越後の軍神、その兄でございます。   作:元ジャミトフの狗

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おまえの事はいつだって大切に思っていた

「はぁ?」

 

 春日山城下の上杉屋敷。こめかみに青筋を浮かべ、今にも何かが切れそうな顔をしているのは、上杉輝虎――我が妹にして妻たる平三だった。

 

「……年に一度、織田に会うため岐阜城へ顔を出せ、と」

 

 平三は、晴信から贈られた塩留めの太刀を、ことりと脇へ置いた。

 

「そして兄上は、それをお受けになったと?」

「……はい」

「ふぅん?」

 

 口元には、にこやかな笑みが浮かんでいる。怖い。笑っているのに、ものすごく怖い。

 

「その……これでも、だいぶ譲歩してもらったんだ」

「はぁ? 譲歩?」

 

 平三の声が一段低くなる。

 

「そもそも、兄上が人質同然に岐阜へ赴く謂れなどありませぬが?」

「人質ではない。あくまでも、友誼を深めるためにだな」

「他国の城へ滞在すること、それを世間では人質と呼ぶのですが。はて、私の思い違いでしたか? それとも私の知らぬ風習があると?」

「いや、あの。別にずっと岐阜にいるわけでもないというか」

「ではどの程度、その岐阜とやらに滞在するのですか?」

「……三か月ほど」

「張っ倒しますよ」

「……ごめんなさい」

 

 俺は正座したまま、すっかり顔を伏せていた。おそらく、あと少し追及されれば、そのまま額を畳へ擦りつけている。

 傍らでは弥六郎が、不思議そうにこちらを見上げていた。見るな。頼むから、父のこの情けない姿を見ないでくれ。

 

「たしか、その信長とやらは女子でしたね」

「……はい」

「兄上は毎年、その女子の城へ三か月も通うと」

「言い方に悪意がないか?」

「これはもう、浮気なのでは?」

「ち、違う。三郎とは、そういう仲では――」

「――三郎?」

 

 空気が凍った。

 

 しまった。今のは駄目だ。いや、先ほどから何を口にしても地雷を踏み抜いている。正確には、地雷を踏んでいるのではない。

 俺が自ら穴を掘り、その底へ火薬を詰めているのだ。

 

「……仮名を呼んでいるのですか?」

「向こうが勝手に六郎と呼び始めたから、その流れで……」

「――六郎?」

「もう黙った方がいいな、俺」

「ようやくお気づきになりましたか」

 

 平三は長く息を吐いた。しばし目を閉じ、昂ったものを押し込めるように呼吸を整える。再び開かれた瞳からは、先ほどまでの嫉妬めいた色が薄れていた。

 

「……真面目な話をいたしましょう」

「はい」

「政ですね」

「はい」

「織田との関係は、それほどまでに重要なのですか」

「……はい」

 

 平三は俺の返答を聞くと、わずかに身を乗り出した。

 

「ならば、改めてお尋ねします」

 

 その声音は、もはや妻のものではなかった。関東管領として、越後の行く末を問う上杉輝虎の声だった。

 

「兄上。織田とは、()()()()の相手なのですか」

 

 平三の問いに、俺は静かに頷いた。

 

「私はこれまで、武田、北条、時には一向一揆とも刃を交えてまいりました。いずれも侮りがたき強敵にございましたが――控えめに申し上げても、我が武威は彼らに勝るものと存じまする」

 

 それは決して驕りではない。武田も北条も、戦国の世に名を轟かせる強者に違いなかった。そして平三は、その両者をなお上回る力を有している。

 少なくとも、戦場で正面から刃を交える限り、俺もこいつが負ける姿を想像できなかった。だが――信長の恐ろしさは、そこではない。

 

「武において、お前は織田に勝ろう」

「…………」

「あるいは、純粋な兵の強さだけを比べれば、織田は武田にも及ばぬかもしれない」

 

 むしろ少し前まで侮られていたことのほうがおかしいくらいに、武田は強いのだ。

 平三は口を挟まず、俺の言葉を待っている。

 

「だが天運というものは、時として武略の差すらことごとく覆す」

「天運」

「ああ。お前は二千の手勢をもって、万を超える敵を野戦で打ち破れるか?」

 

 平三はすぐには答えなかった。しばらく考えた後、わずかに眉を寄せる。

 

「……勝てる、と申し上げたいところではございますが」

「うん」

「兄上がなさりたいのは、そのような話ではないのでしょう」

「すまんな」

「いいえ。お続けください」

 

