亡国の黒将と世界樹の迷宮   作:清海深々

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第二十二刀 三つの身体、一つの命

 

海都来訪八十日目。

 

三十四階で迎える最初の朝は、水の音から始まった。

 

頭上には、逆さまの湖。

 

本来なら空である場所に、巨大な水塊が浮かんでいる。

 

魚の影が頭上を横切り、水面から落ちた雫は途中で向きを変え、再び湖へ戻っていく。

 

黒華五刀は、白い巨木の根元に野営地を設けていた。

 

背後には岩壁。

 

正面には細い水路。

 

左右には退路。

 

頭上の逆さ湖から何かが落ちても、直撃しない位置。

 

牡丹が携帯食を分ける。

 

予定量より増やさない。

 

昨日、想定以上に長い距離を歩いたからといって、今日の分を前借りすることもない。

 

薔薇が乾いた肉を噛みながら、遠くの水路を見る。

 

「昨夜は来なかったな」

 

「近くにはいました」

 

百合が答える。

 

「三度、こちらを見ています」

 

「身体が三つある奴か」

 

「一つです」

 

「三か所にいるんだろ」

 

「身体が三つあるように見えるだけです」

 

薔薇が眉を寄せる。

 

「同じじゃないのか?」

 

「違います」

 

百合はそれ以上説明しなかった。

 

椿は地図を広げている。

 

昨夜、三方向から戻ってきた波紋。

 

東。

 

南。

 

北西。

 

三つの水路に、同時に大型個体の反応があった。

 

しかし鳴き声は一つ。

 

水流の乱れも、同じ周期。

 

三体が連携しているのではない。

 

一体が、三つの場所へ現れている。

 

黒蘭は地図上の三点を線で結んだ。

 

三角形。

 

その中央には、白い巨木が一本立っている。

 

「根の下か」

 

牡丹が巨木を見る。

 

「水路が全て、あの木の根元へ集まっています」

 

椿が問う。

 

「本体は地下に?」

 

「あるいは、三つとも本体だ」

 

黒蘭は立ち上がる。

 

「確かめる」

 

---

 

最初に向かったのは、東の水路だった。

 

白い根の間を、青い水が緩やかに流れている。

 

深さは膝ほど。

 

一見すれば、魔物が潜めるほどではない。

 

百合が水辺へ針を一本投げた。

 

針は水へ落ちる前に、何かへ弾かれた。

 

透明な膜。

 

水面の少し上に、薄い力場が張られている。

 

次の瞬間、水路の奥が盛り上がった。

 

青黒い頭部。

 

細長い顎。

 

左右に裂けた鰭。

 

蛇に似ているが、鱗はない。

 

身体の表面を、透明な水膜が覆っている。

 

頭だけでも、人間二人分の大きさがある。

 

薔薇が刀を抜く。

 

「これか」

 

魔物が口を開く。

 

牙はない。

 

代わりに、喉の奥で水が回転している。

 

黒蘭が言った。

 

「避けろ」

 

水の槍が放たれた。

 

薔薇が籠手で受ける。

 

直撃は避けた。

 

それでも、身体が半歩押される。

 

水槍は背後の巨木へ刺さり、幹を深く抉った。

 

「低階層の奴じゃないな」

 

薔薇が籠手を振る。

 

百合はすでに魔物の側面へ移動していた。

 

二本の針を投げる。

 

一つは目。

 

一つは鰭の付け根。

 

針は刺さった。

 

魔物が首を振る。

 

その動きに合わせて、遠くから二つの水音が響いた。

 

南。

 

北西。

 

椿が振り返る。

 

「同時に動きました」

 

牡丹が水面へ指を触れる。

 

「東の個体へ刺した針の振動が、別の水路へ伝わっています」

 

薔薇が問う。

 

「繋がってるのか?」

 

黒蘭は魔物を見る。

 

百合の針が刺さった場所から、血は出ていない。

 

代わりに、身体を覆う水膜が一度だけ薄くなった。

 

そして南の水路から、同じ針が流れてきた。

 

針は魔物の身体を貫いたのではない。

 

内部の水路へ吸い込まれ、別の場所から排出された。

 

「身体が水で繋がっている」

 

椿が言う。

 

黒蘭は頷いた。

 

「三つの頭と、一つの中身だ」

 

---

 

東の頭部が水へ沈む。

 

