海都来訪七十九日目。
黒華五刀に科された、七日間の公的依頼受注停止が明けた。
朝。
冒険者ギルドの掲示板から、黒華五刀の名の横に貼られていた停止札が取り外された。
祝う者はいない。
そもそも、彼ら自身が処分を大したものとは考えていなかった。
迷宮へ入れなかったわけではない。
食料にも困らない。
訓練する時間が増えた程度のことである。
それでも、ギルドに集まった冒険者達は黒蘭達の姿を見て、自然と道を空けた。
ラウルス家の事件以前とは、視線の意味が違う。
以前は、強い異国人を見る目だった。
今は、貴族の身分すら刃を止める理由にしなかった男を見る目である。
憧れ。
恐れ。
警戒。
それらが入り交じっていた。
黒蘭は気に留めず、受付へ探索届を差し出した。
「目的地は三十三階以降」
受付係が記録する。
「予定帰還日は?」
「五日後」
「七日分の物資をお持ちだと伺っていますが」
牡丹が答えた。
「二日分は予備です」
「予定を延ばすためのものではありません」
受付係は一瞬、言葉に詰まる。
後ろで話を聞いていた新人達が、牡丹の言葉を記憶しようとしていた。
予備があるから、長く進める。
そう考える者は多い。
黒華五刀にとって予備とは、予定外が起きても帰るためのものである。
黒蘭が探索届へ指を置く。
「五日目までに戻らなければ、六日目の朝に救助を出せ」
「七日目ではなく?」
「七日目の食料は、救助隊と合流できなかった時の分だ」
受付係は頷いた。
黒蘭達が立ち去った後、その内容を別の紙へ書き写した。
新人講習の資料にするつもりだった。
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ギルドの外にはクジュラがいた。
警備隊の装束。
数人の兵を連れている。
薔薇が足を止める。
「また捕まえに来たのか」
「今度は、まだ何もしていないだろう」
クジュラが答える。
「まだ、とは何だ」
「言葉通りだ」
百合が糸のように閉じた目をクジュラへ向ける。
クジュラは百合を見ないふりをした。
「元老院からの伝言だ」
「中央潮路と石門に関する発見は、帰還後すぐに報告しろ」
黒蘭が言う。
「姫からか」
「元老院からだ」
「姫ではないと言ったか」
クジュラは答えなかった。
薔薇が笑う。
「分かりやすいな」
「黙れ」
クジュラは黒蘭へ一枚の小さな札を渡した。
海都警備隊の印。
「三十階磁軸から先で、海都の探索隊と遭遇した場合に使え」
「今回の探索が元老院に認められたものだと示す札だ」
椿が札を見る。
「私達を守るためですか」
「逆だ」
クジュラは言った。
「お前達が他の探索隊を勝手に退かせたと、貴族に騒がせないためだ」
黒蘭は札を牡丹へ渡す。
「必要なら使う」
「できれば必要になる前に使え」
クジュラは少し間を置いた。
「それと」
「何だ」
「外から妙な戦士が来るという噂がある」
黒蘭は反応しない。
薔薇が問う。
「強いのか」
「知らん」
「なら、来てからでいい」
黒蘭が歩き出す。
クジュラはその背中を見送った。
貴族達が黒蘭の評判を落とすため、国外の強者を招こうとしている。
警備隊として確かな証拠は得ていない。
今は、それ以上言えなかった。
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三十階磁軸。
青白い光が消える。
第二階層、海嶺ノ水林の湿った空気が五人を包んだ。
七日間離れていた。
それでも、黒蘭達の足取りに迷いはない。
水位。
潮の流れ。
天井から落ちる雫。
以前に付けた印。
全てを確認しながら、三十三階へ向かう。
途中、二体の魔物と遭遇した。
薔薇が一体を籠手で弾く。
百合の針がもう一体の関節へ刺さる。
牡丹が誘引香を逆方向へ投げた。
戦闘は十息も続かなかった。
倒してはいない。
進路を変えただけである。
