海都来訪十六日目。
世界樹の迷宮、第一階層十六階。
黒華五刀は、朝の薄い光の中を進んでいた。
地上であれば、港に漁船が戻り、商人が店を開き、冒険者達がギルドの掲示板を囲み始める頃だろう。
しかし迷宮の奥では、朝という言葉にあまり意味がない。
頭上には枝葉が重なり、陽光は幾重にも裂かれて落ちる。土は湿り、空気は重く、遠くの水音が絶えず耳に残る。
時間を知るものは太陽ではなく、腹の減り、疲労、荷の残量、そして集中力だった。
黒蘭は足を止め、地面へ視線を落とした。
泥に残った跡。
小型の魔物。
鳥型。
蛙型。
そして、それらとは明らかに違う、深く大きな擦過痕。
「ここから変わる」
黒蘭が言った。
声は低く、静かだった。
だが五人全員が止まる。
黒華椿が地図を広げた。
「十六階中央域。前回確認した植生境界より奥ですね」
「そうだ」
黒牡丹が膝をつき、土を指先で崩す。
「水分量が増えています。植物も変わっていますね。毒性を持つものが混ざっている可能性があります」
黒百合は木の上へ跳び、周囲を見渡す。
「視界不良。上層に鳥型の気配。数は少ないです」
黒薔薇は籠手を鳴らした。
「ようやく迷宮らしくなってきたな」
牡丹が穏やかに言う。
「薔薇様。嬉しそうに言うことではありません」
「嬉しそうだったか?」
「はい」
「では少しだけだ」
百合が木から降りながら短く言った。
「多めです」
薔薇は顔をしかめる。
「お前、最近よく刺してくるな」
「事実です」
椿が小さく息を吐いた。
「お二人とも。進行前です」
その声で場が整う。
大声ではない。
しかし、通る。
黒蘭は椿を見た。
椿は地図を片手に、刀の柄へ巻いた黒布を結び直している。戦場で鍛えられた声は、今では静かに響く。かつて声を枯らし、叫び続けていた少女を知る者は、この海都にはいない。
「進行速度を落とします」
椿が言った。
「薔薇、足場確認を優先。百合は上層索敵。牡丹は植物を確認。黒蘭様は……」
そこで一瞬だけ言葉が止まる。
黒蘭は短く答えた。
「全体を見る」
「はい」
誰も異論を挟まない。
ここでは椿が前線を動かす。
黒蘭は全体を見る。
その形に、五人は慣れていた。
---
十六階の森は、これまでの階とは違っていた。
一階から十階までは、新人を殺す森だった。
水辺に潜む魚。
跳躍する蛙。
獲物を狙う獣。
だが、ここは違う。
魔物だけではない。
森そのものが、進む者の体力を削る。
足元の泥は重く、靴底を奪う。
湿った葉は肌に触れるだけで痒みを残す。
木の根は水に隠れ、踏めば足を取られる。
見える危険より、見えない消耗が多い。
黒蘭はそれを好まなかった。
戦場でも同じだ。
派手な敵将より、ぬかるんだ道の方が兵を殺すことがある。
「牡丹」
「はい」
「靴底」
「二日以内に補修が必要です」
「今夜見る」
「承知しました」
「椿」
「はい」
「この階は、往路と復路で別の道を使うな」
「同じ道で戻る、ということですね」
「そうだ。道が足を覚える」
椿はすぐに地図へ記した。
薔薇が横から聞く。
「道が足を覚える?」
黒蘭は答える。
「一度通った泥は、二度目には沈み方が分かる」
「逆に、違う道へ逃げれば足元で死ぬ」
薔薇は泥を見た。
「なるほどな」
百合が静かに言う。
「追われた時ほど、初見の道は危険」
「そうだ」
黒蘭は一歩進み、木の幹に触れた。
爪痕。
小さい。
だが数が多い。
「小型が逃げている」
椿が地図に印を付ける。
「階層主の影響でしょうか」
「まだ分からん」
「はい」
黒蘭は、分からない、という言葉をためらわない。
知らないものは知らない。
それを認めるから、次を見る。
薔薇はその背を見ながら、少しだけ笑った。
昔からそうだ。
誰より先に斬れるくせに、誰より先に疑う。
---
昼前。
最初の接敵は鳥型の魔物だった。
枝の間から、音もなく落ちてくる。
羽音は小さい。
狙いは椿。
指揮役を狙ったのではない。
単に、中央にいたからだろう。
しかし黒華五刀にとって、中央を取られることは許されない。
「上」
百合の声。
椿が動くより早く、薔薇が入った。
籠手が爪を受ける。
いや、流す。
鳥型の魔物は軌道を逸らされ、黒蘭の前へ落ちた。
黒蘭は刀を抜かない。
鞘の端で羽の付け根を打つ。
