海都来訪九日目。
黒蘭一行は、迷宮へ潜らなかった。
到達したのは、まだ第一階層の第1階相当。
ただし、海都の者が「一階」と呼ぶには広すぎる森だった。
黒蘭達は六日をかけて、入口から深部手前までを測り、休息地、水場、湿地、魔物の縄張りを記録した。
だが、まだ次の階へは降りていない。
黒蘭はそう決めていた。
「急げば階段は見つかったかもしれませんね」
黒華椿が地図を見ながら言う。
黒蘭は頷く。
「だろうな」
黒薔薇が不満そうに椀を置いた。
「じゃあ、行けばよかっただろ」
黒蘭は短く返す。
「行く理由がなかった」
「階段を見つけるのは理由にならないのか?」
「ならない」
黒薔薇は肩をすくめた。
「本当に面倒だな、お前は」
黒牡丹が茶を注ぎながら微笑む。
「ですが、帰る理由はありました」
「食糧、水、体力、装備、地図整理」
黒百合が窓際から言う。
「未知の大型個体も」
椿は地図の奥に、赤い線を引いた。
大型個体の縄張り推定域。
まだ姿は見ていない。
ただ、足跡と爪痕、魔物の移動、森の沈黙から、その存在を推定しただけだ。
黒蘭はその赤い線を見た。
「次はここを確認する」
薔薇が少し笑う。
「ようやく戦うのか?」
「確認する」
「同じだろ」
「違う」
薔薇は笑った。
「はいはい」
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休息日。
それは、何もしない日ではない。
黒華五人にとって、休息とは次の戦いの準備だった。
薔薇は籠手と刀の手入れ。
百合は街中の人の流れとギルド周辺の確認。
牡丹は薬と食糧の補充。
椿は地図整理。
黒蘭は報告書と、次の探索計画。
宿の主人は、部屋を覗いて困惑した。
「休まないんですか?」
黒蘭は顔を上げる。
「休んでいる」
主人は机の上を見る。
地図。
刃物。
薬草。
報告書。
どう見ても仕事だった。
「それが……?」
黒薔薇が笑った。
「うちでは休みなんだ、これが」
主人は困ったように去っていった。
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午前。
黒蘭と椿はギルドへ向かった。
提出した地図の写しを受け取るためだ。
掲示板の前には、いつもより人が集まっていた。
黒蘭一行の札の下に、落書きが増えている。
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Fランク 黒蘭一行
初回探索日数 六日
第一階層第1階広域地図提出
大型個体縄張り推定域 報告あり
第二階未到達
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「六日も一階にいたのか?」
「慎重すぎるだろ」
「でも地図見たか?」
「大地の記録者が褒めてたぞ」
「討伐数は少ないらしい」
「戦わずに何してたんだ?」
「地図描いてたんだろ」
黒蘭はそれを一瞥しただけで、奥へ進んだ。
椿が横で言う。
「評価が割れていますね」
「当然だ」
「はい」
「見ているものが違う」
討伐数を見る者。
到達階層を見る者。
地図を見る者。
帰還日数を見る者。
同じ探索でも、受け取り方は違う。
黒蘭はその違いも情報として見ていた。
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ギルド奥の部屋では、レオンと大地の記録者のリーダー、ガルドが地図を広げていた。
ガルドは腕を組み、唸っていた。
「悔しいな」
レオンが笑う。
「お前がそう言うとは珍しい」
「悔しいさ」
ガルドは地図を指で叩いた。
「一階の地図なんて、俺達は何度も描いてる」
「だが、こいつらの地図は見方が違う」
「どこがだ」
「退路が太い」
レオンが目を細める。
ガルドは続けた。
「普通の冒険者は、進んだ道を描く」
「採取屋は、採れる場所を描く」
「討伐屋は、敵の出る場所を描く」
「だがこれは違う」
「戻る道を中心に作られてる」