 平三は姿勢を正した。俺もまた、腹の内にある確信を言葉にする。

 

「織田はいずれ天下を取る」

「……」

「畿内を平定するだけでは終わらない。いずれは日の本の諸国すべてを、その支配の下へ置こうとするだろう」

「……そのようなことをすれば、他の大名が黙っておりますまい」

「ああ。黙ってはいない」

 

 旧来の秩序にしがみつく者。己の領国を守ろうとする者。幕府や寺社の権威を掲げる者。誰もが信長の前へ立ちはだかるだろう。

 

「だからこそ、織田はすべてを変える」

「……分かりませぬ」

「言葉の通りだ。この世を成り立たせている仕組み、そのものを。すべて、全部塗り替える」

 

 守護も。幕府も。寺社も。大名同士の古びた盟約も。信長にとって邪魔となるならば、等しく壊される。すべて、すべてが均される。

 

「古い世を壊し、その上に、新たな世を作り直す」

 

 俺の知る歴史では、信長はその途上で倒れた。それでもあの女が切り開いた道は、後に続く者たちによって完成される。その先に太平の世が待っている。

 

「平三。織田の恐ろしさは、戦の強さではない。戦の在り方そのものを。あるいは世の仕組みすら変えて、自ら作り上げてしまうことだ」

 

 これまでの大名は、与えられた枠組みの中で上へ昇ろうとしてきた。

 

 守護となる。

 管領となる。

 将軍家から官途を得て、己の支配を正当化する。

 

 信長は違う。既存の仕組みが己の邪魔になると判断すれば、その枠組みそのものを打ち壊すことに、何のためらいもない。

 平三はしばし考え込んだ後、わずかに首を傾げた。

 

「――兄上であれば、同じことができるのではありませぬか」

「どうだろうな」

「兄上がお立ちになるのであれば、私はいかようにも働きまする」

 

 あまりにも迷いのない言葉だった。俺が天下を望むと言えば、この妹は明日にでも兵を集めるのだろう。関東を平らげよと言えば関東へ向かい、京を目指せと言えば、雪が残っていようと山を越える。

 それだけの力があり、それだけの覚悟もある。俺のためならば、何もかも躊躇なく振るう。

 

「ありがとう」

 

 思わず、声が柔らかくなる。ほかの誰でもない。平三にそう言ってもらえることが、素直に嬉しかった。こいつほど頼もしい味方は、この世のどこを探してもいないだろう。

 

 だが、頼もしい味方がいることと、天下を望むことは別の話だ。

 

「俺には信長のようなものがない」

「信長のようなもの?」

「ああ」

 

 何と説明すればよいのか考え、膝の上で指を組む。

 

「この国を、世界をどのような姿に変えたいのか。その明確な展望だ」

 

 越後を治める。国衆同士の争いを抑え、民を飢えさせず、戦を少しでも減らす。信濃や上野を守り、武田や北条に好き勝手をさせない。

 そこまでなら考えられる。目の前にある問題を一つずつ片づけ、少しでも穏やかな日々を増やしていく。俺がこれまでしてきたのは、そういうことだった。

だが、天下すべてを治めるとなれば、話はまるで違ってくる。

 

 守護や国衆を、どのように扱うのか。幕府や朝廷、寺社を新たな世の中でどう位置づけるのか。広大な諸国を誰に治めさせ、いかなる法で統べ、どのような仕組みで銭や兵を集めるのか。

 

 俺は、その先にある世の姿を知っている。諸国が一つの国としてまとまり、法によって治められ、人々が戦に怯えずに暮らす世を。だが、そこへ至るまでの道筋が見えない。

 答えだけは知っているのに、途中の式を一つも書けない。どうしてその答えへ辿り着くのかと問われれば、何一つ説明できないのだ。

 

 まったくもって、笑えない話だった。

 

「俺にできるのは、せいぜい一国を治めることくらいだ」

 

 上野や信濃へ勢力を伸ばしたのも、天下を望んだ結果ではない。助けを求められるたびに兵を出し、迫る敵を追い払い、気づけば支配する土地が増えていただけだ。

 

 無論、純粋な善意だけで動いてきたわけでもない。越後へ直接敵兵を踏み込ませぬため、その外側に緩衝となる土地を築いてきた。言ってしまえば、他国を越後の防壁として利用しているのだ。

 

 結局のところ、俺がしてきたのは、目の前に燃え移った火を一つずつ消してきたに過ぎない。

 

「俺には、天下そのものを作り直そうなどという大それた考えはないよ」

 

