海都来訪三日目。
黒蘭一行は、再び世界樹の迷宮へ向かった。
前日の探索は、あくまで入口周辺の確認にすぎない。
湿地。
水場。
魔物の行動範囲。
退路。
休息に使えそうな広場。
危険な草。
役に立つ草。
それらを一つずつ記録し、地図に落とした。
だが黒蘭は、それで迷宮を理解したとは思っていなかった。
入口を見ただけだ。
敵地の門をくぐり、門番の顔を覚えた。
その程度でしかない。
---
朝。
ネイピア商会。
黒蘭達は、前回より多い荷を買い込んでいた。
水。
保存食。
包帯。
薬。
油。
縄。
予備の靴底。
そして、海都の冒険者なら必ず持つという帰還用の糸。
アリアドネの糸。
黒薔薇はそれを指でつまみ、怪訝そうに見た。
「本当にこれで帰れるのか?」
ネイピアが当然のように答える。
「帰れるわよ。迷宮から入口まで、一瞬で」
「便利すぎないか」
「便利だから売れてるの」
黒牡丹は糸を丁寧に布で包んだ。
「使い方は?」
ネイピアは実演するように指を動かす。
「強く念じて引く。それだけ。ただし、壊れていたり濡れすぎていたりすると失敗することもあるから、予備は持ちなさい」
黒蘭は糸を一つ手に取る。
「失敗することがあるのか」
「まれにね」
「なら信用しすぎない」
ネイピアは肩をすくめた。
「普通は、それがあるから少し無理して潜るのよ」
「無理を支える道具か」
「そういう言い方をすると嫌ね」
黒蘭は糸を戻した。
「無理を帰還手段に預ける者から死ぬ」
ネイピアは少しだけ目を細めた。
「あなた、本当に冒険者に向いてないわね」
黒薔薇が笑う。
「だろ?」
黒蘭は気にしない。
「六日分」
牡丹が確認する。
「はい。水は五人で六日、予備一日分。食糧も同じく。薬は前回より多めに」
椿が地図筒を肩にかける。
「目標は?」
黒蘭は答えた。
「二日で前回地点まで再確認」
「三日目以降、未踏域」
「五日目で戻り判断」
「六日目は予備」
椿は頷いた。
「承知しました」
ネイピアはそのやり取りを聞いて、ぽつりと言った。
「軍隊ね」
黒薔薇が品物を担ぐ。
「よく言われる」
黒蘭は何も言わなかった。
---
ギルド前。
リッドとファラが、掲示板の前で言い合っていた。
昨日貼った仲間募集の札の前に、何人かの冒険者が立ち止まり、すぐに離れていく。
「何で誰も来ないんだよ」
リッドが不満そうに言う。
ファラは腕を組む。
「募集文が正直だから」
「無謀な前衛って書いたの、やっぱり良くなかったんじゃ」
「事実でしょ」
「事実でも書くなよ!」
「書かないと困るでしょ。止められる人が必要なんだから」
黒蘭達が通りかかる。
リッドはすぐに顔を上げた。
「黒蘭!」
黒百合の視線が動く。
リッドは少しだけ身を縮めたが、前よりは下がらなかった。
黒薔薇が笑う。
「お、少し慣れたな」
「慣れたわけじゃないけど……」
ファラが礼をする。
「おはようございます」
椿が軽く頷く。
「おはようございます」
リッドは黒蘭達の荷を見る。
「何日潜るんだ?」
「最大六日」
「六日!?」
周囲の新人冒険者も振り返った。
六日。
普通の新人では考えない日数だ。
リッドは目を輝かせる。
「すげぇ……!」
ファラは顔を引きつらせた。
「いや、真似しないからね」
黒蘭はリッドを見る。
「お前達は一日で戻れ」
「分かってる」
ファラがすぐに言う。
「戻ります」
リッドは不満げだったが、反論はしなかった。
黒蘭は掲示板の募集札を見る。
「まだ二人か」
「そうなんだよ」
「焦るな」
「でも、早く潜りたいし」
「仲間を焦って選ぶな」
リッドは黙る。
黒蘭は続けた。
「迷宮では、仲間の弱さより、相性の悪さで死ぬ」
「相性?」
「命令を聞かない者」
「退く時に退けない者」
「手柄を急ぐ者」