椿は黙って聞いていた。
黒蘭も何も言わない。
ガルドは二人を見る。
「強い奴ほど、帰り道を軽く見る」
「行けるからな」
「だがあんたらは、帰ることを前提に進んでる」
黒蘭は頷いた。
「帰れなければ進んだことにならない」
ガルドは少し笑った。
「その考え方は好きだ」
レオンが黒蘭を見る。
「だが、討伐数が少なすぎるという声もある」
「必要なかった」
「だろうな」
レオンは地図の赤い線を見る。
「この大型個体は?」
「姿は見ていない」
「見ていないのに危険域指定か」
「ああ」
「理由は」
黒蘭は答えた。
「他の魔物が避けている」
「小型の移動が偏っている」
「木の爪痕が高すぎる」
「餌場が分かれている」
「こちらを見ていた気配がある」
レオンは黙る。
ガルドも黙る。
姿を見ず、足跡と森の変化だけで危険域を作る。
それは臆病ではない。
むしろ、迷宮をよく見ている者の判断だった。
レオンは言った。
「討伐依頼にはしない」
「今は調査依頼に留める」
黒蘭は頷く。
「それがいい」
「お前達にも行ってもらう」
「受ける」
「ただし、今回はロイヤルガードにも声をかける」
椿がわずかに視線を上げる。
黒蘭は表情を変えない。
「理由は」
「海都側の安全確認」
レオンは隠さず言った。
「そして、お前達の監視だ」
部屋の空気がわずかに硬くなった。
椿は黙っている。
黒蘭はすぐに答えた。
「妥当だ」
レオンの片眉が上がる。
「怒らないのか」
「怒る理由がない」
黒蘭は淡々と言う。
「俺達は海都では新参」
「武装している」
「目的も全ては話していない」
「なら監視は必要だ」
ガルドが苦笑する。
「自分でそれを言うか」
黒蘭は答えない。
レオンは少しだけ笑った。
「三日後だ」
「第一階層第1階深部、危険域外周調査」
「ロイヤルガードは同行だが、討伐はまだしない」
黒蘭は頷いた。
「分かった」
椿が予定を書き込む。
海都来訪十二日目。
第一階層第1階深部再調査。
ロイヤルガード同行。
大型個体、未確認。
討伐不可。
調査優先。
まだ、ロイヤルガードの実戦は見ていない。
彼らが迷宮でどう戦うのか。
盾をどう使うのか。
後衛をどう守るのか。
黒蘭達は知らない。
だからこそ、次は見る価値がある。
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昼。
ギルドを出ると、リッド達がいた。
リッド。
ファラ。
そして新しい仲間。
青い髪の小柄な少女。
大きな帽子をかぶり、無表情に立っている。
黒蘭はその少女を一度見た。
「増えたな」
リッドは笑った。
「分かるのか!」
ファラが呆れる。
「見れば分かるでしょ」
少女は黒蘭をじっと見ていた。
まばたきが少ない。
黒蘭も見る。
数秒の沈黙。
先に口を開いたのは黒蘭だった。
「術師か」
少女は小さく頷く。
「セレネ」
名前だけ言って黙る。
ファラが補足する。
「ゾディアックです。今日から一緒に潜ることになりました」
黒蘭は頷いた。
「良い判断だ」
リッドの顔が明るくなる。
「お、今の褒めたか!?」
黒蘭はリッドを見る。
「生存率が上がった」
「褒め方が硬い!」
黒薔薇がいれば笑っただろう。
椿は三人を見る。
「今日はどこまで?」
ファラが答える。
「入口周辺です」
リッドが口を開きかける。
ファラが睨む。
リッドは言い直した。
「入口周辺です」
セレネが淡々と言う。
「無理なら帰る」
黒蘭はセレネを見る。
「いい」
リッドはまた顔を明るくした。
「今のは褒めたよな?」
セレネが言う。
「あなたではない」
「俺じゃないの!?」
椿が少しだけ微笑んだ。
「仲間が増えた時ほど、引き返す判断は早くしてください」
リッドは首を傾げる。
「強くなったのに?」
「はい」
椿はまっすぐ答えた。
「誰かの疲れ」
「誰かの怪我」
「誰かの魔力切れ」
「誰かの焦り」
「それらを全て抱えて戻るのが、パーティです」
ファラは真剣に頷いた。
セレネも黙って聞いていた。
リッドは少し考え、頷く。