 信長は、まだ見ぬ世の形を思い描き、そのために今あるものを壊そうとしている。

 

 俺は違う。壊れかけたものを拾い集め、どうにか元の形へ戻そうとしてきただけだ。似ているようで、その実、まるで違う。

 

「そうだな。うん。信長は行き先を決めてから道を作る。俺は目の前の道が崩れていれば、通れるように直すだけだ」

「それの何が悪いのでしょう」

「悪くはないさ」

 

 むしろ、それで十分だと思っている。明日の食事に困らず、家臣たちが内輪揉めをせず、平三と弥六郎が穏やかに暮らせる。俺が望むものなど、本当はその程度だった。

 

 そもそも俺は、天下を欲しいと思ったことなど一度もない。

 

「ただ、天下を取る者の考え方ではないというだけだ」

 

 でも、もし贅沢を言って良いのであれば。身の丈以上の願いを述べても良いのなら。こんな戦乱の世など、一日でも早く終わってほしい。

 

 かつて俺が生きていた世界。この時代から、およそ四百年の先に待つ日本では、少なくとも国内で戦が日常的に起こることはなかった。

 もちろん、何もかもが満たされた世ではない。貧しさも、不平等も、人と人との争いもあった。解決しなければならない問題など、数え切れないほど残されていた。

 

 それでも、多くの者が明日には戦に巻き込まれ、命を落とすかもしれないという恐怖に怯えずに済んだ。田畑を耕す者が、収穫の直前に兵に踏み荒らされることもない。親が子を戦場へ送り出し、帰らぬ背中を見送ることもない。

 生まれた家や性別だけで、歩む道のすべてを決めつけられることも、少なくともこの時代ほどではなかった。多くの者が、自ら望む生き方を選ぶことができた。

 

 それがどれほど恵まれた世であったのか。戦国の世を生きて、俺は初めて思い知った。

 平穏とは、何も起こらない退屈な日々ではない。家族が朝に目を覚まし、夜には同じ屋根の下へ帰ってくる。明日の食事を考え、くだらないことで笑い、十年先のことを当たり前のように語れる。

 

 そんな日々こそが、何ものにも代え難い幸福なのだ。

 

 俺に天下を取る器はない。だが三郎信長が、本当にこの戦乱を終わらせ、その先にある世への道を切り開こうとしているのなら。

 たとえ、その手段に賛同できぬことがあったとしても。俺の知る平和な世へ、ほんのわずかでも近づくための手助けができるのなら――。

 

「俺は、喜んで力を貸すよ」

 

 天下が欲しいわけではない。ただ、弥六郎たちの世代には、俺たちと同じ苦労を味わってほしくなかった。

 

「……兄上のお気持ちは、よく分かりました」

 

 すべてを聞き終えた平三が、かすかに微笑んだ。どこか悲しげでありながら、それでも安堵したような、不思議な笑みだった。

 

「どうして、そんな顔をする」

「兄上の宿願を叶えられぬどころか、そのお心を察することすらできなかった己が、ひどく恥ずかしくて。どうにも、堪えられませぬ」

「……お前が気にすることではないだろう」

 

 俺はこれまで、この願いを誰にも語ってこなかった。分かるはずがない。分かってもらおうとすらしていなかったのだから。

 

「いいえ」

 

 平三は静かに首を振った。

 

「兄上の望みは、私の望みにございます。何も持たぬ、空っぽであった私に、惜しみなくすべてを注いでくださったのは、ほかならぬ兄上なれば」

 

 そう言うと、平三は傍らにいた弥六郎をそっと抱き上げた。弥六郎は何も分からぬまま、母の胸元へ小さな手を伸ばしている。平三はその手を包み込み、しばらく見つめていた。

 

「兄上の願いを、この手で叶えて差し上げられぬことは、まことに口惜しゅうございます」

「平三……」

「ですが、その願いを叶え得る者がいるのであれば」

 

 平三は顔を上げた。頬にはまだ涙の跡が残っていたが、その表情はすでに揺らいでいなかった。

 

「それが、兄上ご自身がお認めになった方であるならば、是非もありませぬ」

 

 それは諦めの言葉ではなかった。己の誇りも、武威も、何より大切にしている兄への想いさえ呑み込み、それでも俺の願いを優先すると決めた者の言葉だった。だからこそ、胸が痛んだ。

 

「……すまん」

「謝らないでください」

 

 平三は弥六郎を抱いたまま、静かに首を横へ振った。その手は、何も知らぬ我が子の背を一定の調子で撫でている。声音も穏やかだったが、次に続いた言葉には、わずかな翳りが混じっていた。