同時に、南から大きな水音がした。

 

五人が移動すると、別の頭部が待っていた。

 

見た目は同じ。

 

ただし、百合の針が刺さっていた右目に傷がない。

 

「傷も移るわけではないのか」

 

薔薇が言う。

 

百合は魔物の首元を見る。

 

「こちらは呼吸が浅いです」

 

「先ほどの攻撃は伝わっています」

 

牡丹が南の水路へ薬粉を落とした。

 

紫の粉が水へ溶ける。

 

魔物が水を吸い込む。

 

数呼吸後。

 

北西の水路から、紫色の泡が浮かんだ。

 

「一つの循環器官です」

 

牡丹が言う。

 

「三つの頭で水を吸い、一つの内部へ送っています」

 

「どれか一つを斬れば?」

 

椿が問う。

 

「残る二つへ流れるだけでしょう」

 

黒蘭は刀を抜く。

 

「試す」

 

薔薇が前へ出た。

 

南の頭部が水槍を放つ。

 

薔薇が籠手で軌道を逸らす。

 

黒蘭が踏み込む。

 

二刀が走った。

 

首元へ二筋。

 

水膜が裂ける。

 

その内側に、青白い肉が見えた。

 

黒蘭の右刀が深く入る。

 

頭部が大きく仰け反った。

 

水路へ沈む。

 

切断には至っていない。

 

だが、明らかな致命傷だった。

 

「終わったか?」

 

薔薇が言った直後。

 

東の方向から咆哮が響いた。

 

五人が戻る。

 

東の頭部が再び現れている。

 

先ほど百合が傷を付けた個体。

 

だが今度は、首元に黒蘭が斬った傷が浮かんでいた。

 

裂けた肉を、水膜が覆う。

 

傷口が徐々に閉じていく。

 

百合が言う。

 

「移しました」

 

「何を」

 

「傷です」

 

魔物は、三つの身体の間で損傷を移動させている。

 

一つの頭部へ傷が集中すれば、別の二つへ分ける。

 

肉体そのものが三つに分かれているのではない。

 

水を介して、一つの命を三か所へ置いている。

 

「順番に斬っても治るな」

 

薔薇が言う。

 

「三つを同時に断つ必要があります」

 

椿が答えた。

 

その言葉に、五人が静かになる。

 

---

 

黒華五刀の戦いは、常に途切れなかった。

 

黒蘭が斬る。

 

薔薇がその隙を守る。

 

百合が死角へ入る。

 

牡丹が動きを止める。

 

椿が次の位置を指示する。

 

一人が攻撃した後、次の者が隙を埋める。

 

戦列を回し続ける。

 

黒華の対人戦では、理に適った戦い方だった。

 

同じ敵へ、複数人が同時に刃を重ねる必要はない。

 

むしろ互いの間合いが重なり、邪魔になる。

 

だが、目の前の魔物は違う。

 

一つの命が、三か所にある。

 

一つずつ斬れば、残りへ逃げる。

 

黒蘭は三つの水路を見る。

 

距離がある。

 

全員で一つの場所へ集まっていては間に合わない。

 

「分かれる」

 

薔薇が問う。

 

「どう分ける」

 

「東は俺と椿」

 

「南は薔薇」

 

「北西は百合と牡丹」

 

椿がすぐに地図へ位置を書き込む。

 

「合図は?」

 

三か所は互いに見えない。

 

声も、水音に遮られる。

 

牡丹が袖から三つの金属片を取り出した。

 

細い糸で繋がれている。

 

黒華で使用していた振動伝達具。

 

だが、距離が足りない。

 

「水を使います」

 

牡丹は金属片をそれぞれ水路へ沈める。

 

「全ての水路は繋がっています」

 

「私が一度、雷を流します」

 

「最初の弱い振動で構え」

 

「二度目で攻撃してください」

 

薔薇が刀を肩へ置く。

 

「分かりやすい」

 

百合が言う。

 

「薔薇は早く動きすぎます」

 

「動かない」

 

「一度目で斬らないでください」

 

「斬らないって」

 

「本当に?」

 

「お前は私を何だと思ってる」

 

「薔薇です」

 

「答えになってない」

 

椿が二人を止める。

 

「時間を合わせます」

 

黒蘭が言った。

 

「傷を付けるだけでは駄目だ」

 

