亡国の黒将と世界樹の迷宮   作:清海深々

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第四刀 王者の縄張り

海都来訪七日目。

 

迷宮滞在五日目。

 

夜明け前の森は、まだ青かった。

 

木々の隙間から差し込む光は弱く、地面には湿った冷気が残っている。

 

黒蘭達は、火を消していた。

 

朝食は温かくない。

 

乾いた飯。

 

干し肉。

 

薄く煮出した薬草水。

 

黒薔薇は干し肉を噛みながら、少し不満そうに言った。

 

「今日は汁物なし?」

 

黒牡丹は荷を整えながら答える。

 

「匂いが残ります」

 

「そんなに警戒する相手か」

 

「分かりません」

 

牡丹は穏やかに言った。

 

「分からないので、警戒します」

 

黒薔薇は笑った。

 

「そりゃそうだ」

 

黒華椿は地図を畳み、腰の刀を確認する。

 

柄に巻かれた黒布が、朝の湿気を含んで少し重くなっていた。

 

「本日の目的を確認します」

 

声は小さい。

 

だが、全員に届く。

 

「第一。昨日確認した大型個体の縄張り境界を特定」

 

「第二。退路に変化がないか確認」

 

「第三。交戦は避ける」

 

黒薔薇が片手を上げた。

 

「必要があれば?」

 

椿は黒蘭を見る。

 

黒蘭は短く答えた。

 

「必要なら殺す」

 

それだけ。

 

黒薔薇は満足そうに籠手を鳴らした。

 

黒百合はすでに木の上にいた。

 

「周囲、異常なし」

 

黒蘭が言う。

 

「行くぞ」

 

五人は森の奥へ進んだ。

 

---

 

前日までとは空気が違っていた。

 

同じ第一階層。

 

同じ樹海。

 

同じ緑。

 

だが、森の密度が変わっている。

 

鳥の声が少ない。

 

小型の魔物の足跡が途切れている。

 

草食の獣が通る細い道も、途中で折れるように消えていた。

 

黒蘭は足を止める。

 

「ここからだ」

 

椿が地図に線を引く。

 

「縄張り境界」

 

牡丹がしゃがみ、草を確認する。

 

「踏み荒らされています。大型個体が何度も通っていますね」

 

百合が木から降りる。

 

「北東に骨」

 

「新しいか」

 

「はい」

 

黒蘭は頷いた。

 

「見る」

 

骨は、少し進んだ先にあった。

 

小型の魔物の死骸。

 

半分以上が食われている。

 

食い散らかされてはいない。

 

必要な分だけ喰われ、残りは放置されている。

 

薔薇がしゃがむ。

 

「獣だな」

 

「だが、雑じゃない」

 

牡丹が頷く。

 

「歯形が深いです。顎の力が強い」

 

椿は周囲を見る。

 

「ここで仕留めたのではありませんね」

 

百合が言う。

 

「引きずられています」

 

黒蘭は土に残る跡を見た。

 

獲物を咥え、ここまで運んだ。

 

なぜ。

 

食うためだけなら、その場でよかったはずだ。

 

「ここは食事場所か」

 

薔薇が言う。

 

「寝床とは違うな」

 

「近いが、別だ」

 

黒蘭は森の奥を見た。

 

「王者の縄張りだ」

 

その言葉に、全員の表情が変わる。

 

王者。

 

黒蘭が魔物にその言葉を使うのは珍しい。

 

強さだけではない。

 

土地を支配している。

 

周囲の魔物の動きを変えている。

 

他の生き物に沈黙を強いている。

 

そういう存在だった。

 

---

 

さらに進む。

 

ただし、黒蘭達は一直線には進まない。

 

境界をなぞるように歩く。

 

足跡。

 

爪痕。

 

糞。

 

毛。

 

血。

 

折れた枝。

 

小型魔物の逃げ道。

 

それらを一つずつ見ていく。

 

