海都来訪八十日目。
三十四階で迎える最初の朝は、水の音から始まった。
頭上には、逆さまの湖。
本来なら空である場所に、巨大な水塊が浮かんでいる。
魚の影が頭上を横切り、水面から落ちた雫は途中で向きを変え、再び湖へ戻っていく。
黒華五刀は、白い巨木の根元に野営地を設けていた。
背後には岩壁。
正面には細い水路。
左右には退路。
頭上の逆さ湖から何かが落ちても、直撃しない位置。
牡丹が携帯食を分ける。
予定量より増やさない。
昨日、想定以上に長い距離を歩いたからといって、今日の分を前借りすることもない。
薔薇が乾いた肉を噛みながら、遠くの水路を見る。
「昨夜は来なかったな」
「近くにはいました」
百合が答える。
「三度、こちらを見ています」
「身体が三つある奴か」
「一つです」
「三か所にいるんだろ」
「身体が三つあるように見えるだけです」
薔薇が眉を寄せる。
「同じじゃないのか?」
「違います」
百合はそれ以上説明しなかった。
椿は地図を広げている。
昨夜、三方向から戻ってきた波紋。
東。
南。
北西。
三つの水路に、同時に大型個体の反応があった。
しかし鳴き声は一つ。
水流の乱れも、同じ周期。
三体が連携しているのではない。
一体が、三つの場所へ現れている。
黒蘭は地図上の三点を線で結んだ。
三角形。
その中央には、白い巨木が一本立っている。
「根の下か」
牡丹が巨木を見る。
「水路が全て、あの木の根元へ集まっています」
椿が問う。
「本体は地下に?」
「あるいは、三つとも本体だ」
黒蘭は立ち上がる。
「確かめる」
---
最初に向かったのは、東の水路だった。
白い根の間を、青い水が緩やかに流れている。
深さは膝ほど。
一見すれば、魔物が潜めるほどではない。
百合が水辺へ針を一本投げた。
針は水へ落ちる前に、何かへ弾かれた。
透明な膜。
水面の少し上に、薄い力場が張られている。
次の瞬間、水路の奥が盛り上がった。
青黒い頭部。
細長い顎。
左右に裂けた鰭。
蛇に似ているが、鱗はない。
身体の表面を、透明な水膜が覆っている。
頭だけでも、人間二人分の大きさがある。
薔薇が刀を抜く。
「これか」
魔物が口を開く。
牙はない。
代わりに、喉の奥で水が回転している。
黒蘭が言った。
「避けろ」
水の槍が放たれた。
薔薇が籠手で受ける。
直撃は避けた。
それでも、身体が半歩押される。
水槍は背後の巨木へ刺さり、幹を深く抉った。
「低階層の奴じゃないな」
薔薇が籠手を振る。
百合はすでに魔物の側面へ移動していた。
二本の針を投げる。
一つは目。
一つは鰭の付け根。
針は刺さった。
魔物が首を振る。
その動きに合わせて、遠くから二つの水音が響いた。
南。
北西。
椿が振り返る。
「同時に動きました」
牡丹が水面へ指を触れる。
「東の個体へ刺した針の振動が、別の水路へ伝わっています」
薔薇が問う。
「繋がってるのか?」
黒蘭は魔物を見る。
百合の針が刺さった場所から、血は出ていない。
代わりに、身体を覆う水膜が一度だけ薄くなった。
そして南の水路から、同じ針が流れてきた。
針は魔物の身体を貫いたのではない。
内部の水路へ吸い込まれ、別の場所から排出された。
「身体が水で繋がっている」
椿が言う。
黒蘭は頷いた。
「三つの頭と、一つの中身だ」
---
東の頭部が水へ沈む。
同時に、南から大きな水音がした。
五人が移動すると、別の頭部が待っていた。
見た目は同じ。
ただし、百合の針が刺さっていた右目に傷がない。
「傷も移るわけではないのか」
薔薇が言う。
百合は魔物の首元を見る。
「こちらは呼吸が浅いです」
「先ほどの攻撃は伝わっています」
牡丹が南の水路へ薬粉を落とした。
紫の粉が水へ溶ける。
魔物が水を吸い込む。
数呼吸後。
北西の水路から、紫色の泡が浮かんだ。
「一つの循環器官です」
牡丹が言う。
「三つの頭で水を吸い、一つの内部へ送っています」
