亡国の黒将と世界樹の迷宮   作:清海深々

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第九刀 黒の名

 

世界樹の迷宮、第一階層二十階。

 

水底の王ナルメルを討った後、黒華五刀はその場に長く留まらなかった。

 

勝利の余韻に浸る者はいない。

 

薔薇だけは少し名残惜しそうに水面を見ていたが、それでも刀を納め、籠手の継ぎ目を確認していた。

 

「終わったな」

 

黒薔薇が言った。

 

黒蘭は水面を見たまま答える。

 

「第一階層はな」

 

「余韻がないな」

 

「二十一階がある」

 

「それはそうだけどさ」

 

薔薇は肩をすくめる。

 

黒華椿は地図を広げていた。

 

戦闘直後だというのに、彼女の手は止まらない。

 

ナルメルの出現地点。

 

潜行位置。

 

水流の向き。

 

足場として使えた根。

 

危険な泥地。

 

逃げ道。

 

そして、黒蘭が最後に踏み込んだ位置。

 

全てを記録する。

 

勝った。

 

だから終わり。

 

黒蘭達に、そういう考えはない。

 

勝ったからこそ、次に残す。

 

それが黒華の戦場で生き残った者達の癖だった。

 

---

 

「黒蘭様」

 

黒牡丹が呼んだ。

 

「何だ」

 

「奥に人工物があります」

 

黒蘭が顔を上げる。

 

百合もすでに気付いていた。

 

「罠はありません」

 

黒百合が短く言う。

 

「ただし、魔物の気配もありません」

 

椿が地図を畳む。

 

「人工物?」

 

薔薇が笑う。

 

「第一階層の終わりに仕掛けか」

 

「仕掛けと決めるな」

 

黒蘭は歩き出す。

 

ナルメルが守っていた湿地の奥。

 

そこには、根に覆われた石の台座があった。

 

中央に青白い光。

 

海都の冒険者から聞いていたもの。

 

樹海磁軸。

 

迷宮内部に存在する転移地点。

 

発見し、起動すれば、海都側の磁軸と接続される。

 

以降はそこまで一瞬で戻り、またそこから再探索できる。

 

黒蘭達は十階でも同じものを見つけていた。

 

初回六日探索で十階磁軸へ到達し、海都へ戻った時、受付が目を丸くしていた理由もそこにある。

 

通常、初探索で磁軸まで到達する者はいない。

 

まして地図を描きながらでは。

 

椿が青い光を見る。

 

「二十階磁軸ですね」

 

「ああ」

 

牡丹が周囲を確認する。

 

「魔物が近付かない場所、という理解でよいでしょうか」

 

「今はそう見える」

 

黒蘭は磁軸の前に立つ。

 

「だが、過信はしない」

 

薔薇が苦笑する。

 

「便利な物を見つけても、まず疑うのか」

 

「便利な物ほど壊れた時に死ぬ」

 

「はいはい」

 

椿は小さく頷いた。

 

「登録します」

 

五人は順に磁軸へ触れた。

 

青白い光が一瞬強くなり、足元から冷たい感覚が上がる。

 

空間が揺れる。

 

次の瞬間。

 

彼らは海都側の磁軸室に立っていた。

 

---

 

海都冒険者ギルド。

 

昼過ぎ。

 

普段通りの騒がしさだった。

 

依頼掲示板の前では新人冒険者が悩み、受付では探索帰りの者達が報告をしている。

 

酒場では、中堅冒険者が浅層の注意点を語っていた。

 

「十階を越えたら別物だ。水場を甘く見るな」

 

「十五階以降は泥だ。足を取られて終わる」

 

「二十階の主は別格だぞ。初回は見るだけにしろ」

 

その言葉に、新人達が真剣に頷く。

 

二十階。

 

ナルメル。

 

第一階層の主。

 

海都では、すでに討伐記録のある魔物だ。

 

ロイヤルガードも討ったことがある。

 

月下猟姫も討った。

 

銀狼の牙も討った。

 

それ自体は、海都の上位ギルドにとって不可能なことではない。

 

だが、普通は何度も準備する。

 

