を歩いていた。

 

イリスが告げる。

 

「防衛個体」

 

「こちらを識別しています」

 

リッドが剣を抜く。

 

「戦えるか」

 

「単体なら可能」

 

「なら戦う?」

 

「非推奨」

 

リッドは即座に決めた。

 

「戻るぞ」

 

アガタが影を見る。

 

「一体だけだろ」

 

「イリスがやめろって言った」

 

「戦えるとも言った」

 

「勝てることと、戦うことは違う」

 

言った後で、リッドは自分の言葉ではないことに気付いた。

 

黒蘭の言葉。

 

だが、今は自分で正しいと思っている。

 

アガタは不満そうに舌打ちした。

 

それでも短剣を下ろす。

 

「次は戦うからな」

 

「必要ならな」

 

リッド達は来た道を戻った。

 

黒い影は追ってこない。

 

ただ、水路の向こうから見ていた。

 

---

 

二十一階を出る直前。

 

イリスが一度だけ振り返った。

 

青銅板は、もう光っていない。

 

だが、彼女の内部では消えていたはずの記録が一つ、再生されていた。

 

白い廊下。

 

水の向こうの街。

 

高い玉座。

 

誰かの声。

 

**地上へ至る道を閉じよ。**

 

次に見えたのは、自分の手。

 

人間へ向けられている。

 

イリスの歩みが止まる。

 

リッドが気付く。

 

「どうした」

 

「記録断片を確認」

 

「何が見えた?」

 

イリスは少し間を置いた。

 

「人間を排除する命令」

 

ファラの顔が強張る。

 

カイルが声を落とす。

 

「イリスへの命令か」

 

「可能性が高い」

 

リッドはイリスを見る。

 

「今も、その命令に従いたいか」

 

「不明」

 

「俺達を殺したい?」

 

「否定」

 

「じゃあ、今はそれでいい」

 

「しかし、命令が再起動する可能性があります」

 

「その時は止める」

 

「対象リッドが?」

 

「ああ」

 

イリスはリッドを見る。

 

戦力差を計算しているのかもしれない。

 

「成功確率は低いです」

 

「そこは言わなくていい」

 

「事実です」

 

「黒百合みたいなこと言うな」

 

イリスの表情は変わらない。

 

だが、返答までに僅かな間があった。

 

「黒百合との類似性、否定します」

 

リッドは笑った。

 

「そこは否定するんだな」

 

---

 

同じ頃。

 

三十四階。

 

黒華五刀が見つけた人工物の柱へ、青い光が一度だけ走った。

 

牡丹が手を止める。

 

「今、動きました」

 

椿が柱の文様を見る。

 

一つの印が点灯している。

 

黒蘭達が触れたものではない。

 

遠く離れた場所から、何かが起動した。

 

百合が水林の上方を見る。

 

「下ではありません」

 

「上です」

 

薔薇が眉を寄せる。

 

「上?」

 

「二十一階付近」

 

黒蘭は柱へ近づく。

 

青い光はすぐに消えた。

 

だが、その瞬間だけ浮かんだ文様を椿が地図の余白へ写していた。

 

人の形。

 

その胸にある円。

 

イリスと同じ形だとは、黒華五刀はまだ知らない。

 

水面の向こう。

 

誰にも見えない場所で、オランピアが目を開いた。

 

「地上防衛個体、再接続」

 

平坦な声。

 

だが、その瞳に僅かな揺らぎがあった。

 

「黒華五刀が正面経路へ到達」

 

「欠損個体が地上側経路より帰還を開始」

 

二つの道が動いている。

 

一つは、正面から門へ至ろうとする黒い五つの刃。

 

もう一つは、帰る場所を探す機械の少女と、彼女を仲間と呼ぶ蒼い剣。

 

まだ互いを知らない二つの道は、海嶺ノ水林の奥で、同じ場所へ向かい始めていた。

 

第二十一話 了

 

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