「どれか一つを斬れば?」
椿が問う。
「残る二つへ流れるだけでしょう」
黒蘭は刀を抜く。
「試す」
薔薇が前へ出た。
南の頭部が水槍を放つ。
薔薇が籠手で軌道を逸らす。
黒蘭が踏み込む。
二刀が走った。
首元へ二筋。
水膜が裂ける。
その内側に、青白い肉が見えた。
黒蘭の右刀が深く入る。
頭部が大きく仰け反った。
水路へ沈む。
切断には至っていない。
だが、明らかな致命傷だった。
「終わったか?」
薔薇が言った直後。
東の方向から咆哮が響いた。
五人が戻る。
東の頭部が再び現れている。
先ほど百合が傷を付けた個体。
だが今度は、首元に黒蘭が斬った傷が浮かんでいた。
裂けた肉を、水膜が覆う。
傷口が徐々に閉じていく。
百合が言う。
「移しました」
「何を」
「傷です」
魔物は、三つの身体の間で損傷を移動させている。
一つの頭部へ傷が集中すれば、別の二つへ分ける。
肉体そのものが三つに分かれているのではない。
水を介して、一つの命を三か所へ置いている。
「順番に斬っても治るな」
薔薇が言う。
「三つを同時に断つ必要があります」
椿が答えた。
その言葉に、五人が静かになる。
---
黒華五刀の戦いは、常に途切れなかった。
黒蘭が斬る。
薔薇がその隙を守る。
百合が死角へ入る。
牡丹が動きを止める。
椿が次の位置を指示する。
一人が攻撃した後、次の者が隙を埋める。
戦列を回し続ける。
黒華の対人戦では、理に適った戦い方だった。
同じ敵へ、複数人が同時に刃を重ねる必要はない。
むしろ互いの間合いが重なり、邪魔になる。
だが、目の前の魔物は違う。
一つの命が、三か所にある。
一つずつ斬れば、残りへ逃げる。
黒蘭は三つの水路を見る。
距離がある。
全員で一つの場所へ集まっていては間に合わない。
「分かれる」
薔薇が問う。
「どう分ける」
「東は俺と椿」
「南は薔薇」
「北西は百合と牡丹」
椿がすぐに地図へ位置を書き込む。
「合図は?」
三か所は互いに見えない。
声も、水音に遮られる。
牡丹が袖から三つの金属片を取り出した。
細い糸で繋がれている。
黒華で使用していた振動伝達具。
だが、距離が足りない。
「水を使います」
牡丹は金属片をそれぞれ水路へ沈める。
「全ての水路は繋がっています」
「私が一度、雷を流します」
「最初の弱い振動で構え」
「二度目で攻撃してください」
薔薇が刀を肩へ置く。
「分かりやすい」
百合が言う。
「薔薇は早く動きすぎます」
「動かない」
「一度目で斬らないでください」
「斬らないって」
「本当に?」
「お前は私を何だと思ってる」
「薔薇です」
「答えになってない」
椿が二人を止める。
「時間を合わせます」
黒蘭が言った。
「傷を付けるだけでは駄目だ」
「三つとも首を落とす」
薔薇が笑う。
「最初からそう言え」
---
三組へ分かれた。
東。
黒蘭と椿。
水路は静かだった。
魔物はこちらの動きを理解している。
三つの頭部を沈め、攻撃する場所を選んでいる。
椿は片方の刀を水路脇の地面へ刺した。
柄頭から伸びる黒帯が、水の流れに合わせて揺れる。
「来ます」
水面が盛り上がる。
頭部が現れる。
同時に、遠くから二つの咆哮。
三か所へ、同時に出た。
黒蘭は二刀を低く構える。
椿は自己へ号令をかける。
「静まれ」
呼吸が整う。
「見失うな」
黒い瞳が魔物の首元を捉える。
「一撃で断て」
号令は、遠くの薔薇達には届かない。
だが、東の水路の空気だけが引き締まった。
魔物が水を吸い込む。
牡丹の一度目の雷。
水面が僅かに震えた。
構え。
魔物の喉で水槍が回転する。
黒蘭は動かない。
椿も待つ。
二度目。
紫電が水面を走った。
「今」
椿が言う。
---
南。
薔薇は水槍を正面から籠手で受けた。
普段なら逸らす。
今回は動かさない。
斬撃の位置をずらさないため。
籠手の表面が削れる。
足が石畳へ沈む。
それでも一歩も退かない。
二度目の振動。
薔薇は水槍を籠手で押し潰した。