 

「むしろ、謝らねばならぬのは私のほうにございます」

「それは、どういう――」

「――私には分かります」

 

 俺の問いを遮り、平三は顔を上げた。先ほどまで残っていた柔らかな面差しは消え、そこには一国を預かる者の厳しさが戻っている。

 

「信長は、兄上を求めているのでしょう。そのためであれば、越後へ兵を差し向けることすら辞さぬ。信長が申したのは、そういうことではありませぬか」

 

 平三の腕の中で、弥六郎が小さく身じろぎした。幼い身体を抱き直す手つきはどこまでも優しい。だが、続く言葉には情け容赦がなかった。

 

「兄上と私が世を去った後――」

 

 そこで、わずかに間が落ちる。

 平三は胸元に収まった我が子を見下ろした。母としての慈しみの奥に、この子がいずれ背負うものを量る当主の冷徹さが覗いている。

 

「この子一人が残された越後へ」

「……なぜ、そう思った」

 

 そう尋ねながらも、俺自身、すでに答えは知っていた。他ならぬ信長本人から聞いたからだ。

 

 信長が欲しているのは、単なる越後の土地ではない。俺が築き上げてきた政の仕組みも、培ってきた知識も、そのすべてを己が描く天下へ取り込みたいのだ。

 

 俺が生きているうちは、力ずくで奪うより、手を結んで利用するほうが得策だろう。だが、俺も平三もいなくなれば、その均衡は崩れる。残るのが、まだ若い弥六郎一人となれば――信長にとって、越後を併呑しない理由はない。

 

 平三は我が子の頬をひと撫ですると、俺へ向き直った。

 

「私ならば、そういたしますゆえ」

 

 あまりにも平然とした答えだった。怒りも嫌悪もない。そこにあるのは、同じものを欲する者だからこそ抱ける、冷ややかな納得だけだった。

 

 信長が俺を欲している。そして、俺を手に入れられぬまま時が過ぎれば、その執着はいずれ、俺の死後に残されたものへ向かう。

 平三には、それが理屈ではなく、本能として分かるのだろう。

 

「だから兄上は、ご自身を差し出してでも、この子の先行きを守る道をお選びになった」

 

 平三は得心したように、小さく息を吐いた。

 

「ああ。兄上と織田何某が、どのような駆け引きをなされたのか、目に浮かぶようです」

 

 俺としては、そこまで大層な覚悟をもって交渉へ臨んだつもりはない。信長が越後の弱みを突き、俺は示された条件の中から、最も損の少ないものを選んだ。それだけの話だった。

 

 それでも結果として、俺が年に三月を差し出すことで、弥六郎の未来に少しでも猶予を買えるのなら、拒む理由はなかった。

 そして平三は、そのことをすっかり見通している。かつては人の心が分からぬと、あれほど苦しんでいたというのに。

 

「お前には、もう敵わないな」

「――はい」

 

 平三は当然のように頷いた。

 

「ですから、兄上の浮気――失礼。岐阜へ参上なさる件も認めます」

「おい」

「政のお話にございます」

「今、明らかに別のものが混じっていただろう」

 

 追及したところで、平三は素知らぬ顔をして弥六郎をあやしている。当の弥六郎は、父母の間で何が話されているのかも知らず、母の着物の襟をしきりに弄っていた。

 

「とはいえ、三か月でございますか」

 

 平三の声から、先ほどまでの張り詰めた響きがすっと抜けていく。

 

「――少々、寂しゅうございますね」

 

 伏せられた睫毛も、わずかに下がった眉尻も、いかにも心細げだった。そんな愛しい女の姿を目の当たりにした瞬間、俺の頭の中で、何かがぷつりと切れた。

 

「平三」

「な、なんですか」

「少し待ってろ」

「――は、はい」

「今から鍛冶職人を呼んで参る」

「そんな。こんな昼間から――って、職人? は? なんで?」

「平三!! 絶対にお前を一人にしないからなぁ!!」

 

 平三を残して部屋を後にする。そうだ! ついでに信長の鼻も明かしてやる! うおぉぉぉ!!

 




・長尾晴景
 妹兼嫁に詰められる。なにやら考えがあるらしい。

・上杉輝虎(お虎)
 兄上最大の理解者。越後太守として立派に成長している。
 ただそれはそれとして嫉妬するし寂しい。あとお預けを食らって大変不服。


ちなみに隠居殿は何を思いついたと思いますか?

どっち?

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