世界樹の迷宮、第一階層二十階。
水底の王ナルメルを討った後、黒華五刀はその場に長く留まらなかった。
勝利の余韻に浸る者はいない。
薔薇だけは少し名残惜しそうに水面を見ていたが、それでも刀を納め、籠手の継ぎ目を確認していた。
「終わったな」
黒薔薇が言った。
黒蘭は水面を見たまま答える。
「第一階層はな」
「余韻がないな」
「二十一階がある」
「それはそうだけどさ」
薔薇は肩をすくめる。
黒華椿は地図を広げていた。
戦闘直後だというのに、彼女の手は止まらない。
ナルメルの出現地点。
潜行位置。
水流の向き。
足場として使えた根。
危険な泥地。
逃げ道。
そして、黒蘭が最後に踏み込んだ位置。
全てを記録する。
勝った。
だから終わり。
黒蘭達に、そういう考えはない。
勝ったからこそ、次に残す。
それが黒華の戦場で生き残った者達の癖だった。
---
「黒蘭様」
黒牡丹が呼んだ。
「何だ」
「奥に人工物があります」
黒蘭が顔を上げる。
百合もすでに気付いていた。
「罠はありません」
黒百合が短く言う。
「ただし、魔物の気配もありません」
椿が地図を畳む。
「人工物?」
薔薇が笑う。
「第一階層の終わりに仕掛けか」
「仕掛けと決めるな」
黒蘭は歩き出す。
ナルメルが守っていた湿地の奥。
そこには、根に覆われた石の台座があった。
中央に青白い光。
海都の冒険者から聞いていたもの。
樹海磁軸。
迷宮内部に存在する転移地点。
発見し、起動すれば、海都側の磁軸と接続される。
以降はそこまで一瞬で戻り、またそこから再探索できる。
黒蘭達は十階でも同じものを見つけていた。
初回六日探索で十階磁軸へ到達し、海都へ戻った時、受付が目を丸くしていた理由もそこにある。
通常、初探索で磁軸まで到達する者はいない。
まして地図を描きながらでは。
椿が青い光を見る。
「二十階磁軸ですね」
「ああ」
牡丹が周囲を確認する。
「魔物が近付かない場所、という理解でよいでしょうか」
「今はそう見える」
黒蘭は磁軸の前に立つ。
「だが、過信はしない」
薔薇が苦笑する。
「便利な物を見つけても、まず疑うのか」
「便利な物ほど壊れた時に死ぬ」
「はいはい」
椿は小さく頷いた。
「登録します」
五人は順に磁軸へ触れた。
青白い光が一瞬強くなり、足元から冷たい感覚が上がる。
空間が揺れる。
次の瞬間。
彼らは海都側の磁軸室に立っていた。
---
海都冒険者ギルド。
昼過ぎ。
普段通りの騒がしさだった。
依頼掲示板の前では新人冒険者が悩み、受付では探索帰りの者達が報告をしている。
酒場では、中堅冒険者が浅層の注意点を語っていた。
「十階を越えたら別物だ。水場を甘く見るな」
「十五階以降は泥だ。足を取られて終わる」
「二十階の主は別格だぞ。初回は見るだけにしろ」
その言葉に、新人達が真剣に頷く。
二十階。
ナルメル。
第一階層の主。
海都では、すでに討伐記録のある魔物だ。
ロイヤルガードも討ったことがある。
月下猟姫も討った。
銀狼の牙も討った。
それ自体は、海都の上位ギルドにとって不可能なことではない。
だが、普通は何度も準備する。
一度目は遭遇して撤退。
二度目は行動確認。
三度目で本格戦闘。
時には失敗し、再挑戦する。
階層主とは、そういう相手だった。
---
扉が開いた。
五人の黒が入ってきた。
黒蘭。
黒華椿。
黒薔薇。
黒牡丹。
黒百合。
最初に気付いたのは、受付係だった。
続いて、掲示板の前にいた冒険者達。
そして酒場。
会話が少しずつ止まる。
彼らの姿に大きな傷はない。
荷は消耗している。
だが、敗走ではない。
