亡国の黒将と世界樹の迷宮   作:清海深々

3 / 24
第三刀 地図を描く者

 

海都来訪三日目。

 

黒蘭一行は、再び世界樹の迷宮へ向かった。

 

前日の探索は、あくまで入口周辺の確認にすぎない。

 

湿地。

 

水場。

 

魔物の行動範囲。

 

退路。

 

休息に使えそうな広場。

 

危険な草。

 

役に立つ草。

 

それらを一つずつ記録し、地図に落とした。

 

だが黒蘭は、それで迷宮を理解したとは思っていなかった。

 

入口を見ただけだ。

 

敵地の門をくぐり、門番の顔を覚えた。

 

その程度でしかない。

 

---

 

朝。

 

ネイピア商会。

 

黒蘭達は、前回より多い荷を買い込んでいた。

 

水。

 

保存食。

 

包帯。

 

薬。

 

油。

 

縄。

 

予備の靴底。

 

そして、海都の冒険者なら必ず持つという帰還用の糸。

 

アリアドネの糸。

 

黒薔薇はそれを指でつまみ、怪訝そうに見た。

 

「本当にこれで帰れるのか?」

 

ネイピアが当然のように答える。

 

「帰れるわよ。迷宮から入口まで、一瞬で」

 

「便利すぎないか」

 

「便利だから売れてるの」

 

黒牡丹は糸を丁寧に布で包んだ。

 

「使い方は?」

 

ネイピアは実演するように指を動かす。

 

「強く念じて引く。それだけ。ただし、壊れていたり濡れすぎていたりすると失敗することもあるから、予備は持ちなさい」

 

黒蘭は糸を一つ手に取る。

 

「失敗することがあるのか」

 

「まれにね」

 

「なら信用しすぎない」

 

ネイピアは肩をすくめた。

 

「普通は、それがあるから少し無理して潜るのよ」

 

「無理を支える道具か」

 

「そういう言い方をすると嫌ね」

 

黒蘭は糸を戻した。

 

「無理を帰還手段に預ける者から死ぬ」

 

ネイピアは少しだけ目を細めた。

 

「あなた、本当に冒険者に向いてないわね」

 

黒薔薇が笑う。

 

「だろ?」

 

黒蘭は気にしない。

 

「六日分」

 

牡丹が確認する。

 

「はい。水は五人で六日、予備一日分。食糧も同じく。薬は前回より多めに」

 

椿が地図筒を肩にかける。

 

「目標は?」

 

黒蘭は答えた。

 

「二日で前回地点まで再確認」

 

「三日目以降、未踏域」

 

「五日目で戻り判断」

 

「六日目は予備」

 

椿は頷いた。

 

「承知しました」

 

ネイピアはそのやり取りを聞いて、ぽつりと言った。

 

「軍隊ね」

 

黒薔薇が品物を担ぐ。

 

「よく言われる」

 

黒蘭は何も言わなかった。

 

---

 

ギルド前。

 

リッドとファラが、掲示板の前で言い合っていた。

 

昨日貼った仲間募集の札の前に、何人かの冒険者が立ち止まり、すぐに離れていく。

 

「何で誰も来ないんだよ」

 

リッドが不満そうに言う。

 

ファラは腕を組む。

 

「募集文が正直だから」

 

「無謀な前衛って書いたの、やっぱり良くなかったんじゃ」

 

「事実でしょ」

 

「事実でも書くなよ!」

 

「書かないと困るでしょ。止められる人が必要なんだから」

 

黒蘭達が通りかかる。

 

リッドはすぐに顔を上げた。

 

「黒蘭!」

 

黒百合の視線が動く。

 

リッドは少しだけ身を縮めたが、前よりは下がらなかった。

 

黒薔薇が笑う。

 

「お、少し慣れたな」

 

「慣れたわけじゃないけど……」

 

ファラが礼をする。

 

「おはようございます」

 

椿が軽く頷く。

 

「おはようございます」

 

リッドは黒蘭達の荷を見る。

 

「何日潜るんだ?」

 

「最大六日」

 

「六日!?」

 

周囲の新人冒険者も振り返った。

 

