海都来訪八十六日目。
黒華五刀が三十五階から帰還して、二日が過ぎていた。
閉じた正面水門。
その脇に残された保守路。
そして、三十三階南側を流れる反流。
黒蘭達が次の探索で確かめるべきものは、すでに決まっていた。
かつてロイヤルガードが敗走の末に流れ着いた、四十一階相当区域。
彼らは正規の階層主を倒していない。
正面経路も通っていない。
それでも、海都が四十一階と呼ぶ深さまで到達した。
その記録が、嘘だったわけではない。
ただし、意味が違っていた。
---
朝の冒険者ギルド。
黒蘭は探索届を受付へ置いた。
今回の参加者は六名。
黒華五刀。
そして、ロイヤルガード隊長アルベルト。
受付係が名簿を見直す。
「ロイヤルガードの他の方々は?」
アルベルトが答えた。
「来ない」
「南側反流を知っているのは、俺だけで足りる」
正確には、他にも生還者はいる。
だが、再びあの流れへ近づける者は少なかった。
仲間を失った場所。
逃げるしかなかった場所。
アルベルト自身も、同行を決めるまでに一晩を要した。
黒蘭は急かさなかった。
必要な案内役がアルベルトであることは伝えた。
来るかどうかは、本人へ委ねた。
「予定帰還は四日後」
牡丹が告げる。
「携行食は六日分」
受付係が書き込む。
「今回も二日分は予備ですか」
「はい」
後ろで待っていた若い冒険者が、小声で連れへ話している。
予備を前進へ使わない。
予定を延ばす理由にしない。
第十七話の新人講習以来、黒華五刀の行動は少しずつギルド内で共有され始めていた。
黒蘭達が強い理由を、技や装備だけで説明できないと、海都の者達も理解しつつある。
---
ギルドの外には、アルベルトの仲間達が待っていた。
ロイヤルガードの四名。
今回は同行しない。
一人の盾兵が、アルベルトへ予備の留め具を渡す。
「隊長」
「何だ」
「無理に過去を証明する必要はありません」
アルベルトは留め具を受け取る。
「証明するために行くんじゃない」
「では」
「今度は、道として使えるかを見る」
かつての彼らには、帰る以外の選択がなかった。
地図を取る余裕もない。
仲間を運び、魔物から逃げ、流れに任せた。
今度は違う。
黒華五刀がいるからではない。
自分が、生還者として残った意味を確かめる。
「戻ってくる」
アルベルトが言う。
仲間達は、短く頷いた。
黒蘭はそのやり取りを待ってから歩き出した。
---
三十階磁軸。
青白い光が消える。
海嶺ノ水林の湿った空気。
水の匂い。
白い根。
黒蘭達は前回の帰還時に付けた印を確認しながら、三十三階へ向かった。
アルベルトは先頭に出ない。
道を知っているのは彼だが、現在の水路が過去と同じとは限らない。
先頭は黒蘭。
二番手に椿。
中央にアルベルト。
その後ろを牡丹。
薔薇。
最後尾は百合。
百合が後方だけでなく、天井と水面の揺れを見ている。
「以前より静かです」
アルベルトが言う。
「ここがか」
薔薇が周囲を見る。
魔物の姿はない。
「俺達が来た時は、水音がもっと大きかった」
「流れが強かった?」
椿が尋ねる。
「ああ」
「南へ引かれていた」
牡丹が壁へ触れる。
「正面経路の閉鎖で、流量が変化しています」
「同じ場所を通っても、以前と同じ先へ流れる保証はありません」
アルベルトは頷いた。
「分かっている」
それでも足は止まらない。
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三十三階南側。
正面潮路から外れた細い通路。
壁の半分が水で満たされている。
床は濡れているが、水深は足首程度。
先へ進むほど、水が逆方向へ流れていた。
本来なら奥から手前へ流れるはずの傾斜。
