海都来訪七日目。
迷宮滞在五日目。
夜明け前の森は、まだ青かった。
木々の隙間から差し込む光は弱く、地面には湿った冷気が残っている。
黒蘭達は、火を消していた。
朝食は温かくない。
乾いた飯。
干し肉。
薄く煮出した薬草水。
黒薔薇は干し肉を噛みながら、少し不満そうに言った。
「今日は汁物なし?」
黒牡丹は荷を整えながら答える。
「匂いが残ります」
「そんなに警戒する相手か」
「分かりません」
牡丹は穏やかに言った。
「分からないので、警戒します」
黒薔薇は笑った。
「そりゃそうだ」
黒華椿は地図を畳み、腰の刀を確認する。
柄に巻かれた黒布が、朝の湿気を含んで少し重くなっていた。
「本日の目的を確認します」
声は小さい。
だが、全員に届く。
「第一。昨日確認した大型個体の縄張り境界を特定」
「第二。退路に変化がないか確認」
「第三。交戦は避ける」
黒薔薇が片手を上げた。
「必要があれば?」
椿は黒蘭を見る。
黒蘭は短く答えた。
「必要なら殺す」
それだけ。
黒薔薇は満足そうに籠手を鳴らした。
黒百合はすでに木の上にいた。
「周囲、異常なし」
黒蘭が言う。
「行くぞ」
五人は森の奥へ進んだ。
---
前日までとは空気が違っていた。
同じ第一階層。
同じ樹海。
同じ緑。
だが、森の密度が変わっている。
鳥の声が少ない。
小型の魔物の足跡が途切れている。
草食の獣が通る細い道も、途中で折れるように消えていた。
黒蘭は足を止める。
「ここからだ」
椿が地図に線を引く。
「縄張り境界」
牡丹がしゃがみ、草を確認する。
「踏み荒らされています。大型個体が何度も通っていますね」
百合が木から降りる。
「北東に骨」
「新しいか」
「はい」
黒蘭は頷いた。
「見る」
骨は、少し進んだ先にあった。
小型の魔物の死骸。
半分以上が食われている。
食い散らかされてはいない。
必要な分だけ喰われ、残りは放置されている。
薔薇がしゃがむ。
「獣だな」
「だが、雑じゃない」
牡丹が頷く。
「歯形が深いです。顎の力が強い」
椿は周囲を見る。
「ここで仕留めたのではありませんね」
百合が言う。
「引きずられています」
黒蘭は土に残る跡を見た。
獲物を咥え、ここまで運んだ。
なぜ。
食うためだけなら、その場でよかったはずだ。
「ここは食事場所か」
薔薇が言う。
「寝床とは違うな」
「近いが、別だ」
黒蘭は森の奥を見た。
「王者の縄張りだ」
その言葉に、全員の表情が変わる。
王者。
黒蘭が魔物にその言葉を使うのは珍しい。
強さだけではない。
土地を支配している。
周囲の魔物の動きを変えている。
他の生き物に沈黙を強いている。
そういう存在だった。
---
さらに進む。
ただし、黒蘭達は一直線には進まない。
境界をなぞるように歩く。
足跡。
爪痕。
糞。
毛。
血。
折れた枝。
小型魔物の逃げ道。
それらを一つずつ見ていく。
黒薔薇は少し退屈そうだった。
「なあ」
「何だ」
「この調子だと、今日一日かけても姿を見ないんじゃないか」
黒蘭は答える。
「それでいい」
「本当に?」
「ああ」
「敵の姿を見ずに戻るのか」
「敵の土地を見て戻る」
薔薇は少し黙った。
そして笑う。
「言い方ひとつで随分違うな」
黒蘭は足元を見る。
「姿は一つの情報にすぎない」
「土地の方が多くを語る」
薔薇は肩をすくめた。
「戦場みたいだ」
「同じだ」
黒蘭は言う。
「城を攻める前に、城壁だけを見る者はいない」
「水路」
「倉」
「兵の出入り」
「逃げ道」
「風向き」
「火が回る場所」
