亡国の黒将と世界樹の迷宮   作:清海深々

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第八刀 第一階層突破

 

海都来訪十六日目。

 

世界樹の迷宮、第一階層十六階。

 

黒華五刀は、朝の薄い光の中を進んでいた。

 

地上であれば、港に漁船が戻り、商人が店を開き、冒険者達がギルドの掲示板を囲み始める頃だろう。

 

しかし迷宮の奥では、朝という言葉にあまり意味がない。

 

頭上には枝葉が重なり、陽光は幾重にも裂かれて落ちる。土は湿り、空気は重く、遠くの水音が絶えず耳に残る。

 

時間を知るものは太陽ではなく、腹の減り、疲労、荷の残量、そして集中力だった。

 

黒蘭は足を止め、地面へ視線を落とした。

 

泥に残った跡。

 

小型の魔物。

 

鳥型。

 

蛙型。

 

そして、それらとは明らかに違う、深く大きな擦過痕。

 

「ここから変わる」

 

黒蘭が言った。

 

声は低く、静かだった。

 

だが五人全員が止まる。

 

黒華椿が地図を広げた。

 

「十六階中央域。前回確認した植生境界より奥ですね」

 

「そうだ」

 

黒牡丹が膝をつき、土を指先で崩す。

 

「水分量が増えています。植物も変わっていますね。毒性を持つものが混ざっている可能性があります」

 

黒百合は木の上へ跳び、周囲を見渡す。

 

「視界不良。上層に鳥型の気配。数は少ないです」

 

黒薔薇は籠手を鳴らした。

 

「ようやく迷宮らしくなってきたな」

 

牡丹が穏やかに言う。

 

「薔薇様。嬉しそうに言うことではありません」

 

「嬉しそうだったか?」

 

「はい」

 

「では少しだけだ」

 

百合が木から降りながら短く言った。

 

「多めです」

 

薔薇は顔をしかめる。

 

「お前、最近よく刺してくるな」

 

「事実です」

 

椿が小さく息を吐いた。

 

「お二人とも。進行前です」

 

その声で場が整う。

 

大声ではない。

 

しかし、通る。

 

黒蘭は椿を見た。

 

椿は地図を片手に、刀の柄へ巻いた黒布を結び直している。戦場で鍛えられた声は、今では静かに響く。かつて声を枯らし、叫び続けていた少女を知る者は、この海都にはいない。

 

「進行速度を落とします」

 

椿が言った。

 

「薔薇、足場確認を優先。百合は上層索敵。牡丹は植物を確認。黒蘭様は……」

 

そこで一瞬だけ言葉が止まる。

 

黒蘭は短く答えた。

 

「全体を見る」

 

「はい」

 

誰も異論を挟まない。

 

ここでは椿が前線を動かす。

 

黒蘭は全体を見る。

 

その形に、五人は慣れていた。

 

---

 

十六階の森は、これまでの階とは違っていた。

 

一階から十階までは、新人を殺す森だった。

 

水辺に潜む魚。

 

跳躍する蛙。

 

獲物を狙う獣。

 

だが、ここは違う。

 

魔物だけではない。

 

森そのものが、進む者の体力を削る。

 

足元の泥は重く、靴底を奪う。

 

湿った葉は肌に触れるだけで痒みを残す。

 

木の根は水に隠れ、踏めば足を取られる。

 

見える危険より、見えない消耗が多い。

 

黒蘭はそれを好まなかった。

 

戦場でも同じだ。

 

派手な敵将より、ぬかるんだ道の方が兵を殺すことがある。

 

「牡丹」

 

「はい」

 

「靴底」

 

「二日以内に補修が必要です」

 

「今夜見る」

 

「承知しました」

 

「椿」

 

「はい」

 

「この階は、往路と復路で別の道を使うな」

 

「同じ道で戻る、ということですね」

 

「そうだ。道が足を覚える」

 

椿はすぐに地図へ記した。

 

薔薇が横から聞く。

 

「道が足を覚える?」

 

黒蘭は答える。

 

「一度通った泥は、二度目には沈み方が分かる」

 

「逆に、違う道へ逃げれば足元で死ぬ」

 

薔薇は泥を見た。

 

「なるほどな」

 

百合が静かに言う。

 

「追われた時ほど、初見の道は危険」

 

「そうだ」

 

黒蘭は一歩進み、木の幹に触れた。

 

爪痕。

 

小さい。

 