黒薔薇は少し退屈そうだった。

 

「なあ」

 

「何だ」

 

「この調子だと、今日一日かけても姿を見ないんじゃないか」

 

黒蘭は答える。

 

「それでいい」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「敵の姿を見ずに戻るのか」

 

「敵の土地を見て戻る」

 

薔薇は少し黙った。

 

そして笑う。

 

「言い方ひとつで随分違うな」

 

黒蘭は足元を見る。

 

「姿は一つの情報にすぎない」

 

「土地の方が多くを語る」

 

薔薇は肩をすくめた。

 

「戦場みたいだ」

 

「同じだ」

 

黒蘭は言う。

 

「城を攻める前に、城壁だけを見る者はいない」

 

「水路」

 

「倉」

 

「兵の出入り」

 

「逃げ道」

 

「風向き」

 

「火が回る場所」

 

「そういうものを見る」

 

椿が静かに続ける。

 

「迷宮でも同じですね」

 

「はい」

 

牡丹が言う。

 

「魔物の餌場、寝床、水場、移動経路」

 

「全てが戦力です」

 

百合が短く言った。

 

「地形は敵」

 

黒蘭は頷く。

 

「地形は敵にも味方にもなる」

 

その時。

 

森の奥で何かが鳴いた。

 

低く、長い声。

 

咆哮ではない。

 

警告。

 

薔薇の顔が変わった。

 

「気付かれたか」

 

百合が木の上へ跳ぶ。

 

数秒後、戻る。

 

「姿は見えません」

 

「距離」

 

「遠い。ですが、こちらを認識しています」

 

椿が刀の柄に手を置く。

 

「下がりますか」

 

黒蘭は森を見た。

 

しばらく沈黙。

 

「半刻だけ続ける」

 

薔薇が笑う。

 

「攻めるのか」

 

「違う」

 

「引き際を見る」

 

---

 

半刻。

 

黒蘭達は、さらに慎重に進んだ。

 

咆哮は一度きり。

 

だが、森の気配は変わっていた。

 

見られている。

 

それは全員が感じていた。

 

黒百合ですら、正確な位置を掴めない。

 

薔薇は籠手を構えたまま、低く言う。

 

「嫌な感じだな」

 

百合が答える。

 

「同意」

 

薔薇が少し驚く。

 

「お前が同意するのか」

 

「危険です」

 

黒蘭は立ち止まった。

 

目の前には、太い木の幹。

 

深い爪痕が残っている。

 

高い。

 

人の背丈よりずっと上。

 

一撃で樹皮を裂き、幹にまで届いている。

 

薔薇が見上げる。

 

「でかいな」

 

牡丹が爪痕を確認する。

 

「古くありません」

 

椿が言う。

 

「ここが内側ですか」

 

「ああ」

 

黒蘭は振り返る。

 

「戻る」

 

薔薇は一瞬だけ目を細めた。

 

「姿を見ずに?」

 

「十分だ」

 

「本当に?」

 

黒蘭は頷く。

 

「こちらを見ている」

 

「相手の土地に入った」

 

「姿は見せない」

 

「それでも警告だけで済ませた」

 

椿が理解する。

 

「追い出したいだけ」

 

「はい」

 

「なら、応じる」

 

薔薇は少し不満そうだったが、すぐに笑った。

 

「王者に挨拶して帰るわけだ」

 

黒蘭は言った。

 

「まだ客ではない」

 

「侵入者だ」

 

---

 

帰路。

 

森は静かだった。

 

だが、先ほどとは違う静けさだった。

 

こちらを見送っている。

 

そう感じるほどに。

 

百合が最後尾から言う。

 

「追跡なし」

 

牡丹が小さく息を吐く。

 

「賢い個体ですね」

 

黒蘭は答える。

 

「だから危険だ」

 

薔薇が振り返る。

 

「獣なのに?」

 

「獣は愚かではない」

 

