それから数日たった放課後。
ゼータシンボリは、いつものようにトレーナー室に行くが、扉の前で立ち止まってしまう。
「……」
いつもならすぐに開き中にいる柊や彩乃に挨拶を交わしている、だが今日はなかなか手が動かなかった。
相談したいことは決まっている。
担当トレーナーについて、そしてーー
自分が、これからどうしたいのか。
「……」
深く息を吐き呼吸を整える。
「失礼します」
そう言い扉を開けた。
「おう、ゼータか」
いつもの声が返ってくる。
「こんにちは、柊さん」
「ああ、、、どうした?」
蓮司郎はゼータの顔を見ると、すぐに何かを察したようだった。
「……今日は随分と真面目な顔してんな」
「そうでしょうか?」
「いつもよりな」
「……少し、ご相談したいことがありまして」
「相談?」
「あまり時間は取らせません」
「別に構わねぇよ」
蓮司郎は椅子を一つ引いた。
「座れ」
「ありがとうございます」
ゼータは椅子に腰掛ける。
蓮司郎も向かい側へ座った。
「それで?」
「……担当トレーナーのことなんです」
その言葉に、蓮司郎の表情が少し変わった。
「ほう」
「先日、学校の先生からも言われまして」
「そりゃそうだろうな」
「私も、そろそろ決めなければならないと思っています」
「そうか」
蓮司郎は急かさなかった。
「それで、何を聞きたい?」
ゼータは少し考える。
「……柊さんなら」
「ん?」
「担当トレーナーを選ぶとき、何を基準にしますか?」
「前にも似たようなことを聞かなかったか?」
「……そうでしたね」
「今度は、随分と切羽詰まってるみてぇだな」
「はい」
ゼータは正直に頷いた。
「トレーナーがいなければ、私はデビューできませんから」
「ああ」
「だから、いつかは決めなければいけない」
「そうだな」
「でも……」
そこで言葉が止まった、蓮司郎は黙って待っている。
「……誰でもいい、というわけにはいかないと思っています」
「当然だ」
「私は……」
ゼータは膝の上で手を握った。
「自分の事情に、その人を巻き込みたくないんです」
「事情?」
「……」
ここまでなら言えるだろう、けれど、自分の本当の考えまで話してしまえば、この人を本当に巻き込むことになる。
「……私は、長くレースを続けるつもりがありません」
蓮司郎の目が細くなる。
「ほう」
「できるだけ早く、レースを終えて……トレーナーになりたいと思っています」
「それは前にも聞いたな」
「はい」
ゼータは一度、目を伏せた。
「でも……」
「まだ何かあるのか?」
「……あります」
静かな声だった。
「私は、最初から……長く走るつもりがないんです」
蓮司郎は黙っている。
「前にも言ったように、必要な結果だけ残して早々に引退するつもりです。だから、私を担当してくださる方には……」
ゼータは苦しそうに言葉を続ける。
「きっと、期待を裏切ることになると思います」
「どうしてだ?」
「担当になってもらったのに、私は長く走らないからです」
「……」
「それだけじゃありません」
ゼータは拳を握り少し間を開けたのち次の言葉を吐き出す。
「もしかしたら……」
「私は、レースでわざと負けるようなことをするかもしれません」
蓮司郎の表情が止まった。
「……そうか」
「はい」
「それは……自分からそうするってことか?」
「……はい」
ゼータは頷く。
「勝てるのに、勝たない、そういうことです」
「理由は?」
「……」
ゼータは答えられなかった。
ウマソウルのこと、他者の運命を見てしまうこと。そして何より、自分にはそのウマソウルがないということ。
「……私には、そうする必要があるんです」
蓮司郎はしばらくゼータを見つめた。
怒るわけでもなく、呆れるわけでもない。
ただ、静かに考えている。
そして
「なるほどな」
それだけだった。
「……怒らないんですか?」
「怒る理由がねぇだろ」
「でも、トレーナーとしては……」
「勝てる奴に、わざと負けろなんて言われたら、そりゃ困るさ」
「……はい」
「だがな」
蓮司郎は椅子へ深く腰掛けた。
「お前さんが何を考えてそうするのか、それを聞かずに怒るほど俺も馬鹿じゃねぇ」
「それにお前さんは、レースが好きだ。愛してるって言っていいくらいにわな」
「それを曲げるくらいの理由がお前さんにはあるんだろ?」
「……はい」
「なら、俺はそれを聞いた上で考える」
「……柊さん」
「それに」
蓮司郎は少し笑った。
「まだお前さんが何をするかも決まってもねぇんだろ?」
「……そうですね」
「なら、今から全部決めつける必要もねぇ」
「……」
「ただし」
声の調子が少し変わった。
「一つだけ約束しろ」
「何でしょう?」
「自分を壊すようなことだけはするな」
ゼータの瞳が揺れる。
「……」
「早く引退したい」
「わざと負けるかもしれない」
「そこまでは、お前さんの考えとして受け止める」
「だが、自分を傷つけることまでして、それを理由に引退しようとするなら話は別だ」
ゼータは何も言えなかった。
「……分かりました」
「本当か?」
「はい」
「ならいい」
蓮司郎は小さく息を吐いた。
「それで」
「はい」
「その話を、なんで俺にした?」
「……」
ゼータは答えに迷った、けれど。ここへ来た理由を考えれば、もう答えは決まっていた。