だが数が多い。

 

「小型が逃げている」

 

椿が地図に印を付ける。

 

「階層主の影響でしょうか」

 

「まだ分からん」

 

「はい」

 

黒蘭は、分からない、という言葉をためらわない。

 

知らないものは知らない。

 

それを認めるから、次を見る。

 

薔薇はその背を見ながら、少しだけ笑った。

 

昔からそうだ。

 

誰より先に斬れるくせに、誰より先に疑う。

 

---

 

昼前。

 

最初の接敵は鳥型の魔物だった。

 

枝の間から、音もなく落ちてくる。

 

羽音は小さい。

 

狙いは椿。

 

指揮役を狙ったのではない。

 

単に、中央にいたからだろう。

 

しかし黒華五刀にとって、中央を取られることは許されない。

 

「上」

 

百合の声。

 

椿が動くより早く、薔薇が入った。

 

籠手が爪を受ける。

 

いや、流す。

 

鳥型の魔物は軌道を逸らされ、黒蘭の前へ落ちた。

 

黒蘭は刀を抜かない。

 

鞘の端で羽の付け根を打つ。

 

魔物は地面へ転がる。

 

「殺さないのか?」

 

薔薇が問う。

 

「見る」

 

黒蘭はしゃがみ、羽を確認した。

 

骨格。

 

筋肉。

 

関節。

 

人ではない。

 

獣でも、黒華の地穴で見たものとも違う。

 

牡丹が横へ来る。

 

「羽の付け根が弱いですね」

 

「首では止まらない」

 

「はい。首が太く、骨が深い」

 

百合が短刀を構えたまま周囲を見る。

 

「群れではありません」

 

椿が記録する。

 

「鳥型。羽関節有効。首部攻撃は不確実」

 

薔薇は呆れたように言う。

 

「一体倒すのにも調べるな」

 

黒蘭は立ち上がった。

 

「次は早い」

 

薔薇は黙る。

 

確かにそうだった。

 

一度見れば、次は迷わない。

 

この男は、敵を倒しながら戦っているのではない。

 

敵を知ってから倒している。

 

だから、次が速い。

 

---

 

その後、同型の鳥が二体現れた。

 

黒蘭は動かなかった。

 

椿の指示が飛ぶ。

 

「百合、右を落として。薔薇、左。牡丹は毒を使わず」

 

百合の短刀が羽を裂く。

 

薔薇の籠手が爪を逸らす。

 

牡丹の針が足の腱を止める。

 

二体はほとんど音もなく地に落ちた。

 

黒蘭はそれを見て頷いた。

 

「十分だ」

 

薔薇が笑う。

 

「将軍の許可が出たぞ」

 

椿が少しだけ眉を上げる。

 

「薔薇」

 

「怒るなって」

 

牡丹は微笑んだ。

 

百合は何も言わない。

 

五人は進む。

 

---

 

その頃、海都のギルドでは、リッド達が掲示板の前にいた。

 

黒華五刀。

 

十五階到達。

 

十六階以降探索中。

 

その文字を、リッドはじっと見ていた。

 

「また進んでる」

 

ファラは隣で言った。

 

「見すぎ」

 

「だって気になるだろ」

 

「気になるけど、見ても追いつかない」

 

セレネが淡々と言う。

 

「比較対象が違う」

 

リッドは少し口を尖らせた。

 

「それ、最近何回も聞いた」

 

「必要だから」

 

「俺だって分かってるよ」

 

セレネはリッドを見た。

 

「分かってる顔ではない」

 

「どんな顔だよ」

 

ファラが小さく笑う。

 

以前なら、リッドはもっと焦っていた。

 

同じ日に登録したはずなのに、黒蘭達は遠くへ進んでいる。

 

その差に苛立ち、無茶を言い出していただろう。

 

でも、今は違う。

 

焦りはある。

 

悔しさもある。

 

それでも、彼は帰ることを覚え始めていた。

 

その変化を、ファラは一番近くで見ていた。

 

「今日は三階まで」

 

ファラが言う。

 

「四階は?」

 

「三階まで」

 

「少しだけ」

 

「三階まで」

 

セレネも言う。

 

「三階まで」

 

リッドは両手を上げた。

 

「分かったよ。三階まで」

 

その時、後ろから声がした。

 

「それでいい」

 

振り返ると、大地の記録者のガルドが立っていた。

 

「お前達はまだ、戻る練習をする時期だ」

 