それに逆らい、水は下から上へ這い上がっている。
アルベルトが立ち止まる。
「ここだ」
声が少し低い。
薔薇はアルベルトの横顔を見る。
普段の堂々とした隊長の表情とは違う。
恐れている。
だが、足を退かせるほどではない。
黒蘭が問う。
「流されたのは、どこからだ」
アルベルトが水路の奥を指す。
「あの先に、以前は大きな空洞があった」
「階層主と戦ったのか」
「違う」
アルベルトは答えた。
「戦う前だった」
---
当時。
ロイヤルガードは第二階層の深部へ挑んでいた。
階層主の位置も、正規の入口も分かっていない。
それでも、四十階近くまで進んだと信じていた。
水流の変化。
人工物。
魔物の強さ。
全てが、次の階層に近いことを示していた。
だが、道を誤った。
突然、水路の壁が崩れた。
大量の水。
左右から現れた大型魔物。
隊列が分断された。
アルベルト達は戦った。
仲間を守りながら退いた。
だが、倒しても倒しても次が来る。
「俺が退却を命じた」
アルベルトは水面を見ながら話す。
「それ自体は間違っていないと思っている」
「残った者を帰すために必要だった」
「だが、退路と思った道が、さらに深い場所へ繋がっていた」
負傷者を抱えたまま、強い反流へ飲み込まれた。
どれほど流されたか分からない。
気付いた時には、見たことのない人工物の中にいた。
海都が後に四十一階相当と判断した区域。
そこから、また別の水路を通り、三十六階付近へ戻った。
「そこに何があった」
黒蘭が問う。
アルベルトは少し迷う。
「大きな門だ」
「開かなかった」
「その前に、人の形をした何かが立っていた」
椿が言う。
「オランピア」
「今なら、そうだと分かる」
「当時は魔物だと思った」
オランピアは攻撃しなかった。
ただ、進入を許可できないと告げた。
ロイヤルガードは戦える状態ではなかった。
引き返すしかなかった。
「海都へ戻った後、その場所を四十一階と報告した」
アルベルトが続ける。
「嘘をついたつもりはない」
「地図上の深度も、周囲の魔力も、四十一階相当だった」
「元老院が、それを正規到達記録として扱った」
薔薇が言う。
「訂正しなかったのか」
「訂正しようとした」
アルベルトの声に苦みが混じる。
「だが、海都には成果が必要だと言われた」
「死んだ仲間の功績を無駄にするな、とも」
百合が静かに問う。
「それで黙ったのですか」
「ああ」
アルベルトは認めた。
言い訳はしない。
「俺達は階層主を倒していない」
「正面から到達してもいない」
「それでも、仲間を連れて戻った」
黒蘭が言った。
「敗北したことと、生還したことは別だ」
アルベルトが黒蘭を見る。
「慰めか」
「違う」
黒蘭は水路の奥を見る。
「事実だ」
「勝って進んだのではない」
「だが、残った者を連れて帰った」
「その道を知る者は、お前しかいない」
アルベルトはしばらく黙った。
それから盾の留め具を締め直す。
「行こう」
---
反流へ入る。
最初は足首程度だった水が、膝まで上がる。
流れは進行方向と同じ。
後ろから身体を押す。
歩かなくても進めるほど強い。
黒蘭が手を上げる。
停止。
全員が壁際の白い根を掴む。
薔薇が問う。
「どうした」
「流れが強くなる」
アルベルトが言った。
「この先だ」
牡丹が細い木片を水へ落とす。
木片は一度前へ流れ、途中で沈んだ。
次に、数歩後方から浮かび上がる。
同じ水が輪を描いている。
「循環しています」
椿が地図を見る。
「進んでいるように見えて、同じ場所へ戻される?」
「一部は」
牡丹が別の色の木片を三本落とす。
一本は前へ。
一本は後ろへ。
一本は壁の隙間へ消えた。
「三つに分かれています」
「前方の流れ」
「帰還側へ戻る流れ」