「そういうものを見る」
椿が静かに続ける。
「迷宮でも同じですね」
「はい」
牡丹が言う。
「魔物の餌場、寝床、水場、移動経路」
「全てが戦力です」
百合が短く言った。
「地形は敵」
黒蘭は頷く。
「地形は敵にも味方にもなる」
その時。
森の奥で何かが鳴いた。
低く、長い声。
咆哮ではない。
警告。
薔薇の顔が変わった。
「気付かれたか」
百合が木の上へ跳ぶ。
数秒後、戻る。
「姿は見えません」
「距離」
「遠い。ですが、こちらを認識しています」
椿が刀の柄に手を置く。
「下がりますか」
黒蘭は森を見た。
しばらく沈黙。
「半刻だけ続ける」
薔薇が笑う。
「攻めるのか」
「違う」
「引き際を見る」
---
半刻。
黒蘭達は、さらに慎重に進んだ。
咆哮は一度きり。
だが、森の気配は変わっていた。
見られている。
それは全員が感じていた。
黒百合ですら、正確な位置を掴めない。
薔薇は籠手を構えたまま、低く言う。
「嫌な感じだな」
百合が答える。
「同意」
薔薇が少し驚く。
「お前が同意するのか」
「危険です」
黒蘭は立ち止まった。
目の前には、太い木の幹。
深い爪痕が残っている。
高い。
人の背丈よりずっと上。
一撃で樹皮を裂き、幹にまで届いている。
薔薇が見上げる。
「でかいな」
牡丹が爪痕を確認する。
「古くありません」
椿が言う。
「ここが内側ですか」
「ああ」
黒蘭は振り返る。
「戻る」
薔薇は一瞬だけ目を細めた。
「姿を見ずに?」
「十分だ」
「本当に?」
黒蘭は頷く。
「こちらを見ている」
「相手の土地に入った」
「姿は見せない」
「それでも警告だけで済ませた」
椿が理解する。
「追い出したいだけ」
「はい」
「なら、応じる」
薔薇は少し不満そうだったが、すぐに笑った。
「王者に挨拶して帰るわけだ」
黒蘭は言った。
「まだ客ではない」
「侵入者だ」
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帰路。
森は静かだった。
だが、先ほどとは違う静けさだった。
こちらを見送っている。
そう感じるほどに。
百合が最後尾から言う。
「追跡なし」
牡丹が小さく息を吐く。
「賢い個体ですね」
黒蘭は答える。
「だから危険だ」
薔薇が振り返る。
「獣なのに?」
「獣は愚かではない」
「人ほど狡猾ではなくとも」
「土地を知る」
「自分の強さを知る」
「無駄に傷を負わない」
椿が静かに言う。
「ならば、今の私達と似ていますね」
薔薇が笑う。
「つまり、向こうも慎重ってわけだ」
黒蘭は頷いた。
「良い敵だ」
その言葉は、賛辞だった。
黒華の者達には分かる。
黒蘭が敵を褒める時、それは油断してよいという意味ではない。
むしろ逆だ。
本当に危険だと認めたという意味だった。
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昼過ぎ。
安全圏まで戻ったところで、ようやく休息を取った。
火は使わない。
牡丹が干し飯を水で戻し、少量の塩と薬草を混ぜる。
薔薇は不満そうに食べた。
「温かい飯が恋しい」
牡丹は微笑む。
「戻れば作ります」
「それを楽しみに生きるか」
百合は周囲を見張りながら言う。
「警戒を緩めないでください」
「分かってるよ」
椿は地図を広げ、今日の線を引いていた。
縄張り境界。
餌場。
爪痕。
警告地点。
推定寝床。
そして、進入禁止と大きく印をつける。
薔薇が覗き込む。
「進入禁止か」
「今は、です」