「人ほど狡猾ではなくとも」

 

「土地を知る」

 

「自分の強さを知る」

 

「無駄に傷を負わない」

 

椿が静かに言う。

 

「ならば、今の私達と似ていますね」

 

薔薇が笑う。

 

「つまり、向こうも慎重ってわけだ」

 

黒蘭は頷いた。

 

「良い敵だ」

 

その言葉は、賛辞だった。

 

黒華の者達には分かる。

 

黒蘭が敵を褒める時、それは油断してよいという意味ではない。

 

むしろ逆だ。

 

本当に危険だと認めたという意味だった。

 

---

 

昼過ぎ。

 

安全圏まで戻ったところで、ようやく休息を取った。

 

火は使わない。

 

牡丹が干し飯を水で戻し、少量の塩と薬草を混ぜる。

 

薔薇は不満そうに食べた。

 

「温かい飯が恋しい」

 

牡丹は微笑む。

 

「戻れば作ります」

 

「それを楽しみに生きるか」

 

百合は周囲を見張りながら言う。

 

「警戒を緩めないでください」

 

「分かってるよ」

 

椿は地図を広げ、今日の線を引いていた。

 

縄張り境界。

 

餌場。

 

爪痕。

 

警告地点。

 

推定寝床。

 

そして、進入禁止と大きく印をつける。

 

薔薇が覗き込む。

 

「進入禁止か」

 

「今は、です」

 

椿は冷静に返す。

 

「情報が足りません」

 

黒蘭も地図を見る。

 

「明日は戻る」

 

薔薇が顔を上げる。

 

「え、もう?」

 

「ああ」

 

「予定では六日目まで余裕があるだろ」

 

「今日が五日目だ」

 

「だから明日も少し見られる」

 

黒蘭は首を振る。

 

「六日目は予備だ」

 

「予備を使っていい時は?」

 

「予定外が起きた時だけ」

 

薔薇は少しだけ口を尖らせた。

 

「予定外は起きなかっただろ」

 

「今、起きている」

 

「何が」

 

「相手がこちらを認識した」

 

椿が頷く。

 

「帰路を妨害される可能性があります」

 

牡丹も言う。

 

「食糧は足りていますが、怪我人が出れば消耗が変わります」

 

百合が短く言う。

 

「撤退妥当」

 

薔薇は周囲を見た。

 

四対一。

 

いや、黒蘭も含めれば五対一。

 

「分かったよ」

 

黒蘭は少しだけ言った。

 

「戦う時は来る」

 

薔薇はにやりと笑う。

 

「それを聞いて安心した」

 

「だが今ではない」

 

「はいはい」

 

---

 

同じ頃。

 

第一階層浅部。

 

リッド達三人は、初めての合同探索に出ていた。

 

リッド。

 

ファラ。

 

セレネ。

 

三人になったことで、戦い方は大きく変わった。

 

「リッド、止めて」

 

セレネが小さく言う。

 

「止めてる!」

 

「もっと」

 

「これ以上は無理!」

 

巨大な蛙が跳ねる。

 

リッドは剣で受けるのではなく、横へ流す。

 

黒薔薇の動きを真似たつもりだった。

 

もちろん、そんな簡単にできるはずがない。

 

蛙の体当たりを受け、リッドは尻もちをついた。

 

「痛って!」

 

ファラがすぐに前へ出る。

 

「だから真似しない!」

 

「いや、今のは惜しかった」

 

「惜しくない!」

 

セレネが杖を掲げる。

 

「退いて」

 

リッドは慌てて横へ転がる。

 

直後、星術が落ちた。

 

炎ではない。

 

光の弾が蛙の背を打ち、動きを止める。

 

ファラが追撃する。

 

拳。

 

腹。

 

喉。

 

蛙が倒れる。

 

リッドは立ち上がり、剣を構え直す。

 

「すげぇ、セレネ!」

 