「壁内の保守路へ入る流れ」
アルベルトが眉を寄せる。
「俺達はどれに乗った」
「当時の位置が必要です」
「覚えている」
アルベルトは壁の一か所を指す。
白い根に覆われている。
「ここに仲間の槍が刺さった」
牡丹が根を調べる。
折れた金属片が残っていた。
長い年月を経て錆びている。
アルベルトが目を閉じる。
「間違いない」
黒蘭は水面を見る。
「その時、誰を運んでいた」
「二人」
「配置は」
アルベルトが当時の隊列を説明する。
前に盾兵。
中央に負傷者。
後ろにアルベルトと術師。
水へ押された瞬間、前方の盾兵が流れを受け止めた。
そのため隊列全体が僅かに壁側へずれた。
結果として、壁内の保守流へ入った。
「偶然か」
薔薇が言う。
「違う」
黒蘭が答える。
「盾で流れを割った」
「それで道が変わった」
アルベルトは自分の盾を見る。
逃げただけだと思っていた。
だが、仲間を守るための隊列が、結果として全員を別の流れへ入れた。
「同じことをする」
黒蘭が言う。
アルベルトが顔を上げる。
「俺が前か」
「ああ」
「当時と同じ位置へ立て」
---
アルベルトが盾を構える。
水路中央。
黒蘭と椿がその後ろ。
牡丹。
薔薇。
百合。
黒蘭は全員へ短く告げる。
「押されるな」
「流れに乗るのは、俺が言ってからだ」
薔薇が笑う。
「水相手に命令するのか」
「お前達にだ」
アルベルトが盾を水流へ向ける。
一歩。
二歩。
流れが強くなる。
盾へ水圧が集中した。
アルベルトの足が滑る。
だが退かない。
盾を正面から僅かに傾ける。
水が左右へ割れる。
片側の流れが壁へぶつかる。
白い根が揺れた。
牡丹が言う。
「右側の圧が下がりました」
黒蘭が手を上げる。
「今だ」
六人が一斉に壁側へ踏み込んだ。
足元が消える。
水路が開いたのではない。
水そのものが壁の内側へ折れ曲がった。
身体が横へ引かれる。
視界が青で満たされた。
薔薇が牡丹の腕を掴む。
椿の黒帯が黒蘭の手首へ巻きつく。
百合は最後尾からアルベルトの外套を短刀で壁へ留め、一瞬だけ全員の向きを整えた。
次の瞬間。
六人の身体が、水の中へ吸い込まれた。
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身体が水から放り出された。
黒蘭は空中で体勢を変える。
両足から着地。
すぐに椿の腕を取り、引き寄せる。
薔薇は牡丹を抱えたまま転がった。
百合は壁へ短刀を刺し、落下を止める。
最後にアルベルトが盾を下にして落ちた。
石床へ大きな音が響く。
「全員いるか」
黒蘭が問う。
「はい」
椿。
「いる」
薔薇。
「問題ありません」
牡丹。
「います」
百合。
アルベルトは盾の下から顔を上げた。
「俺もいる」
六人。
負傷なし。
黒蘭は周囲を見る。
青白い人工石。
壁を走る細い光。
海嶺ノ水林の根はほとんどない。
天井は低い。
水音も遠い。
自然の迷宮ではなく、巨大な施設の内部に見える。
アルベルトが立ち上がる。
「ここだ」
声が掠れていた。
「俺達が流れ着いた場所だ」
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壁には、古い傷が残っていた。
槍の跡。
魔法の焦げ。
盾を引きずった線。
アルベルトの仲間達が、生きて帰るために残した痕跡。
年月を経ても消えていない。
「ここで一人死んだ」
アルベルトが言う。
床の隅。
何も残っていない場所。
「流された時には、まだ息があった」
「治療術も使った」
「だが、間に合わなかった」
薔薇は何も言わない。
近衛として、守れなかった者の記憶を持つ。
安易な慰めが意味を持たないことを知っている。