一度目は遭遇して撤退。

 

二度目は行動確認。

 

三度目で本格戦闘。

 

時には失敗し、再挑戦する。

 

階層主とは、そういう相手だった。

 

---

 

扉が開いた。

 

五人の黒が入ってきた。

 

黒蘭。

 

黒華椿。

 

黒薔薇。

 

黒牡丹。

 

黒百合。

 

最初に気付いたのは、受付係だった。

 

続いて、掲示板の前にいた冒険者達。

 

そして酒場。

 

会話が少しずつ止まる。

 

彼らの姿に大きな傷はない。

 

荷は消耗している。

 

だが、敗走ではない。

 

椿の地図筒が膨らんでいる。

 

牡丹の荷袋には、明らかに大型魔物の素材と思われるものが収められている。

 

薔薇はいつも通り。

 

百合は無表情。

 

黒蘭は静かに受付へ歩いた。

 

「探索報告を」

 

受付係は慣れた手つきで書類を出そうとして、それから一瞬止まった。

 

嫌な予感がしたからだ。

 

「到達階は?」

 

「二十階」

 

黒蘭が答える。

 

「二十階……ですね」

 

「はい」

 

椿が地図を出す。

 

受付係はそれを広げた。

 

一階から二十階まで。

 

十階磁軸。

 

二十階磁軸。

 

水路。

 

湿地。

 

休息地点。

 

魔物の分布。

 

危険区域。

 

そして二十階中央。

 

赤い印。

 

受付係の指が止まる。

 

「これは」

 

椿が答える。

 

「階層主と思われる大型個体の遭遇地点です」

 

「遭遇……されたのですね」

 

「はい」

 

「撤退されたのでしょうか」

 

「いえ」

 

「討伐しました」

 

受付係はしばらく動かなかった。

 

「……討伐」

 

「はい」

 

「ナルメルを、ですか?」

 

黒蘭が答える。

 

「ああ」

 

酒場の空気が固まった。

 

誰かの木杯が卓上で倒れ、酒がこぼれた。

 

---

 

「ナルメルを倒した?」

 

「もう?」

 

「嘘だろ」

 

「登録から何日だ」

 

「十八日も経ってないぞ」

 

「いや、でも二十階磁軸まで……」

 

ざわめきが広がる。

 

だが、そこにいた熟練冒険者達の反応は少し違った。

 

ナルメル討伐そのものに驚いたのではない。

 

二十階に着いたことだけでもない。

 

問題は、初回遭遇である可能性だった。

 

情報なし。

 

準備なし。

 

討伐隊なし。

 

それで倒した。

 

それが意味するものを、経験者ほど理解していた。

 

---

 

受付係は慌てて奥へ走った。

 

数分後、レオンが現れた。

 

片目に傷を持つギルドマスター。

 

普段は飄々としている男だが、地図を見た瞬間、顔から笑みが少し消えた。

 

「おいおい」

 

「まさかと思うが」

 

黒蘭は言った。

 

「ナルメルと思われる個体を討った」

 

「確認を頼む」

 

「確認ね」

 

レオンは笑った。

 

「普通は報酬を先に聞くものだ」

 

「報酬は後でいい」

 

「なら何が先だ?」

 

黒蘭は地図を指した。

 

「二十一階以降の情報」

 

レオンは一瞬黙った。

 

そして、低く笑った。

 

「本当に冒険者向きじゃないな、お前」

 

「そうか」

 

「褒めてる」

 

「そうか」

 

レオンは椿の地図をもう一度見る。

 

「被害は?」

 

牡丹が答えた。

 

「負傷なし。薬品消費軽微。装備破損なし。食糧、水ともに予定範囲内です」

 

「素材は?」

 

「保存可能な部位のみ回収しました。水中で腐敗しやすい部位は破棄しています」

 

「……」

 

レオンは頭を掻いた。

 

「素材まで綺麗に持って帰ってきたのか」

 

牡丹は微笑む。

 

「商品ですから」

 

---

 

そこへ、別の声が入った。

 

「本当なのか」

 

アルベルトだった。

 