魔物は地面へ転がる。
「殺さないのか?」
薔薇が問う。
「見る」
黒蘭はしゃがみ、羽を確認した。
骨格。
筋肉。
関節。
人ではない。
獣でも、黒華の地穴で見たものとも違う。
牡丹が横へ来る。
「羽の付け根が弱いですね」
「首では止まらない」
「はい。首が太く、骨が深い」
百合が短刀を構えたまま周囲を見る。
「群れではありません」
椿が記録する。
「鳥型。羽関節有効。首部攻撃は不確実」
薔薇は呆れたように言う。
「一体倒すのにも調べるな」
黒蘭は立ち上がった。
「次は早い」
薔薇は黙る。
確かにそうだった。
一度見れば、次は迷わない。
この男は、敵を倒しながら戦っているのではない。
敵を知ってから倒している。
だから、次が速い。
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その後、同型の鳥が二体現れた。
黒蘭は動かなかった。
椿の指示が飛ぶ。
「百合、右を落として。薔薇、左。牡丹は毒を使わず」
百合の短刀が羽を裂く。
薔薇の籠手が爪を逸らす。
牡丹の針が足の腱を止める。
二体はほとんど音もなく地に落ちた。
黒蘭はそれを見て頷いた。
「十分だ」
薔薇が笑う。
「将軍の許可が出たぞ」
椿が少しだけ眉を上げる。
「薔薇」
「怒るなって」
牡丹は微笑んだ。
百合は何も言わない。
五人は進む。
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その頃、海都のギルドでは、リッド達が掲示板の前にいた。
黒華五刀。
十五階到達。
十六階以降探索中。
その文字を、リッドはじっと見ていた。
「また進んでる」
ファラは隣で言った。
「見すぎ」
「だって気になるだろ」
「気になるけど、見ても追いつかない」
セレネが淡々と言う。
「比較対象が違う」
リッドは少し口を尖らせた。
「それ、最近何回も聞いた」
「必要だから」
「俺だって分かってるよ」
セレネはリッドを見た。
「分かってる顔ではない」
「どんな顔だよ」
ファラが小さく笑う。
以前なら、リッドはもっと焦っていた。
同じ日に登録したはずなのに、黒蘭達は遠くへ進んでいる。
その差に苛立ち、無茶を言い出していただろう。
でも、今は違う。
焦りはある。
悔しさもある。
それでも、彼は帰ることを覚え始めていた。
その変化を、ファラは一番近くで見ていた。
「今日は三階まで」
ファラが言う。
「四階は?」
「三階まで」
「少しだけ」
「三階まで」
セレネも言う。
「三階まで」
リッドは両手を上げた。
「分かったよ。三階まで」
その時、後ろから声がした。
「それでいい」
振り返ると、大地の記録者のガルドが立っていた。
「お前達はまだ、戻る練習をする時期だ」
リッドは苦笑する。
「戻る練習って、地味ですね」
ガルドは笑った。
「地味なことができる奴から深く潜る」
掲示板の黒華五刀の札を見る。
「あいつらは派手に見えるが、やってることは地味だ」
「そうなんですか?」
「ああ。六日潜って地図。魔物を無駄に狩らず、道を測り、帰路を残す。派手な強さの下で、地味なことを徹底してる」
リッドはもう一度掲示板を見た。
黒蘭の背中が浮かぶ。
強い。
圧倒的に強い。
でも、ガルドの言葉で少し見え方が変わる。
あの人はただ強いから進んでいるのではない。
帰れるから進んでいる。
「……俺達も地図、ちゃんと描こう」
リッドが言った。
ファラが目を丸くする。
「今までちゃんと描いてなかった自覚あったの?」
「いや、そこまで言わなくても」
セレネが小さく言う。
「成長」
リッドは少し嬉しそうにした。
「お、今のは褒めたな?」
「微量」
「また微量かよ」
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十七階。
黒華五刀は、水の音が増えた場所へ出た。
足元の泥は浅くなり、代わりに水路が複雑に走っている。
魚型の魔物が水面近くを泳ぎ、こちらを窺っていた。
薔薇が刀へ手を置く。
「多いな」
牡丹が水を覗く。
「群れています。縄張りというより、追い込まれているようにも見えます」
椿が黒蘭を見る。
「階層主の影響でしょうか」
黒蘭は水面を見る。
「可能性はある」