椿が問う。
「以前より魔物が増えていますね」
「ああ」
黒蘭が水面を見る。
「中央潮路が開いた影響かもしれない」
「門が開いたことで、流れが変わった?」
「あるいは、門番が変えた」
百合が前方へ顔を向ける。
「見られています」
薔薇が刀へ手を置く。
「オランピアか」
「分かりません」
百合は答えた。
「以前より遠いです」
「ですが、大きい」
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三十三階。
中央潮路。
以前、オランピアが現れた場所。
石門は消えていた。
壁には、何の継ぎ目もない。
白い根と青い岩。
知らずに来れば、ここに巨大な門が現れたとは思えない。
薔薇が壁を叩く。
鈍い音。
「隠したのか」
牡丹が壁へ触れる。
「幻ではありません」
「今は、本当に壁です」
椿が地図を見る。
「四十階へ至れと言われました」
「門から先へ進むのではないのですね」
黒蘭は周囲を見回す。
「ここは入口の入口だと言っていた」
「扉そのものではない」
水音。
雫。
根が軋む音。
全て、前回と同じように聞こえる。
だが黒蘭は動かなかった。
薔薇も壁から手を離す。
椿の黒い瞳が、潮路の奥へ向く。
牡丹が指先で小さな印を結ぶ。
百合だけが、僅かに顔を上げた。
五人が同じ方向を見る。
そこには何もない。
アルベルト達が同行していれば、そう言っただろう。
だが黒華五刀には分かった。
何もない場所が、不自然に大きい。
水流は左右へ分かれている。
雫も落ちている。
魔力も途切れていない。
それなのに、その一点だけ、迷宮のあらゆる動きが避けて通っている。
「前回とは逆だな」
薔薇が言う。
オランピアは以前、迷宮と完全に同じ周期へ自分を重ねていた。
今回は違う。
そこだけ、迷宮から切り離されている。
気配がないのではない。
気配が存在できない空白。
百合が言う。
「隠している者はいません」
牡丹が続ける。
「ですが、何かが通った跡があります」
椿が水面を見る。
「波が、そこを避けています」
黒蘭は一歩進んだ。
「出てこい」
返事はない。
二歩目。
水面が揺れた。
何もなかった場所から、白い髪が現れる。
次に青白い顔。
人の輪郭。
オランピアが、迷宮から切り取られるように姿を現した。
「前回とは異なる隠蔽を行いました」
平坦な声。
薔薇が笑う。
「やっぱり試してたのか」
「確認です」
オランピアは五人を順に見る。
「人間は、一度見たものを基準にします」
「同じ方法を用いなければ、認識できないと予測していました」
黒蘭が答える。
「敵が同じことを繰り返すと思う者から死ぬ」
オランピアは僅かに首を傾ける。
「あなた方の国の教えですか」
「戦場の教えだ」
「その国は、なぜ滅びたのです」
椿の指が刀の柄へ触れた。
薔薇の笑みが消える。
百合の指先には針が現れている。
牡丹だけは無表情のまま、オランピアを見ていた。
黒蘭は答えない。
オランピアも追及しなかった。
「四十階へ進むのですね」
「ああ」
「ならば、中央を進みなさい」
オランピアが右手を上げる。
壁の一部が水へ変わった。
硬い岩が崩れたのではない。
初めから水だったものが、岩の形をやめたように流れ落ちる。
その先に、細い通路が現れた。
「南側の反流は、四十一階相当区域へ繋がります」
「ですが、正規経路ではありません」
椿が問う。
「ロイヤルガードが到達した場所ですね」
「名称は知りません」
「複数の人間が、瀕死の状態で流れ着いた記録があります」
アルベルト達だ。
「なぜ、四十一階相当の場所へ繋がるのですか」
「階層という概念は、人間が付けたものです」
オランピアは答えた。
「迷宮内部の構造は、上下だけではありません」
「海流」
「保守路」
「排水路」
「防衛経路」
「異なる目的を持つ空間が接続されています」