ロイヤルガード隊長。

 

この日、彼は別件の報告でギルドに来ていた。

 

黒蘭を見る。

 

地図を見る。

 

そして、眉を寄せた。

 

「二十階磁軸も起動したのか」

 

「ああ」

 

「ナルメルは?」

 

「討った」

 

アルベルトは黙った。

 

周囲の冒険者の何人かは、アルベルトの反応を見ていた。

 

海都の盾。

 

第二階層後半まで進むAランク。

 

彼がどう評価するか。

 

それは海都の多くの者にとって大きかった。

 

---

 

アルベルトは言った。

 

「ナルメルを倒すこと自体は、不可能ではない」

 

その言葉で、周囲の空気が少し落ち着く。

 

彼は黒華五刀をむやみに持ち上げるつもりはなかった。

 

そして、海都の上位冒険者を下げるつもりもない。

 

「我々も討ったことがある」

 

「月下猟姫も、銀狼の牙も討っている」

 

「階層主は、Aランクなら超えるべき壁だ」

 

黒蘭は頷く。

 

「そうだろうな」

 

アルベルトは続けた。

 

「だが」

 

その一言で、また空気が張る。

 

「初遭遇で討ったのなら話が違う」

 

「我々は最初の挑戦で撤退した」

 

「水中移動、泥地、奇襲、尾撃、潜行」

 

「全てを確認し、準備して、三度目で討った」

 

アルベルトは黒蘭を見る。

 

「君達は?」

 

黒蘭は少し考えた。

 

「遭遇」

 

「観察」

 

「交戦」

 

「討伐」

 

それだけだった。

 

酒場にいた冒険者の一人が、思わず笑った。

 

笑ったというより、息が漏れた。

 

あまりにも簡単に言うからだ。

 

---

 

アルベルトは静かに言った。

 

「そこが異常だ」

 

黒蘭は首を傾げる。

 

「そうか」

 

「そうだ」

 

アルベルトは少し苦笑した。

 

「君達は、自分達がどれほど無茶をしたか分かっていない」

 

「無茶ではない」

 

黒蘭は言った。

 

「勝てる形になってから斬った」

 

「それを初戦で作ったのだろう」

 

「ああ」

 

「それを無茶と言う」

 

薔薇が小さく笑った。

 

「だってさ、黒蘭」

 

「そうか」

 

黒蘭は本気で納得しきっていない顔だった。

 

---

 

その時、酒場奥の席から別の声がした。

 

「一層主を倒した程度で、随分な騒ぎだな」

 

空気が少し冷えた。

 

声の主は、銀髪の男だった。

 

銀狼の牙。

 

Aランクギルドのリーダー、ガレス。

 

年は二十代後半。

 

職はウォリアー。

 

到達階は三十六階。

 

単純な前衛火力だけなら、アルベルトを上回るとも言われる男だった。

 

顔立ちは整っている。

 

装備も上等。

 

背の大剣には、幾つもの魔物の傷跡が残っていた。

 

実力は本物。

 

だが、彼を好かない者も多い。

 

理由は単純だった。

 

弱者を軽んじる。

 

踏破階数と戦果を絶対の尺度とする。

 

勝てない者には価値がない。

 

そういう考え方を隠さない男だった。

 

---

 

アルベルトが小さく息を吐く。

 

「ガレス」

 

「何だ」

 

「今は報告中だ」

 

「だから聞いている」

 

ガレスは黒蘭を見る。

 

「黒い新人」

 

「ナルメルを討ったそうだな」

 

黒蘭は答える。

 

「ああ」

 

「見事だ」

 

言葉だけなら称賛だった。

 

しかし声には棘がある。

 

「だが、街が騒ぎすぎだ」

 

「我々はとうに二層を踏破している」

 

「踏破階数で言えば、まだ我々の方が上だ」

 

「一層主を倒しただけで、上位と並んだつもりなら困る」

 

周囲は黙った。

 

ガレスは強い。

 

彼の言うことにも一理ある。

 

黒華五刀は二十階到達。

 

銀狼の牙は三十六階到達。

 