逆の手の刀を抜く。
一閃。
首を横から断つ。
---
北西。
百合の針が、魔物の両目へ刺さった。
頭部が仰け反る。
牡丹は水路へ両手を入れ、印を結んでいる。
一度目の雷。
自分達への合図。
二度目。
百合が短刀で首の左側へ入る。
牡丹は印を解き、右手の短刀を抜いた。
反対側から斬る。
二人の刃が、首の中心で触れた。
---
東。
椿が先に跳んだ。
右の逆手刀を首の下へ入れる。
一刀では足りない。
身体を捻り、空中で回る。
左刀が反対側から入る。
二本の刀が、黒い扇のように首を挟む。
魔物の水膜が裂けた。
青白い肉が露出する。
黒蘭の黒翼は使わない。
必要なのは八撃ではない。
三か所で同じ瞬間に届く、一つの致命傷。
椿が首を半ばまで断つ。
残りを黒蘭の二刀が挟み込む。
一度。
首が落ちた。
---
三つの咆哮が、一つの音へ重なった。
東。
南。
北西。
三つの頭部が水路へ落ちる。
水面が激しく逆巻く。
傷を別の身体へ移そうとする。
だが、移す先がない。
三つとも断たれている。
白い巨木の根元が膨れた。
地面の下を、巨大な何かが動く。
黒蘭達が中央へ集まる。
巨木の根が裂けた。
内部から現れたのは、透明な球体だった。
人の背丈ほど。
中には青白い臓器のようなものが浮かび、三本の太い管が各水路へ伸びている。
一つの心臓。
三つの頭部を動かしていた本体。
球体には、三方向から亀裂が走っていた。
同時に首を断たれた反動が、中心へ戻ったのだ。
黒蘭が一歩進む。
二刀を交差させる。
球体を断った。
水林全体が震えた。
頭上の逆さ湖から、大量の水が雨のように降り注ぐ。
だが地面へ届く前に、全てが青い光へ変わった。
魔物の身体も、水へ溶けて消える。
残ったのは、拳ほどの透明な核。
薔薇が拾う。
「面倒な奴だったな」
百合が言う。
「一度目で倒せませんでした」
「倒し方が分からなかったからだろ」
「事実です」
薔薇が反論しようとする。
黒蘭が水路を見る。
「今までのやり方では足りない敵がいる」
四人が黒蘭を見る。
「位置を替えながら繋ぐだけでは、傷が逃げる」
椿が問う。
「同じ瞬間に攻撃する必要がある、と?」
「ああ」
黒蘭は、自分達が斬った三方向を見る。
遠く離れた場所。
互いの姿は見えない。
それでも、一度の雷を合図に同じ瞬間へ刃を置いた。
「五人全員なら、何撃を同じ刹那へ重ねられる」
薔薇が答える。
「黒蘭が八」
「椿が二」
「私は一」
百合が言う。
「私と牡丹が二撃ずつ」
牡丹が合計する。
「十五撃です」
黒蘭はしばらく黙っていた。
十五。
一度だけではない。
位置を変え、起点を変えれば。
戦列を回すという、黒華五刀がこれまで使ってきた考え方と、同時攻撃を組み合わせれば。
まだ形にはならない。
だが、何かが見えた。
黒蘭は初めて空気を吸ったように、短く息を吐いた。
「……そうか」
椿が黒蘭を見る。
「何か思い付きましたか」
「まだだ」
黒蘭は透明な核を牡丹へ渡す。
「忘れるな」
牡丹は核を布へ包む。
「何をでしょう」
「今の時間差だ」
百合が答える。
「一息より短いです」
「もっと縮める」
薔薇が笑う。
「まだ強くなる気か」
黒蘭は当然のように返した。
「なれるならな」
---
魔物が消えると、白い巨木の根元に新しい穴が開いた。
人工物の階段。
青白い石。
壁には、イリスの胸元と同じ円形の文様。
五人はまだ、その一致を知らない。
階段を下りる。
距離は短い。
その先に、小さな部屋があった。
壁一面に、青い線が走っている。
線は迷宮の地図に似ている。
だが、階層ごとに分かれていない。
二十一階。
三十四階。
四十一階相当区域。
離れた場所が、一本の線で直接繋がっている。
椿が地図を見比べる。
「これは迷宮全体の水路です」
牡丹が壁の文字へ触れる。
「水路だけではありません」
「魔力」
「情報」
「命令」
「何かを各所へ伝える道です」