「彼らが見たものは、次の階層ではない?」
「深度は同等です」
「しかし、進んではいません」
ロイヤルガードの過去の到達。
海都が長く誇ってきた四十一階相当の記録。
それは偽りではない。
だが、正面突破でもなかった。
逃げた末に、別の深い場所へ流れ着いただけ。
黒蘭は通路を見る。
「この先は」
「三十四階中央域」
オランピアは言った。
「ただし、今日の潮路は五人を通すためのものではありません」
「何のためだ」
「選ぶためです」
「何を」
オランピアの瞳が黒蘭へ向く。
「捨てるものを」
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通路へ入った瞬間、後方の壁が水へ戻った。
退路が消える。
薔薇が振り返る。
「閉じたぞ」
「見れば分かる」
百合が言う。
「嫌味か?」
「事実です」
黒蘭は前を向いたまま告げる。
「戻れないとは決まっていない」
「進む」
通路は狭い。
左右の壁の向こうに、水圧を感じる。
巨大な水塊が、人ひとり分の薄い壁を挟んで存在している。
椿が地図へ線を引く。
「直線です」
牡丹が答える。
「距離は信用できません」
三十三階中央潮路と同じ。
歩数と実際の距離が一致しない。
十歩が百歩になる。
百歩進んでも景色が変わらない。
黒蘭は壁へ手を触れない。
水圧の変化だけを読む。
やがて、通路が三つに分かれた。
左。
中央。
右。
どの道も同じ幅。
同じ明るさ。
同じ水音。
床には、それぞれ別の物が置かれている。
左には、折れた刀。
中央には、黒華の国花に似た黒い花。
右には、海都で使われる金貨。
薔薇が顔をしかめる。
「趣味が悪いな」
椿は黒い花を見る。
本物の黒華ではない。
形だけを似せた、迷宮の花。
「選ばせるというのは、これですか」
百合が周囲を見る。
「罠です」
「全部か」
「はい」
牡丹が左の折れた刀へ近づく。
「刀は黒華のものではありません」
「鍛え方が違います」
次に花。
「この花にも、黒華の匂いはありません」
右の金貨。
「海都の鋳造ですが、新しすぎます」
薔薇が言う。
「なら、どれも選ばない」
黒蘭は三つの道を見ない。
上を見る。
通路の天井。
雫が一筋だけ、真上へ落ちている。
重力に逆らい、水滴が天井へ吸い込まれていた。
「道は三つではない」
黒蘭が二刀を抜く。
天井へ向ける。
「上だ」
椿が一刀を地面へ刺す。
柄頭の黒帯が上へ引かれた。
重力が反転している。
薔薇が籠手で壁を掴む。
牡丹と百合が同時に印を結ぶ。
黒蘭が天井へ跳んだ。
次の瞬間、五人の身体が上方へ引かれた。
天井に見えた水面を抜ける。
視界が反転した。
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五人は、巨大な水林へ落ちた。
三十四階。
頭上には、今通ってきた水面が浮いている。
床ではない。
空中に、逆さまの湖がある。
周囲には白い巨木。
その根の間を、青い水路が幾重にも走る。
遠くには、人工物の柱が見えた。
以前拾った破片と同じ文様。
海都より古い。
迷宮が生まれるより前から存在していたような構造物。
薔薇が立ち上がる。
「捨てるものを選べと言ってたな」
黒蘭が刀を納める。
「ああ」
椿が黒い花のあった方向を見上げる。
「過去、武力、富」
「どれかを選ばせたかった?」
牡丹は首を振る。
「選べば、その選択へ拘束されたのでしょう」
百合が言う。
「目の前に示されたものから選ぶ必要はありません」
黒蘭は人工物の柱を見る。
「他人が作った選択肢を、答えだと思う者から死ぬ」
水林の奥で、何かが鳴いた。
低い。
遠い。
一度の声で、水面が震える。
薔薇が刀へ手を置く。
「大きいな」
「階層主か」
椿が問う。
黒蘭は首を振った。
「遠すぎる」
「だが、こちらを見た」
牡丹が水路へ指を触れる。
