―――祈り、壊死し給え
狂人の走り書きより。
◇◇◇
さて、暇人諸君。
『祈り』とはなんだろうか?
英語でprayer、ロシア語ならмолитва、ドイツ語だとdas Gebetと表す。
祈りとは行為であり、在り方であり、願い。
悪しく言うなれば押し付けに近いものかもしれない。
「こうあって欲しい」「こうであるべき」「だからどうかお願いだ」と。
まあ、仕方無い。
仕方の無い事だろう。
人は縋らねば生きていけない弱く、脆い生き物なのだから。
ああ、確かに縋らずとも生きれる者は居るだろう。
だがそれは縋る、ではなく自身を支えにしていると言えるだろう。
故に人間は弱く、脆い。
うんまあ、私は人間否定がしたいわけでは無いのだよ。
補足しておくと人間は下手に賢くなり過ぎてしまったのだ。
コミュニティの肥大化、コミュニケーションの多様化、ああ、大いに結構。
だがしかし、過ぎたるは猶及ばざるが如しと言うだろう。
それに近い。
人間は中途半端に賢くなってしまった。
人間が、人類が正しく賢くなれていたならば戦争など起こっていないだろう。
上位者がいたならどう思うのだろうか。
「それでも愛そう」とアガペーを謳うのか。
「うわ、馬鹿が馬鹿してらwww」と嘲笑うのか。
「どうでもいい」と無関心になるのか。
話は変わるが、祈りは壊死に似ている。
祈る事は極論神頼み、思考の放棄だ。
それは壊死と何が違う?
違わんだろう。
ああ、祈る事の使い方によるがね。
まあ、かなり馬鹿馬鹿しいことではあるが。
ただ縋り、どうにかなる事(何かの救い)を待つ。
その救いが来なければ祈り続けるのか?
死んで、腐り落ちるまで。
ああ、私はそれを直視できないだろう。
それはある意味で正しく、真摯で、敬虔な祈りだからだ。
私ごときが馬鹿にすることも、憐れむことも、できないだろう。
それは侮辱だ。
ああ、ああ、私は何故こんなものを書いているのか。
あんまりだ。
―――あんまりにも私が▓▓ではないか。
ふむ。
何を今更、という気が無いこともないが。
まあ狂人とはそういうものだろう。
気が狂い、それでもなお人を続けているのだから。
故に敢えて言おう。
祈れ、そして壊死せよ。
それは正しい事だ。
卑下することなど無かろう。
停滞も、諦観も、怠惰も、ああ、素晴らしいじゃあないか。
存分に祈り給え。
壊死するまで祈るのだ。
・・・うむ、何を綴っているのだろうな私は。
まあ良い。
言いたいこと、綴りたいことは散逸したものの、祈りとはそう言うものだろう。
ああ、祈り、壊死し給え。
それが、それこそが一つの祈りの形であり正しさである。
おお、▓よ。
私は祈ろう。
だが、壊死はしないだろう。
もう既に死んでいるのだから。
▓は友かもしれないし、別の何かかもしれない
狂人の走り書き