椿の地図筒が膨らんでいる。
牡丹の荷袋には、明らかに大型魔物の素材と思われるものが収められている。
薔薇はいつも通り。
百合は無表情。
黒蘭は静かに受付へ歩いた。
「探索報告を」
受付係は慣れた手つきで書類を出そうとして、それから一瞬止まった。
嫌な予感がしたからだ。
「到達階は?」
「二十階」
黒蘭が答える。
「二十階……ですね」
「はい」
椿が地図を出す。
受付係はそれを広げた。
一階から二十階まで。
十階磁軸。
二十階磁軸。
水路。
湿地。
休息地点。
魔物の分布。
危険区域。
そして二十階中央。
赤い印。
受付係の指が止まる。
「これは」
椿が答える。
「階層主と思われる大型個体の遭遇地点です」
「遭遇……されたのですね」
「はい」
「撤退されたのでしょうか」
「いえ」
「討伐しました」
受付係はしばらく動かなかった。
「……討伐」
「はい」
「ナルメルを、ですか?」
黒蘭が答える。
「ああ」
酒場の空気が固まった。
誰かの木杯が卓上で倒れ、酒がこぼれた。
---
「ナルメルを倒した?」
「もう?」
「嘘だろ」
「登録から何日だ」
「十八日も経ってないぞ」
「いや、でも二十階磁軸まで……」
ざわめきが広がる。
だが、そこにいた熟練冒険者達の反応は少し違った。
ナルメル討伐そのものに驚いたのではない。
二十階に着いたことだけでもない。
問題は、初回遭遇である可能性だった。
情報なし。
準備なし。
討伐隊なし。
それで倒した。
それが意味するものを、経験者ほど理解していた。
---
受付係は慌てて奥へ走った。
数分後、レオンが現れた。
片目に傷を持つギルドマスター。
普段は飄々としている男だが、地図を見た瞬間、顔から笑みが少し消えた。
「おいおい」
「まさかと思うが」
黒蘭は言った。
「ナルメルと思われる個体を討った」
「確認を頼む」
「確認ね」
レオンは笑った。
「普通は報酬を先に聞くものだ」
「報酬は後でいい」
「なら何が先だ?」
黒蘭は地図を指した。
「二十一階以降の情報」
レオンは一瞬黙った。
そして、低く笑った。
「本当に冒険者向きじゃないな、お前」
「そうか」
「褒めてる」
「そうか」
レオンは椿の地図をもう一度見る。
「被害は?」
牡丹が答えた。
「負傷なし。薬品消費軽微。装備破損なし。食糧、水ともに予定範囲内です」
「素材は?」
「保存可能な部位のみ回収しました。水中で腐敗しやすい部位は破棄しています」
「……」
レオンは頭を掻いた。
「素材まで綺麗に持って帰ってきたのか」
牡丹は微笑む。
「商品ですから」
---
そこへ、別の声が入った。
「本当なのか」
アルベルトだった。
ロイヤルガード隊長。
この日、彼は別件の報告でギルドに来ていた。
黒蘭を見る。
地図を見る。
そして、眉を寄せた。
「二十階磁軸も起動したのか」
「ああ」
「ナルメルは?」
「討った」
アルベルトは黙った。
周囲の冒険者の何人かは、アルベルトの反応を見ていた。
海都の盾。
第二階層後半まで進むAランク。
彼がどう評価するか。
それは海都の多くの者にとって大きかった。
---
アルベルトは言った。
「ナルメルを倒すこと自体は、不可能ではない」
その言葉で、周囲の空気が少し落ち着く。
彼は黒華五刀をむやみに持ち上げるつもりはなかった。
そして、海都の上位冒険者を下げるつもりもない。
「我々も討ったことがある」
「月下猟姫も、銀狼の牙も討っている」
「階層主は、Aランクなら超えるべき壁だ」
黒蘭は頷く。
「そうだろうな」
アルベルトは続けた。
「だが」
その一言で、また空気が張る。