波紋が一方向からではなく、三方から戻ってくる。
「一体ではありません」
百合が細い目を閉じたまま言う。
「三体」
「いえ」
僅かな沈黙。
「一体です」
「身体が三か所にあります」
薔薇が笑う。
「面白い」
黒蘭が言う。
「今日は位置だけを確認する」
「戦わない」
「まだ何も見てないぞ」
「だからだ」
五人は三十四階の地図を広げた。
正面潮路は、ようやく次の深さへ繋がった。
だが四十階までは、まだ遠い。
その先で待つものは、門番だけではなかった。
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黒華五刀が海都へ来て七十九日目。
蒼華の剣が結成されてからは、二十日あまりが過ぎていた。
その間、リッド達も立ち止まっていたわけではない。
第一階層を歩いた。
何度も迷った。
魔物から逃げた。
採取物を持ちすぎ、帰路で捨てた。
水を節約しすぎ、逆に動けなくなった。
十階磁軸へ登録した日の夜には、リッドが酒場で騒ぎ、ファラに殴られた。
十五階ではカイルが海風と迷宮の風を読み違え、全員で半日遠回りした。
セレネは魔力を使い切って倒れ、次から三割を残すようになった。
リッドは一人で前へ出る癖を直せなかった。
だが、前へ出る前に一度だけ後ろを見るようにはなった。
イリスはムロツミの仮宿と迷宮を行き来した。
全身を外套で隠し、人前ではほとんど話さない。
魔物との戦闘では、必要以上の力を使わなかった。
それでも、蒼華の剣の誰よりも強いことは明らかだった。
リッドは何度か尋ねた。
「本気を出したら、どれくらい強いんだ?」
イリスは毎回答えた。
「比較対象不足」
「黒蘭とどっちが強い?」
「比較不能」
「じゃあ俺とは?」
「対象リッドの敗北確率、九十九・八――」
「最後まで言わなくていい!」
そんなやり取りを繰り返しながら、彼らは二十階へ到達した。
階層主ナルメルは、数日前にロイヤルガードと鉄靴の梟によって再討伐されていた。
復活までの短い期間。
第二階層へ進むための公的な通行期間が設けられる。
蒼華の剣は、その隊列へ加わった。
自分達だけで階層主を倒したわけではない。
黒華五刀のように初見で討伐したわけでもない。
それでも、二十一階へ自分の足で下りたことに変わりはなかった。
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第二階層、海嶺ノ水林。
リッドは入口で立ち止まった。
「海だ」
カイルが言う。
「迷宮の中だけどな」
頭上には水面がある。
だが落ちてこない。
壁の一部は透明な水で、その向こうを魚のような魔物が泳いでいる。
白い根。
青い光。
第一階層とは、空気から違った。
ファラがリッドの背中を押す。
「入口で止まらないの」
「見てただけだ」
「後ろが詰まってる」
ロイヤルガードの補助隊が、呆れた顔で待っている。
リッドは慌てて前へ進んだ。
アガタが隣で笑う。
「二十一階に来ただけで固まるなよ」
「お前は平気なのか」
「俺、強いから」
「関係ないだろ」
「強い奴は、いちいち驚かない」
後ろでカナエが小さく言った。
「私は帰りたい」
アガタが振り返る。
「まだ入ったばかりだぞ」
「だから」
カナエは杖を胸元へ抱える。
「今なら、すぐ戻れる」
その声には、いつもの臆病さ以上のものがあった。
顔色が悪い。
呼吸も浅い。
セレネがカナエを見る。
「魔力酔い?」
「分からない」
ファラが近づく。
「気分悪い?」
「違う」
カナエは水林の奥を見る。
「ここ、知ってる気がする」
アガタの表情が少しだけ変わった。
「来たことあるのか」
「ない」
「なら気のせいだろ」
「でも、嫌」
カナエの手が震える。
「何かが、私を知ってる」
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イリスが突然、足を止めた。