「分かった」
ファラが小声で言う。
「本当に?」
「本当だって」
セレネが言う。
「観察する」
「信用ないな!」
黒蘭は歩き出す前に一言だけ残した。
「生きて戻れ」
リッドは笑った。
「ああ!」
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午後。
黒蘭達はそれぞれ分かれて、休息日の仕事に入った。
薔薇は鍛冶屋で籠手の調整。
百合は海都内の情報収集。
牡丹はネイピア商会で補給品の選定。
黒蘭と椿は宿で報告書の整理。
椿は地図の写しを並べながら言った。
「次の探索では、ロイヤルガードの動きを見ることになりますね」
黒蘭は頷く。
「ああ」
「模擬戦で見たのは個人」
「次は部隊としての動き」
「はい」
「評価はその後だ」
椿は少しだけ笑った。
「珍しく、判断を保留されるのですね」
「知らないものは判断しない」
「黒蘭様らしいです」
黒蘭は地図から目を離さない。
「海都の戦い方には、海都の理由がある」
「はい」
「それを見ずに決めれば、見誤る」
この時点で、黒蘭達はまだロイヤルガードの実戦を知らない。
盾を構え、後衛を守り、迷宮の大型魔物と向き合う戦い方。
それがどれほど有効なのか。
あるいは、どこに弱点があるのか。
それはまだ、次の探索で見るべきものだった。
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夕方。
リッド達三人は、予定通り早めに戻ってきた。
小さな傷はある。
だが全員歩ける。
リッドは少し誇らしげだった。
「今日はちゃんと帰ったぞ」
ファラが言う。
「当たり前」
セレネが言う。
「予定通り」
リッドは不満そうにする。
「もうちょっと褒めてもよくない?」
ファラは少し笑った。
「まあ、今日は良かった」
セレネも頷く。
「微量より上」
「どのくらい?」
「少量」
「少量かよ!」
三人は笑いながらギルドへ入った。
その姿を、入口近くにいた大地の記録者のガルドが見ていた。
「若いな」
近くの冒険者が言う。
「危なっかしいですね」
「だが、戻った」
ガルドは言った。
「今日はそれで十分だ」
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夜。
宿。
黒蘭達は再び食卓を囲んでいた。
牡丹の作った温かい汁物。
薔薇は籠手を外し、満足げに椀を持つ。
「やっぱり休息日は飯がうまいな」
牡丹が微笑む。
「身体が休みを求めていたのでしょう」
「私はまだ行けたぞ」
「行けることと、行くべきことは違います」
薔薇は黒蘭を見る。
「お前の言い方が移ってるぞ」
黒蘭は答えない。
百合が戻ってきた。
「海都内に、こちらを探る動きがあります」
椿が顔を上げる。
「元老院ですか」
「おそらく」
黒蘭は頷く。
「当然だ」
薔薇が言う。
「また当然か」
「新参の武装集団が六日潜って地図を出した」
「探らない方がおかしい」
百合は少し不満そうにする。
「処理しますか」
「しない」
「なぜ」
「見せる情報を選ぶ」
百合は黙った。
処理するのではなく、利用する。
黒蘭の判断だった。
椿は地図を畳む。
「三日後の探索で、さらに注目されますね」
「ああ」
「ロイヤルガード同行」
「大型個体未確認」
「危険域調査」
黒蘭は椀を置いた。
「次は、海都に見せる探索になる」
薔薇が笑う。
「見世物か?」
「違う」
「では?」
「相互確認だ」
黒蘭は窓の外を見る。
海都の灯りが揺れている。
「彼らが俺達を見る」
「俺達も彼らを見る」
「迷宮も、両方を見る」
その言葉に、誰も返さなかった。
世界樹の迷宮は、まだ第一階層の第1階相当。
彼らはまだ入口を歩いているにすぎない。
だが、その入口でさえ、海都の者と黒華の者の違いを浮かび上がらせていた。
三日後。
黒華の五人は初めて、海都の盾が迷宮でどう戦うのかを見る。
そして海都もまた、黒華の黒が何を見て、何を選ぶのかを知ることになる。
第五話 了