「初遭遇で討ったのなら話が違う」
「我々は最初の挑戦で撤退した」
「水中移動、泥地、奇襲、尾撃、潜行」
「全てを確認し、準備して、三度目で討った」
アルベルトは黒蘭を見る。
「君達は?」
黒蘭は少し考えた。
「遭遇」
「観察」
「交戦」
「討伐」
それだけだった。
酒場にいた冒険者の一人が、思わず笑った。
笑ったというより、息が漏れた。
あまりにも簡単に言うからだ。
---
アルベルトは静かに言った。
「そこが異常だ」
黒蘭は首を傾げる。
「そうか」
「そうだ」
アルベルトは少し苦笑した。
「君達は、自分達がどれほど無茶をしたか分かっていない」
「無茶ではない」
黒蘭は言った。
「勝てる形になってから斬った」
「それを初戦で作ったのだろう」
「ああ」
「それを無茶と言う」
薔薇が小さく笑った。
「だってさ、黒蘭」
「そうか」
黒蘭は本気で納得しきっていない顔だった。
---
その時、酒場奥の席から別の声がした。
「一層主を倒した程度で、随分な騒ぎだな」
空気が少し冷えた。
声の主は、銀髪の男だった。
銀狼の牙。
Aランクギルドのリーダー、ガレス。
年は二十代後半。
職はウォリアー。
到達階は三十六階。
単純な前衛火力だけなら、アルベルトを上回るとも言われる男だった。
顔立ちは整っている。
装備も上等。
背の大剣には、幾つもの魔物の傷跡が残っていた。
実力は本物。
だが、彼を好かない者も多い。
理由は単純だった。
弱者を軽んじる。
踏破階数と戦果を絶対の尺度とする。
勝てない者には価値がない。
そういう考え方を隠さない男だった。
---
アルベルトが小さく息を吐く。
「ガレス」
「何だ」
「今は報告中だ」
「だから聞いている」
ガレスは黒蘭を見る。
「黒い新人」
「ナルメルを討ったそうだな」
黒蘭は答える。
「ああ」
「見事だ」
言葉だけなら称賛だった。
しかし声には棘がある。
「だが、街が騒ぎすぎだ」
「我々はとうに二層を踏破している」
「踏破階数で言えば、まだ我々の方が上だ」
「一層主を倒しただけで、上位と並んだつもりなら困る」
周囲は黙った。
ガレスは強い。
彼の言うことにも一理ある。
黒華五刀は二十階到達。
銀狼の牙は三十六階到達。
踏破階数だけなら差がある。
---
黒蘭はガレスを見た。
少しだけ。
「そうだな」
それだけだった。
ガレスの目が細くなる。
「何?」
「お前達の方が先を知っている」
「それは事実だ」
言い返さない。
挑発にも乗らない。
ガレスは少し不快そうにする。
「随分と素直だな」
「事実だからな」
「なら分かっているな」
「何を」
「この街では、深く潜った者が上だ」
黒蘭は頷いた。
「分かった」
話は終わった。
黒蘭は本当にそう判断した。
しかしガレスにとっては違う。
自分の言葉が相手を揺らしていない。
それが気に入らなかった。
---
「黒蘭」
アルベルトが小さく言った。
「相手にしなくていい」
黒蘭は首を傾げる。
「相手にしていない」
薔薇が吹き出しそうになった。
牡丹は微笑むだけ。
百合は無表情。
椿は地図を抱え直す。
この場で一番不快そうなのは、ガレスだった。
だが彼は、それ以上踏み込まなかった。
ここで剣を抜くほど愚かではない。
実力はある。
立場もある。
ただ、他者を軽んじる癖がある。
それだけだ。
だからこそ厄介だった。
---
レオンが手を叩いた。
「話はそこまでだ」
「黒蘭一行の報告を受理する」
「ナルメル討伐」
「二十階磁軸起動」
「第一階層広域地図提出」
「これだけ揃えば、規定上Fのままにはできない」