外套の奥で、胸元の光が僅かに強くなる。
「信号を受信」
リッドが振り返る。
「何の?」
「識別不能」
「深都から?」
ファラが周囲を見る。
「声が大きい」
カイルがリッドの頭を小突いた。
深都という言葉を、他の冒険者に聞かせるわけにはいかない。
リッドは声を落とす。
「帰る場所に近づいたのか」
イリスは水林の奥を向いた。
「既知の構造体と類似」
「しかし、座標情報が破損」
「防衛網の一部が起動しています」
「危ない?」
「肯定」
「帰るか?」
リッドが即座に尋ねる。
イリスはリッドを見る。
「対象リッドは、帰還を選択できますか」
「できる」
少し前なら、できないと言ったかもしれない。
進めるなら進む。
誰かが困っているなら助ける。
危険でも、自分がやれば何とかなる。
それが英雄だと思っていた。
今も助けたいという気持ちは変わらない。
だが、自分一人の勢いで仲間全員を危険へ連れていくことが、正しいとは思わなくなった。
「ファラ達が危ないなら戻る」
リッドは答えた。
「でも、何が危ないか調べられるなら、そこまでは行く」
カイルが笑う。
「少しだけリーダーらしくなったな」
「少しだけは余計だ」
ファラはカナエを見る。
「今日は二十二階へ行かない」
「二十一階の磁軸候補と、帰り道だけ確認する」
アガタが不満そうに言う。
「慎重すぎないか」
リッドはアガタを見る。
「カナエが嫌がってる」
「怖いだけだろ」
「怖いって言ってる奴を、置いて進むのか?」
アガタは黙った。
カナエが小さくリッドを見る。
リッドは黒蘭の言葉を思い出していた。
怖いことが問題ではない。
怖いと言えなくなる方が危険。
百合がティムへ話していた言葉を、酒場で聞いた。
黒蘭達の真似をするつもりはない。
だが、正しいと思ったことは使えばいい。
「今日は、この階の入口を覚える」
リッドが言う。
「奥へ行くのは次だ」
アガタは少し不満そうだった。
それでも、カナエの青い顔を見ると反論をやめた。
「分かった」
「俺は強いからな」
「一日くらい待てる」
カナエが言う。
「その言い方、嫌い」
「元気あるじゃん」
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一行は二十一階入口周辺の地図を作った。
カイルが水の流れを見る。
セレネが魔力の濃い場所を記録する。
ファラが安全に休める根の陰を探す。
アガタは先行しすぎるたび、リッドに呼び戻された。
カナエは中央を歩く。
イリスは最後尾。
以前なら、リッドが先頭を走っていただろう。
今はアガタと並び、そのさらに半歩後ろを歩いている。
前方の異変と、後方の仲間を同時に見られる場所。
黒蘭の立ち位置を無意識に真似ていた。
ただし、視野も判断も黒蘭には遠く及ばない。
それでも始まりとしては十分だった。
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入口から遠くない場所で、人工物の一部を見つけた。
白い根に埋もれた、青銅の板。
表面には幾何学的な文様。
リッドが屈む。
「これ、イリスの身体にある模様と似てないか?」
ファラが止める。
「触らないで」
「まだ触ってない」
「触ろうとしてた」
イリスが前へ出る。
青銅板を見る。
胸元の光が脈打つ。
「接続端末」
「使用可能です」
カイルが周囲を見る。
「使わない方がいいんじゃないか」
「起動したら、居場所がばれるかもしれない」
セレネも頷く。
「魔力が繋がってる」
リッドはイリスを見る。
「使いたいか」
「判断不能」
「帰る場所が分かるかもしれない」
「危険も増加します」
リッドはすぐに触れなかった。
以前なら、イリスが帰りたいなら使おう、と言っただろう。
だが、帰りたいと決めつけることも違う。
「今日は場所だけ覚える」