「傷を隠す者」
「その一人で全員死ぬ」
リッドは少し気まずそうにした。
ファラが横目で見る。
「聞いた?」
「聞いた」
「あなたのことも入ってるよ」
「全部じゃないだろ」
黒薔薇が笑う。
「半分以上は入ってるな」
黒蘭は歩き出した。
「生きていればまた会う」
リッドは拳を握る。
「ああ!」
黒蘭達は世界樹へ向かった。
リッドはその背中を見送る。
六日。
自分達には一日も難しい。
それでも、遠すぎる背中を見て、目標を持つことだけはできた。
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第一階層。
入口をくぐった瞬間、空気が変わる。
湿った緑の匂い。
土。
水。
獣。
海都の喧騒は、樹海に入るとすぐに遠くなる。
椿が前回の地図を開いた。
「前回確認地点までは南。途中、湿地を避けます」
黒蘭は頷く。
「百合」
「はい」
「先行は浅く」
「承知」
黒百合は影のように消えた。
黒薔薇が肩を回す。
「今日は戦えるかね」
椿が即答する。
「不要な交戦は避けます」
「分かってるよ」
「薔薇は分かっていても楽しそうなので」
黒薔薇は笑った。
「姫様は厳しいな」
椿の耳がわずかに赤くなる。
「その呼び方は控えてください」
黒牡丹がくすりと笑った。
黒蘭は先頭ではなく、中央にいた。
前に薔薇。
やや後ろに椿。
黒蘭は全体を見ている。
百合が先行し、牡丹が足元と植物を見る。
それが黒華五人の形だった。
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前回の湿地に近づく。
水音。
黒蘭が手を上げる。
全員が止まる。
直後、水の中からかみつき魚が二体跳ねた。
黒薔薇が一体を流す。
牙を籠手で横へ逸らし、背を軽く打つ。
もう一体は椿へ向かう。
椿は地に刀を刺す。
黒布が揺れる。
「百合」
「はい」
短い声。
黒百合の短刀が魚の進路を変える。
牡丹の針が尾に入る。
魚は地面で跳ね、動きが鈍った。
黒蘭は刀を抜かない。
見ているだけだった。
黒薔薇が聞く。
「殺さないのか」
「水場に戻せ」
「また襲ってくるぞ」
「縄張りを見たい」
「はいよ」
薔薇は魚を籠手で軽く押し、湿地へ戻した。
魚は水中に消える。
数秒。
十秒。
再び襲ってくるかと思われたが、魚は出てこなかった。
牡丹が頷く。
「湿地から一定距離を離れると追撃しないようです」
椿が記録する。
「縄張り型。追撃短い」
黒蘭は地図に目を落とした。
「迂回で足りる」
黒薔薇は笑う。
「倒せば早いのに」
「倒せば一体分の情報で終わる」
「戻せば縄張りが分かる、か」
「そうだ」
黒薔薇は肩をすくめた。
「面倒だな、迷宮ってのは」
黒蘭は静かに答えた。
「面倒を嫌う者から死ぬ」
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昼。
前回確認した広場に到着した。
黒蘭達は休息を取らず、まず周囲を調べた。
獣道。
古い足跡。
湿った苔。
鳥型魔物の羽。
どれも小さな情報だが、黒蘭は見逃さない。
黒華の地穴でもそうだった。
石の色。
風の向き。
魔物の糞。
人の足跡。
罠を仕掛ける者は、いつも自分の痕跡を消したつもりで残す。
迷宮も同じだ。
意思はない。
だが癖がある。
その癖を読む。
それが探索だった。
「黒蘭様」
牡丹が呼ぶ。
「北側に食用と思われる実があります」
「断定は?」
「まだです。少量を処理して確認します」
「任せる」
百合が木の上から降りる。
「西に冒険者」
「数」
「四」
「敵意なし。装備は軽いです」
黒薔薇が言う。
「新人か?」
「違います」
百合は少しだけ考えた。
「戦闘向きではありません」