セレネは表情を変えずに言う。

 

「動かなければ、もっと当たる」

 

「それ俺が悪い?」

 

「うん」

 

ファラが頷く。

 

「うん」

 

「二人して!」

 

だが、リッドは笑っていた。

 

二人の時より楽だった。

 

いや、楽というより、見えるものが増えた。

 

自分が敵を止める。

 

ファラが傷を見てくれる。

 

セレネが後ろから大きな一撃を入れる。

 

一人で全部やろうとしなくていい。

 

それが、少しだけ分かり始めていた。

 

---

 

戦闘後。

 

ファラはリッドの腕を確認した。

 

「浅いけど、また傷増えた」

 

「大丈夫」

 

「大丈夫じゃない」

 

セレネが横から言う。

 

「回復役の言うことは聞くべき」

 

リッドは苦笑する。

 

「はいはい」

 

ファラは少し驚いた。

 

「今、聞いた?」

 

「聞いたよ」

 

「珍しい」

 

「俺だって成長する」

 

セレネが淡々と言う。

 

「微量」

 

「微量って何だよ!」

 

その時、近くの茂みが揺れた。

 

三人が身構える。

 

出てきたのは、大地の記録者の一人だった。

 

若い女。

 

手には地図筒。

 

「おっと、新人か」

 

リッドは剣を下ろす。

 

「あ、すみません」

 

女は三人を見て頷く。

 

「三人か。二人よりはましだね」

 

ファラが苦笑する。

 

「やっぱり二人は無謀ですか」

 

「無謀だね。特に前衛がそこの坊やなら」

 

リッドが反論する。

 

「坊やじゃない!」

 

「じゃあ、無謀な前衛君」

 

「募集文が広まってる!?」

 

セレネが小さく言う。

 

「有名」

 

リッドは頭を抱えた。

 

大地の記録者の女は笑う。

 

「黒い連中に助言されたんだろ?」

 

リッドは顔を上げる。

 

「黒蘭達を知ってるのか?」

 

「昨日会った。変な連中だったよ」

 

「変?」

 

「ああ」

 

女は地図筒を叩く。

 

「戦える奴ほど地図を軽く見る。でも、あいつらは違う」

 

「強いのに?」

 

「強いから、かな」

 

女は少しだけ真面目な顔になった。

 

「強い奴は突っ切れる」

 

「でも、突っ切った道は他の奴には使えない」

 

「黒い連中は、突っ切らない」

 

「全部調べる」

 

「迷宮そのものと戦ってるみたいだった」

 

リッドはその言葉を聞いて、黒蘭の背中を思い出した。

 

戦うことより、見ること。

 

勝つことより、帰ること。

 

まだ分からない。

 

でも、少しずつ分かり始めている。

 

ファラが地図を見る。

 

「私達も、今日はここまでにします」

 

リッドは何か言いかけたが、止めた。

 

「……そうだな」

 

ファラは少し驚いた。

 

セレネもリッドを見る。

 

「何だよ」

 

ファラは笑った。

 

「いや、成長してるなって」

 

セレネが言う。

 

「微量ではなく、少量」

 

「少量なのかよ!」

 

それでもリッドは、どこか嬉しそうだった。

 

---

 

夕方。

 

黒蘭達は予定より早く野営地へ戻った。

 

明日の帰還に備えるためだ。

 

迷宮滞在五日目の夜。

 

五人は、これまでで最も静かな夜を過ごしていた。

 

火は小さい。

 

食事は簡素。

 

会話も少ない。

 

森の奥には、あの王者がいる。

 

近づかなければ襲ってこない。

 

だが、存在は感じる。

 

黒薔薇がぽつりと言った。

 

「なあ、黒蘭」

 

「何だ」

 

「戦えば勝てるか」

 

椿の手が止まる。

 

牡丹も顔を上げる。

 

百合は表情を変えない。

 

黒蘭は答えた。

 