「三つとも首を落とす」

 

薔薇が笑う。

 

「最初からそう言え」

 

---

 

三組へ分かれた。

 

東。

 

黒蘭と椿。

 

水路は静かだった。

 

魔物はこちらの動きを理解している。

 

三つの頭部を沈め、攻撃する場所を選んでいる。

 

椿は片方の刀を水路脇の地面へ刺した。

 

柄頭から伸びる黒帯が、水の流れに合わせて揺れる。

 

「来ます」

 

水面が盛り上がる。

 

頭部が現れる。

 

同時に、遠くから二つの咆哮。

 

三か所へ、同時に出た。

 

黒蘭は二刀を低く構える。

 

椿は自己へ号令をかける。

 

「静まれ」

 

呼吸が整う。

 

「見失うな」

 

黒い瞳が魔物の首元を捉える。

 

「一撃で断て」

 

号令は、遠くの薔薇達には届かない。

 

だが、東の水路の空気だけが引き締まった。

 

魔物が水を吸い込む。

 

牡丹の一度目の雷。

 

水面が僅かに震えた。

 

構え。

 

魔物の喉で水槍が回転する。

 

黒蘭は動かない。

 

椿も待つ。

 

二度目。

 

紫電が水面を走った。

 

「今」

 

椿が言う。

 

---

 

南。

 

薔薇は水槍を正面から籠手で受けた。

 

普段なら逸らす。

 

今回は動かさない。

 

斬撃の位置をずらさないため。

 

籠手の表面が削れる。

 

足が石畳へ沈む。

 

それでも一歩も退かない。

 

二度目の振動。

 

薔薇は水槍を籠手で押し潰した。

 

逆の手の刀を抜く。

 

一閃。

 

首を横から断つ。

 

---

 

北西。

 

百合の針が、魔物の両目へ刺さった。

 

頭部が仰け反る。

 

牡丹は水路へ両手を入れ、印を結んでいる。

 

一度目の雷。

 

自分達への合図。

 

二度目。

 

百合が短刀で首の左側へ入る。

 

牡丹は印を解き、右手の短刀を抜いた。

 

反対側から斬る。

 

二人の刃が、首の中心で触れた。

 

---

 

東。

 

椿が先に跳んだ。

 

右の逆手刀を首の下へ入れる。

 

一刀では足りない。

 

身体を捻り、空中で回る。

 

左刀が反対側から入る。

 

二本の刀が、黒い扇のように首を挟む。

 

魔物の水膜が裂けた。

 

青白い肉が露出する。

 

黒蘭の黒翼は使わない。

 

必要なのは八撃ではない。

 

三か所で同じ瞬間に届く、一つの致命傷。

 

椿が首を半ばまで断つ。

 

残りを黒蘭の二刀が挟み込む。

 

一度。

 

首が落ちた。

 

---

 

三つの咆哮が、一つの音へ重なった。

 

東。

 

南。

 

北西。

 

三つの頭部が水路へ落ちる。

 

水面が激しく逆巻く。

 

傷を別の身体へ移そうとする。

 

だが、移す先がない。

 

三つとも断たれている。

 

白い巨木の根元が膨れた。

 

地面の下を、巨大な何かが動く。

 

黒蘭達が中央へ集まる。

 

巨木の根が裂けた。

 

内部から現れたのは、透明な球体だった。

 

人の背丈ほど。

 

中には青白い臓器のようなものが浮かび、三本の太い管が各水路へ伸びている。

 

一つの心臓。

 

三つの頭部を動かしていた本体。

 

球体には、三方向から亀裂が走っていた。

 

同時に首を断たれた反動が、中心へ戻ったのだ。

 

黒蘭が一歩進む。

 

二刀を交差させる。

 

球体を断った。

 

水林全体が震えた。

 

頭上の逆さ湖から、大量の水が雨のように降り注ぐ。

 

だが地面へ届く前に、全てが青い光へ変わった。

 

魔物の身体も、水へ溶けて消える。

 

残ったのは、拳ほどの透明な核。

 

薔薇が拾う。

 

「面倒な奴だったな」

 

百合が言う。

 

「一度目で倒せませんでした」

 

「倒し方が分からなかったからだろ」

 

「事実です」

 

薔薇が反論しようとする。

 

黒蘭が水路を見る。

 

「今までのやり方では足りない敵がいる」

 