六日。

 

普通の新人では考えない日数だ。

 

リッドは目を輝かせる。

 

「すげぇ……!」

 

ファラは顔を引きつらせた。

 

「いや、真似しないからね」

 

黒蘭はリッドを見る。

 

「お前達は一日で戻れ」

 

「分かってる」

 

ファラがすぐに言う。

 

「戻ります」

 

リッドは不満げだったが、反論はしなかった。

 

黒蘭は掲示板の募集札を見る。

 

「まだ二人か」

 

「そうなんだよ」

 

「焦るな」

 

「でも、早く潜りたいし」

 

「仲間を焦って選ぶな」

 

リッドは黙る。

 

黒蘭は続けた。

 

「迷宮では、仲間の弱さより、相性の悪さで死ぬ」

 

「相性?」

 

「命令を聞かない者」

 

「退く時に退けない者」

 

「手柄を急ぐ者」

 

「傷を隠す者」

 

「その一人で全員死ぬ」

 

リッドは少し気まずそうにした。

 

ファラが横目で見る。

 

「聞いた?」

 

「聞いた」

 

「あなたのことも入ってるよ」

 

「全部じゃないだろ」

 

黒薔薇が笑う。

 

「半分以上は入ってるな」

 

黒蘭は歩き出した。

 

「生きていればまた会う」

 

リッドは拳を握る。

 

「ああ!」

 

黒蘭達は世界樹へ向かった。

 

リッドはその背中を見送る。

 

六日。

 

自分達には一日も難しい。

 

それでも、遠すぎる背中を見て、目標を持つことだけはできた。

 

---

 

第一階層。

 

入口をくぐった瞬間、空気が変わる。

 

湿った緑の匂い。

 

土。

 

水。

 

獣。

 

海都の喧騒は、樹海に入るとすぐに遠くなる。

 

椿が前回の地図を開いた。

 

「前回確認地点までは南。途中、湿地を避けます」

 

黒蘭は頷く。

 

「百合」

 

「はい」

 

「先行は浅く」

 

「承知」

 

黒百合は影のように消えた。

 

黒薔薇が肩を回す。

 

「今日は戦えるかね」

 

椿が即答する。

 

「不要な交戦は避けます」

 

「分かってるよ」

 

「薔薇は分かっていても楽しそうなので」

 

黒薔薇は笑った。

 

「姫様は厳しいな」

 

椿の耳がわずかに赤くなる。

 

「その呼び方は控えてください」

 

黒牡丹がくすりと笑った。

 

黒蘭は先頭ではなく、中央にいた。

 

前に薔薇。

 

やや後ろに椿。

 

黒蘭は全体を見ている。

 

百合が先行し、牡丹が足元と植物を見る。

 

それが黒華五人の形だった。

 

---

 

前回の湿地に近づく。

 

水音。

 

黒蘭が手を上げる。

 

全員が止まる。

 

直後、水の中からかみつき魚が二体跳ねた。

 

黒薔薇が一体を流す。

 

牙を籠手で横へ逸らし、背を軽く打つ。

 

もう一体は椿へ向かう。

 

椿は地に刀を刺す。

 

黒布が揺れる。

 

「百合」

 

「はい」

 

短い声。

 

黒百合の短刀が魚の進路を変える。

 

牡丹の針が尾に入る。

 

魚は地面で跳ね、動きが鈍った。

 

黒蘭は刀を抜かない。

 

見ているだけだった。

 

黒薔薇が聞く。

 

「殺さないのか」

 

「水場に戻せ」

 

「また襲ってくるぞ」

 

「縄張りを見たい」

 

「はいよ」

 

薔薇は魚を籠手で軽く押し、湿地へ戻した。

 

魚は水中に消える。

 

数秒。

 

十秒。

 

再び襲ってくるかと思われたが、魚は出てこなかった。

 

牡丹が頷く。

 

「湿地から一定距離を離れると追撃しないようです」

 

椿が記録する。

 

「縄張り型。追撃短い」

 

黒蘭は地図に目を落とした。

 

「迂回で足りる」

 

黒薔薇は笑う。

 

「倒せば早いのに」

 