ギルド内が再びざわめく。
レオンは続けた。
「審査会にかける」
「暫定Bランク昇格」
ざわめきが大きくなる。
FからB。
異例。
だが、実績を見れば否定できない。
二十階到達。
階層主討伐。
磁軸起動。
高精度地図。
素材納品。
むしろBでも低い。
---
ガレスが鼻で笑う。
「Aにはしないのか」
レオンは彼を見る。
「Aには規定がある」
「知ってるだろ」
Aランク。
それは単なる強さではない。
海都への貢献。
救助実績。
階層維持。
元老院または有力貴族の推薦。
大型依頼の完遂。
それらが必要だった。
実力だけならA。
そういう者は多い。
だがAランクは、街が責任を預ける存在。
だから政治が絡む。
だから面倒になる。
---
黒蘭はそれを聞いて言った。
「妥当だ」
レオンが笑う。
「また怒らないのか」
「規則があるなら従う」
「規則が不合理なら?」
「変えればいい」
レオンは目を細めた。
「簡単に言う」
「難しいのか」
「難しい」
「なら後で考える」
薔薇が小声で言う。
「考えるんだな」
「必要なら」
ガレスはその会話を聞いて、少しだけ目を細めた。
この異国人は、やはり気に入らない。
自分より浅い階層にいるくせに、空気を持っていく。
強い者特有の圧ではない。
周囲が勝手に見る。
それが気に入らなかった。
---
その日のうちに、黒華五刀の名は海都中に広がった。
ナルメル討伐。
二十階磁軸起動。
暫定Bランク昇格。
そして。
銀狼の牙のガレスと短く言葉を交わしながら、まるで相手にしなかったこと。
冒険者達は面白がった。
だが、上位陣は笑わなかった。
ロイヤルガード。
月下猟姫。
銀狼の牙。
大地の記録者。
ネイピア商会。
元老院。
それぞれが、黒華五刀を見始めていた。
ただの強い新人ではない。
海都の秩序に、異国の黒が入り込んだ。
そう理解し始めていた。
-----
黒蘭らのBランク昇格から半日後。
ギルド奥の会議室。
そこには、海都の上位ギルド関係者が集められていた。
ギルドマスター、レオン。
ロイヤルガード隊長、アルベルト。
月下猟姫のリーダー、セリア。
銀狼の牙のリーダー、ガレス。
大地の記録者のガルド。
そして黒華五刀から、黒蘭と黒華椿。
本来、Bランク認定前の冒険者がこの場へ呼ばれることはない。
だが、黒華五刀はすでに例外だった。
良くも悪くも。
---
会議室の中央には、黒華五刀が提出した地図が広げられている。
二十階までの詳細図。
十階磁軸。
二十階磁軸。
ナルメル出現地点。
水路。
移動経路。
戦闘痕。
回収素材。
全てが整っていた。
ガルドが腕を組みながら唸る。
「気に入らないな」
レオンが笑う。
「地図屋が嫉妬か?」
「嫉妬だよ」
ガルドは素直に言った。
「一回の攻略でここまで描かれたら、俺達の仕事がなくなる」
椿が少し恐縮する。
「そのつもりはありません」
ガルドは笑った。
「分かってる」
「だから余計に悔しい」
セリアが地図を覗き込む。
月下猟姫のリーダー。
長い赤毛を後ろで結び、背には大型弩。
女性だけで構成されたAランクギルドを率いる冒険者だ。
彼女は黒蘭を見る。
「これ、本当にあんた達だけで?」
「ああ」
「ロイヤルガードの支援もなし?」
「ない」
「へぇ」
セリアはにやりと笑った。
「いい前衛ね」
椿の眉が少しだけ動いた。
薔薇がいれば楽しそうに笑っただろう。
だが黒蘭は何も反応しない。
「前衛が必要なのか」
セリアは笑う。
「うちは女ばかりでね。後衛火力はあるけど、前で無茶できる男手が欲しい時がある」
黒蘭は即答した。
「断る」