やがて、茂みの向こうから人影が現れた。
四人。
全員が大きな武器を持っていない。
背には地図筒。
腰には採取用の小刀。
籠。
縄。
年齢はまちまちだが、誰も戦士には見えなかった。
先頭の中年男が、黒蘭達を見るなり手を上げた。
「おっと、先客か。驚かせて悪い」
椿が一歩前に出る。
「こちらこそ。あなた方は?」
男は笑った。
「大地の記録者。地図屋みたいなものだ」
黒薔薇が眉を上げる。
「戦わないのか?」
「戦うさ。死なない程度にな」
男は肩を叩く。
「ただ、俺達の仕事は魔物を倒すことじゃない。道を残すことだ」
黒蘭が男を見る。
「何階まで」
「二十八階まで」
黒薔薇が少し驚く。
「その装備で?」
男は笑った。
「その反応、よくされる」
黒蘭は言った。
「強いな」
男の笑みが止まる。
周囲の三人も、少し意外そうにした。
黒薔薇も黒蘭を見る。
「強い、か」
「ああ」
黒蘭は大地の記録者達を見る。
「戦わずに深く行く者は強い」
男はしばらく黙り、それから照れたように頭をかいた。
「……変な新入りだな、あんたら」
黒蘭は答えない。
椿が礼をする。
「情報交換は可能でしょうか」
男は頷いた。
「もちろん。俺達は情報を売って飯を食ってる。だが新人からは取りすぎない主義だ」
黒薔薇が笑う。
「新人扱いされてるぞ」
黒蘭は静かに返す。
「海都では新人だ」
男は地図を広げた。
入口周辺だけではなく、かなり先までの簡略図。
ただし戦闘情報は少ない。
代わりに、休める場所、採取場、危険な水場、日当たり、湿度、魔物が避ける草むらなどが細かく書かれていた。
椿の目が真剣になる。
「これは……」
男は少し誇らしそうに言った。
「俺達の剣だ」
黒蘭は頷いた。
「良い剣だ」
その一言で、大地の記録者達の表情が変わった。
彼らは海都でも評価されている。
だが多くの冒険者は、戦えない者として見下す。
深く潜っていることを知っていても、華やかな戦果がないため軽く扱う者もいる。
黒蘭は違った。
剣を抜いていない彼らを、強いと言った。
---
その日の夕方。
黒蘭達は大地の記録者が使う休息地の一つを借りた。
木々に囲まれた小さな空間。
風下に水場。
背後は大きな根。
正面からしか魔物が入りづらい。
良い場所だった。
黒牡丹はすぐに火を小さく起こし、鍋を吊るした。
匂いが出すぎないよう、薬草で調整する。
黒薔薇は感心したように周囲を見る。
「こいつら、本当に戦わずに進むのが上手いな」
椿は地図に休息地を記録する。
「地形の使い方が巧みです」
百合が短く言う。
「警戒線も悪くありません」
黒蘭は頷く。
「学ぶ」
薔薇が笑う。
「お前、今日は何度も褒めるな」
「事実だ」
「海都に来てから、妙に素直じゃないか?」
黒蘭は椀を受け取る。
「知らない土地では、知っている者から学ぶ」
黒薔薇は少し黙った。
そして笑った。
「それができるから、お前は面倒なんだよ」
牡丹が黒蘭の椀に汁を足した。
「黒蘭様、もう少し召し上がってください」
「食べている」
「足りません」
「十分だ」
「十分ではありません」
黒薔薇がにやにやする。
「将軍、兵站担当には勝てないな」
黒蘭は黙って椀を受け取った。
椿はそれを見て、少しだけ目を伏せた。
牡丹は昔からそうだった。
黒蘭が何も言わないこと。
休まないこと。
食べないこと。
その全てに、遠慮なく踏み込める。
それは椿にはできない距離だった。
---
夜。
迷宮の夜は、昼とは別物だった。
虫の音。
水音。
遠い獣の声。
葉が擦れる音。
そして、時折聞こえる、何かが歩く重い音。
黒華の地穴にも夜はあった。
だが、この森の夜は広い。
天井が見えない。
奥行きが分からない。
闇が、生き物のように動く。
椿は地に刺した刀の前で座っていた。