四人が黒蘭を見る。

 

「位置を替えながら繋ぐだけでは、傷が逃げる」

 

椿が問う。

 

「同じ瞬間に攻撃する必要がある、と?」

 

「ああ」

 

黒蘭は、自分達が斬った三方向を見る。

 

遠く離れた場所。

 

互いの姿は見えない。

 

それでも、一度の雷を合図に同じ瞬間へ刃を置いた。

 

「五人全員なら、何撃を同じ刹那へ重ねられる」

 

薔薇が答える。

 

「黒蘭が八」

 

「椿が二」

 

「私は一」

 

百合が言う。

 

「私と牡丹が二撃ずつ」

 

牡丹が合計する。

 

「十五撃です」

 

黒蘭はしばらく黙っていた。

 

十五。

 

一度だけではない。

 

位置を変え、起点を変えれば。

 

戦列を回すという、黒華五刀がこれまで使ってきた考え方と、同時攻撃を組み合わせれば。

 

まだ形にはならない。

 

だが、何かが見えた。

 

黒蘭は初めて空気を吸ったように、短く息を吐いた。

 

「……そうか」

 

椿が黒蘭を見る。

 

「何か思い付きましたか」

 

「まだだ」

 

黒蘭は透明な核を牡丹へ渡す。

 

「忘れるな」

 

牡丹は核を布へ包む。

 

「何をでしょう」

 

「今の時間差だ」

 

百合が答える。

 

「一息より短いです」

 

「もっと縮める」

 

薔薇が笑う。

 

「まだ強くなる気か」

 

黒蘭は当然のように返した。

 

「なれるならな」

 

---

 

魔物が消えると、白い巨木の根元に新しい穴が開いた。

 

人工物の階段。

 

青白い石。

 

壁には、イリスの胸元と同じ円形の文様。

 

五人はまだ、その一致を知らない。

 

階段を下りる。

 

距離は短い。

 

その先に、小さな部屋があった。

 

壁一面に、青い線が走っている。

 

線は迷宮の地図に似ている。

 

だが、階層ごとに分かれていない。

 

二十一階。

 

三十四階。

 

四十一階相当区域。

 

離れた場所が、一本の線で直接繋がっている。

 

椿が地図を見比べる。

 

「これは迷宮全体の水路です」

 

牡丹が壁の文字へ触れる。

 

「水路だけではありません」

 

「魔力」

 

「情報」

 

「命令」

 

「何かを各所へ伝える道です」

 

薔薇が壁の一つを指す。

 

青い点が点滅している。

 

下層ではない。

 

二十一階付近。

 

昨日も一度だけ光った場所。

 

「また動いてる」

 

百合が顔を上げる。

 

「人がいます」

 

「遠いぞ」

 

「知っています」

 

「どうして分かる」

 

「こちらを見ているからです」

 

黒蘭は青い点へ近づく。

 

触れない。

 

点は、一定の周期で光っている。

 

まるで心臓。

 

その横に、人型の文様。

 

胸元に円。

 

椿が写し取る。

 

「何を示しているのでしょう」

 

部屋の奥から、オランピアの声がした。

 

姿は見えない。

 

「欠損した防衛個体です」

 

黒蘭が振り返る。

 

「防衛個体」

 

「地上へ派遣され、帰還しなかったもの」

 

「今、再び迷宮へ接続しています」

 

「敵か」

 

「本来は、人間を排除するためのものです」

 

薔薇が刀へ手を置く。

 

「今もか」

 

オランピアは答えない。

 

代わりに、二十一階の青い点が強く光った。

 

「命令が戻れば、その個体は本来の役割へ戻ります」

 

椿が問う。

 

「誰が命令するのですか」

 

「深き都」

 

初めて、その言葉が明確に出た。

 

深き都。

 

海都の下にある、もう一つの都。

 

黒蘭は壁の青い線を見る。

 

「そこへ行けば分かるか」

 

「四十階へ至れば」

 

オランピアの声が遠ざかる。

 

「ただし、欠損個体が先に戻れば、正面経路は閉じます」

 

「なぜだ」

 

「防衛機構が、地上側からの侵入を認識するためです」

 

声が消えた。

 

部屋には、青い点滅だけが残る。

 

黒蘭は二十一階を示す光を見る。

 

誰かがいる。

 

防衛個体。

 