「勝てる」

 

短い。

 

だが迷いはなかった。

 

薔薇は笑う。

 

「だよな」

 

「ただし」

 

黒蘭は続けた。

 

「無傷では済まない」

 

「地形は向こうにある」

 

「大きさも、速さも、まだ測り切っていない」

 

「こちらが勝っても、帰路で崩れる可能性がある」

 

薔薇は頷いた。

 

「つまり、今戦う意味はない」

 

「ああ」

 

椿が静かに言う。

 

「勝てる敵と戦わない」

 

黒蘭は頷く。

 

「勝てることと、戦うことは違う」

 

その言葉は、黒華では何度も聞いたものだった。

 

戦場で。

 

地穴で。

 

撤退の夜で。

 

国がまだあった頃も、失われた後も。

 

黒蘭は同じことを言う。

 

そしてその判断で、多くの者が生き残った。

 

同時に。

 

その判断で、救えなかった者もいた。

 

椿はそれを知っている。

 

だから何も言わなかった。

 

---

 

深夜。

 

百合が見張りに立っていた。

 

森の奥を見ている。

 

気配。

 

遠い。

 

だが消えていない。

 

黒蘭が横に立つ。

 

百合は振り返らない。

 

「寝ていませんね」

 

「少し寝た」

 

「牡丹様に怒られます」

 

「だろうな」

 

百合は少し沈黙した。

 

「追いますか」

 

「追わない」

 

「危険を残します」

 

「残していい危険もある」

 

百合は目を細める。

 

「理解しかねます」

 

黒蘭は森を見る。

 

「この森の王者だ」

 

「殺せば、縄張りが空く」

 

「別の魔物が入る」

 

「弱い魔物が増えるかもしれない」

 

「もっと悪いものが来るかもしれない」

 

百合は黙った。

 

「敵を殺せば終わるとは限らない」

 

「はい」

 

「それに」

 

黒蘭は続けた。

 

「あれは、こちらを見逃した」

 

百合がわずかに反応する。

 

「情けですか」

 

「違う」

 

「損を避けた」

 

「こちらも同じだ」

 

百合は少しだけ頷いた。

 

納得ではない。

 

だが、理解はした。

 

---

 

翌朝。

 

海都来訪八日目。

 

迷宮滞在六日目。

 

黒蘭達は撤退を開始した。

 

撤退といっても、逃げるわけではない。

 

来た道を戻りながら、全てを再確認する。

 

昨日あった足跡。

 

一昨日見た湿地。

 

折れた枝。

 

休息地。

 

水場。

 

魔物の移動。

 

行きと帰りで違うものを探す。

 

黒薔薇が言う。

 

「戻るだけなのに忙しいな」

 

牡丹が答える。

 

「戻る時ほど危険です」

 

「なぜ」

 

「安心するからです」

 

百合が短く言う。

 

「追撃もある」

 

椿が地図に修正を加える。

 

「帰路専用の危険もありますね」

 

黒蘭は頷く。

 

「撤退は戦いだ」

 

その言葉に、薔薇は少しだけ真面目な顔になった。

 

黒華では、何度も撤退した。

 

敗走ではなく、撤退。

 

それでも死者は出た。

 

後衛が残り、傷病者を運び、追撃を受け、火を放ち、道を潰す。

 

前へ進むより、戻る方が難しいことを、五人は知っている。

 

だからこそ、彼らは帰路を軽く見ない。

 

---

 

昼。

 

前回の湿地へ戻った。

 

かみつき魚の縄張り。

 

今回は二体ではなく、四体が水面近くにいた。

 

牡丹が言う。

 

「増えています」

 

椿が地図を見る。

 

「私達が個体を殺さなかったためでしょうか」

 

黒蘭は首を振る。

 

「違う」

 

「奥の縄張りから逃げてきた可能性がある」

 

百合が周囲を見る。

 

「小型の移動、多いです」

 