リッドは苦笑する。

 

「戻る練習って、地味ですね」

 

ガルドは笑った。

 

「地味なことができる奴から深く潜る」

 

掲示板の黒華五刀の札を見る。

 

「あいつらは派手に見えるが、やってることは地味だ」

 

「そうなんですか?」

 

「ああ。六日潜って地図。魔物を無駄に狩らず、道を測り、帰路を残す。派手な強さの下で、地味なことを徹底してる」

 

リッドはもう一度掲示板を見た。

 

黒蘭の背中が浮かぶ。

 

強い。

 

圧倒的に強い。

 

でも、ガルドの言葉で少し見え方が変わる。

 

あの人はただ強いから進んでいるのではない。

 

帰れるから進んでいる。

 

「……俺達も地図、ちゃんと描こう」

 

リッドが言った。

 

ファラが目を丸くする。

 

「今までちゃんと描いてなかった自覚あったの?」

 

「いや、そこまで言わなくても」

 

セレネが小さく言う。

 

「成長」

 

リッドは少し嬉しそうにした。

 

「お、今のは褒めたな?」

 

「微量」

 

「また微量かよ」

 

---

 

十七階。

 

黒華五刀は、水の音が増えた場所へ出た。

 

足元の泥は浅くなり、代わりに水路が複雑に走っている。

 

魚型の魔物が水面近くを泳ぎ、こちらを窺っていた。

 

薔薇が刀へ手を置く。

 

「多いな」

 

牡丹が水を覗く。

 

「群れています。縄張りというより、追い込まれているようにも見えます」

 

椿が黒蘭を見る。

 

「階層主の影響でしょうか」

 

黒蘭は水面を見る。

 

「可能性はある」

 

百合が言う。

 

「奥から流れてきた個体もいます」

 

「証拠は」

 

「傷」

 

百合が指差す。

 

魚型の魔物の一部に、古い傷がある。

 

噛み傷ではない。

 

擦り切れたような傷。

 

黒蘭は頷いた。

 

「大きなものが動いた跡だ」

 

椿は地図へ線を引く。

 

「水路の支配者」

 

「おそらく二十階」

 

「はい」

 

薔薇が少し笑った。

 

「いよいよだな」

 

黒蘭は言う。

 

「まだだ」

 

「まだ?」

 

「相手の形が分からない」

 

「水中にいるのは分かるだろ」

 

「水中にいる敵と、水中を使う敵は違う」

 

薔薇は一瞬黙った。

 

「……なるほど」

 

黒蘭は続けた。

 

「陸へ出るか」

 

「潜るだけか」

 

「誘い込むのか」

 

「逃げるのか」

 

「それで戦い方が変わる」

 

椿は静かに記録する。

 

牡丹は水辺の草を確認する。

 

百合は上層。

 

薔薇は前へ出ず、黒蘭の横で水面を見た。

 

彼女は戦うのが好きだ。

 

強敵を見ると血が騒ぐ。

 

だが、命令を聞けない武人ではない。

 

戦場で生き残る者は、熱を持ちながら冷えることを覚える。

 

薔薇はそれができる。

 

だから黒蘭は彼女を前に置く。

 

---

 

その日の夕刻。

 

黒華五刀は十九階手前の小さな高台に陣を取った。

 

水場から離れ、背後には太い根がある。

 

正面は狭い。

 

奇襲されにくい。

 

ただし火は小さい。

 

牡丹が用意した食事は、簡素だった。

 

干し飯。

 

塩。

 

少量の魚。

 

薬草を煮出した湯。

 

薔薇は椀を覗き込む。

 

「今日は薄いな」

 

牡丹は微笑む。

 

「明日、重い戦闘の可能性がありますので」

 

「腹を満たした方が動けるんじゃないか?」

 

「満たしすぎると鈍ります」

 

百合が言う。

 

「薔薇は満たすと寝ます」

 

「寝ない」

 

「寝ます」

 

「たまにだ」

 

椿が小さく笑った。

 

黒蘭は地図を見ていた。

 

水路。

 

逃げ道。

 

足場。

 

湿地。

 

高台。

 

十九階から二十階へ続く推定経路。

 

「明日」

 

椿が言う。

 

「二十階へ?」

 

「ああ」

 

「交戦は」

 

「避けられなければ」

 

薔薇が言う。

 

「たぶん避けられないぞ」

 

「だろうな」

 

「じゃあ戦うんだな」

 