「倒せば一体分の情報で終わる」

 

「戻せば縄張りが分かる、か」

 

「そうだ」

 

黒薔薇は肩をすくめた。

 

「面倒だな、迷宮ってのは」

 

黒蘭は静かに答えた。

 

「面倒を嫌う者から死ぬ」

 

---

 

昼。

 

前回確認した広場に到着した。

 

黒蘭達は休息を取らず、まず周囲を調べた。

 

獣道。

 

古い足跡。

 

湿った苔。

 

鳥型魔物の羽。

 

どれも小さな情報だが、黒蘭は見逃さない。

 

黒華の地穴でもそうだった。

 

石の色。

 

風の向き。

 

魔物の糞。

 

人の足跡。

 

罠を仕掛ける者は、いつも自分の痕跡を消したつもりで残す。

 

迷宮も同じだ。

 

意思はない。

 

だが癖がある。

 

その癖を読む。

 

それが探索だった。

 

「黒蘭様」

 

牡丹が呼ぶ。

 

「北側に食用と思われる実があります」

 

「断定は?」

 

「まだです。少量を処理して確認します」

 

「任せる」

 

百合が木の上から降りる。

 

「西に冒険者」

 

「数」

 

「四」

 

「敵意なし。装備は軽いです」

 

黒薔薇が言う。

 

「新人か?」

 

「違います」

 

百合は少しだけ考えた。

 

「戦闘向きではありません」

 

やがて、茂みの向こうから人影が現れた。

 

四人。

 

全員が大きな武器を持っていない。

 

背には地図筒。

 

腰には採取用の小刀。

 

籠。

 

縄。

 

年齢はまちまちだが、誰も戦士には見えなかった。

 

先頭の中年男が、黒蘭達を見るなり手を上げた。

 

「おっと、先客か。驚かせて悪い」

 

椿が一歩前に出る。

 

「こちらこそ。あなた方は?」

 

男は笑った。

 

「大地の記録者。地図屋みたいなものだ」

 

黒薔薇が眉を上げる。

 

「戦わないのか?」

 

「戦うさ。死なない程度にな」

 

男は肩を叩く。

 

「ただ、俺達の仕事は魔物を倒すことじゃない。道を残すことだ」

 

黒蘭が男を見る。

 

「何階まで」

 

「二十八階まで」

 

黒薔薇が少し驚く。

 

「その装備で?」

 

男は笑った。

 

「その反応、よくされる」

 

黒蘭は言った。

 

「強いな」

 

男の笑みが止まる。

 

周囲の三人も、少し意外そうにした。

 

黒薔薇も黒蘭を見る。

 

「強い、か」

 

「ああ」

 

黒蘭は大地の記録者達を見る。

 

「戦わずに深く行く者は強い」

 

男はしばらく黙り、それから照れたように頭をかいた。

 

「……変な新入りだな、あんたら」

 

黒蘭は答えない。

 

椿が礼をする。

 

「情報交換は可能でしょうか」

 

男は頷いた。

 

「もちろん。俺達は情報を売って飯を食ってる。だが新人からは取りすぎない主義だ」

 

黒薔薇が笑う。

 

「新人扱いされてるぞ」

 

黒蘭は静かに返す。

 

「海都では新人だ」

 

男は地図を広げた。

 

入口周辺だけではなく、かなり先までの簡略図。

 

ただし戦闘情報は少ない。

 

代わりに、休める場所、採取場、危険な水場、日当たり、湿度、魔物が避ける草むらなどが細かく書かれていた。

 

椿の目が真剣になる。

 

「これは……」

 

男は少し誇らしそうに言った。

 

「俺達の剣だ」

 

黒蘭は頷いた。

 

「良い剣だ」

 

その一言で、大地の記録者達の表情が変わった。

 

彼らは海都でも評価されている。

 

だが多くの冒険者は、戦えない者として見下す。

 

深く潜っていることを知っていても、華やかな戦果がないため軽く扱う者もいる。

 

黒蘭は違った。

 

剣を抜いていない彼らを、強いと言った。

 

---

 

その日の夕方。

 

黒蘭達は大地の記録者が使う休息地の一つを借りた。

 