黒布がかすかに揺れる。
声を出さず、喉を休めている。
牡丹が小さな包みを差し出した。
「喉に」
椿は受け取る。
「ありがとうございます」
黒薔薇が横から言う。
「昔はもっと叫んでたのにな」
椿がぴくりと反応する。
「薔薇」
「いや、何も言ってないだろ」
「言う前に分かります」
「猛――」
「薔薇」
声が冷えた。
黒薔薇は両手を上げる。
「悪かったって」
百合が無表情に言う。
「事実です」
椿は百合を見る。
「百合まで……」
黒牡丹が口元を押さえて笑う。
黒蘭だけは何も言わなかった。
その名を口にしない。
椿が声を枯らし、兵を送り出し、帰らなかった者達の名を背負ったことを知っているからだ。
笑い話にしていいものと、そうでないものがある。
黒蘭はそれを分けていた。
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深夜。
見張りは交代制だった。
最初は百合。
次は薔薇。
その次は牡丹。
最後に黒蘭。
しかし黒蘭は、最初から起きていた。
牡丹が気付かないはずがない。
「黒蘭様」
「何だ」
「休んでください」
「休んでいる」
「目を閉じていただけでは休息とは言いません」
黒蘭は少し沈黙した。
「一時間寝た」
「一時間では休息とは言いません」
同じ言葉。
黒薔薇なら笑うところだが、牡丹の声は柔らかいまま真剣だった。
「この迷宮は、黒華の地穴より長く続きます」
「一晩の無理を積み重ねれば、六日目に響きます」
「黒蘭様が倒れると、全員が困ります」
黒蘭は答えない。
牡丹はさらに言った。
「椿様も」
その名で、黒蘭はようやく目を閉じた。
「分かった」
牡丹は微笑む。
「では、二時間」
「一時間」
「二時間」
「……分かった」
黒薔薇が寝たふりをしながら笑いを堪えていた。
百合は見張りをしながら、何も言わなかった。
椿は目を閉じていたが、眠ってはいなかった。
黒蘭が休むことに、少しだけ安堵していた。
---
海都来訪四日目。
迷宮滞在二日目。
黒蘭達はさらに奥へ進んだ。
大地の記録者の地図は役に立った。
だが、黒蘭はそのまま使わない。
必ず自分達で確認する。
地図は事実ではない。
見た者の記録。
昨日の道が今日も安全とは限らない。
その考えは、すぐに正しいと分かった。
前日、大地の記録者が安全と記していた小道に、新しい足跡があった。
大きい。
深い。
爪。
薔薇がしゃがむ。
「オオヤマネコか?」
百合が首を振る。
「違います。もう少し重い」
牡丹が土を見る。
「通過してから半日以内」
椿が地図に印をつける。
「迂回しますか」
黒蘭は頷く。
「追う必要はない」
黒薔薇は少し残念そうにする。
「勝てるぞ」
「勝てることと、戦うことは違う」
薔薇は笑った。
「はいはい」
「分かってるよ」
だが、その表情は楽しげだった。
黒蘭が勝てる相手を避ける。
それを弱さと見る者もいるだろう。
だが黒薔薇は知っている。
この男は、必要なら誰より先に死地へ出る。
必要がないなら、誰より冷静に避ける。
その区別があるから、皆が生きている。
---
午後。
彼らは少し開けた場所に出た。
そこには、折れた枝と血の跡があった。
魔物同士が争った痕跡。
黒蘭は膝をついて血を見る。
「古い」
牡丹が確認する。
「半日以上前ですね」
百合が森の奥を見る。
「大型が一体。小型が複数。争ったのではなく、追われています」
椿が静かに言う。
「何かが縄張りを変えていますね」
黒蘭は頷いた。
「まだ原因は分からない」
「記録のみ」
「はい」
黒薔薇が辺りを見回す。
「奥に行けば分かるんじゃないか」
「今は行かない」
「慎重だな」
「知らない異変を、日暮れ前に追うな」
それで終わりだった。