踏破階数だけなら差がある。

 

---

 

黒蘭はガレスを見た。

 

少しだけ。

 

「そうだな」

 

それだけだった。

 

ガレスの目が細くなる。

 

「何?」

 

「お前達の方が先を知っている」

 

「それは事実だ」

 

言い返さない。

 

挑発にも乗らない。

 

ガレスは少し不快そうにする。

 

「随分と素直だな」

 

「事実だからな」

 

「なら分かっているな」

 

「何を」

 

「この街では、深く潜った者が上だ」

 

黒蘭は頷いた。

 

「分かった」

 

話は終わった。

 

黒蘭は本当にそう判断した。

 

しかしガレスにとっては違う。

 

自分の言葉が相手を揺らしていない。

 

それが気に入らなかった。

 

---

 

「黒蘭」

 

アルベルトが小さく言った。

 

「相手にしなくていい」

 

黒蘭は首を傾げる。

 

「相手にしていない」

 

薔薇が吹き出しそうになった。

 

牡丹は微笑むだけ。

 

百合は無表情。

 

椿は地図を抱え直す。

 

この場で一番不快そうなのは、ガレスだった。

 

だが彼は、それ以上踏み込まなかった。

 

ここで剣を抜くほど愚かではない。

 

実力はある。

 

立場もある。

 

ただ、他者を軽んじる癖がある。

 

それだけだ。

 

だからこそ厄介だった。

 

---

 

レオンが手を叩いた。

 

「話はそこまでだ」

 

「黒蘭一行の報告を受理する」

 

「ナルメル討伐」

 

「二十階磁軸起動」

 

「第一階層広域地図提出」

 

「これだけ揃えば、規定上Fのままにはできない」

 

ギルド内が再びざわめく。

 

レオンは続けた。

 

「審査会にかける」

 

「暫定Bランク昇格」

 

ざわめきが大きくなる。

 

FからB。

 

異例。

 

だが、実績を見れば否定できない。

 

二十階到達。

 

階層主討伐。

 

磁軸起動。

 

高精度地図。

 

素材納品。

 

むしろBでも低い。

 

---

 

ガレスが鼻で笑う。

 

「Aにはしないのか」

 

レオンは彼を見る。

 

「Aには規定がある」

 

「知ってるだろ」

 

Aランク。

 

それは単なる強さではない。

 

海都への貢献。

 

救助実績。

 

階層維持。

 

元老院または有力貴族の推薦。

 

大型依頼の完遂。

 

それらが必要だった。

 

実力だけならA。

 

そういう者は多い。

 

だがAランクは、街が責任を預ける存在。

 

だから政治が絡む。

 

だから面倒になる。

 

---

 

黒蘭はそれを聞いて言った。

 

「妥当だ」

 

レオンが笑う。

 

「また怒らないのか」

 

「規則があるなら従う」

 

「規則が不合理なら?」

 

「変えればいい」

 

レオンは目を細めた。

 

「簡単に言う」

 

「難しいのか」

 

「難しい」

 

「なら後で考える」

 

薔薇が小声で言う。

 

「考えるんだな」

 

「必要なら」

 

ガレスはその会話を聞いて、少しだけ目を細めた。

 

この異国人は、やはり気に入らない。

 

自分より浅い階層にいるくせに、空気を持っていく。

 

強い者特有の圧ではない。

 

周囲が勝手に見る。

 

それが気に入らなかった。

 

---

 

その日のうちに、黒華五刀の名は海都中に広がった。

 

ナルメル討伐。

 

二十階磁軸起動。

 

暫定Bランク昇格。

 

そして。

 

銀狼の牙のガレスと短く言葉を交わしながら、まるで相手にしなかったこと。

 

冒険者達は面白がった。

 

だが、上位陣は笑わなかった。

 

ロイヤルガード。

 

月下猟姫。

 

銀狼の牙。

 

大地の記録者。

 

ネイピア商会。

 

元老院。

 

それぞれが、黒華五刀を見始めていた。

 

ただの強い新人ではない。

 

海都の秩序に、異国の黒が入り込んだ。

 