椿は冷静に返す。
「情報が足りません」
黒蘭も地図を見る。
「明日は戻る」
薔薇が顔を上げる。
「え、もう?」
「ああ」
「予定では六日目まで余裕があるだろ」
「今日が五日目だ」
「だから明日も少し見られる」
黒蘭は首を振る。
「六日目は予備だ」
「予備を使っていい時は?」
「予定外が起きた時だけ」
薔薇は少しだけ口を尖らせた。
「予定外は起きなかっただろ」
「今、起きている」
「何が」
「相手がこちらを認識した」
椿が頷く。
「帰路を妨害される可能性があります」
牡丹も言う。
「食糧は足りていますが、怪我人が出れば消耗が変わります」
百合が短く言う。
「撤退妥当」
薔薇は周囲を見た。
四対一。
いや、黒蘭も含めれば五対一。
「分かったよ」
黒蘭は少しだけ言った。
「戦う時は来る」
薔薇はにやりと笑う。
「それを聞いて安心した」
「だが今ではない」
「はいはい」
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同じ頃。
第一階層浅部。
リッド達三人は、初めての合同探索に出ていた。
リッド。
ファラ。
セレネ。
三人になったことで、戦い方は大きく変わった。
「リッド、止めて」
セレネが小さく言う。
「止めてる!」
「もっと」
「これ以上は無理!」
巨大な蛙が跳ねる。
リッドは剣で受けるのではなく、横へ流す。
黒薔薇の動きを真似たつもりだった。
もちろん、そんな簡単にできるはずがない。
蛙の体当たりを受け、リッドは尻もちをついた。
「痛って!」
ファラがすぐに前へ出る。
「だから真似しない!」
「いや、今のは惜しかった」
「惜しくない!」
セレネが杖を掲げる。
「退いて」
リッドは慌てて横へ転がる。
直後、星術が落ちた。
炎ではない。
光の弾が蛙の背を打ち、動きを止める。
ファラが追撃する。
拳。
腹。
喉。
蛙が倒れる。
リッドは立ち上がり、剣を構え直す。
「すげぇ、セレネ!」
セレネは表情を変えずに言う。
「動かなければ、もっと当たる」
「それ俺が悪い?」
「うん」
ファラが頷く。
「うん」
「二人して!」
だが、リッドは笑っていた。
二人の時より楽だった。
いや、楽というより、見えるものが増えた。
自分が敵を止める。
ファラが傷を見てくれる。
セレネが後ろから大きな一撃を入れる。
一人で全部やろうとしなくていい。
それが、少しだけ分かり始めていた。
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戦闘後。
ファラはリッドの腕を確認した。
「浅いけど、また傷増えた」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない」
セレネが横から言う。
「回復役の言うことは聞くべき」
リッドは苦笑する。
「はいはい」
ファラは少し驚いた。
「今、聞いた?」
「聞いたよ」
「珍しい」
「俺だって成長する」
セレネが淡々と言う。
「微量」
「微量って何だよ!」
その時、近くの茂みが揺れた。
三人が身構える。
出てきたのは、大地の記録者の一人だった。
若い女。
手には地図筒。
「おっと、新人か」
リッドは剣を下ろす。
「あ、すみません」
女は三人を見て頷く。
「三人か。二人よりはましだね」
ファラが苦笑する。
「やっぱり二人は無謀ですか」
「無謀だね。特に前衛がそこの坊やなら」
リッドが反論する。
「坊やじゃない!」
「じゃあ、無謀な前衛君」
「募集文が広まってる!?」