薔薇もそれ以上は言わない。
黒華では、その一言で十分だった。
---
その夜。
海都。
リッドとファラはギルドの掲示板を見ていた。
黒蘭一行の札には、こう書き加えられている。
---
Fランク 黒蘭一行
迷宮滞在中 二日目
帰還予定 未定
---
リッドはそれを何度も見た。
「まだ帰ってない」
ファラは言う。
「六日分持ってたんでしょ」
「分かってるけど」
「私達なら一日でへとへと」
「それも分かってる」
リッドは少しだけ悔しそうだった。
迷宮に潜る時間。
それだけでも差がある。
強さだけではない。
準備。
経験。
判断。
全てが違う。
その時、二人の後ろから小さな声がした。
「募集」
二人が振り返る。
そこに少女が立っていた。
大きな帽子。
青みがかった髪。
表情の少ない顔。
手には星術師の杖。
リッドが首を傾げる。
「え?」
少女は掲示板の札を指差した。
「仲間募集」
ファラが驚く。
「あなた、ゾディアック?」
少女は頷く。
「セレネ」
名前だけ言って、黙る。
リッドは目を輝かせた。
「俺はリッド!」
「こっちはファラ!」
セレネはじっとリッドを見る。
「無謀な前衛」
「それは募集文であって俺の名前じゃない!」
ファラは口元を押さえて笑った。
セレネは淡々と言う。
「止められるかは不明」
「でも」
「火力は出せる」
リッドは拳を握った。
「よろしく!」
セレネは少し考え、頷いた。
「よろしく」
こうして、リッド達は三人になった。
黒蘭達が迷宮で夜を越している間に。
海都でも、小さな変化が生まれていた。
---
海都来訪五日目。
迷宮滞在三日目。
黒蘭達は第一階層のさらに奥へ進んでいた。
海都では浅層と呼ばれる場所。
だが、黒蘭達はそう呼ばない。
浅いか深いかは、街の都合だ。
魔物にとっては、ここも縄張り。
迷宮にとっては、ここも腹の中。
午前。
鳥型の魔物が初めて襲ってきた。
上空からの急襲。
死角。
黒薔薇が爪を籠手で受け流す。
「上から来るのは面倒だな」
椿の声が通る。
「百合、落としてください」
「はい」
百合が投げた短刀が鳥の羽をかすめる。
動きが鈍ったところへ、薔薇が一撃を入れる。
だが、鳥は落ちない。
首に近い。
人なら十分致命傷。
しかし魔物はまだ飛ぶ。
黒蘭の目が細くなる。
「人ではない」
椿も気付く。
「急所の位置が違いますね」
牡丹が粉を撒く。
鳥が一瞬怯む。
黒蘭が初めて刀を抜いた。
一太刀。
羽の付け根。
鳥が落ちる。
薔薇が倒れた魔物を見る。
「首じゃなく羽か」
「飛ぶ敵は、飛べなくすればいい」
「単純だな」
「単純なことを先にやる」
椿は記録する。
飛行型。
首への一撃では不十分。
羽付け根有効。
黒蘭は鳥の構造を見る。
戦場では、人は人だった。
背丈は違っても、急所は大きく変わらない。
首。
心臓。
喉。
目。
関節。
だが、迷宮は違う。
形そのものが違う。
急所が分からない敵がいる。
効くはずの毒が効かない敵もいるだろう。
血を流さないものもいるかもしれない。
黒蘭はその可能性を、静かに地図の余白へ書いた。
---
その日の夕方。
黒蘭達は、予定より進行を遅らせた。
理由は単純だった。
情報量が増えた。
新しい魔物。
新しい足跡。
縄張りの変化。
大地の記録者から得た地図とのズレ。
進むことはできる。
だが、進んでしまえば、確認しないまま背後に不明点を残すことになる。
それを黒蘭は嫌った。
黒薔薇は焚き火の横で言う。
「明日にはもっと奥まで行けると思ってたが」
椿は地図を見ながら答える。
「不明点を残しすぎています」
「分かってる」
百合が木の上から降りる。
「夜間の大型移動あり」
黒蘭が尋ねる。
「こちらへ来るか」
「いいえ」
「では警戒のみ」
牡丹が汁物を配る。