木々に囲まれた小さな空間。

 

風下に水場。

 

背後は大きな根。

 

正面からしか魔物が入りづらい。

 

良い場所だった。

 

黒牡丹はすぐに火を小さく起こし、鍋を吊るした。

 

匂いが出すぎないよう、薬草で調整する。

 

黒薔薇は感心したように周囲を見る。

 

「こいつら、本当に戦わずに進むのが上手いな」

 

椿は地図に休息地を記録する。

 

「地形の使い方が巧みです」

 

百合が短く言う。

 

「警戒線も悪くありません」

 

黒蘭は頷く。

 

「学ぶ」

 

薔薇が笑う。

 

「お前、今日は何度も褒めるな」

 

「事実だ」

 

「海都に来てから、妙に素直じゃないか?」

 

黒蘭は椀を受け取る。

 

「知らない土地では、知っている者から学ぶ」

 

黒薔薇は少し黙った。

 

そして笑った。

 

「それができるから、お前は面倒なんだよ」

 

牡丹が黒蘭の椀に汁を足した。

 

「黒蘭様、もう少し召し上がってください」

 

「食べている」

 

「足りません」

 

「十分だ」

 

「十分ではありません」

 

黒薔薇がにやにやする。

 

「将軍、兵站担当には勝てないな」

 

黒蘭は黙って椀を受け取った。

 

椿はそれを見て、少しだけ目を伏せた。

 

牡丹は昔からそうだった。

 

黒蘭が何も言わないこと。

 

休まないこと。

 

食べないこと。

 

その全てに、遠慮なく踏み込める。

 

それは椿にはできない距離だった。

 

---

 

夜。

 

迷宮の夜は、昼とは別物だった。

 

虫の音。

 

水音。

 

遠い獣の声。

 

葉が擦れる音。

 

そして、時折聞こえる、何かが歩く重い音。

 

黒華の地穴にも夜はあった。

 

だが、この森の夜は広い。

 

天井が見えない。

 

奥行きが分からない。

 

闇が、生き物のように動く。

 

椿は地に刺した刀の前で座っていた。

 

黒布がかすかに揺れる。

 

声を出さず、喉を休めている。

 

牡丹が小さな包みを差し出した。

 

「喉に」

 

椿は受け取る。

 

「ありがとうございます」

 

黒薔薇が横から言う。

 

「昔はもっと叫んでたのにな」

 

椿がぴくりと反応する。

 

「薔薇」

 

「いや、何も言ってないだろ」

 

「言う前に分かります」

 

「猛――」

 

「薔薇」

 

声が冷えた。

 

黒薔薇は両手を上げる。

 

「悪かったって」

 

百合が無表情に言う。

 

「事実です」

 

椿は百合を見る。

 

「百合まで……」

 

黒牡丹が口元を押さえて笑う。

 

黒蘭だけは何も言わなかった。

 

その名を口にしない。

 

椿が声を枯らし、兵を送り出し、帰らなかった者達の名を背負ったことを知っているからだ。

 

笑い話にしていいものと、そうでないものがある。

 

黒蘭はそれを分けていた。

 

---

 

深夜。

 

見張りは交代制だった。

 

最初は百合。

 

次は薔薇。

 

その次は牡丹。

 

最後に黒蘭。

 

しかし黒蘭は、最初から起きていた。

 

牡丹が気付かないはずがない。

 

「黒蘭様」

 

「何だ」

 

「休んでください」

 

「休んでいる」

 

「目を閉じていただけでは休息とは言いません」

 

黒蘭は少し沈黙した。

 

「一時間寝た」

 

「一時間では休息とは言いません」

 

同じ言葉。

 

黒薔薇なら笑うところだが、牡丹の声は柔らかいまま真剣だった。

 

「この迷宮は、黒華の地穴より長く続きます」

 

「一晩の無理を積み重ねれば、六日目に響きます」

 

「黒蘭様が倒れると、全員が困ります」

 

黒蘭は答えない。

 

牡丹はさらに言った。

 

「椿様も」

 

その名で、黒蘭はようやく目を閉じた。

 

「分かった」

 