百合が言う。
「奥から流れてきた個体もいます」
「証拠は」
「傷」
百合が指差す。
魚型の魔物の一部に、古い傷がある。
噛み傷ではない。
擦り切れたような傷。
黒蘭は頷いた。
「大きなものが動いた跡だ」
椿は地図へ線を引く。
「水路の支配者」
「おそらく二十階」
「はい」
薔薇が少し笑った。
「いよいよだな」
黒蘭は言う。
「まだだ」
「まだ?」
「相手の形が分からない」
「水中にいるのは分かるだろ」
「水中にいる敵と、水中を使う敵は違う」
薔薇は一瞬黙った。
「……なるほど」
黒蘭は続けた。
「陸へ出るか」
「潜るだけか」
「誘い込むのか」
「逃げるのか」
「それで戦い方が変わる」
椿は静かに記録する。
牡丹は水辺の草を確認する。
百合は上層。
薔薇は前へ出ず、黒蘭の横で水面を見た。
彼女は戦うのが好きだ。
強敵を見ると血が騒ぐ。
だが、命令を聞けない武人ではない。
戦場で生き残る者は、熱を持ちながら冷えることを覚える。
薔薇はそれができる。
だから黒蘭は彼女を前に置く。
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その日の夕刻。
黒華五刀は十九階手前の小さな高台に陣を取った。
水場から離れ、背後には太い根がある。
正面は狭い。
奇襲されにくい。
ただし火は小さい。
牡丹が用意した食事は、簡素だった。
干し飯。
塩。
少量の魚。
薬草を煮出した湯。
薔薇は椀を覗き込む。
「今日は薄いな」
牡丹は微笑む。
「明日、重い戦闘の可能性がありますので」
「腹を満たした方が動けるんじゃないか?」
「満たしすぎると鈍ります」
百合が言う。
「薔薇は満たすと寝ます」
「寝ない」
「寝ます」
「たまにだ」
椿が小さく笑った。
黒蘭は地図を見ていた。
水路。
逃げ道。
足場。
湿地。
高台。
十九階から二十階へ続く推定経路。
「明日」
椿が言う。
「二十階へ?」
「ああ」
「交戦は」
「避けられなければ」
薔薇が言う。
「たぶん避けられないぞ」
「だろうな」
「じゃあ戦うんだな」
黒蘭は地図から顔を上げた。
「戦う」
薔薇は嬉しそうに笑った。
だが黒蘭は続けた。
「ただし、最初から殺しに行かない」
「何でだ」
「見る」
薔薇は少し呆れた。
「階層主まで見てからか」
「そうだ」
牡丹が静かに言った。
「次の階層以降のためですね」
黒蘭は頷く。
「この迷宮の主がどういうものか」
「一度見なければ、次も分からない」
椿はその言葉を書いた。
黒蘭は勝つつもりでいる。
それは当然だ。
だが同時に、勝った後を見ている。
二十階で終わりではない。
この世界樹は百階まで続く。
一つの勝利に酔うには、あまりにも先が長い。
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夜。
見張りは百合だった。
だが黒蘭も起きていた。
百合は横目で見る。
「寝てください」
「少し寝た」
「牡丹様に報告します」
「それは困る」
百合は少しだけ眉を動かした。
ほとんど表情のない彼女にしては、珍しい反応だった。
「困るのですか」
「ああ」
「なら寝てください」
「……分かった」
黒蘭は素直に横になる。
百合は森を見る。
不思議な人だと、百合は思う。
誰より強い。
誰より前に出られる。
誰より多くを背負える。
それなのに、自分の価値を知らない。
黒号を賜った者がどれほどの存在か。
黒蘭だけが分かっていない。
だから危うい。
だから目を離せない。
百合は闇を見る。
森の奥。
水音。
深い泥。
そこにいる階層主。
明日、黒蘭が刀を抜く。
それは敵にとって不幸だろう。
だが百合は知っている。
黒蘭が本当に恐ろしいのは、刀を抜いた時ではない。
刀を抜く前に、すでに勝つ形を作っている時だ。
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海都来訪十七日目。
世界樹の迷宮。
第一階層十九階。
黒華五刀は、日の昇る前から動き始めていた。
もっとも、迷宮の中で日の出を確認することは難しい。
厚い枝葉。
湿った空気。
深い森。
ここで時間を知らせるものは空ではない。
身体だった。
眠気。
疲労。
空腹。