「早いわね」
「仲間がいる」
セリアは椿を見る。
「大事にされてるわね、お姫様」
椿は凛と答えた。
「仲間ですので」
「なるほど」
セリアはそれ以上からかわなかった。
軽口は叩くが、見誤る女ではない。
椿の目にあるものを見たからだ。
あれは守られるだけの姫ではない。
指揮官の目だ。
---
ガレスは腕を組み、壁にもたれていた。
「茶番だな」
「二十階の地図で会議とは」
アルベルトが言う。
「ガレス」
「何だ」
「軽く見るな」
「事実だ」
ガレスは黒蘭を見る。
「我々は三十六階まで進んでいる」
「月下猟姫も三十八階」
「ロイヤルガードは四十階付近」
「踏破で見れば、まだ下だ」
黒蘭は頷く。
「その通りだ」
また認める。
ガレスは苛立つ。
否定されれば言い返せる。
反発されれば叩ける。
だが黒蘭は、事実なら認める。
そのくせ、自分を下に置くわけではない。
ガレスにはそれが気に入らなかった。
---
レオンは机を叩いた。
「踏破階数の話は後だ」
「今日は迷宮維持の話をする」
黒蘭が少し顔を上げる。
「迷宮維持」
「そこから説明が必要か」
レオンはアルベルトを見る。
アルベルトが頷いた。
「黒蘭」
「海都の冒険者は、ただ深く潜るだけではない」
「ああ」
「魔物は戻る」
黒蘭の目が細くなる。
「戻る?」
「そうだ」
アルベルトは続けた。
「迷宮の魔物は、倒しても絶えない」
「数日で戻る個体もいる」
「強大な徘徊個体、いわゆるFOEは数日から十日程度で再出現することが多い」
「階層主も同じだ」
椿が思わず聞いた。
「階層主も、ですか」
「ああ」
「ナルメルは一か月から三か月ほどで戻る」
黒蘭は黙った。
椿も筆を止める。
薔薇や牡丹、百合がいれば、同じように反応しただろう。
黒華の戦場では、敵将を討てば、その敵将は戻らない。
獣の王を殺せば、別の個体が縄張りを取ることはあっても、同じ役割が決まった周期で戻ることはない。
だが世界樹は違う。
敵が生まれ続ける。
戦場が終わらない。
---
黒蘭は言った。
「迷宮が産んでいるのか」
ガルドが答える。
「分からん」
「学者も完全には説明できない」
「ただ、経験則として戻る」
「倒しても戻る」
「道を開いても、放置すればまた塞がる」
セリアも言う。
「だから上位ギルドは、深く潜るだけじゃ済まない」
「FOEの間引き」
「階層主の再討伐」
「新人救助」
「素材確保」
「地図更新」
「街の防衛」
「全部仕事」
アルベルトが続ける。
「数年に一度、魔物が上階へ押し出されることもある」
「迷宮溢れ、と呼ばれている」
「最悪の場合、地上近くまで魔物が来る」
黒蘭は静かに聞いていた。
その目が変わる。
戦場を見る目になった。
---
「認識を改める必要があるな」
黒蘭が言った。
レオンが尋ねる。
「何をだ?」
「冒険者という言葉だ」
黒蘭は続ける。
「俺は、冒険者とは未知へ進む者だと思っていた」
「だが違う」
「海都では、迷宮を押し返す者でもある」
アルベルトは頷いた。
「その通りだ」
「なら兵だ」
会議室が静かになる。
黒蘭は淡々と言った。
「名が冒険者であっても、役割は兵に近い」
「街を守る」
「道を維持する」
「敵の発生を抑える」
「補給線を確保する」
「それは軍の仕事だ」
ガレスが鼻で笑う。
「我々を兵扱いか」
黒蘭は見る。
「不満か」
「冒険者は自由だ」
「自由な兵もいる」
「何?」
「傭兵だ」
セリアが吹き出した。
「言うわね」
ガレスは不快そうにするが、反論はしなかった。
黒蘭の言葉は侮辱ではない。
分類だった。
---
レオンは笑っていた。