牡丹は微笑む。

 

「では、二時間」

 

「一時間」

 

「二時間」

 

「……分かった」

 

黒薔薇が寝たふりをしながら笑いを堪えていた。

 

百合は見張りをしながら、何も言わなかった。

 

椿は目を閉じていたが、眠ってはいなかった。

 

黒蘭が休むことに、少しだけ安堵していた。

 

---

 

海都来訪四日目。

 

迷宮滞在二日目。

 

黒蘭達はさらに奥へ進んだ。

 

大地の記録者の地図は役に立った。

 

だが、黒蘭はそのまま使わない。

 

必ず自分達で確認する。

 

地図は事実ではない。

 

見た者の記録。

 

昨日の道が今日も安全とは限らない。

 

その考えは、すぐに正しいと分かった。

 

前日、大地の記録者が安全と記していた小道に、新しい足跡があった。

 

大きい。

 

深い。

 

爪。

 

薔薇がしゃがむ。

 

「オオヤマネコか?」

 

百合が首を振る。

 

「違います。もう少し重い」

 

牡丹が土を見る。

 

「通過してから半日以内」

 

椿が地図に印をつける。

 

「迂回しますか」

 

黒蘭は頷く。

 

「追う必要はない」

 

黒薔薇は少し残念そうにする。

 

「勝てるぞ」

 

「勝てることと、戦うことは違う」

 

薔薇は笑った。

 

「はいはい」

 

「分かってるよ」

 

だが、その表情は楽しげだった。

 

黒蘭が勝てる相手を避ける。

 

それを弱さと見る者もいるだろう。

 

だが黒薔薇は知っている。

 

この男は、必要なら誰より先に死地へ出る。

 

必要がないなら、誰より冷静に避ける。

 

その区別があるから、皆が生きている。

 

---

 

午後。

 

彼らは少し開けた場所に出た。

 

そこには、折れた枝と血の跡があった。

 

魔物同士が争った痕跡。

 

黒蘭は膝をついて血を見る。

 

「古い」

 

牡丹が確認する。

 

「半日以上前ですね」

 

百合が森の奥を見る。

 

「大型が一体。小型が複数。争ったのではなく、追われています」

 

椿が静かに言う。

 

「何かが縄張りを変えていますね」

 

黒蘭は頷いた。

 

「まだ原因は分からない」

 

「記録のみ」

 

「はい」

 

黒薔薇が辺りを見回す。

 

「奥に行けば分かるんじゃないか」

 

「今は行かない」

 

「慎重だな」

 

「知らない異変を、日暮れ前に追うな」

 

それで終わりだった。

 

薔薇もそれ以上は言わない。

 

黒華では、その一言で十分だった。

 

---

 

その夜。

 

海都。

 

リッドとファラはギルドの掲示板を見ていた。

 

黒蘭一行の札には、こう書き加えられている。

 

---

 

Fランク 黒蘭一行

迷宮滞在中 二日目

帰還予定 未定

 

---

 

リッドはそれを何度も見た。

 

「まだ帰ってない」

 

ファラは言う。

 

「六日分持ってたんでしょ」

 

「分かってるけど」

 

「私達なら一日でへとへと」

 

「それも分かってる」

 

リッドは少しだけ悔しそうだった。

 

迷宮に潜る時間。

 

それだけでも差がある。

 

強さだけではない。

 

準備。

 

経験。

 

判断。

 

全てが違う。

 

その時、二人の後ろから小さな声がした。

 

「募集」

 

二人が振り返る。

 

そこに少女が立っていた。

 

大きな帽子。

 

青みがかった髪。

 

表情の少ない顔。

 

手には星術師の杖。

 

リッドが首を傾げる。

 

「え?」

 

少女は掲示板の札を指差した。

 

「仲間募集」

 

ファラが驚く。

 

「あなた、ゾディアック?」

 

少女は頷く。

 

「セレネ」

 

名前だけ言って、黙る。

 

リッドは目を輝かせた。

 

「俺はリッド!」

 

「こっちはファラ!」

 

セレネはじっとリッドを見る。

 

「無謀な前衛」

 

「それは募集文であって俺の名前じゃない!」

 