セレネが小さく言う。
「有名」
リッドは頭を抱えた。
大地の記録者の女は笑う。
「黒い連中に助言されたんだろ?」
リッドは顔を上げる。
「黒蘭達を知ってるのか?」
「昨日会った。変な連中だったよ」
「変?」
「ああ」
女は地図筒を叩く。
「戦える奴ほど地図を軽く見る。でも、あいつらは違う」
「強いのに?」
「強いから、かな」
女は少しだけ真面目な顔になった。
「強い奴は突っ切れる」
「でも、突っ切った道は他の奴には使えない」
「黒い連中は、突っ切らない」
「全部調べる」
「迷宮そのものと戦ってるみたいだった」
リッドはその言葉を聞いて、黒蘭の背中を思い出した。
戦うことより、見ること。
勝つことより、帰ること。
まだ分からない。
でも、少しずつ分かり始めている。
ファラが地図を見る。
「私達も、今日はここまでにします」
リッドは何か言いかけたが、止めた。
「……そうだな」
ファラは少し驚いた。
セレネもリッドを見る。
「何だよ」
ファラは笑った。
「いや、成長してるなって」
セレネが言う。
「微量ではなく、少量」
「少量なのかよ!」
それでもリッドは、どこか嬉しそうだった。
---
夕方。
黒蘭達は予定より早く野営地へ戻った。
明日の帰還に備えるためだ。
迷宮滞在五日目の夜。
五人は、これまでで最も静かな夜を過ごしていた。
火は小さい。
食事は簡素。
会話も少ない。
森の奥には、あの王者がいる。
近づかなければ襲ってこない。
だが、存在は感じる。
黒薔薇がぽつりと言った。
「なあ、黒蘭」
「何だ」
「戦えば勝てるか」
椿の手が止まる。
牡丹も顔を上げる。
百合は表情を変えない。
黒蘭は答えた。
「勝てる」
短い。
だが迷いはなかった。
薔薇は笑う。
「だよな」
「ただし」
黒蘭は続けた。
「無傷では済まない」
「地形は向こうにある」
「大きさも、速さも、まだ測り切っていない」
「こちらが勝っても、帰路で崩れる可能性がある」
薔薇は頷いた。
「つまり、今戦う意味はない」
「ああ」
椿が静かに言う。
「勝てる敵と戦わない」
黒蘭は頷く。
「勝てることと、戦うことは違う」
その言葉は、黒華では何度も聞いたものだった。
戦場で。
地穴で。
撤退の夜で。
国がまだあった頃も、失われた後も。
黒蘭は同じことを言う。
そしてその判断で、多くの者が生き残った。
同時に。
その判断で、救えなかった者もいた。
椿はそれを知っている。
だから何も言わなかった。
---
深夜。
百合が見張りに立っていた。
森の奥を見ている。
気配。
遠い。
だが消えていない。
黒蘭が横に立つ。
百合は振り返らない。
「寝ていませんね」
「少し寝た」
「牡丹様に怒られます」
「だろうな」
百合は少し沈黙した。
「追いますか」
「追わない」
「危険を残します」
「残していい危険もある」
百合は目を細める。
「理解しかねます」
黒蘭は森を見る。
「この森の王者だ」
「殺せば、縄張りが空く」
「別の魔物が入る」
「弱い魔物が増えるかもしれない」
「もっと悪いものが来るかもしれない」
百合は黙った。
「敵を殺せば終わるとは限らない」
「はい」
「それに」
黒蘭は続けた。
「あれは、こちらを見逃した」
百合がわずかに反応する。
「情けですか」
「違う」
「損を避けた」
「こちらも同じだ」
百合は少しだけ頷いた。
納得ではない。
だが、理解はした。
---
翌朝。
海都来訪八日目。
迷宮滞在六日目。
黒蘭達は撤退を開始した。
撤退といっても、逃げるわけではない。