薔薇が壁の一つを指す。
青い点が点滅している。
下層ではない。
二十一階付近。
昨日も一度だけ光った場所。
「また動いてる」
百合が顔を上げる。
「人がいます」
「遠いぞ」
「知っています」
「どうして分かる」
「こちらを見ているからです」
黒蘭は青い点へ近づく。
触れない。
点は、一定の周期で光っている。
まるで心臓。
その横に、人型の文様。
胸元に円。
椿が写し取る。
「何を示しているのでしょう」
部屋の奥から、オランピアの声がした。
姿は見えない。
「欠損した防衛個体です」
黒蘭が振り返る。
「防衛個体」
「地上へ派遣され、帰還しなかったもの」
「今、再び迷宮へ接続しています」
「敵か」
「本来は、人間を排除するためのものです」
薔薇が刀へ手を置く。
「今もか」
オランピアは答えない。
代わりに、二十一階の青い点が強く光った。
「命令が戻れば、その個体は本来の役割へ戻ります」
椿が問う。
「誰が命令するのですか」
「深き都」
初めて、その言葉が明確に出た。
深き都。
海都の下にある、もう一つの都。
黒蘭は壁の青い線を見る。
「そこへ行けば分かるか」
「四十階へ至れば」
オランピアの声が遠ざかる。
「ただし、欠損個体が先に戻れば、正面経路は閉じます」
「なぜだ」
「防衛機構が、地上側からの侵入を認識するためです」
声が消えた。
部屋には、青い点滅だけが残る。
黒蘭は二十一階を示す光を見る。
誰かがいる。
防衛個体。
人間を排除するために作られたもの。
そして、その周囲にはおそらく人間もいる。
「急ぐか」
薔薇が問う。
黒蘭は首を振る。
「急いで道を誤るな」
「だが、遅れない」
椿が地図を閉じる。
「明日、三十五階へ」
「ああ」
一つの命を三か所へ置く魔物は倒した。
だが、今度は一つの迷宮の中で、二つの道が同時に動いている。
正面から深都へ向かう黒華五刀。
地上側から防衛機構へ触れる、名も知らない誰か。
黒蘭達はまだ知らない。
その光の中心にいるのが、リッド達と行動する少女、イリスであることを。
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黒華五刀が三十四階の防衛網へ到達した頃。
蒼華の剣は、第二階層での探索を進めていた。
二十一階。
二十二階。
そして二十三階。
全ての過程を順調に越えたわけではない。
水路の流れを誤り、同じ場所へ三度戻った。
魚型の魔物へセレネの雷を使い、水を伝った電撃でリッドまで痺れた。
カイルは水流を読めても、迷宮の魔力で逆転する潮までは読めなかった。
ファラは回復術を使いすぎ、帰路で拳を握れなくなった。
アガタは一人で先行し、扉の向こうから出た魔物五体に追われて戻ってきた。
それでも、彼らは少しずつ学んだ。
失敗した場所を地図へ残す。
誰か一人の判断だけで進まない。
イリスの強さを当てにしすぎない。
カナエが嫌がる道へ、理由も聞かず入らない。
蒼華の剣は、未熟なままだった。
だが、未熟なりに前へ進む方法を覚え始めていた。
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海都来訪八十一日目。
蒼華の剣は二十三階へ入った。
二十三階は、二十一階や二十二階より暗い。
頭上の水面が遠く、青い光も弱い。
白い根は細くなり、代わりに人工物が増えている。
青銅の板。
石の柱。
途中で切れた管。
誰かが作った階段。
自然の迷宮に、古い建造物が飲み込まれている。
リッドは柱の文様を見る。
「やっぱり、イリスに似てる」
カイルが周囲を警戒しながら言う。
「大声で言うな」
「誰もいないだろ」
「誰もいないと思ってる時が一番危ない」
「黒蘭みたいなこと言うなよ」
「お前よりは、あいつの言うことを信じる」
リッドが文句を言いかける。
ファラが止めた。
「静かにして」
カナエが立ち止まっている。
二十三階へ入ってから、ほとんど話していない。
