シーラが姿を消した。
別れの挨拶もなく。
包帯も。
荷物も。
まるで最初から存在しなかったかのように。
「……やっぱり」
ベルは森の中を歩き回っていた。
足跡。
焚き火の跡。
食べ残し。
何か一つくらい痕跡があると思った。
しかし、何も見つからない。
「さすがはハンター志望ってとこかな」
苦笑する。
それでも胸には小さな後悔が残った。
(もっと話を聞いておけばよかったなぁ)
彼女は何者だったのか。
なぜ一人で旅をしていたのか。
旅団とは関係があるのか。
結局、何一つ分からないままだった。
そして数日後、村中に怒鳴り声が響いた。
「クラピカァァ!!」
ベルが慌てて駆けつけると、長老の前に一冊の本が置かれていた。
『
隠していたはずの本。
誰にも見つからないよう大切にしまっていた本だった。
「外の本を持ち込むとは何事じゃ!」
「ぐっ…これは…」
クラピカが言い返す。
「外の世界を知るためだ!」
「外の世界は危険じゃ!」
「だから知りたいんだ!」
二人の声は次第に大きくなっていく。
ベルはただ黙って見守っていた。
やがて根負けした長老は静かに口を開く。
「……試験を受けよ」
その一言で場が静まり返った。
「外へ出る資格があるか。儂が見極めよう」
◇
その日の夕暮れ。
ベルは縁側に腰掛ける長老の隣へ座った。
「ねぇ、おじいちゃん」
「なんじゃ?」
「クラピカは好奇心だけで外へ行きたいわけじゃないんだよ?」
長老は静かに空を見上げる。
「知っておる」
短い返事だった。
「パイロの目と足を治したいんじゃろう」
ベルは目を見開く。
「知ってたの?」
「長老を何年やっとると思っとる。村の子らの様子くらい分かるわい」
小さく笑う。
パイロ。
幼い頃から少しずつ悪化していく視力。
歩くことさえ辛そうな足。
優しく聡明な少年なのに、その身体だけが未来を奪っていく。
「不憫だとは思っておった」
長老はぽつりと呟いた。
「本来ならあの歳で走り回っておる頃じゃ」
「……」
「だからこそ、チャンスをやる」
ベルは祖父を見つめる。
「外へ出る理由が自分の欲だけなら止めた。じゃが…誰かを救いたいという願いなら、一度くらい賭けてみる価値はあっても良かろう」
その横顔は、どこまでも優しかった。
しばらく沈黙が流れる。
やがて長老は急にベルを見て笑った。
「しかし、このままではなぁ」
「?」
「パイロの嫁は苦労するじゃろう」
「え?」
「いっそ、お前があの子を婿にもらえば丸く収まるんじゃが」
「…………」
ベルの思考が止まる。
「なっ……!」
耳まで真っ赤になる。
「バ、バカじいちゃん!! 何言ってんの!?」
勢いよく立ち上がる。
「昔から仲良しじゃろ?」
「それとこれとは話が違う!」
「ほっほっほ。照れおって」
長老は腹を抱えて笑う。
「照れてない! 誰かに聞こえたらどうするの!」
「聞こえたら聞こえたでよい」
「よくない!」
顔を真っ赤にして抗議するベルを見ながら、長老は目を細めた。
その笑顔には、ほんの少しだけ願いが込められていた。
(この子たちが、大人になる頃も……今のように笑っていてくれれば)
そのささやかな願いが叶わない未来を、ベルだけは知っていた。
だからこそ、照れ隠しに長老をぽかぽか叩きながらも、胸の奥では静かに誓う。
(絶対に守る。この笑い合える毎日を)
◇
クラピカは深呼吸をした。
長老から与えられた三つ目の試験。
――自己抑制試験。
外の世界へ買い出しに行き、帰ってくるまで緋の目を一度も発現させないこと。
クルタ族にとって最も難しい試験だった。
「では、お前の同行者を決めなさい」
長老の言葉に、クラピカは二人へ視線を向ける。
パイロ。
ベル。
どちらも大切な友達だ。
「……」
ベルは腕を組みながら、じっとこちらを見ている。
パイロは少し緊張した様子で微笑んでいた。
(長老と一緒に暮らしてるベルなら外の世界にも詳しい知識を持っている)
そう思った直後、別の考えが頭をよぎる。
(だけど……)
パイロは足と目に障害を抱えている。
村の外へ出たこともほとんどない。
せめて一度くらい外の世界を見せてやりたい。
その思いが、クラピカの中で静かに膨らんでいく。
「……パイロ」
「え?」
「一緒に来てくれ!」
パイロは目を丸くした。
「ぼ、僕でいいの?」
「もちろん!」
その返事を聞いた瞬間。
「…………」
ベルは見るからに肩を落とした。
「そっかぁ……」
口を尖らせながら地面を見つめる。
そんな様子にクラピカは胸が痛む。
「……ベル」
「ごめんね、ベル」
パイロまで申し訳なさそうに頭を下げる。
するとベルはぷくっと頬を膨らませ、
「そんな顔しないの!」
と二人の額を軽く指で突いた。
「やっと最後まで来たんじゃない」
そう言ってニッと笑う。
「ここで気を抜いて不合格になったら、一生笑ってあげるんだから」
「……それは嫌だな」
クラピカが苦笑すると、ベルも楽しそうに笑った。
「それにね」
ベルは人差し指を立てる。
「私も今回の試験、ちょっとやってみたいって思ったんだ」
「試験を?」
「うん」
彼女は得意げに胸を張る。
「特にペーパーテスト!」
「……そこか」
「だって気になるじゃん。試験問題」
好奇心旺盛なベルらしい興味だった。
「だからさ…」
ベルはクラピカに向かって手を振る。
「帰ってきたら分からなかった問題、教えてよね」
「……うん」
「約束だからね」
クラピカは静かに頷いた。
その笑顔を見て、胸につかえていたものが少しだけ軽くなる。
(やはりベルは強いな)
選ばれなかった悔しさがないはずはない。
それでも笑顔で送り出そうとする。
そんな優しさに、クラピカは何度救われただろう。
「じゃあ早速準備だ! 行こう、パイロ!」
「うん!」
二人は互いに自宅へ向かって走り出す。
その背中に向かってベルは大きく手を振った。
「いってらっしゃーい! お土産忘れたら許さないからねー!」
「……ベルらしいな」
クラピカは思わず笑みを漏らす。
「ふふっ」
隣でパイロも笑った。
二人の姿が家の中に消えていくのを見届けると、ベルは笑顔のまま小さく息を吐く。
「さて」
誰もいなくなった広場で、小さく拳を握る。
「私も私で頑張らないとね」
クラピカが外の世界への一歩を踏み出す日。
それはベルにとっても、「仲間を守るための力」を手に入れる時間の始まりだった。