来た道を戻りながら、全てを再確認する。
昨日あった足跡。
一昨日見た湿地。
折れた枝。
休息地。
水場。
魔物の移動。
行きと帰りで違うものを探す。
黒薔薇が言う。
「戻るだけなのに忙しいな」
牡丹が答える。
「戻る時ほど危険です」
「なぜ」
「安心するからです」
百合が短く言う。
「追撃もある」
椿が地図に修正を加える。
「帰路専用の危険もありますね」
黒蘭は頷く。
「撤退は戦いだ」
その言葉に、薔薇は少しだけ真面目な顔になった。
黒華では、何度も撤退した。
敗走ではなく、撤退。
それでも死者は出た。
後衛が残り、傷病者を運び、追撃を受け、火を放ち、道を潰す。
前へ進むより、戻る方が難しいことを、五人は知っている。
だからこそ、彼らは帰路を軽く見ない。
---
昼。
前回の湿地へ戻った。
かみつき魚の縄張り。
今回は二体ではなく、四体が水面近くにいた。
牡丹が言う。
「増えています」
椿が地図を見る。
「私達が個体を殺さなかったためでしょうか」
黒蘭は首を振る。
「違う」
「奥の縄張りから逃げてきた可能性がある」
百合が周囲を見る。
「小型の移動、多いです」
黒薔薇が眉を上げる。
「王者が動いたか」
「可能性だ」
黒蘭は湿地を避ける。
「記録する」
戦わない。
ただ見る。
海都の冒険者なら、魔物が増えたと知れば討伐を考えるかもしれない。
だが黒蘭はまず、なぜ増えたのかを見る。
数が増えるには理由がある。
理由を知らずに刃を振れば、次に来るものを見誤る。
---
夕方。
世界樹の入口が見えた。
海の匂いが戻ってくる。
木々の奥から抜けると、空が広かった。
黒薔薇が大きく息を吐く。
「戻ったな」
牡丹が荷を確認する。
「全員、負傷軽微。食糧残り一日分。水、残り半日分」
椿が言う。
「予定通りです」
百合が入口の外を見る。
「視線多数」
黒薔薇が笑う。
「そりゃ六日戻らなきゃ見られるだろ」
ギルド前では、何人もの冒険者がこちらを見ていた。
黒蘭一行が六日ぶりに帰還した。
しかも、全員が歩いている。
荷も残っている。
大きな怪我もない。
それだけで、海都の冒険者達には異常だった。
---
ギルド。
受付嬢は黒蘭達を見て、目を丸くした。
「お帰りなさいませ。六日間の探索、お疲れ様でした」
黒蘭は地図筒を出した。
「報告を」
受付嬢は受け取り、開く。
すぐに顔色が変わった。
前回よりはるかに広い地図。
魔物の縄張り。
休息地。
湿地。
危険植物。
大型個体の推定範囲。
交戦記録。
撤退路。
帰路の変化。
ただし、討伐数は少ない。
受付嬢は戸惑う。
「討伐は……少なめですね」
黒蘭は答える。
「必要なかった」
その言葉を聞いて、近くにいた冒険者が小さく笑った。
「六日潜って討伐少なめかよ」
「慎重すぎるんじゃないか?」
「Fランクだしな」
黒百合の視線が動く。
黒蘭は止めない。
止める必要もなかった。
その時、奥からレオンが出てきた。
地図を見る。
一枚。
二枚。
三枚。
彼の顔から笑みが消えた。
「……誰が描いた」
椿が答える。
「主に私が」
「確認は」
「全員で」
レオンは大型個体の縄張り図を見る。
「姿は見たか」
「見ていない」
黒蘭が答える。
レオンは目を上げる。
「見ずに、ここまで?」
「土地を見た」
しばらく沈黙。
周囲の冒険者達は、何がすごいのか分かっていない者も多かった。
討伐数ではない。
到達階層でもない。
だが、レオンには分かった。
この地図は、戦果ではなく支配の記録だ。
黒蘭達は六日間、迷宮の浅部をただ歩いたのではない。