アルベルトは床へ膝をつかなかった。
祈りもしない。
ただ、そこを一度見た。
「先へ行く」
黒蘭が言う。
アルベルトは頷いた。
過去を悼むためだけに来たのではない。
この場所を道として確かめるために来た。
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人工通路は三方向へ分かれていた。
中央。
左。
右。
アルベルトは中央を指す。
「門はこっちだ」
牡丹が床を調べる。
「右側に新しい擦過痕があります」
「新しい?」
「数日以内」
百合が右の通路を見る。
「人ではありません」
「足跡がありません」
「何かが滑って移動しています」
オランピア。
あるいは、別の防衛個体。
黒蘭は中央へ進む。
「今は門を確認する」
「右は帰りに見る」
迷宮探索では、見つけたもの全てへ触れない。
目的を増やせば、帰還が遅れる。
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中央通路の先には、大きな広間があった。
壁一面に青い線。
中央には閉じた門。
高さは十人分以上。
左右に、円形の装置が四つ並んでいる。
門そのものは、三十五階で見た正面水門と似ている。
ただし、こちらはさらに古い。
表面に海草のような紋様が刻まれていた。
アルベルトが足を止める。
「変わっていない」
「オランピアはどこにいた」
椿が尋ねる。
「門の前だ」
今はいない。
だが、誰にも見られていないとは限らない。
百合が周囲を探る。
「います」
薔薇が刀へ手を置く。
「どこだ」
「分かりません」
「いるのに?」
「この広間全体から見られています」
青い線。
壁。
天井。
装置。
どこか一か所ではない。
防衛網そのものが、六人を認識している。
牡丹が円形装置へ近づく。
触れる直前で止まる。
「反応しています」
装置の内側に、五つの光点が灯った。
中央に一つ。
周囲に四つ。
五人一組の配置。
黒蘭達と同じ人数。
アルベルトが別の装置を見る。
そちらには六つの光。
一つが前。
二つが中央。
三つが後方。
「隊列を記録しているのか」
牡丹が答える。
「戦闘時の配置かもしれません」
次の瞬間。
広間の床が震えた。
左右の壁が開く。
水の中から、四体の防衛個体が現れた。
人型。
だが顔はない。
両腕に青い刃。
背部から細い管が伸び、壁へ繋がっている。
アルベルトが盾を構える。
「前と違う」
「前回はいなかった?」
「ああ」
黒蘭が二刀を抜く。
「接続切断で防衛が強化された」
イリスが命令を拒否した影響。
黒蘭達はまだその名を知らない。
だが防衛網が地上側の侵入を警戒し始めたことは分かる。
「倒すか」
薔薇が籠手を構える。
黒蘭は防衛個体の背部を見る。
壁と繋がっている。
破壊しても、別の場所から補充される可能性がある。
「装置を止める」
牡丹が言う。
「時間が必要です」
「どれくらい」
「三十息」
黒蘭が配置を決める。
「アルベルトと薔薇が前」
「椿は中央」
「百合は右」
「俺は左」
「牡丹を装置へ通せ」
六人が動いた。
---
最初の防衛個体がアルベルトへ斬りかかる。
左右同時。
アルベルトは盾で受ける。
衝撃。
人間の剣士より重い。
それでも足は崩れない。
盾を斜めにし、二本の刃を滑らせる。
薔薇の籠手が防衛個体の胴へ入る。
金属音。
身体が壁へ叩きつけられる。
だが壊れない。
薔薇が眉を上げる。
「硬い」
「次が来ます」
椿の号令。
「右へ」
アルベルトと薔薇が同時に一歩ずれる。
二体目の突進が、空いた場所を通過する。
百合の針が関節へ刺さる。
金属ではなく、内部の細い管。
動きが一瞬止まる。