黒蘭は地図から顔を上げた。

 

「戦う」

 

薔薇は嬉しそうに笑った。

 

だが黒蘭は続けた。

 

「ただし、最初から殺しに行かない」

 

「何でだ」

 

「見る」

 

薔薇は少し呆れた。

 

「階層主まで見てからか」

 

「そうだ」

 

牡丹が静かに言った。

 

「次の階層以降のためですね」

 

黒蘭は頷く。

 

「この迷宮の主がどういうものか」

 

「一度見なければ、次も分からない」

 

椿はその言葉を書いた。

 

黒蘭は勝つつもりでいる。

 

それは当然だ。

 

だが同時に、勝った後を見ている。

 

二十階で終わりではない。

 

この世界樹は百階まで続く。

 

一つの勝利に酔うには、あまりにも先が長い。

 

---

 

夜。

 

見張りは百合だった。

 

だが黒蘭も起きていた。

 

百合は横目で見る。

 

「寝てください」

 

「少し寝た」

 

「牡丹様に報告します」

 

「それは困る」

 

百合は少しだけ眉を動かした。

 

ほとんど表情のない彼女にしては、珍しい反応だった。

 

「困るのですか」

 

「ああ」

 

「なら寝てください」

 

「……分かった」

 

黒蘭は素直に横になる。

 

百合は森を見る。

 

不思議な人だと、百合は思う。

 

誰より強い。

 

誰より前に出られる。

 

誰より多くを背負える。

 

それなのに、自分の価値を知らない。

 

黒号を賜った者がどれほどの存在か。

 

黒蘭だけが分かっていない。

 

だから危うい。

 

だから目を離せない。

 

百合は闇を見る。

 

森の奥。

 

水音。

 

深い泥。

 

そこにいる階層主。

 

明日、黒蘭が刀を抜く。

 

それは敵にとって不幸だろう。

 

だが百合は知っている。

 

黒蘭が本当に恐ろしいのは、刀を抜いた時ではない。

 

刀を抜く前に、すでに勝つ形を作っている時だ。

 

 

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海都来訪十七日目。

 

世界樹の迷宮。

 

第一階層十九階。

 

黒華五刀は、日の昇る前から動き始めていた。

 

もっとも、迷宮の中で日の出を確認することは難しい。

 

厚い枝葉。

 

湿った空気。

 

深い森。

 

ここで時間を知らせるものは空ではない。

 

身体だった。

 

眠気。

 

疲労。

 

空腹。

 

集中力。

 

それらを管理できない者から、迷宮に飲まれる。

 

---

 

黒牡丹は荷を確認していた。

 

食糧。

 

水。

 

薬。

 

毒。

 

治療道具。

 

予備の刃。

 

布。

 

縄。

 

一つずつ確認していく。

 

黒薔薇はそれを眺めながら言った。

 

「毎回思うけど、よく全部覚えてるな」

 

牡丹は微笑む。

 

「薔薇様も刀の状態は覚えているでしょう?」

 

「まあな」

 

「同じです」

 

「同じか?」

 

薔薇は大量の荷を見る。

 

「私には無理だな」

 

黒百合が横から言う。

 

「自覚があるのは良いことです」

 

「百合」

 

「何ですか」

 

「最近、私への扱いが雑じゃないか?」

 

「昔からです」

 

「そうだったか?」

 

「はい」

 

即答。

 

椿が小さく笑う。

 

黒華時代では考えられない光景だった。

 

黒を持つ者達。

 

戦場では恐れられ、兵からは憧れられた存在。

 

そんな彼らが、迷宮の中でくだらない話をしている。

 

それだけで、少し不思議だった。

 

---

 

「椿」

 

黒蘭が声をかける。

 

「はい」

 

「身体は」

 

「問題ありません」

 

即答。

 

だが黒蘭は見る。

 

顔色。

 

声。

 

動作。

 

刀の位置。

 

呼吸。

 

数秒。

 

「今日は号令を一段落とせ」

 

椿が目を丸くする。

 

「……気付かれましたか」

 

「少し声が低い」

 

薔薇が振り返る。

 

「え?」

 

「椿、疲れてるのか?」

 

「疲れているというほどではありません」

 

「昨日、水辺で少し喉を冷やしただけです」

 

牡丹が近づく。

 

「なぜ言わないのですか」

 

椿は少し気まずそうにする。

 

「戦闘には影響ありません」

 

「それは答えではありません」

 