そう理解し始めていた。

 

-----

黒蘭らのBランク昇格から半日後。

 

ギルド奥の会議室。

 

そこには、海都の上位ギルド関係者が集められていた。

 

ギルドマスター、レオン。

 

ロイヤルガード隊長、アルベルト。

 

月下猟姫のリーダー、セリア。

 

銀狼の牙のリーダー、ガレス。

 

大地の記録者のガルド。

 

そして黒華五刀から、黒蘭と黒華椿。

 

本来、Bランク認定前の冒険者がこの場へ呼ばれることはない。

 

だが、黒華五刀はすでに例外だった。

 

良くも悪くも。

 

---

 

会議室の中央には、黒華五刀が提出した地図が広げられている。

 

二十階までの詳細図。

 

十階磁軸。

 

二十階磁軸。

 

ナルメル出現地点。

 

水路。

 

移動経路。

 

戦闘痕。

 

回収素材。

 

全てが整っていた。

 

ガルドが腕を組みながら唸る。

 

「気に入らないな」

 

レオンが笑う。

 

「地図屋が嫉妬か?」

 

「嫉妬だよ」

 

ガルドは素直に言った。

 

「一回の攻略でここまで描かれたら、俺達の仕事がなくなる」

 

椿が少し恐縮する。

 

「そのつもりはありません」

 

ガルドは笑った。

 

「分かってる」

 

「だから余計に悔しい」

 

セリアが地図を覗き込む。

 

月下猟姫のリーダー。

 

長い赤毛を後ろで結び、背には大型弩。

 

女性だけで構成されたAランクギルドを率いる冒険者だ。

 

彼女は黒蘭を見る。

 

「これ、本当にあんた達だけで?」

 

「ああ」

 

「ロイヤルガードの支援もなし?」

 

「ない」

 

「へぇ」

 

セリアはにやりと笑った。

 

「いい前衛ね」

 

椿の眉が少しだけ動いた。

 

薔薇がいれば楽しそうに笑っただろう。

 

だが黒蘭は何も反応しない。

 

「前衛が必要なのか」

 

セリアは笑う。

 

「うちは女ばかりでね。後衛火力はあるけど、前で無茶できる男手が欲しい時がある」

 

黒蘭は即答した。

 

「断る」

 

「早いわね」

 

「仲間がいる」

 

セリアは椿を見る。

 

「大事にされてるわね、お姫様」

 

椿は凛と答えた。

 

「仲間ですので」

 

「なるほど」

 

セリアはそれ以上からかわなかった。

 

軽口は叩くが、見誤る女ではない。

 

椿の目にあるものを見たからだ。

 

あれは守られるだけの姫ではない。

 

指揮官の目だ。

 

---

 

ガレスは腕を組み、壁にもたれていた。

 

「茶番だな」

 

「二十階の地図で会議とは」

 

アルベルトが言う。

 

「ガレス」

 

「何だ」

 

「軽く見るな」

 

「事実だ」

 

ガレスは黒蘭を見る。

 

「我々は三十六階まで進んでいる」

 

「月下猟姫も三十八階」

 

「ロイヤルガードは四十階付近」

 

「踏破で見れば、まだ下だ」

 

黒蘭は頷く。

 

「その通りだ」

 

また認める。

 

ガレスは苛立つ。

 

否定されれば言い返せる。

 

反発されれば叩ける。

 

だが黒蘭は、事実なら認める。

 

そのくせ、自分を下に置くわけではない。

 

ガレスにはそれが気に入らなかった。

 

---

 

レオンは机を叩いた。

 

「踏破階数の話は後だ」

 

「今日は迷宮維持の話をする」

 

黒蘭が少し顔を上げる。

 

「迷宮維持」

 

「そこから説明が必要か」

 

レオンはアルベルトを見る。

 

アルベルトが頷いた。

 

「黒蘭」

 

「海都の冒険者は、ただ深く潜るだけではない」

 

「ああ」

 

「魔物は戻る」

 

黒蘭の目が細くなる。

 

「戻る?」

 

「そうだ」

 

アルベルトは続けた。

 