「次に来るまでに考えよう」
イリスは青銅板を見つめる。
「了解」
その時。
板の中央に、青い光が一度だけ灯った。
誰も触れていない。
イリスが後ろへ下がる。
水林の奥から、低い音が響く。
人の声ではない。
魔物の咆哮でもない。
巨大な機構が、長い眠りから目覚めたような音。
カナエが頭を押さえた。
「来る」
アガタが短剣を抜く。
「何が」
「分からない」
カナエの声が震える。
「でも、前も来た」
「前っていつだ」
「知らない!」
水路の向こう。
白い根の間を、黒い影が横切った。
一瞬。
大きさは人間程度。
だが、水中を歩いていた。
イリスが告げる。
「防衛個体」
「こちらを識別しています」
リッドが剣を抜く。
「戦えるか」
「単体なら可能」
「なら戦う?」
「非推奨」
リッドは即座に決めた。
「戻るぞ」
アガタが影を見る。
「一体だけだろ」
「イリスがやめろって言った」
「戦えるとも言った」
「勝てることと、戦うことは違う」
言った後で、リッドは自分の言葉ではないことに気付いた。
黒蘭の言葉。
だが、今は自分で正しいと思っている。
アガタは不満そうに舌打ちした。
それでも短剣を下ろす。
「次は戦うからな」
「必要ならな」
リッド達は来た道を戻った。
黒い影は追ってこない。
ただ、水路の向こうから見ていた。
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二十一階を出る直前。
イリスが一度だけ振り返った。
青銅板は、もう光っていない。
だが、彼女の内部では消えていたはずの記録が一つ、再生されていた。
白い廊下。
水の向こうの街。
高い玉座。
誰かの声。
**地上へ至る道を閉じよ。**
次に見えたのは、自分の手。
人間へ向けられている。
イリスの歩みが止まる。
リッドが気付く。
「どうした」
「記録断片を確認」
「何が見えた?」
イリスは少し間を置いた。
「人間を排除する命令」
ファラの顔が強張る。
カイルが声を落とす。
「イリスへの命令か」
「可能性が高い」
リッドはイリスを見る。
「今も、その命令に従いたいか」
「不明」
「俺達を殺したい?」
「否定」
「じゃあ、今はそれでいい」
「しかし、命令が再起動する可能性があります」
「その時は止める」
「対象リッドが?」
「ああ」
イリスはリッドを見る。
戦力差を計算しているのかもしれない。
「成功確率は低いです」
「そこは言わなくていい」
「事実です」
「黒百合みたいなこと言うな」
イリスの表情は変わらない。
だが、返答までに僅かな間があった。
「黒百合との類似性、否定します」
リッドは笑った。
「そこは否定するんだな」
---
同じ頃。
三十四階。
黒華五刀が見つけた人工物の柱へ、青い光が一度だけ走った。
牡丹が手を止める。
「今、動きました」
椿が柱の文様を見る。
一つの印が点灯している。
黒蘭達が触れたものではない。
遠く離れた場所から、何かが起動した。
百合が水林の上方を見る。
「下ではありません」
「上です」
薔薇が眉を寄せる。
「上?」
「二十一階付近」
黒蘭は柱へ近づく。
青い光はすぐに消えた。
だが、その瞬間だけ浮かんだ文様を椿が地図の余白へ写していた。
人の形。
その胸にある円。
イリスと同じ形だとは、黒華五刀はまだ知らない。
水面の向こう。
誰にも見えない場所で、オランピアが目を開いた。
「地上防衛個体、再接続」
平坦な声。
だが、その瞳に僅かな揺らぎがあった。
「黒華五刀が正面経路へ到達」
「欠損個体が地上側経路より帰還を開始」
二つの道が動いている。
一つは、正面から門へ至ろうとする黒い五つの刃。
もう一つは、帰る場所を探す機械の少女と、彼女を仲間と呼ぶ蒼い剣。
まだ互いを知らない二つの道は、海嶺ノ水林の奥で、同じ場所へ向かい始めていた。
第二十一話 了