人間を排除するために作られたもの。

 

そして、その周囲にはおそらく人間もいる。

 

「急ぐか」

 

薔薇が問う。

 

黒蘭は首を振る。

 

「急いで道を誤るな」

 

「だが、遅れない」

 

椿が地図を閉じる。

 

「明日、三十五階へ」

 

「ああ」

 

一つの命を三か所へ置く魔物は倒した。

 

だが、今度は一つの迷宮の中で、二つの道が同時に動いている。

 

正面から深都へ向かう黒華五刀。

 

地上側から防衛機構へ触れる、名も知らない誰か。

 

黒蘭達はまだ知らない。

 

その光の中心にいるのが、リッド達と行動する少女、イリスであることを。

 

----

 

黒華五刀が三十四階の防衛網へ到達した頃。

 

蒼華の剣は、第二階層での探索を進めていた。

 

二十一階。

 

二十二階。

 

そして二十三階。

 

全ての過程を順調に越えたわけではない。

 

水路の流れを誤り、同じ場所へ三度戻った。

 

魚型の魔物へセレネの雷を使い、水を伝った電撃でリッドまで痺れた。

 

カイルは水流を読めても、迷宮の魔力で逆転する潮までは読めなかった。

 

ファラは回復術を使いすぎ、帰路で拳を握れなくなった。

 

アガタは一人で先行し、扉の向こうから出た魔物五体に追われて戻ってきた。

 

それでも、彼らは少しずつ学んだ。

 

失敗した場所を地図へ残す。

 

誰か一人の判断だけで進まない。

 

イリスの強さを当てにしすぎない。

 

カナエが嫌がる道へ、理由も聞かず入らない。

 

蒼華の剣は、未熟なままだった。

 

だが、未熟なりに前へ進む方法を覚え始めていた。

 

---

 

海都来訪八十一日目。

 

蒼華の剣は二十三階へ入った。

 

二十三階は、二十一階や二十二階より暗い。

 

頭上の水面が遠く、青い光も弱い。

 

白い根は細くなり、代わりに人工物が増えている。

 

青銅の板。

 

石の柱。

 

途中で切れた管。

 

誰かが作った階段。

 

自然の迷宮に、古い建造物が飲み込まれている。

 

リッドは柱の文様を見る。

 

「やっぱり、イリスに似てる」

 

カイルが周囲を警戒しながら言う。

 

「大声で言うな」

 

「誰もいないだろ」

 

「誰もいないと思ってる時が一番危ない」

 

「黒蘭みたいなこと言うなよ」

 

「お前よりは、あいつの言うことを信じる」

 

リッドが文句を言いかける。

 

ファラが止めた。

 

「静かにして」

 

カナエが立ち止まっている。

 

二十三階へ入ってから、ほとんど話していない。

 

顔色が悪い。

 

杖を持つ指が白くなっている。

 

アガタが振り返る。

 

「また怖いのか」

 

カナエは答えない。

 

「戻る?」

 

ファラが尋ねる。

 

「まだ歩ける」

 

「怖い?」

 

「……うん」

 

「何が?」

 

カナエは目の前の暗い水路を見る。

 

「音」

 

全員が耳を澄ます。

 

水音。

 

根の軋み。

 

遠くの魔物。

 

それ以外には聞こえない。

 

セレネが言う。

 

「何の音」

 

「三回鳴る」

 

カナエは小さく答える。

 

「低い音」

 

「少し間があって」

 

「もう一回」

 

「最後に高い音」

 

リッドには聞こえない。

 

イリスだけが反応した。

 

胸元の光が点滅する。

 

低く。

 

低く。

 

高く。

 

カナエが言った通りの周期。

 

「警報信号」

 

イリスが告げる。

 

「旧防衛網の起動音です」

 

アガタがカナエを見る。

 

「何でお前が知ってる」

 

「知らない」

 

「でも、知ってるだろ」

 

「知らない!」

 

カナエの声が水路へ響いた。

 

ファラが肩へ手を置く。

 

カナエは振り払わない。

 

ただ、震えている。

 

「前にも聞いた」

 

「どこで」

 

リッドが静かに尋ねる。

 

「分からない」

 

「でも、この後に誰かが来る」

 

「大きいもの」

 

「水の中から」

 

「それで……」

 

言葉が止まる。

 

頭の奥に、映像が浮かんでいる。

 