顔色が悪い。
杖を持つ指が白くなっている。
アガタが振り返る。
「また怖いのか」
カナエは答えない。
「戻る?」
ファラが尋ねる。
「まだ歩ける」
「怖い?」
「……うん」
「何が?」
カナエは目の前の暗い水路を見る。
「音」
全員が耳を澄ます。
水音。
根の軋み。
遠くの魔物。
それ以外には聞こえない。
セレネが言う。
「何の音」
「三回鳴る」
カナエは小さく答える。
「低い音」
「少し間があって」
「もう一回」
「最後に高い音」
リッドには聞こえない。
イリスだけが反応した。
胸元の光が点滅する。
低く。
低く。
高く。
カナエが言った通りの周期。
「警報信号」
イリスが告げる。
「旧防衛網の起動音です」
アガタがカナエを見る。
「何でお前が知ってる」
「知らない」
「でも、知ってるだろ」
「知らない!」
カナエの声が水路へ響いた。
ファラが肩へ手を置く。
カナエは振り払わない。
ただ、震えている。
「前にも聞いた」
「どこで」
リッドが静かに尋ねる。
「分からない」
「でも、この後に誰かが来る」
「大きいもの」
「水の中から」
「それで……」
言葉が止まる。
頭の奥に、映像が浮かんでいる。
大きな影。
差し出された背中。
自分を突き飛ばす腕。
何かを叫ぶ男の声。
だが、顔は見えない。
名前も出ない。
カナエは頭を押さえた。
「思い出したくない」
アガタが短剣を握る。
「なら、思い出さなくていい」
いつもの軽い声ではなかった。
「来る奴だけ、俺が斬る」
カナエがアガタを見る。
「一人で行かないで」
「行かない」
「本当に?」
アガタは一瞬だけ答えに詰まった。
「……今日は」
カナエの顔がさらに不安そうになる。
リッドがアガタの肩を叩く。
「ずっと、って言えよ」
「お前に言われたくない」
「俺は最近、戻ってる」
「最近だけだろ」
「お前は昨日も先に行った」
「扉一枚だ」
「その向こうに五体いた」
「勝てた」
「逃げてきただろ」
二人が言い合う。
カナエの呼吸が、僅かに戻った。
ファラはそれを見て、止めなかった。
---
警報信号は、徐々に強くなった。
イリスが水路の奥を見る。
「接続点が近いです」
「前に見つけた青銅板と同じ?」
リッドが問う。
「より大規模です」
カイルが尋ねる。
「避けられるか」
イリスは少し間を置く。
「可能」
「ただし、帰還経路の情報は得られません」
リッドは仲間を見る。
ファラ。
セレネ。
カイル。
アガタ。
カナエ。
そしてイリス。
「今日は情報を取る」
リッドが言う。
「起動はしない」
アガタが眉を寄せる。
「近くまで行って、触らないのか」
「前も勝手に光った」
「触らなくても動くかもしれない」
「なら、余計に慎重に行く」
カイルが頷く。
「まともな判断だ」
リッドは少し得意そうにする。
ファラが言った。
「褒められて浮かれない」
「まだ何もしてないだろ」
「もう浮かれてる」
---
接続点は、円形の広間にあった。
中央に青銅の柱。
胸元ほどの高さ。
上部には円形の窪み。
イリスの胸にある発光部と、同じ大きさ。
壁には人型の文様が並んでいる。
槍を持つ者。
盾を構える者。
両腕が刃になっている者。
背中から翼のような部品を伸ばす者。
全て、人間に似ている。
だが人間ではない。
イリスと同じ、機械の身体。
ファラが壁を見る。
「イリスみたいな人が、こんなにいたの」
「同型ではありません」
イリスが答える。
「用途が異なります」
セレネが柱の周囲へ杖を向ける。
「魔力が集まってる」
「触ったら動く」
リッドは柱から距離を取る。
「誰も触るな」
アガタも珍しく従った。
カナエだけが、壁の一角を見ている。
そこには、人間の子供を抱えた機械の姿が刻まれていた。
他の文様とは違う。
武器を持っていない。
子供を守るように背中を丸めている。
「これ」
カナエが近づく。
ファラが止める。
「触らないで」
「分かってる」