「……柊さんなら」
「うん?」
「私の話を、聞いてくれると思ったからです」
蓮司郎は黙った。
「私が何を考えているのか」
「何をしたいのか」
「ちゃんと話を聞いて、それから考えてくれると思ったんです」
「……そうか」
「だから……」
ゼータは小さく息を吸う。
「ただ相談したかったんです」
蓮司郎はしばらく何も言わなかった、そして。
「そうか……なら、一つ聞く」
「はい」
「お前さんは、俺に担当になってほしいのか?」
「……」
ゼータの胸が大きく鳴った。
それは、今まで考えないようにしていたことだった。柊に担当になってほしい、そう思ったことがないわけではない。むしろこの半年、何度も、この人ならと思っていた。
けれど。
「……私は」
言葉が震える。
「柊さんを私の事情に巻き込みたくありません」
「そうか」
「私は、早く引退するかもしれません」
「それはさっきも聞いた」
「もしかしたら……柊さんの望むような結果を残さないかもしれません」
「それも分かった」
「それでも……」
ゼータは顔を上げる。
「それでも、いいんですか?」
蓮司郎はしばらくゼータを見る。
そして。
「お前さん」
「はい」
「俺はな」
ゆっくりと言葉を続ける。
「最初から、お前さんを長く走らせるために活躍できるように、話をしてたわけじゃねぇよ」
「……」
「お前さんがどこへ行きたいのか、何をしたいのか、それを聞きたかっただけだ」
「……」
「それに」
蓮司郎は少しだけ笑った。
「俺が担当したからって、お前さんの人生まで俺が決めるわけじゃねぇ」
ゼータの目がわずかに見開かれる。
「だから――」
蓮司郎は、はっきりと言った。
「俺と契約しないか?」
「俺がお前さんの担当トレーナーになる」
「……本当に?」
「ああ」
「でも……」
「まだ何かあるか?」
「私は……」
ゼータは言葉を探す。
「本当に、早く引退するかもしれません」
「構わねぇ」
「わざと負けるかもしれません」
「分かってる」
「……それでも?」
「それでもだ」
即答だった。
ゼータの胸が熱くなる。
「……どうして」
「ん?」
「どうして、そこまで……」
蓮司郎は少し考えてから。
「お前さんが、俺に相談しに来たからだ」
「……」
「それだけじゃ不満か?」
「……いいえ」
ゼータは首を横に振った。
「十分です」
そして。
「……お願いします」
静かな声だった。
「私の担当トレーナーに、なってください」
蓮司郎は笑った。
「おう」
「……はい」
「これからよろしくな、ゼータ」
「こちらこそ……よろしくお願いします、柊さん」
その言葉を口にした瞬間。
ゼータの胸にあった何かが、ほんの少しだけ軽くなった。
これまで、誰かと契約することが怖かった、自分の事情に巻き込んでしまうことが怖かった、けれど。
この人だけは。
自分のすべてを知らなくても、自分の選ぶ道を、否定せずに見てくれる、そんな気がした。
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その帰り道、ゼータは一人、学園の道を歩いていた。
「……担当トレーナー」
そう小さく呟く。
正式に決まった。
柊蓮司郎、自分の担当トレーナー。
「……」
胸の奥が、不思議なほど温かかった、けれど。
その一方で。
「……私は、引退する」
そう呟く。
決意は変わっていない、レースから離れる、トレーナーになる。
そのために。
必要な結果だけを残す、そして。
「……その後は」
自分の足元を見る。
「私の道を歩く」
そう決意した。
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その日の夜、トレーナー室で、蓮司郎は一人机に向かっていた。本日、正式に担当となったゼータの資料を開く。
「……」
選抜レース、実技記録、これまでの授業での走り。どれも、一見すれば大きな問題はない、だが、蓮司郎には分かっていた。
「はぁ……こいつぁ、簡単な話じゃねぇな」
ゼータが何かを抱えている、それは間違いない、今日の会話でそう確信した。
だが。
今はまだ、無理に聞き出すつもりはなかった。
「本人が話すまで待つべきか」
そう呟き、資料を閉じ帰り支度をする。
その瞬間。
全身の力が抜ける。
「……っ」
蓮司郎は眉を寄せる。
机へ手をつき、しばらく動かない。
やがて収まってゆく。
「……またか」
小さく呟く。
机の端に置かれた薬へ手を伸ばし、服用する。
「まだ、やることがあるからな」
机の上には。
新しく書かれた一枚の書類。
担当トレーナー 柊蓮司郎。
担当ウマ娘 ゼータシンボリ。
蓮司郎はその名前を静かに見つめる。
「……せめて、お前さんが自分で選んだ道くらいは」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
「最後まで見届けてやらねぇとな」
窓の外では、夜の学園が静かに眠っていた。
そうして二人の関係はただの「話し相手」から、正式な「トレーナーとウマ娘」へと変わった。
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