黒蘭が二刀を交差させる。
肩と首の継ぎ目を断つ。
頭部が落ちる。
それでも身体は動く。
「頭が中枢ではない」
牡丹が装置を調べながら言う。
「背部の管を」
黒蘭の右刀が管を断つ。
防衛個体が停止した。
だが壁の青線が強く光る。
切れた管が水のように再生し始める。
「止まるのは短時間です」
「十分だ」
黒蘭が言う。
---
三体目。
四体目。
防衛個体は個々で動いているように見えた。
だが、攻撃の瞬間だけ完全に揃う。
アルベルトの盾へ二体。
薔薇の足元へ一体。
牡丹へ一体。
別々の標的。
同じ瞬間。
アルベルトが叫ぶ。
「連携が来る!」
海都式の戦闘。
複数人が、同じ刹那へ技を置く。
アルベルトは盾を地面へ突き立てた。
「集え!」
盾を中心に、淡い光が広がる。
黒蘭達の身体にも一瞬、同じ光が触れた。
防御の加護。
アルベルト一人の術ではない。
かつてのロイヤルガードが、互いの呼吸を重ねるために使っていたリミットスキル。
今は仲間がいない。
本来の形では発動できない。
それでもアルベルトは、黒華五刀の呼吸へ自分を合わせた。
椿が即座に理解する。
「全員、アルベルト殿の盾へ呼吸を合わせてください」
薔薇が言う。
「どうやって」
「光が強くなる瞬間です」
アルベルトの盾が脈打つ。
一度。
二度。
三度目。
防衛個体が一斉に斬り込む。
「今です」
椿の声。
黒蘭の二刀。
薔薇の籠手。
百合の針。
椿の二刀。
五人の攻撃が、同じ瞬間に置かれた。
黒蘭が二体の管を断つ。
薔薇が一体を押し返す。
百合の針が最後の一体の両腕を止める。
椿が二本の刃で、その胴を切り開く。
一つずつではない。
同じ刹那。
防衛個体の連携を、こちらの連携で崩した。
アルベルトの盾から光が消える。
「今のは」
薔薇が息を吐く。
「ロイヤルガードの技だ」
アルベルトが答える。
「正確には、俺達だけのものじゃない」
「海都の冒険者が、複数の力を一つへ重ねるために作った技だ」
「リミットスキル」
椿がその名を口にする。
アルベルトは頷いた。
「単独では使えない」
「互いの呼吸と意思が揃って、初めて形になる」
黒蘭は防衛個体を見る。
先ほどの一瞬。
五人の攻撃は、完全に重なったわけではない。
黒蘭が最も早い。
次に椿。
百合。
牡丹はまだ装置。
薔薇が最後。
それでも普段より遥かに近い。
三十四階で三方向の首を断った時よりも、さらに短い時間差。
「もう一度できるか」
黒蘭が問う。
アルベルトは盾を構え直す。
「呼吸が合えば」
「合わなければ」
「失敗する」
「分かった」
黒蘭の紫の瞳が、五人の位置を一度見た。
まだ構想にはならない。
だが、三十四階で感じた十五撃の形が、少しだけ具体的になった。
---
牡丹が装置へ短刀を差し込む。
青い線の一部を切断。
別の位置へ繋ぎ直す。
「止まります」
広間の光が消えた。
四体の防衛個体が、その場へ崩れる。
門だけが残る。
静寂。
アルベルトが盾を下ろす。
「三十息より長かったぞ」
「四十二息です」
牡丹が答える。
「予定より構造が複雑でした」
「先に言え」
「調べる前には分かりません」
薔薇が笑う。
「いつものやつだな」
---
門の中央に、白い光が灯る。
人の輪郭。
オランピアが現れた。
以前と同じ姿。
だがアルベルトを見る時間が僅かに長い。
「再訪を確認しました」
アルベルトが前へ出る。
「覚えているのか」
「記録があります」
「俺達が逃げてきたことも?」
「重傷者五名」
「自力歩行可能者三名」
「死亡者一名」
「後に保守経路より退去」
正確だった。
アルベルトの表情が固くなる。
オランピアは続ける。
「当時、正規通行条件を満たしていませんでした」
黒蘭が問う。
「ここは四十一階か」