「今夜は風向きが悪いので、火は小さくします」
薔薇が椀を受け取る。
「贅沢は言わん」
「言っても変わりません」
「牡丹は優しい顔で厳しいな」
牡丹は微笑むだけだった。
---
同じ夜。
海都の酒場では、リッド達三人が初めて同じ席についていた。
リッドは嬉しそうに言う。
「明日、三人で潜ろう!」
ファラは冷静に返す。
「入口から少しだけね」
「分かってるって」
セレネはパンを小さくちぎりながら言う。
「分かってない」
「会ったばかりでひどくない?」
「事実」
ファラは頷く。
「分かってる子で良かった」
「ファラまで!」
セレネは掲示板を見る。
黒蘭一行、迷宮滞在中三日目。
「この人達」
リッドがすぐに反応する。
「黒蘭達か?」
「うん」
「すごいんだぜ!」
セレネは首を横に振る。
「すごい、とは違う」
「え?」
「変」
リッドは眉を寄せる。
「変?」
「Fランクなのに三日戻らない」
「それは強いからだろ」
「強さだけでは無理」
セレネは淡々と言った。
「水、食糧、道、見張り、怪我、魔物、睡眠」
「全部必要」
リッドは黙った。
ファラは少し驚いたようにセレネを見る。
「詳しいのね」
「本で読んだ」
「潜ったことは?」
「少し」
「少し?」
「一人で行ったら怒られた」
リッドとファラは同時に言った。
「そりゃ怒られる!」
セレネは不思議そうに首を傾げた。
---
海都来訪六日目。
迷宮滞在四日目。
黒蘭達は、ようやく第一階層深部の入口に立っていた。
そこから先は、木々の密度がさらに濃くなる。
光が少ない。
湿度が重い。
魔物の足跡も増えている。
黒百合が低く言う。
「奥に大型」
黒薔薇が笑う。
「今度こそ戦うか?」
黒蘭は森の奥を見る。
風が止まっている。
鳥の声がない。
地面の小さな虫すら少ない。
そこにいる何かは、周囲の生き物に沈黙を強いていた。
「今日は見ない」
薔薇が驚く。
「ここまで来て?」
「ああ」
「なぜ」
「こちらはまだ、この場所を知らない」
「相手は、この場所で生きている」
その言葉で、全員が理解した。
土地を知らない者が、土地を知る獣と戦う。
それは不利だ。
どれだけ腕が立っていても、不利は不利。
黒蘭は続けた。
「今日は周辺を測る」
「明日、必要なら見る」
椿が頷く。
「承知しました」
黒薔薇は笑った。
「本当に慎重だな」
黒蘭は答えた。
「慎重ではない」
「では?」
「普通だ」
黒華の戦場では、それが普通だった。
知らない敵を追わない。
知らない土地で深追いしない。
勝てるかもしれない戦いを、必要がなければ避ける。
それができない者から死んだ。
---
その夜。
黒蘭達は深部手前の安全地帯に野営した。
予定では明日が最終確認日。
そこで進むか、戻るかを決める。
椿は地図を広げる。
第一階層の大部分が埋まりつつあった。
ただし奥はまだ白い。
その白さは、地図の空白ではない。
未知そのものだった。
黒蘭はその白い部分を見る。
「明日」
椿が顔を上げる。
「はい」
「奥を見る」
「交戦は?」
「必要なら」
薔薇が笑う。
「ようやくか」
牡丹は荷を確認する。
「食糧、水ともに予定内。薬も十分です」
百合が短く言う。
「退路、確保済み」
黒蘭は頷いた。
「なら行ける」
世界樹の夜が深くなる。
遠くで、大きな獣の声が響いた。
それは吠え声ではなかった。
縄張りを告げる声。
ここから先は、自分の領域だと告げる声。
黒薔薇は籠手を鳴らした。
椿は黒布を静かに巻き直した。
百合は影に消えた。
牡丹は火を小さくした。
黒蘭は白い地図を見ていた。
海都来訪六日目。
迷宮滞在四日目。
黒き五人は、まだ世界樹の入口を歩いているにすぎない。
だがその歩みは、確かに迷宮の奥へ向かっていた。
第三話 了