カナエは壁から一歩離れて見る。
「守ってる」
「何を?」
「人を」
イリスが文様を見る。
胸元の光が強くなる。
「記録と一致しません」
「何が」
「地上防衛個体は、人間を排除するために製造されました」
リッドが壁画を指す。
「でも、これは守ってる」
「判断不能」
「途中で変わった奴がいたんじゃないか」
イリスは答えない。
自分自身がそうなのかもしれない。
命令では、人間を排除する。
今の自分は、リッド達を殺したくない。
その違いを、まだ説明できない。
---
柱が光った。
誰も触れていない。
円形の窪みから青い線が伸びる。
床。
壁。
天井。
広間全体へ広がる。
イリスの身体が硬直した。
「イリス!」
リッドが駆け寄る。
「触るな!」
カイルが叫ぶ。
だがリッドは止まらない。
イリスの肩を掴む。
その瞬間、リッドの頭にも声が流れ込んだ。
感情のない女の声。
**地上防衛個体。**
**識別信号を確認。**
**帰還せよ。**
イリスの瞳から光が消える。
身体が柱へ向く。
一歩。
リッドが肩を引く。
「イリス!」
「帰還命令を受信」
声が平坦になる。
普段よりも、さらに機械的。
「命令優先度、最上位」
「帰還経路を検索」
「待て」
リッドが正面へ回る。
イリスは止まらない。
リッドを避けようとする。
「俺が分かるか?」
「障害物を確認」
リッドの顔が強張る。
「障害物じゃない」
イリスの右腕が動く。
外套の下で、金属音。
刃が展開しかける。
ファラが叫ぶ。
「リッド、離れて!」
リッドは離れない。
イリスの腕を両手で押さえる。
力が違う。
身体ごと持ち上げられそうになる。
「俺はリッドだ!」
「対象情報、照合中」
「一緒に帰る場所を探すって言っただろ!」
「帰還命令を実行します」
「そこがお前の帰る場所か、まだ決めてないだろ!」
イリスの動きが、一瞬止まる。
リッドは続ける。
「命令された場所と、帰りたい場所は同じなのか!」
イリスの瞳に、僅かに光が戻る。
だが柱の声が繰り返す。
**帰還せよ。**
**地上経路を閉鎖する。**
**同行する人間を排除せよ。**
イリスの右腕がリッドを押し飛ばした。
リッドの身体が床を転がる。
ファラが駆け寄る。
「リッド!」
イリスの腕から刃が伸びる。
リッドへ向く。
アガタが間に入った。
短剣を構える。
「やるなら、俺が相手だ」
カナエが叫ぶ。
「駄目!」
「でも、放っておけないだろ」
「殺す気なの?」
アガタは答えない。
イリスの刃が上がる。
セレネが術式を組む。
カイルが銃を抜く。
ファラも拳を構える。
蒼華の剣が、初めてイリスへ武器を向けた。
リッドが立ち上がる。
「下ろせ」
「何言ってるの」
ファラが振り返る。
「イリスが!」
「まだ戻せる」
「どうやって」
「分からない」
リッドはイリスへ近づく。
「でも、斬ったら終わる」
アガタが言う。
「お前が斬られても終わるぞ」
「その前に止める」
「何で止める」
リッドは剣を抜かなかった。
両手を空けたまま、イリスの前へ立つ。
「イリス」
刃が喉元へ向く。
「帰る場所を探すって言った」
刃先が近づく。
「命令されたから帰るなら、それは探したことにならない」
イリスの腕が震える。
「対象リッド」
「そうだ」
「排除対象」
「違う」
「命令では、そうです」
「お前はどうなんだ」
イリスの瞳に、青い光が戻る。
「私は」
柱が強く光る。
**排除せよ。**
イリスの刃が振り下ろされた。
リッドは避けない。
刃は首の横を通り、床へ刺さった。
イリスの身体が震える。
「私は」
声に僅かな揺らぎ。
「対象リッドを、排除したくありません」
柱の光が乱れた。
青い線が一斉に明滅する。
イリスは自分の胸元へ手を入れた。
発光部の周囲に指を掛ける。
リッドが止めようとする。
「何するんだ」
「接続を切断します」
「壊れるか?」
「機能の一部を喪失する可能性」
「駄目だ」