牡丹の笑顔。

 

しかし圧。

 

椿は目を逸らした。

 

黒華の姫。

 

戦場で猛獣姫と呼ばれた少女。

 

それでも牡丹には弱かった。

 

---

 

黒蘭は言った。

 

「椿」

 

「はい」

 

「お前の声は武器だ」

 

「……」

 

「刀の刃こぼれを隠す武人はいない」

 

「はい」

 

椿は静かに頷いた。

 

叱責ではない。

 

黒蘭は怒っていない。

 

ただ事実を言った。

 

だからこそ響く。

 

---

 

薔薇が少し笑う。

 

「懐かしいな」

 

椿が嫌な予感を覚える。

 

「何がですか」

 

「昔のお前」

 

「薔薇」

 

「最初、声全然届かなかったよな」

 

椿の表情が固まる。

 

「その話は」

 

「戦場の真ん中で必死に叫んで」

 

「薔薇」

 

「声枯らして」

 

「薔薇」

 

「最後は猛獣みたいに」

 

「黒薔薇」

 

呼び方が変わった。

 

薔薇は止まる。

 

椿は笑っていた。

 

しかし目が笑っていない。

 

百合が言う。

 

「撤退推奨」

 

牡丹も頷く。

 

「ですね」

 

薔薇は咳払いした。

 

「まあ」

 

「努力したって話だ」

 

椿は顔を赤くして、小さく言った。

 

「……あの呼び名は嫌いです」

 

黒蘭は地図を見ていた。

 

だが。

 

少しだけ口元が緩んでいた。

 

---

 

十九階。

 

進行開始。

 

水辺が増える。

 

木々は減り、湿地が広がる。

 

そして。

 

魔物が少ない。

 

それが何より異常だった。

 

薔薇が言う。

 

「静かだな」

 

百合が答える。

 

「逃げています」

 

「何から?」

 

聞くまでもない。

 

この先にいるもの。

 

第一階層の主。

 

ナルメル。

 

---

 

牡丹が水を見る。

 

「支配型ですね」

 

椿が尋ねる。

 

「支配型?」

 

「強い魔物にも種類があります」

 

牡丹は説明する。

 

「ただ暴れるもの」

 

「狩りをするもの」

 

「縄張りを管理するもの」

 

黒蘭が続ける。

 

「今回は三つ目」

 

「はい」

 

「だから周辺に一定数の魔物は残っている」

 

椿は理解する。

 

「全て殺しているわけではない」

 

「そうだ」

 

黒蘭は言った。

 

「ただの怪物ではない」

 

---

 

その言葉に薔薇が笑う。

 

「敵を褒めるの好きだな」

 

「事実だ」

 

「普通は倒す相手をそんな風に見ない」

 

「だから負ける」

 

即答だった。

 

「敵を下に見れば、見えるものも見えない」

 

---

 

昼前。

 

二十階入口。

 

巨大な水場。

 

湖と言ってもいい広さだった。

 

中央には島。

 

その周囲を水路が囲む。

 

明らかだった。

 

戦場。

 

自然にできたものか。

 

魔物が作ったものか。

 

分からない。

 

だが。

 

ここで戦うようになっている。

 

---

 

「嫌な場所ですね」

 

牡丹が言う。

 

「逃げ道が限定されています」

 

百合。

 

「水中から奇襲可能」

 

薔薇。

 

「正面から来る気はなさそうだな」

 

椿。

 

「こちらの陣形を崩す場所」

 

黒蘭は頷く。

 

「だから主だ」

 

四人が見る。

 

「自分が勝てる場所で戦う」

 

「当然の判断だ」

 

---

 

黒蘭は刀を抜かない。

 

まず歩いた。

 

水辺へ。

 

一歩。

 

二歩。

 

水面を見る。

 

静か。

 

あまりにも静か。

 

薔薇が小声で言う。

 

「来るぞ」

 

黒蘭は答える。

 

「ああ」

 

次の瞬間。

 

水面が爆ぜた。

 

---

 

巨大な影。

 

水柱。

 

牙。

 

第一階層の王。

 

ナルメル。

 

現れる。

 

---

 

速い。

 

巨体から想像できない速度。

 

狙いは黒蘭。

 

だが。

 

間に薔薇が入る。

 

籠手。

 

衝突。

 

鈍い音。

 

薔薇の足が沈む。

 

「っ……」

 

押された。

 

黒薔薇が。

 

王を守った盾。

 