集中力。
それらを管理できない者から、迷宮に飲まれる。
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黒牡丹は荷を確認していた。
食糧。
水。
薬。
毒。
治療道具。
予備の刃。
布。
縄。
一つずつ確認していく。
黒薔薇はそれを眺めながら言った。
「毎回思うけど、よく全部覚えてるな」
牡丹は微笑む。
「薔薇様も刀の状態は覚えているでしょう?」
「まあな」
「同じです」
「同じか?」
薔薇は大量の荷を見る。
「私には無理だな」
黒百合が横から言う。
「自覚があるのは良いことです」
「百合」
「何ですか」
「最近、私への扱いが雑じゃないか?」
「昔からです」
「そうだったか?」
「はい」
即答。
椿が小さく笑う。
黒華時代では考えられない光景だった。
黒を持つ者達。
戦場では恐れられ、兵からは憧れられた存在。
そんな彼らが、迷宮の中でくだらない話をしている。
それだけで、少し不思議だった。
---
「椿」
黒蘭が声をかける。
「はい」
「身体は」
「問題ありません」
即答。
だが黒蘭は見る。
顔色。
声。
動作。
刀の位置。
呼吸。
数秒。
「今日は号令を一段落とせ」
椿が目を丸くする。
「……気付かれましたか」
「少し声が低い」
薔薇が振り返る。
「え?」
「椿、疲れてるのか?」
「疲れているというほどではありません」
「昨日、水辺で少し喉を冷やしただけです」
牡丹が近づく。
「なぜ言わないのですか」
椿は少し気まずそうにする。
「戦闘には影響ありません」
「それは答えではありません」
牡丹の笑顔。
しかし圧。
椿は目を逸らした。
黒華の姫。
戦場で猛獣姫と呼ばれた少女。
それでも牡丹には弱かった。
---
黒蘭は言った。
「椿」
「はい」
「お前の声は武器だ」
「……」
「刀の刃こぼれを隠す武人はいない」
「はい」
椿は静かに頷いた。
叱責ではない。
黒蘭は怒っていない。
ただ事実を言った。
だからこそ響く。
---
薔薇が少し笑う。
「懐かしいな」
椿が嫌な予感を覚える。
「何がですか」
「昔のお前」
「薔薇」
「最初、声全然届かなかったよな」
椿の表情が固まる。
「その話は」
「戦場の真ん中で必死に叫んで」
「薔薇」
「声枯らして」
「薔薇」
「最後は猛獣みたいに」
「黒薔薇」
呼び方が変わった。
薔薇は止まる。
椿は笑っていた。
しかし目が笑っていない。
百合が言う。
「撤退推奨」
牡丹も頷く。
「ですね」
薔薇は咳払いした。
「まあ」
「努力したって話だ」
椿は顔を赤くして、小さく言った。
「……あの呼び名は嫌いです」
黒蘭は地図を見ていた。
だが。
少しだけ口元が緩んでいた。
---
十九階。
進行開始。
水辺が増える。
木々は減り、湿地が広がる。
そして。
魔物が少ない。
それが何より異常だった。
薔薇が言う。
「静かだな」
百合が答える。
「逃げています」
「何から?」
聞くまでもない。
この先にいるもの。
第一階層の主。
ナルメル。
---
牡丹が水を見る。
「支配型ですね」
椿が尋ねる。
「支配型?」
「強い魔物にも種類があります」
牡丹は説明する。
「ただ暴れるもの」
「狩りをするもの」
「縄張りを管理するもの」
黒蘭が続ける。
「今回は三つ目」
「はい」
「だから周辺に一定数の魔物は残っている」
椿は理解する。
「全て殺しているわけではない」
「そうだ」
黒蘭は言った。
「ただの怪物ではない」
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その言葉に薔薇が笑う。
「敵を褒めるの好きだな」
「事実だ」
「普通は倒す相手をそんな風に見ない」
「だから負ける」
即答だった。
「敵を下に見れば、見えるものも見えない」
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昼前。
二十階入口。
巨大な水場。
湖と言ってもいい広さだった。
中央には島。
その周囲を水路が囲む。
明らかだった。
戦場。
自然にできたものか。
魔物が作ったものか。
分からない。
だが。
ここで戦うようになっている。
---
「嫌な場所ですね」