「面白いな」
「お前に海都の防衛計画を見せたら、何と言うか気になる」
黒蘭は答える。
「見なければ分からない」
「見せろと言ってるのか?」
「必要なら」
「随分堂々としてる」
「不要なら見ない」
レオンは片目を細めた。
この男は利用できる。
そう思った。
強い。
慎重。
政治にはまだ不慣れ。
だが、軍を知っている。
使い方を間違えれば危険。
使い方が合えば、海都にとって大きな力になる。
レオンの中で、黒華五刀はただの冒険者ではなくなりつつあった。
駒。
いや。
駒として扱うには、あまりに刃が鋭い。
---
会議は続いた。
黒華五刀の暫定Bランク昇格。
二十階磁軸の利用権。
ナルメル素材の査定。
提出地図の複写権。
第二階層進入許可。
それらが次々に決まっていく。
Aランク昇格については、レオンが明確に止めた。
「実力なら足りている」
「しかしAには規定がある」
「海都貢献、救助実績、階層維持、元老院または有力貴族の推薦」
「そして政治」
「面倒だが、無視できない」
椿が尋ねる。
「政治、ですか」
「Aランクは街の顔だ」
レオンは答える。
「単に強いだけでは置けない」
黒蘭は頷いた。
「妥当だ」
セリアが笑う。
「本当に怒らないのね」
「怒る理由がない」
「貴族が絡むと面倒よ?」
「面倒なら処理する」
ガレスが薄く笑う。
「処理、ね」
アルベルトは内心で少し冷えたものを感じた。
黒蘭の言う処理には、冗談が混じっていない。
この男は、必要なら本当に切る。
規則でも。
敵でも。
人でも。
---
会議後。
黒蘭と椿はネイピア商会へ向かった。
ナルメル素材の一部を持ち込むためだ。
ネイピアは素材を見るなり、目を見開いた。
「ちょっと」
「何ですか、これは」
牡丹がいれば微笑んで説明しただろうが、この場には黒蘭と椿だけだった。
椿が答える。
「ナルメルの牙、鱗、皮膜です」
「それは見れば分かるわよ」
ネイピアは牙を持ち上げる。
「傷が少なすぎる」
「普通、階層主素材はもっと荒れるの」
「必死に倒すから」
「割れる、焦げる、潰れる」
「それが普通」
黒蘭は言った。
「商品だからな」
ネイピアは一瞬黙り、それから笑った。
「あなた達、本当に冒険者なの?」
「登録上は」
「その返し、便利ね」
椿が少しだけ微笑む。
ネイピアは素材を並べ、査定を始める。
「高く買うわ」
「ただし、全部はここでは捌けない」
「元老院、鍛冶屋、薬師、学者にも声をかける」
黒蘭は頷いた。
「任せる」
「簡単に信用するのね」
「商人が信用を失えば商売が死ぬ」
ネイピアは少し嬉しそうに笑った。
「分かってるじゃない」
「戦と同じだ」
「また戦」
「補給が死ねば軍は死ぬ」
「商いが死ねば街が死ぬ」
ネイピアは黒蘭を見た。
この男は、素材を金に換えることも軽く見ない。
冒険者の中には、商人を下に見る者もいる。
だが黒蘭は違った。
戦う者と運ぶ者。
売る者。
治す者。
地図を描く者。
その全てを戦力として見る。
ネイピアは思った。
これは危険な客だ。
同時に、絶対に手放してはいけない客でもある。
---
その夜。
クジュラの元に報告書が届いた。
ナルメル討伐。
二十階磁軸起動。
暫定Bランク昇格。
会議記録。
黒華五刀。
黒蘭。
クジュラはしばらく黙って読んでいた。
ナルメルを倒した。
その事実には、そこまで驚かない。
海都のAランクなら倒せる。
問題は、別の箇所だった。
初遭遇。
観察。
討伐。
負傷なし。
そして、黒蘭の発言。
迷宮は、敵が生まれ続ける戦場。
冒険者は、街を守る兵でもある。