いや、盾を持たぬ守護者。

 

その彼女が力負けした。

 

---

 

薔薇は笑った。

 

「いいな」

 

「重い」

 

黒蘭が言う。

 

「下がれ」

 

「まだいける」

 

「確認は終わった」

 

薔薇は一瞬止まる。

 

そして下がる。

 

命令だからではない。

 

判断を理解したから。

 

---

 

椿の刀が地面に刺さる。

 

柄布が広がる。

 

黒い旗。

 

「陣を整えます」

 

声。

 

響く。

 

昨日より少し抑えた声。

 

それでも十分。

 

黒華の兵を導いた声。

 

---

 

牡丹が動く。

 

短刀。

 

毒。

 

しかし深く刺さない。

 

皮膚を見る。

 

硬度を見る。

 

百合は術を放つ。

 

火。

 

氷。

 

雷。

 

反応を見る。

 

攻撃ではない。

 

解析。

 

ナルメルは怒る。

 

水中へ潜る。

 

---

 

薔薇が言う。

 

「来るぞ」

 

水面。

 

静か。

 

どこから来るか分からない。

 

普通なら。

 

待つ。

 

だが。

 

黒蘭は歩いた。

 

「黒蘭様?」

 

椿が見る。

 

黒蘭は水を見る。

 

波。

 

泥。

 

泡。

 

流れ。

 

「そこか」

 

刀を抜く。

 

一閃。

 

水面。

 

血。

 

---

 

ナルメルが飛び出した。

 

百合ですら一瞬遅れた。

 

薔薇が笑う。

 

「相変わらず意味分からないな」

 

黒蘭は答える。

 

「見えた」

 

「普通は見えない」

 

「そうか」

 

本気で言っている。

 

---

 

ナルメルは距離を取る。

 

初めて。

 

警戒した。

 

この小さな生き物を。

 

敵だと認識した。

 

---

 

黒蘭は刀を構えた。

 

二刀。

 

静か。

 

殺気はない。

 

怒りもない。

 

ただ。

 

斬る準備。

 

---

 

薔薇が呟く。

 

「終わるな」

 

椿も分かっていた。

 

ここから先。

 

黒蘭の間合い。

 

それは。

 

人でも。

 

魔物でも。

 

変わらない。

 

---

 

ナルメルが突進する。

 

巨大な牙。

 

質量。

 

速度。

 

普通なら受けられない。

 

黒蘭は避けない。

 

半歩。

 

ずれる。

 

一刀目。

 

斬る。

 

二刀目。

 

斬る。

 

回る。

 

さらに斬る。

 

---

 

一撃。

 

二撃。

 

三撃。

 

四撃。

 

ナルメルが反撃する。

 

尾。

 

黒蘭は刀で逸らす。

 

受けない。

 

流す。

 

そして。

 

五撃。

 

六撃。

 

七撃。

 

八撃。

 

---

 

一瞬だった。

 

技ではない。

 

構えでもない。

 

必殺でもない。

 

ただの斬撃。

 

しかし。

 

黒華最強の将の通常。

 

---

 

ナルメルの巨体が沈む。

 

水面が赤く染まる。

 

第一階層の王。

 

討伐。

 

---

 

沈黙。

 

最初に口を開いたのは薔薇だった。

 

「相変わらずだな」

 

黒蘭は刀を払う。

 

「何が」

 

「奥義より普通に斬った方が強いところ」

 

「隙が少ない」

 

「そういう問題か?」

 

黒蘭は答えない。

 

---

 

椿はナルメルを見る。

 

「黒蘭様」

 

「何だ」

 

「評価は」

 

少し間。

 

黒蘭は答える。

 

「強かった」

 

薔薇が笑う。

 

「本気か?」

 

「ああ」

 

「一瞬だったぞ」

 

黒蘭は首を振る。

 

「初めてだから勝てた」

 

「?」

 

「相手は俺を知らなかった」

 

「俺も相手を知らなかった」

 

「今回は俺が先に理解しただけだ」

 

---

 

椿はその言葉を記録した。

 

勝利ではない。

 

情報。

 

黒蘭にとって、戦いとはそういうものだった。

 

---

 

第一階層二十階。

 

階層主ナルメル討伐。

 

黒華五刀。

 

海都到着から十七日目。

 

しかし。

 

この報告が海都にもたらす衝撃を。

 

五人はまだ知らなかった。

 

第八話 了

 

 

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