「迷宮の魔物は、倒しても絶えない」

 

「数日で戻る個体もいる」

 

「強大な徘徊個体、いわゆるFOEは数日から十日程度で再出現することが多い」

 

「階層主も同じだ」

 

椿が思わず聞いた。

 

「階層主も、ですか」

 

「ああ」

 

「ナルメルは一か月から三か月ほどで戻る」

 

黒蘭は黙った。

 

椿も筆を止める。

 

薔薇や牡丹、百合がいれば、同じように反応しただろう。

 

黒華の戦場では、敵将を討てば、その敵将は戻らない。

 

獣の王を殺せば、別の個体が縄張りを取ることはあっても、同じ役割が決まった周期で戻ることはない。

 

だが世界樹は違う。

 

敵が生まれ続ける。

 

戦場が終わらない。

 

---

 

黒蘭は言った。

 

「迷宮が産んでいるのか」

 

ガルドが答える。

 

「分からん」

 

「学者も完全には説明できない」

 

「ただ、経験則として戻る」

 

「倒しても戻る」

 

「道を開いても、放置すればまた塞がる」

 

セリアも言う。

 

「だから上位ギルドは、深く潜るだけじゃ済まない」

 

「FOEの間引き」

 

「階層主の再討伐」

 

「新人救助」

 

「素材確保」

 

「地図更新」

 

「街の防衛」

 

「全部仕事」

 

アルベルトが続ける。

 

「数年に一度、魔物が上階へ押し出されることもある」

 

「迷宮溢れ、と呼ばれている」

 

「最悪の場合、地上近くまで魔物が来る」

 

黒蘭は静かに聞いていた。

 

その目が変わる。

 

戦場を見る目になった。

 

---

 

「認識を改める必要があるな」

 

黒蘭が言った。

 

レオンが尋ねる。

 

「何をだ?」

 

「冒険者という言葉だ」

 

黒蘭は続ける。

 

「俺は、冒険者とは未知へ進む者だと思っていた」

 

「だが違う」

 

「海都では、迷宮を押し返す者でもある」

 

アルベルトは頷いた。

 

「その通りだ」

 

「なら兵だ」

 

会議室が静かになる。

 

黒蘭は淡々と言った。

 

「名が冒険者であっても、役割は兵に近い」

 

「街を守る」

 

「道を維持する」

 

「敵の発生を抑える」

 

「補給線を確保する」

 

「それは軍の仕事だ」

 

ガレスが鼻で笑う。

 

「我々を兵扱いか」

 

黒蘭は見る。

 

「不満か」

 

「冒険者は自由だ」

 

「自由な兵もいる」

 

「何?」

 

「傭兵だ」

 

セリアが吹き出した。

 

「言うわね」

 

ガレスは不快そうにするが、反論はしなかった。

 

黒蘭の言葉は侮辱ではない。

 

分類だった。

 

---

 

レオンは笑っていた。

 

「面白いな」

 

「お前に海都の防衛計画を見せたら、何と言うか気になる」

 

黒蘭は答える。

 

「見なければ分からない」

 

「見せろと言ってるのか?」

 

「必要なら」

 

「随分堂々としてる」

 

「不要なら見ない」

 

レオンは片目を細めた。

 

この男は利用できる。

 

そう思った。

 

強い。

 

慎重。

 

政治にはまだ不慣れ。

 

だが、軍を知っている。

 

使い方を間違えれば危険。

 

使い方が合えば、海都にとって大きな力になる。

 

レオンの中で、黒華五刀はただの冒険者ではなくなりつつあった。

 

駒。

 

いや。

 

駒として扱うには、あまりに刃が鋭い。

 

---

 

会議は続いた。

 

黒華五刀の暫定Bランク昇格。

 

二十階磁軸の利用権。

 

ナルメル素材の査定。

 

提出地図の複写権。

 

第二階層進入許可。

 

それらが次々に決まっていく。

 

Aランク昇格については、レオンが明確に止めた。

 

「実力なら足りている」

 

「しかしAには規定がある」

 