クジュラは報告書を置いた。
「……」
黒。
その言葉が頭に残る。
黒蘭。
それは本名ではないはずだ。
黒とは号。
ならば、あの男の本当の名は別にある。
どこの家の者か。
何を成したのか。
なぜ国を失ったのか。
なぜ王族と思われる少女が隣にいるのか。
なぜ忍びが二人も黒を持つのか。
分からないことが増えていく。
クジュラは低く言った。
「気に入らんな」
だが、その声には以前ほどの侮りはなかった。
---
同じ夜。
ギルドの掲示板には新しい札が掛けられた。
---
黒蘭一行
暫定Bランク昇格
第一階層踏破
二十階磁軸起動
階層主ナルメル討伐
第二階層進入許可
---
その下に、すぐ落書きが増えた。
「あれでBならAは何だ」
「Aには政治がいる」
「政治って魔物より面倒だな」
「銀狼の牙のガレス、機嫌悪そうだった」
「黒い方は全然気にしてなかったぞ」
「相手にしてなかった、の間違いだろ」
---
リッドはその札を見上げていた。
ファラとセレネも隣にいる。
「Bランク……」
リッドが呟く。
ファラが言う。
「すごいね」
「うん」
以前のような焦りは少なかった。
だが、胸の奥に熱はある。
遠い。
あまりにも遠い。
でも、その遠さが、諦める理由にはならない。
「俺達も明日、四階まで行こう」
ファラがすぐに言う。
「三階まで」
「え」
「三階まで」
セレネも言う。
「三階まで」
リッドは肩を落とした。
「……三階まで」
だが、その顔は笑っていた。
帰ることを覚えながら、少しずつ進む。
それが今の彼らの戦いだった。
---
宿。
黒華五刀は食卓を囲んでいた。
薔薇は掲示板の写しを見て笑っている。
「暫定Bだってさ」
「ずいぶん上がったな」
牡丹が微笑む。
「報酬も入りましたし、補給を整えられますね」
百合が言う。
「Aではないのですか」
椿が答える。
「規定があるそうです」
「政治、貴族推薦、街への貢献」
百合は少し冷たく言う。
「面倒です」
薔薇が笑う。
「お前、面倒なものは全部斬ろうとするな」
「必要なら」
「ほら」
黒蘭は静かに言った。
「今は不要だ」
百合は頷く。
「はい」
薔薇は黒蘭を見る。
「今は、って言ったな」
「必要なら変える」
「規則を?」
「ああ」
「お前らしい」
椿はその横顔を見ていた。
黒蘭は無意味に逆らわない。
だが、必要なら規則でも切る。
それは昔からそうだった。
家。
身分。
命令。
血。
国。
必要なら、全てを選び直す。
その覚悟がある。
だから皆が従う。
ただし、本人だけがそれをよく分かっていない。
---
黒蘭は地図を広げた。
第一階層ではない。
その先。
二十一階以降。
第二階層。
まだ空白。
黒蘭はその白い部分を見る。
「次だ」
薔薇が笑う。
「もう行く気か」
「準備してからだ」
牡丹が満足そうに頷く。
「そこはよろしいです」
百合が言う。
「二十階磁軸を起点にできます」
椿が記録する。
「第二階層探索開始は、補給と情報収集後」
黒蘭は頷いた。
「急ぐ理由はない」
薔薇は少し意外そうにする。
「名声が広がってる今、勢いで行くのも手だぞ」
黒蘭は答えた。
「名声で魔物は死なない」
「だよな」
薔薇は笑った。
---
その夜、海都の各所で黒華五刀の名が囁かれた。
商人は素材を見たがった。
冒険者は地図を欲しがった。
元老院は利用価値を測り始めた。
Aランク達は距離を測った。
クジュラは黒の意味を考えた。
リッドは背を追った。
そしてガレスは、面白くなさそうに酒杯を傾けた。
海都は広い。
迷宮は深い。
黒華五刀は、その両方へ踏み込み始めていた。
第九話 了