大きな影。

 

差し出された背中。

 

自分を突き飛ばす腕。

 

何かを叫ぶ男の声。

 

だが、顔は見えない。

 

名前も出ない。

 

カナエは頭を押さえた。

 

「思い出したくない」

 

アガタが短剣を握る。

 

「なら、思い出さなくていい」

 

いつもの軽い声ではなかった。

 

「来る奴だけ、俺が斬る」

 

カナエがアガタを見る。

 

「一人で行かないで」

 

「行かない」

 

「本当に?」

 

アガタは一瞬だけ答えに詰まった。

 

「……今日は」

 

カナエの顔がさらに不安そうになる。

 

リッドがアガタの肩を叩く。

 

「ずっと、って言えよ」

 

「お前に言われたくない」

 

「俺は最近、戻ってる」

 

「最近だけだろ」

 

「お前は昨日も先に行った」

 

「扉一枚だ」

 

「その向こうに五体いた」

 

「勝てた」

 

「逃げてきただろ」

 

二人が言い合う。

 

カナエの呼吸が、僅かに戻った。

 

ファラはそれを見て、止めなかった。

 

---

 

警報信号は、徐々に強くなった。

 

イリスが水路の奥を見る。

 

「接続点が近いです」

 

「前に見つけた青銅板と同じ?」

 

リッドが問う。

 

「より大規模です」

 

カイルが尋ねる。

 

「避けられるか」

 

イリスは少し間を置く。

 

「可能」

 

「ただし、帰還経路の情報は得られません」

 

リッドは仲間を見る。

 

ファラ。

 

セレネ。

 

カイル。

 

アガタ。

 

カナエ。

 

そしてイリス。

 

「今日は情報を取る」

 

リッドが言う。

 

「起動はしない」

 

アガタが眉を寄せる。

 

「近くまで行って、触らないのか」

 

「前も勝手に光った」

 

「触らなくても動くかもしれない」

 

「なら、余計に慎重に行く」

 

カイルが頷く。

 

「まともな判断だ」

 

リッドは少し得意そうにする。

 

ファラが言った。

 

「褒められて浮かれない」

 

「まだ何もしてないだろ」

 

「もう浮かれてる」

 

---

 

接続点は、円形の広間にあった。

 

中央に青銅の柱。

 

胸元ほどの高さ。

 

上部には円形の窪み。

 

イリスの胸にある発光部と、同じ大きさ。

 

壁には人型の文様が並んでいる。

 

槍を持つ者。

 

盾を構える者。

 

両腕が刃になっている者。

 

背中から翼のような部品を伸ばす者。

 

全て、人間に似ている。

 

だが人間ではない。

 

イリスと同じ、機械の身体。

 

ファラが壁を見る。

 

「イリスみたいな人が、こんなにいたの」

 

「同型ではありません」

 

イリスが答える。

 

「用途が異なります」

 

セレネが柱の周囲へ杖を向ける。

 

「魔力が集まってる」

 

「触ったら動く」

 

リッドは柱から距離を取る。

 

「誰も触るな」

 

アガタも珍しく従った。

 

カナエだけが、壁の一角を見ている。

 

そこには、人間の子供を抱えた機械の姿が刻まれていた。

 

他の文様とは違う。

 

武器を持っていない。

 

子供を守るように背中を丸めている。

 

「これ」

 

カナエが近づく。

 

ファラが止める。

 

「触らないで」

 

「分かってる」

 

カナエは壁から一歩離れて見る。

 

「守ってる」

 

「何を?」

 

「人を」

 

イリスが文様を見る。

 

胸元の光が強くなる。

 

「記録と一致しません」

 

「何が」

 

「地上防衛個体は、人間を排除するために製造されました」

 

リッドが壁画を指す。

 

「でも、これは守ってる」

 

「判断不能」

 

「途中で変わった奴がいたんじゃないか」

 

イリスは答えない。

 

自分自身がそうなのかもしれない。

 

命令では、人間を排除する。

 

今の自分は、リッド達を殺したくない。

 

その違いを、まだ説明できない。

 

---

 

柱が光った。

 

誰も触れていない。

 

円形の窪みから青い線が伸びる。

 

床。

 

壁。

 

天井。

 

広間全体へ広がる。

 

イリスの身体が硬直した。

 

「イリス!」

 