黒薔薇が眉を上げる。

 

「王者が動いたか」

 

「可能性だ」

 

黒蘭は湿地を避ける。

 

「記録する」

 

戦わない。

 

ただ見る。

 

海都の冒険者なら、魔物が増えたと知れば討伐を考えるかもしれない。

 

だが黒蘭はまず、なぜ増えたのかを見る。

 

数が増えるには理由がある。

 

理由を知らずに刃を振れば、次に来るものを見誤る。

 

---

 

夕方。

 

世界樹の入口が見えた。

 

海の匂いが戻ってくる。

 

木々の奥から抜けると、空が広かった。

 

黒薔薇が大きく息を吐く。

 

「戻ったな」

 

牡丹が荷を確認する。

 

「全員、負傷軽微。食糧残り一日分。水、残り半日分」

 

椿が言う。

 

「予定通りです」

 

百合が入口の外を見る。

 

「視線多数」

 

黒薔薇が笑う。

 

「そりゃ六日戻らなきゃ見られるだろ」

 

ギルド前では、何人もの冒険者がこちらを見ていた。

 

黒蘭一行が六日ぶりに帰還した。

 

しかも、全員が歩いている。

 

荷も残っている。

 

大きな怪我もない。

 

それだけで、海都の冒険者達には異常だった。

 

---

 

ギルド。

 

受付嬢は黒蘭達を見て、目を丸くした。

 

「お帰りなさいませ。六日間の探索、お疲れ様でした」

 

黒蘭は地図筒を出した。

 

「報告を」

 

受付嬢は受け取り、開く。

 

すぐに顔色が変わった。

 

前回よりはるかに広い地図。

 

魔物の縄張り。

 

休息地。

 

湿地。

 

危険植物。

 

大型個体の推定範囲。

 

交戦記録。

 

撤退路。

 

帰路の変化。

 

ただし、討伐数は少ない。

 

受付嬢は戸惑う。

 

「討伐は……少なめですね」

 

黒蘭は答える。

 

「必要なかった」

 

その言葉を聞いて、近くにいた冒険者が小さく笑った。

 

「六日潜って討伐少なめかよ」

 

「慎重すぎるんじゃないか?」

 

「Fランクだしな」

 

黒百合の視線が動く。

 

黒蘭は止めない。

 

止める必要もなかった。

 

その時、奥からレオンが出てきた。

 

地図を見る。

 

一枚。

 

二枚。

 

三枚。

 

彼の顔から笑みが消えた。

 

「……誰が描いた」

 

椿が答える。

 

「主に私が」

 

「確認は」

 

「全員で」

 

レオンは大型個体の縄張り図を見る。

 

「姿は見たか」

 

「見ていない」

 

黒蘭が答える。

 

レオンは目を上げる。

 

「見ずに、ここまで?」

 

「土地を見た」

 

しばらく沈黙。

 

周囲の冒険者達は、何がすごいのか分かっていない者も多かった。

 

討伐数ではない。

 

到達階層でもない。

 

だが、レオンには分かった。

 

この地図は、戦果ではなく支配の記録だ。

 

黒蘭達は六日間、迷宮の浅部をただ歩いたのではない。

 

魔物の配置を測り、縄張りを読み、退路を確保し、危険域を線で区切った。

 

これは冒険者の地図ではない。

 

軍の進軍図だった。

 

レオンは低く笑った。

 

「面白い」

 

受付嬢を見る。

 

「写しを取れ。大地の記録者にも見せる」

 

受付嬢が慌てて頷く。

 

「はい」

 

黒蘭は言う。

 

「危険域には今は入るな」

 

レオンの目が細くなる。

 

「命令か?」

 

「警告だ」

 

「理由は」

 

「こちらを見ている」

 

「何が」

 

「森の王者」

 

レオンはしばらく黒蘭を見た。

 

「分かった。討伐依頼にはまだしない」

 