「人間の階層分類では、深度は四十一階相当です」
「だが正規経路ではない」
「はい」
「では、何だ」
「深部防衛網の排水・保守区画」
海都の記録は、半分正しく、半分間違っていた。
ロイヤルガードは四十一階相当の深度へ到達した。
だが、第二階層を突破したわけではない。
「この門の先は」
椿が問う。
「深都へ続きますか」
「続きません」
オランピアは答えた。
「この門は、正規経路側からのみ開放されます」
「こちらから開けることは」
「できません」
薔薇が門を見る。
「壊せば」
「深部防衛網が起動します」
「やめた方がよさそうだな」
黒蘭は門ではなく、広間の右側を見る。
先ほど新しい擦過痕があった方向。
「正規経路へ戻る道はあるか」
「あります」
オランピアは右の通路を示す。
「三十五階保守路へ接続しています」
アルベルトが驚く。
「俺達が帰った道とは違う」
「当時は閉鎖されていました」
「今はなぜ開いている」
「黒華五刀が、深王への接触候補として暫定認証されたためです」
アルベルトが黒蘭を見る。
「何をした」
薔薇が答える。
「普通に進んだ」
「それだけではないだろう」
「私達もよく分かってない」
オランピアは黒蘭へ向き直る。
「正規経路は閉鎖されています」
「しかし保守路を経由すれば、三十六階へ到達可能です」
「通行条件は」
「南側反流を自力で通過すること」
「生還経路を確保すること」
「防衛個体との戦闘で、過剰破壊を行わないこと」
牡丹が停止した四体を見る。
壊してはいない。
管と制御だけを断った。
「満たしました」
オランピアが言う。
「三十六階以降への限定通行を許可します」
---
黒蘭はすぐに進まなかった。
帰り道を確認する。
右の保守路。
水圧。
距離。
分岐。
通行可能時間。
牡丹と椿が地図を作る。
百合が先行して出口を確認。
薔薇とアルベルトは停止した防衛個体を見張る。
黒蘭は広間中央で、先ほどの戦闘を思い返していた。
五人の攻撃を同じ瞬間へ置く。
海都のリミットスキル。
黒華の戦いでは、一人が斬った後を次が埋める。
互いの刃を邪魔しないため。
順番に戦列を回す。
だが、順番を待つ必要がないとしたら。
薔薇が黒蘭を見る。
「また何か考えてるな」
「ああ」
「さっきの技か」
「海都の技は、攻撃の順番を消す」
アルベルトが言う。
「完全には消えない」
「全員が同じ瞬間に動いても、速さは違う」
「だから、中心になる技を決める」
「盾」
「号令」
「強い一撃」
「それへ他の者が合わせる」
黒蘭は問う。
「中心を変えられるか」
「できる」
「だが、難しい」
「一度の戦闘で何度も変える者は少ない」
黒蘭は五人を見る。
黒蘭を中心にすれば、八撃。
椿なら、号令と舞。
薔薇なら、受け止めた反動。
百合なら、死角。
牡丹なら、拘束や罠。
一人だけを中心にし続ける必要はない。
五人全員が、それぞれ一度ずつ起点になれば。
黒蘭の頭の中で、十五という数字が五度回った。
まだ形にはならない。
呼吸も。
位置も。
一人が起点になった後、次の者へどう繋ぐかも決まっていない。
それでも、七十五の刃が一瞬だけ見えた。
黒蘭は言った。
「帰ったら試す」
薔薇が笑う。
「何を」
「全員で斬る」
「いつもやってるだろ」
「同時にだ」
百合が静かに言う。
「互いの刃が干渉します」
「だから試す」
牡丹が答える。
「訓練用の標的を用意します」
椿だけが、黒蘭の考えへ少し早く届いた。
「一人の攻撃へ、他の四人を合わせるのではなく」
「五人全員が、順に起点になるのですね」
黒蘭は頷いた。
アルベルトが二人を見る。
「何撃になる」
薔薇が指を折る。
「黒蘭が八」
「椿が二」
「私は一」
百合が続ける。