魔物の配置を測り、縄張りを読み、退路を確保し、危険域を線で区切った。
これは冒険者の地図ではない。
軍の進軍図だった。
レオンは低く笑った。
「面白い」
受付嬢を見る。
「写しを取れ。大地の記録者にも見せる」
受付嬢が慌てて頷く。
「はい」
黒蘭は言う。
「危険域には今は入るな」
レオンの目が細くなる。
「命令か?」
「警告だ」
「理由は」
「こちらを見ている」
「何が」
「森の王者」
レオンはしばらく黒蘭を見た。
「分かった。討伐依頼にはまだしない」
周囲がざわめく。
ロイヤルガードの者が不満げに言う。
「見てもいない相手を、なぜそこまで警戒する」
黒蘭はそちらを見た。
「見せない敵は、見せる敵より危険だ」
その一言で、レオンだけが笑った。
---
その夜。
ギルド掲示板に新しい札が掛かった。
---
Fランク 黒蘭一行
初回探索日数 六日
第一階層広域地図提出
大型個体縄張り推定域 報告あり
危険域指定 審議中
---
すぐ下に、誰かが落書きした。
「討伐数少ないのに何で騒がれてる?」
そのさらに下。
別の筆跡。
「地図を見ろ。馬鹿」
そしてまた別の筆跡。
「あれでFなら俺達は何だ」
---
リッドはその掲示板を、ファラとセレネと一緒に見ていた。
「六日……」
リッドは呟く。
セレネが言う。
「異常」
ファラも頷く。
「でも、討伐じゃなくて地図で評価されてる」
リッドは黒蘭の言葉を思い出す。
勝てることと、戦うことは違う。
生き残れ。
理想は死者には語れない。
リッドは拳を握った。
「俺達も明日、もう一回潜ろう」
ファラがすぐに言う。
「無理しない範囲で」
「分かってる」
セレネが静かに付け加える。
「本当に?」
「本当に!」
ファラとセレネは顔を見合わせた。
まだ信用は薄い。
だが、それでも三人になった。
少しずつ進んでいる。
---
宿。
黒蘭達は六日ぶりにまともな食事を取っていた。
牡丹が温かい汁物を用意する。
薔薇は椀を抱えるようにして食べた。
「生き返る」
牡丹が微笑む。
「迷宮でも同じものを出せればよかったのですが」
「いや、帰って食うからいいんだよ」
椿は地図の写しを整理している。
百合は窓際に立ち、外を見ている。
黒蘭は食事を終えると、すぐに報告書を書き始めた。
牡丹が静かに椀を置く。
「黒蘭様」
「何だ」
「食後すぐに仕事をしないでください」
「必要だ」
「休息も必要です」
黒薔薇が笑う。
「また始まった」
椿が小さく言う。
「黒蘭様。明日は休息日です」
黒蘭の筆が止まる。
「誰が決めた」
椿はまっすぐ言った。
「私です」
薔薇が口笛を吹きかけて、百合に睨まれた。
牡丹は微笑んでいる。
黒蘭は椿を見る。
椿は視線を逸らさない。
「装備整備、地図整理、情報交換、体調確認。全て必要です」
「迷宮へ潜らない理由にはなるか」
「なります」
「……」
黒蘭は少し黙った。
それから筆を置いた。
「分かった」
薔薇が笑う。
「姫様の勝ち」
椿の耳が赤くなる。
「薔薇」
「はいはい」
黒蘭は椀を取り、残っていた汁を飲んだ。
温かい。
海都の夜は、迷宮の夜とは違う。
遠くから酒場の笑い声が聞こえる。
港の鐘が鳴る。
街は生きている。
そして世界樹は、明日もそこにある。
黒華の五人は、ようやく第一歩を終えたにすぎない。
だがその一歩は、海都の冒険者達に小さなざわめきを残した。
黒い五人は、魔物を狩りに来たのではない。
迷宮を知りに来た。
その事実に気付いた者から、彼らを見る目が変わり始めていた。
第四話 了