ファラは口元を押さえて笑った。

 

セレネは淡々と言う。

 

「止められるかは不明」

 

「でも」

 

「火力は出せる」

 

リッドは拳を握った。

 

「よろしく!」

 

セレネは少し考え、頷いた。

 

「よろしく」

 

こうして、リッド達は三人になった。

 

黒蘭達が迷宮で夜を越している間に。

 

海都でも、小さな変化が生まれていた。

 

---

 

海都来訪五日目。

 

迷宮滞在三日目。

 

黒蘭達は第一階層のさらに奥へ進んでいた。

 

海都では浅層と呼ばれる場所。

 

だが、黒蘭達はそう呼ばない。

 

浅いか深いかは、街の都合だ。

 

魔物にとっては、ここも縄張り。

 

迷宮にとっては、ここも腹の中。

 

午前。

 

鳥型の魔物が初めて襲ってきた。

 

上空からの急襲。

 

死角。

 

黒薔薇が爪を籠手で受け流す。

 

「上から来るのは面倒だな」

 

椿の声が通る。

 

「百合、落としてください」

 

「はい」

 

百合が投げた短刀が鳥の羽をかすめる。

 

動きが鈍ったところへ、薔薇が一撃を入れる。

 

だが、鳥は落ちない。

 

首に近い。

 

人なら十分致命傷。

 

しかし魔物はまだ飛ぶ。

 

黒蘭の目が細くなる。

 

「人ではない」

 

椿も気付く。

 

「急所の位置が違いますね」

 

牡丹が粉を撒く。

 

鳥が一瞬怯む。

 

黒蘭が初めて刀を抜いた。

 

一太刀。

 

羽の付け根。

 

鳥が落ちる。

 

薔薇が倒れた魔物を見る。

 

「首じゃなく羽か」

 

「飛ぶ敵は、飛べなくすればいい」

 

「単純だな」

 

「単純なことを先にやる」

 

椿は記録する。

 

飛行型。

 

首への一撃では不十分。

 

羽付け根有効。

 

黒蘭は鳥の構造を見る。

 

戦場では、人は人だった。

 

背丈は違っても、急所は大きく変わらない。

 

首。

 

心臓。

 

喉。

 

目。

 

関節。

 

だが、迷宮は違う。

 

形そのものが違う。

 

急所が分からない敵がいる。

 

効くはずの毒が効かない敵もいるだろう。

 

血を流さないものもいるかもしれない。

 

黒蘭はその可能性を、静かに地図の余白へ書いた。

 

---

 

その日の夕方。

 

黒蘭達は、予定より進行を遅らせた。

 

理由は単純だった。

 

情報量が増えた。

 

新しい魔物。

 

新しい足跡。

 

縄張りの変化。

 

大地の記録者から得た地図とのズレ。

 

進むことはできる。

 

だが、進んでしまえば、確認しないまま背後に不明点を残すことになる。

 

それを黒蘭は嫌った。

 

黒薔薇は焚き火の横で言う。

 

「明日にはもっと奥まで行けると思ってたが」

 

椿は地図を見ながら答える。

 

「不明点を残しすぎています」

 

「分かってる」

 

百合が木の上から降りる。

 

「夜間の大型移動あり」

 

黒蘭が尋ねる。

 

「こちらへ来るか」

 

「いいえ」

 

「では警戒のみ」

 

牡丹が汁物を配る。

 

「今夜は風向きが悪いので、火は小さくします」

 

薔薇が椀を受け取る。

 

「贅沢は言わん」

 

「言っても変わりません」

 

「牡丹は優しい顔で厳しいな」

 

牡丹は微笑むだけだった。

 

---

 

同じ夜。

 

海都の酒場では、リッド達三人が初めて同じ席についていた。

 

リッドは嬉しそうに言う。

 

「明日、三人で潜ろう!」

 

ファラは冷静に返す。

 

「入口から少しだけね」

 

「分かってるって」

 

セレネはパンを小さくちぎりながら言う。

 

「分かってない」

 

「会ったばかりでひどくない?」

 

「事実」

 

ファラは頷く。

 

「分かってる子で良かった」

 