「このままでは、再び命令を受信します」
イリスは胸元から、小さな青い部品を引き抜いた。
光が弾ける。
身体が大きく揺れる。
リッドが受け止める。
柱の光が消えた。
広間が暗くなる。
---
イリスはリッドの腕の中で動かなかった。
ファラが脈を確認しようとして、手を止める。
人間と同じ場所に脈があるか分からない。
「イリス」
リッドが呼ぶ。
返事はない。
数呼吸。
胸元の光が、ごく弱く灯った。
「対象リッド」
「いる」
「帰還命令を拒否しました」
「ああ」
「命令違反です」
「そうだな」
「私は、故障しています」
リッドは首を振る。
「故障じゃない」
「では、何ですか」
リッドは少し考えた。
「選んだんだ」
イリスの瞳がリッドを見る。
「選択」
「ああ」
「命令より、俺達を選んだ」
イリスはその言葉を処理している。
やがて、ほんの僅かに目を閉じた。
「了解」
それだけだった。
だが、以前より人間に近い声に聞こえた。
---
カナエが壁際へ座り込んでいる。
警報が止まっても、震えは収まらない。
アガタが隣へ座る。
「大丈夫か」
「分からない」
「戻るぞ」
「うん」
アガタは立ち上がろうとする。
カナエが袖を掴んだ。
「先に行かないで」
アガタは、今度はすぐに答えた。
「行かない」
「本当に?」
「ああ」
「俺も一緒に戻る」
カナエは袖を離さなかった。
アガタも無理に外さない。
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帰路。
イリスは自力で歩けなかった。
リッドが背負う。
金属の身体は重い。
途中で何度も足が止まる。
カイルが代わろうとする。
リッドは最初、断った。
ファラが怒る。
「一人で全部やろうとしないで」
リッドは黙り、イリスをカイルへ渡した。
しばらくして、アガタが代わる。
次にファラ。
セレネは体格的に無理だったが、荷物を持った。
カナエは地図を担当した。
全員で一人を運ぶ。
以前のリッドなら、自分が最後まで背負うことに意味があると思っただろう。
今は違う。
イリスを帰すことが目的であり、誰が背負ったかは重要ではない。
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彼らが二十三階を離れた直後。
青銅の柱が、再び一度だけ光った。
切断された接続の向こうから、遠い場所へ信号が送られる。
三十四階。
黒華五刀が立つ防衛網の部屋。
人型の文様が明滅し、胸元の円が一部欠けた。
牡丹がそれを記録する。
「光が弱くなりました」
椿が問う。
「防衛個体が破壊された?」
百合は首を振る。
「違います」
「自分で繋がりを切りました」
薔薇が眉を上げる。
「機械が?」
黒蘭は欠けた円を見る。
命令を受けるための繋がり。
それを自ら断った。
「人間を排除するためのものが、人間のために命令を捨てた」
椿が静かに言う。
黒蘭は答えなかった。
だが、オランピアが出した問いを思い出していた。
捨てるものを選べ。
目の前の防衛個体は、命令を捨てた。
その結果、正面経路が閉じる可能性が生まれた。
正しい選択だったかは分からない。
だが、選んだことだけは確かだった。
遠く離れた二つの道。
黒華五刀は、防衛個体の選択を見た。
蒼華の剣は、その選択を背負って地上へ戻る。
そして海嶺ノ水林のさらに奥。
白い髪の門番は、青い光が途切れた瞬間を見ていた。
オランピアの表情は変わらない。
ただ、その指先だけが僅かに震えた。
「命令拒否」
「欠損個体に、自律選択を確認」
長い沈黙。
「深王へ報告が必要です」
そう告げながら、オランピアはすぐには動かなかった。
機械は命令に従う。
それが正しい。
それ以外の答えを、彼女は持たない。
だからこそ。
命令を捨てた個体と、命令ではなく仲間を選ばせた人間を、理解できなかった。
理解できないものを、オランピアは初めて恐れていた。
第二十二話 了