「海都貢献、救助実績、階層維持、元老院または有力貴族の推薦」

 

「そして政治」

 

「面倒だが、無視できない」

 

椿が尋ねる。

 

「政治、ですか」

 

「Aランクは街の顔だ」

 

レオンは答える。

 

「単に強いだけでは置けない」

 

黒蘭は頷いた。

 

「妥当だ」

 

セリアが笑う。

 

「本当に怒らないのね」

 

「怒る理由がない」

 

「貴族が絡むと面倒よ?」

 

「面倒なら処理する」

 

ガレスが薄く笑う。

 

「処理、ね」

 

アルベルトは内心で少し冷えたものを感じた。

 

黒蘭の言う処理には、冗談が混じっていない。

 

この男は、必要なら本当に切る。

 

規則でも。

 

敵でも。

 

人でも。

 

---

 

会議後。

 

黒蘭と椿はネイピア商会へ向かった。

 

ナルメル素材の一部を持ち込むためだ。

 

ネイピアは素材を見るなり、目を見開いた。

 

「ちょっと」

 

「何ですか、これは」

 

牡丹がいれば微笑んで説明しただろうが、この場には黒蘭と椿だけだった。

 

椿が答える。

 

「ナルメルの牙、鱗、皮膜です」

 

「それは見れば分かるわよ」

 

ネイピアは牙を持ち上げる。

 

「傷が少なすぎる」

 

「普通、階層主素材はもっと荒れるの」

 

「必死に倒すから」

 

「割れる、焦げる、潰れる」

 

「それが普通」

 

黒蘭は言った。

 

「商品だからな」

 

ネイピアは一瞬黙り、それから笑った。

 

「あなた達、本当に冒険者なの?」

 

「登録上は」

 

「その返し、便利ね」

 

椿が少しだけ微笑む。

 

ネイピアは素材を並べ、査定を始める。

 

「高く買うわ」

 

「ただし、全部はここでは捌けない」

 

「元老院、鍛冶屋、薬師、学者にも声をかける」

 

黒蘭は頷いた。

 

「任せる」

 

「簡単に信用するのね」

 

「商人が信用を失えば商売が死ぬ」

 

ネイピアは少し嬉しそうに笑った。

 

「分かってるじゃない」

 

「戦と同じだ」

 

「また戦」

 

「補給が死ねば軍は死ぬ」

 

「商いが死ねば街が死ぬ」

 

ネイピアは黒蘭を見た。

 

この男は、素材を金に換えることも軽く見ない。

 

冒険者の中には、商人を下に見る者もいる。

 

だが黒蘭は違った。

 

戦う者と運ぶ者。

 

売る者。

 

治す者。

 

地図を描く者。

 

その全てを戦力として見る。

 

ネイピアは思った。

 

これは危険な客だ。

 

同時に、絶対に手放してはいけない客でもある。

 

---

 

その夜。

 

クジュラの元に報告書が届いた。

 

ナルメル討伐。

 

二十階磁軸起動。

 

暫定Bランク昇格。

 

会議記録。

 

黒華五刀。

 

黒蘭。

 

クジュラはしばらく黙って読んでいた。

 

ナルメルを倒した。

 

その事実には、そこまで驚かない。

 

海都のAランクなら倒せる。

 

問題は、別の箇所だった。

 

初遭遇。

 

観察。

 

討伐。

 

負傷なし。

 

そして、黒蘭の発言。

 

迷宮は、敵が生まれ続ける戦場。

 

冒険者は、街を守る兵でもある。

 

クジュラは報告書を置いた。

 

「……」

 

黒。

 

その言葉が頭に残る。

 

黒蘭。

 

それは本名ではないはずだ。

 

黒とは号。

 

ならば、あの男の本当の名は別にある。

 

どこの家の者か。

 

何を成したのか。

 

なぜ国を失ったのか。

 

なぜ王族と思われる少女が隣にいるのか。

 

なぜ忍びが二人も黒を持つのか。

 

分からないことが増えていく。

 

クジュラは低く言った。

 

「気に入らんな」

 

だが、その声には以前ほどの侮りはなかった。

 