「ファラまで!」

 

セレネは掲示板を見る。

 

黒蘭一行、迷宮滞在中三日目。

 

「この人達」

 

リッドがすぐに反応する。

 

「黒蘭達か?」

 

「うん」

 

「すごいんだぜ!」

 

セレネは首を横に振る。

 

「すごい、とは違う」

 

「え?」

 

「変」

 

リッドは眉を寄せる。

 

「変?」

 

「Fランクなのに三日戻らない」

 

「それは強いからだろ」

 

「強さだけでは無理」

 

セレネは淡々と言った。

 

「水、食糧、道、見張り、怪我、魔物、睡眠」

 

「全部必要」

 

リッドは黙った。

 

ファラは少し驚いたようにセレネを見る。

 

「詳しいのね」

 

「本で読んだ」

 

「潜ったことは?」

 

「少し」

 

「少し?」

 

「一人で行ったら怒られた」

 

リッドとファラは同時に言った。

 

「そりゃ怒られる!」

 

セレネは不思議そうに首を傾げた。

 

---

 

海都来訪六日目。

 

迷宮滞在四日目。

 

黒蘭達は、ようやく第一階層深部の入口に立っていた。

 

そこから先は、木々の密度がさらに濃くなる。

 

光が少ない。

 

湿度が重い。

 

魔物の足跡も増えている。

 

黒百合が低く言う。

 

「奥に大型」

 

黒薔薇が笑う。

 

「今度こそ戦うか?」

 

黒蘭は森の奥を見る。

 

風が止まっている。

 

鳥の声がない。

 

地面の小さな虫すら少ない。

 

そこにいる何かは、周囲の生き物に沈黙を強いていた。

 

「今日は見ない」

 

薔薇が驚く。

 

「ここまで来て?」

 

「ああ」

 

「なぜ」

 

「こちらはまだ、この場所を知らない」

 

「相手は、この場所で生きている」

 

その言葉で、全員が理解した。

 

土地を知らない者が、土地を知る獣と戦う。

 

それは不利だ。

 

どれだけ腕が立っていても、不利は不利。

 

黒蘭は続けた。

 

「今日は周辺を測る」

 

「明日、必要なら見る」

 

椿が頷く。

 

「承知しました」

 

黒薔薇は笑った。

 

「本当に慎重だな」

 

黒蘭は答えた。

 

「慎重ではない」

 

「では?」

 

「普通だ」

 

黒華の戦場では、それが普通だった。

 

知らない敵を追わない。

 

知らない土地で深追いしない。

 

勝てるかもしれない戦いを、必要がなければ避ける。

 

それができない者から死んだ。

 

---

 

その夜。

 

黒蘭達は深部手前の安全地帯に野営した。

 

予定では明日が最終確認日。

 

そこで進むか、戻るかを決める。

 

椿は地図を広げる。

 

第一階層の大部分が埋まりつつあった。

 

ただし奥はまだ白い。

 

その白さは、地図の空白ではない。

 

未知そのものだった。

 

黒蘭はその白い部分を見る。

 

「明日」

 

椿が顔を上げる。

 

「はい」

 

「奥を見る」

 

「交戦は?」

 

「必要なら」

 

薔薇が笑う。

 

「ようやくか」

 

牡丹は荷を確認する。

 

「食糧、水ともに予定内。薬も十分です」

 

百合が短く言う。

 

「退路、確保済み」

 

黒蘭は頷いた。

 

「なら行ける」

 

世界樹の夜が深くなる。

 

遠くで、大きな獣の声が響いた。

 

それは吠え声ではなかった。

 

縄張りを告げる声。

 

ここから先は、自分の領域だと告げる声。

 

黒薔薇は籠手を鳴らした。

 

椿は黒布を静かに巻き直した。

 

百合は影に消えた。

 

牡丹は火を小さくした。

 

黒蘭は白い地図を見ていた。

 

海都来訪六日目。

 

迷宮滞在四日目。

 

黒き五人は、まだ世界樹の入口を歩いているにすぎない。

 

だがその歩みは、確かに迷宮の奥へ向かっていた。

 

第三話 了

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。