「私と牡丹が二撃ずつ」
牡丹が平坦に告げる。
「一巡十五撃」
椿が黒蘭を見る。
「五人が一度ずつ起点になれば、五巡」
アルベルトの顔が僅かに引きつる。
「七十五撃?」
「まだできない」
黒蘭は言う。
「だから試す」
アルベルトはしばらく黙った。
やがて、小さく笑う。
「海都の技を見せたことを、後悔するかもしれんな」
黒蘭は答えた。
「覚えたのは形だけだ」
「黒華の戦いにする」
---
帰路は、南側反流を戻らなかった。
オランピアが開いた保守路を通る。
三十五階西側。
以前確認した排水路。
そこから三十四階へ。
アルベルトは、地図上で二つの経路を見比べた。
かつて自分達が逃げ延びた道。
今回、黒華五刀と確認した道。
同じ場所へ至る。
だが意味は違う。
「俺達の記録は、どう報告すべきだと思う」
アルベルトが黒蘭へ尋ねた。
「正規到達ではなかった、と公表するか」
「お前が決めろ」
「黒蘭ならどうする」
黒蘭は歩きながら答える。
「正規経路ではないと記録する」
「同時に、四十一階相当区域へ生還した事実も残す」
「どちらかを消す必要はない」
アルベルトは頷いた。
「元老院は嫌がる」
「なら、ギルドにも同じ記録を置け」
「消せない場所を増やせ」
アルベルトは少し笑った。
「ラウルス家の事件で学んだか」
「紙は、剣より長く残ることがある」
牡丹が言う。
「内容によります」
薔薇が笑う。
「またそこからか」
---
海都来訪八十九日目。
六人は予定どおり帰還した。
ギルドの会議室。
レオン。
クジュラ。
ガルド。
ロイヤルガードの四名。
黒華五刀。
アルベルトは、自分の口で報告した。
「俺達が到達したのは、四十一階相当深度の保守区画だ」
「正規の四十一階ではない」
部屋が静まる。
仲間の一人が俯く。
アルベルトは続ける。
「階層主を倒した記録でもない」
「だが、敗走中に仲間を守り、深部区画から生還した」
「その事実まで取り消すつもりはない」
レオンが地図を見る。
「元老院はどうする」
クジュラが答えた。
「正規記録の修正には反対するだろう」
「海都の最高到達記録が下がるからな」
黒蘭が言う。
「下がらない」
「深度記録は残る」
「攻略記録と分けろ」
ガルドが頷く。
「地図にも、そう書ける」
「到達深度と、正規攻略階層を別にする」
レオンはアルベルトを見る。
「それでいいのか」
「ああ」
アルベルトは答えた。
「仲間達がしたことを、勝利に作り替える必要はない」
「俺達は負けた」
「それでも帰った」
その言葉に、誰も異論を挟まなかった。
---
会議の最後。
黒蘭は新しい紙を机へ置いた。
五つの円。
中央に十五本の線。
その円が五回、順に繋がっている。
レオンが眉を寄せる。
「何だ、これは」
アルベルトが先に答えた。
「黒華五刀が、海都のリミットスキルを見た結果だ」
クジュラが紙を見る。
「十五を五回」
「七十五」
薔薇が腕を組む。
「まだできない」
百合が続ける。
「干渉します」
牡丹も言う。
「呼吸も合っていません」
椿が紙の一番上へ一つだけ文字を書く。
**黒華五刀**
技名。
まだ完成していない。
黒蘭は紙を畳んだ。
「次の階層主までに、一巡だけでも使える形にする」
レオンが笑う。
「海都の技を持っていくのか」
黒蘭は首を振る。
「借りる」
「返す時は、別のものになっている」
正面水門は閉じた。
それでも、三十六階へ至る道は開いた。
ロイヤルガードの敗北は、汚点ではなく経路になった。
海都の技は、黒華五刀の新しい刃になり始めた。
深都へ至る歩みは、遅れていない。
むしろ今。
黒華五刀だけでは届かなかったものを取り込みながら、確実に前へ進み始めていた。
第二十三話 了