牡丹が言う。
「逃げ道が限定されています」
百合。
「水中から奇襲可能」
薔薇。
「正面から来る気はなさそうだな」
椿。
「こちらの陣形を崩す場所」
黒蘭は頷く。
「だから主だ」
四人が見る。
「自分が勝てる場所で戦う」
「当然の判断だ」
---
黒蘭は刀を抜かない。
まず歩いた。
水辺へ。
一歩。
二歩。
水面を見る。
静か。
あまりにも静か。
薔薇が小声で言う。
「来るぞ」
黒蘭は答える。
「ああ」
次の瞬間。
水面が爆ぜた。
---
巨大な影。
水柱。
牙。
第一階層の王。
ナルメル。
現れる。
---
速い。
巨体から想像できない速度。
狙いは黒蘭。
だが。
間に薔薇が入る。
籠手。
衝突。
鈍い音。
薔薇の足が沈む。
「っ……」
押された。
黒薔薇が。
王を守った盾。
いや、盾を持たぬ守護者。
その彼女が力負けした。
---
薔薇は笑った。
「いいな」
「重い」
黒蘭が言う。
「下がれ」
「まだいける」
「確認は終わった」
薔薇は一瞬止まる。
そして下がる。
命令だからではない。
判断を理解したから。
---
椿の刀が地面に刺さる。
柄布が広がる。
黒い旗。
「陣を整えます」
声。
響く。
昨日より少し抑えた声。
それでも十分。
黒華の兵を導いた声。
---
牡丹が動く。
短刀。
毒。
しかし深く刺さない。
皮膚を見る。
硬度を見る。
百合は術を放つ。
火。
氷。
雷。
反応を見る。
攻撃ではない。
解析。
ナルメルは怒る。
水中へ潜る。
---
薔薇が言う。
「来るぞ」
水面。
静か。
どこから来るか分からない。
普通なら。
待つ。
だが。
黒蘭は歩いた。
「黒蘭様?」
椿が見る。
黒蘭は水を見る。
波。
泥。
泡。
流れ。
「そこか」
刀を抜く。
一閃。
水面。
血。
---
ナルメルが飛び出した。
百合ですら一瞬遅れた。
薔薇が笑う。
「相変わらず意味分からないな」
黒蘭は答える。
「見えた」
「普通は見えない」
「そうか」
本気で言っている。
---
ナルメルは距離を取る。
初めて。
警戒した。
この小さな生き物を。
敵だと認識した。
---
黒蘭は刀を構えた。
二刀。
静か。
殺気はない。
怒りもない。
ただ。
斬る準備。
---
薔薇が呟く。
「終わるな」
椿も分かっていた。
ここから先。
黒蘭の間合い。
それは。
人でも。
魔物でも。
変わらない。
---
ナルメルが突進する。
巨大な牙。
質量。
速度。
普通なら受けられない。
黒蘭は避けない。
半歩。
ずれる。
一刀目。
斬る。
二刀目。
斬る。
回る。
さらに斬る。
---
一撃。
二撃。
三撃。
四撃。
ナルメルが反撃する。
尾。
黒蘭は刀で逸らす。
受けない。
流す。
そして。
五撃。
六撃。
七撃。
八撃。
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一瞬だった。
技ではない。
構えでもない。
必殺でもない。
ただの斬撃。
しかし。
黒華最強の将の通常。
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ナルメルの巨体が沈む。
水面が赤く染まる。
第一階層の王。
討伐。
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沈黙。
最初に口を開いたのは薔薇だった。
「相変わらずだな」
黒蘭は刀を払う。
「何が」
「奥義より普通に斬った方が強いところ」
「隙が少ない」
「そういう問題か?」
黒蘭は答えない。
---
椿はナルメルを見る。
「黒蘭様」
「何だ」
「評価は」
少し間。
黒蘭は答える。
「強かった」
薔薇が笑う。
「本気か?」
「ああ」
「一瞬だったぞ」
黒蘭は首を振る。
「初めてだから勝てた」
「?」
「相手は俺を知らなかった」
「俺も相手を知らなかった」
「今回は俺が先に理解しただけだ」
---
椿はその言葉を記録した。
勝利ではない。
情報。
黒蘭にとって、戦いとはそういうものだった。
---
第一階層二十階。
階層主ナルメル討伐。
黒華五刀。
海都到着から十七日目。
しかし。
この報告が海都にもたらす衝撃を。
五人はまだ知らなかった。
第八話 了