リッドが駆け寄る。

 

「触るな!」

 

カイルが叫ぶ。

 

だがリッドは止まらない。

 

イリスの肩を掴む。

 

その瞬間、リッドの頭にも声が流れ込んだ。

 

感情のない女の声。

 

**地上防衛個体。**

 

**識別信号を確認。**

 

**帰還せよ。**

 

イリスの瞳から光が消える。

 

身体が柱へ向く。

 

一歩。

 

リッドが肩を引く。

 

「イリス!」

 

「帰還命令を受信」

 

声が平坦になる。

 

普段よりも、さらに機械的。

 

「命令優先度、最上位」

 

「帰還経路を検索」

 

「待て」

 

リッドが正面へ回る。

 

イリスは止まらない。

 

リッドを避けようとする。

 

「俺が分かるか?」

 

「障害物を確認」

 

リッドの顔が強張る。

 

「障害物じゃない」

 

イリスの右腕が動く。

 

外套の下で、金属音。

 

刃が展開しかける。

 

ファラが叫ぶ。

 

「リッド、離れて!」

 

リッドは離れない。

 

イリスの腕を両手で押さえる。

 

力が違う。

 

身体ごと持ち上げられそうになる。

 

「俺はリッドだ!」

 

「対象情報、照合中」

 

「一緒に帰る場所を探すって言っただろ!」

 

「帰還命令を実行します」

 

「そこがお前の帰る場所か、まだ決めてないだろ!」

 

イリスの動きが、一瞬止まる。

 

リッドは続ける。

 

「命令された場所と、帰りたい場所は同じなのか!」

 

イリスの瞳に、僅かに光が戻る。

 

だが柱の声が繰り返す。

 

**帰還せよ。**

 

**地上経路を閉鎖する。**

 

**同行する人間を排除せよ。**

 

イリスの右腕がリッドを押し飛ばした。

 

リッドの身体が床を転がる。

 

ファラが駆け寄る。

 

「リッド!」

 

イリスの腕から刃が伸びる。

 

リッドへ向く。

 

アガタが間に入った。

 

短剣を構える。

 

「やるなら、俺が相手だ」

 

カナエが叫ぶ。

 

「駄目!」

 

「でも、放っておけないだろ」

 

「殺す気なの?」

 

アガタは答えない。

 

イリスの刃が上がる。

 

セレネが術式を組む。

 

カイルが銃を抜く。

 

ファラも拳を構える。

 

蒼華の剣が、初めてイリスへ武器を向けた。

 

リッドが立ち上がる。

 

「下ろせ」

 

「何言ってるの」

 

ファラが振り返る。

 

「イリスが!」

 

「まだ戻せる」

 

「どうやって」

 

「分からない」

 

リッドはイリスへ近づく。

 

「でも、斬ったら終わる」

 

アガタが言う。

 

「お前が斬られても終わるぞ」

 

「その前に止める」

 

「何で止める」

 

リッドは剣を抜かなかった。

 

両手を空けたまま、イリスの前へ立つ。

 

「イリス」

 

刃が喉元へ向く。

 

「帰る場所を探すって言った」

 

刃先が近づく。

 

「命令されたから帰るなら、それは探したことにならない」

 

イリスの腕が震える。

 

「対象リッド」

 

「そうだ」

 

「排除対象」

 

「違う」

 

「命令では、そうです」

 

「お前はどうなんだ」

 

イリスの瞳に、青い光が戻る。

 

「私は」

 

柱が強く光る。

 

**排除せよ。**

 

イリスの刃が振り下ろされた。

 

リッドは避けない。

 

刃は首の横を通り、床へ刺さった。

 

イリスの身体が震える。

 

「私は」

 

声に僅かな揺らぎ。

 

「対象リッドを、排除したくありません」

 

柱の光が乱れた。

 

青い線が一斉に明滅する。

 

イリスは自分の胸元へ手を入れた。

 

発光部の周囲に指を掛ける。

 

リッドが止めようとする。

 

「何するんだ」

 

「接続を切断します」

 

「壊れるか?」

 

「機能の一部を喪失する可能性」

 

「駄目だ」

 

「このままでは、再び命令を受信します」

 

イリスは胸元から、小さな青い部品を引き抜いた。

 

光が弾ける。

 

身体が大きく揺れる。

 

リッドが受け止める。

 