---

 

同じ夜。

 

ギルドの掲示板には新しい札が掛けられた。

 

---

 

黒蘭一行

暫定Bランク昇格

第一階層踏破

二十階磁軸起動

階層主ナルメル討伐

第二階層進入許可

 

---

 

その下に、すぐ落書きが増えた。

 

「あれでBならAは何だ」

 

「Aには政治がいる」

 

「政治って魔物より面倒だな」

 

「銀狼の牙のガレス、機嫌悪そうだった」

 

「黒い方は全然気にしてなかったぞ」

 

「相手にしてなかった、の間違いだろ」

 

---

 

リッドはその札を見上げていた。

 

ファラとセレネも隣にいる。

 

「Bランク……」

 

リッドが呟く。

 

ファラが言う。

 

「すごいね」

 

「うん」

 

以前のような焦りは少なかった。

 

だが、胸の奥に熱はある。

 

遠い。

 

あまりにも遠い。

 

でも、その遠さが、諦める理由にはならない。

 

「俺達も明日、四階まで行こう」

 

ファラがすぐに言う。

 

「三階まで」

 

「え」

 

「三階まで」

 

セレネも言う。

 

「三階まで」

 

リッドは肩を落とした。

 

「……三階まで」

 

だが、その顔は笑っていた。

 

帰ることを覚えながら、少しずつ進む。

 

それが今の彼らの戦いだった。

 

---

 

宿。

 

黒華五刀は食卓を囲んでいた。

 

薔薇は掲示板の写しを見て笑っている。

 

「暫定Bだってさ」

 

「ずいぶん上がったな」

 

牡丹が微笑む。

 

「報酬も入りましたし、補給を整えられますね」

 

百合が言う。

 

「Aではないのですか」

 

椿が答える。

 

「規定があるそうです」

 

「政治、貴族推薦、街への貢献」

 

百合は少し冷たく言う。

 

「面倒です」

 

薔薇が笑う。

 

「お前、面倒なものは全部斬ろうとするな」

 

「必要なら」

 

「ほら」

 

黒蘭は静かに言った。

 

「今は不要だ」

 

百合は頷く。

 

「はい」

 

薔薇は黒蘭を見る。

 

「今は、って言ったな」

 

「必要なら変える」

 

「規則を?」

 

「ああ」

 

「お前らしい」

 

椿はその横顔を見ていた。

 

黒蘭は無意味に逆らわない。

 

だが、必要なら規則でも切る。

 

それは昔からそうだった。

 

家。

 

身分。

 

命令。

 

血。

 

国。

 

必要なら、全てを選び直す。

 

その覚悟がある。

 

だから皆が従う。

 

ただし、本人だけがそれをよく分かっていない。

 

---

 

黒蘭は地図を広げた。

 

第一階層ではない。

 

その先。

 

二十一階以降。

 

第二階層。

 

まだ空白。

 

黒蘭はその白い部分を見る。

 

「次だ」

 

薔薇が笑う。

 

「もう行く気か」

 

「準備してからだ」

 

牡丹が満足そうに頷く。

 

「そこはよろしいです」

 

百合が言う。

 

「二十階磁軸を起点にできます」

 

椿が記録する。

 

「第二階層探索開始は、補給と情報収集後」

 

黒蘭は頷いた。

 

「急ぐ理由はない」

 

薔薇は少し意外そうにする。

 

「名声が広がってる今、勢いで行くのも手だぞ」

 

黒蘭は答えた。

 

「名声で魔物は死なない」

 

「だよな」

 

薔薇は笑った。

 

---

 

その夜、海都の各所で黒華五刀の名が囁かれた。

 

商人は素材を見たがった。

 

冒険者は地図を欲しがった。

 

元老院は利用価値を測り始めた。

 

Aランク達は距離を測った。

 

クジュラは黒の意味を考えた。

 

リッドは背を追った。

 

そしてガレスは、面白くなさそうに酒杯を傾けた。

 

海都は広い。

 

迷宮は深い。

 

黒華五刀は、その両方へ踏み込み始めていた。

 

第九話 了

 

 

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