周囲がざわめく。

 

ロイヤルガードの者が不満げに言う。

 

「見てもいない相手を、なぜそこまで警戒する」

 

黒蘭はそちらを見た。

 

「見せない敵は、見せる敵より危険だ」

 

その一言で、レオンだけが笑った。

 

---

 

その夜。

 

ギルド掲示板に新しい札が掛かった。

 

---

 

Fランク 黒蘭一行

初回探索日数 六日

第一階層広域地図提出

大型個体縄張り推定域 報告あり

危険域指定 審議中

 

---

 

すぐ下に、誰かが落書きした。

 

「討伐数少ないのに何で騒がれてる?」

 

そのさらに下。

 

別の筆跡。

 

「地図を見ろ。馬鹿」

 

そしてまた別の筆跡。

 

「あれでFなら俺達は何だ」

 

---

 

リッドはその掲示板を、ファラとセレネと一緒に見ていた。

 

「六日……」

 

リッドは呟く。

 

セレネが言う。

 

「異常」

 

ファラも頷く。

 

「でも、討伐じゃなくて地図で評価されてる」

 

リッドは黒蘭の言葉を思い出す。

 

勝てることと、戦うことは違う。

 

生き残れ。

 

理想は死者には語れない。

 

リッドは拳を握った。

 

「俺達も明日、もう一回潜ろう」

 

ファラがすぐに言う。

 

「無理しない範囲で」

 

「分かってる」

 

セレネが静かに付け加える。

 

「本当に?」

 

「本当に!」

 

ファラとセレネは顔を見合わせた。

 

まだ信用は薄い。

 

だが、それでも三人になった。

 

少しずつ進んでいる。

 

---

 

宿。

 

黒蘭達は六日ぶりにまともな食事を取っていた。

 

牡丹が温かい汁物を用意する。

 

薔薇は椀を抱えるようにして食べた。

 

「生き返る」

 

牡丹が微笑む。

 

「迷宮でも同じものを出せればよかったのですが」

 

「いや、帰って食うからいいんだよ」

 

椿は地図の写しを整理している。

 

百合は窓際に立ち、外を見ている。

 

黒蘭は食事を終えると、すぐに報告書を書き始めた。

 

牡丹が静かに椀を置く。

 

「黒蘭様」

 

「何だ」

 

「食後すぐに仕事をしないでください」

 

「必要だ」

 

「休息も必要です」

 

黒薔薇が笑う。

 

「また始まった」

 

椿が小さく言う。

 

「黒蘭様。明日は休息日です」

 

黒蘭の筆が止まる。

 

「誰が決めた」

 

椿はまっすぐ言った。

 

「私です」

 

薔薇が口笛を吹きかけて、百合に睨まれた。

 

牡丹は微笑んでいる。

 

黒蘭は椿を見る。

 

椿は視線を逸らさない。

 

「装備整備、地図整理、情報交換、体調確認。全て必要です」

 

「迷宮へ潜らない理由にはなるか」

 

「なります」

 

「……」

 

黒蘭は少し黙った。

 

それから筆を置いた。

 

「分かった」

 

薔薇が笑う。

 

「姫様の勝ち」

 

椿の耳が赤くなる。

 

「薔薇」

 

「はいはい」

 

黒蘭は椀を取り、残っていた汁を飲んだ。

 

温かい。

 

海都の夜は、迷宮の夜とは違う。

 

遠くから酒場の笑い声が聞こえる。

 

港の鐘が鳴る。

 

街は生きている。

 

そして世界樹は、明日もそこにある。

 

黒華の五人は、ようやく第一歩を終えたにすぎない。

 

だがその一歩は、海都の冒険者達に小さなざわめきを残した。

 

黒い五人は、魔物を狩りに来たのではない。

 

迷宮を知りに来た。

 

その事実に気付いた者から、彼らを見る目が変わり始めていた。

 

第四話 了

 

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