柱の光が消えた。

 

広間が暗くなる。

 

---

 

イリスはリッドの腕の中で動かなかった。

 

ファラが脈を確認しようとして、手を止める。

 

人間と同じ場所に脈があるか分からない。

 

「イリス」

 

リッドが呼ぶ。

 

返事はない。

 

数呼吸。

 

胸元の光が、ごく弱く灯った。

 

「対象リッド」

 

「いる」

 

「帰還命令を拒否しました」

 

「ああ」

 

「命令違反です」

 

「そうだな」

 

「私は、故障しています」

 

リッドは首を振る。

 

「故障じゃない」

 

「では、何ですか」

 

リッドは少し考えた。

 

「選んだんだ」

 

イリスの瞳がリッドを見る。

 

「選択」

 

「ああ」

 

「命令より、俺達を選んだ」

 

イリスはその言葉を処理している。

 

やがて、ほんの僅かに目を閉じた。

 

「了解」

 

それだけだった。

 

だが、以前より人間に近い声に聞こえた。

 

---

 

カナエが壁際へ座り込んでいる。

 

警報が止まっても、震えは収まらない。

 

アガタが隣へ座る。

 

「大丈夫か」

 

「分からない」

 

「戻るぞ」

 

「うん」

 

アガタは立ち上がろうとする。

 

カナエが袖を掴んだ。

 

「先に行かないで」

 

アガタは、今度はすぐに答えた。

 

「行かない」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「俺も一緒に戻る」

 

カナエは袖を離さなかった。

 

アガタも無理に外さない。

 

---

 

帰路。

 

イリスは自力で歩けなかった。

 

リッドが背負う。

 

金属の身体は重い。

 

途中で何度も足が止まる。

 

カイルが代わろうとする。

 

リッドは最初、断った。

 

ファラが怒る。

 

「一人で全部やろうとしないで」

 

リッドは黙り、イリスをカイルへ渡した。

 

しばらくして、アガタが代わる。

 

次にファラ。

 

セレネは体格的に無理だったが、荷物を持った。

 

カナエは地図を担当した。

 

全員で一人を運ぶ。

 

以前のリッドなら、自分が最後まで背負うことに意味があると思っただろう。

 

今は違う。

 

イリスを帰すことが目的であり、誰が背負ったかは重要ではない。

 

---

 

彼らが二十三階を離れた直後。

 

青銅の柱が、再び一度だけ光った。

 

切断された接続の向こうから、遠い場所へ信号が送られる。

 

三十四階。

 

黒華五刀が立つ防衛網の部屋。

 

人型の文様が明滅し、胸元の円が一部欠けた。

 

牡丹がそれを記録する。

 

「光が弱くなりました」

 

椿が問う。

 

「防衛個体が破壊された?」

 

百合は首を振る。

 

「違います」

 

「自分で繋がりを切りました」

 

薔薇が眉を上げる。

 

「機械が?」

 

黒蘭は欠けた円を見る。

 

命令を受けるための繋がり。

 

それを自ら断った。

 

「人間を排除するためのものが、人間のために命令を捨てた」

 

椿が静かに言う。

 

黒蘭は答えなかった。

 

だが、オランピアが出した問いを思い出していた。

 

捨てるものを選べ。

 

目の前の防衛個体は、命令を捨てた。

 

その結果、正面経路が閉じる可能性が生まれた。

 

正しい選択だったかは分からない。

 

だが、選んだことだけは確かだった。

 

遠く離れた二つの道。

 

黒華五刀は、防衛個体の選択を見た。

 

蒼華の剣は、その選択を背負って地上へ戻る。

 

そして海嶺ノ水林のさらに奥。

 

白い髪の門番は、青い光が途切れた瞬間を見ていた。

 

オランピアの表情は変わらない。

 

ただ、その指先だけが僅かに震えた。

 

「命令拒否」

 

「欠損個体に、自律選択を確認」

 

長い沈黙。

 

「深王へ報告が必要です」

 

そう告げながら、オランピアはすぐには動かなかった。

 

機械は命令に従う。

 

それが正しい。

 

それ以外の答えを、彼女は持たない。

 

だからこそ。

 

命令を捨てた個体と、命令ではなく仲間を選ばせた人間を、理解できなかった。

 

理解できないものを、オランピアは初めて恐れていた。

 

第二十二話 了

 

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