俺はゆっくりと目を覚ました。
視界に広がるのは、戦いによって引き裂かれた大地と、未だ燻る黒煙。投石で抉られた平原には、巨人の蒸気が白く立ち上り、まるでこの世の終わりのような静寂が、戦場を覆っている。
勝ったのか。いや、そもそも、この戦いに「勝ち」なんてものがあるのか。
体中が鉛のように重い。打ち身と擦り傷、それに、おそらく肋骨も何本かやっている。だが、それ以上に、胸の奥にぽっかりと空いた穴のような感覚が、俺のすべてを押し潰そうとしていた。あの光景が、瞼の裏に焼き付いて離れない。蒸気の中から現れた黒髪の女。眠たげな目。そして、「やあ」という、いつも通りの声。
ピークが、巨人だった。
その事実が、頭では理解できても、心はまるで別の生き物のように、それを拒絶している。あの寂れた食堂で、ただ一人、俺の隣で糸引き豆を美味いと言ってくれた女。俺のつまらない話を、眠そうな目を細めて聞いてくれた女。出征を、心配そうに止めてくれた女。
俺は、あの時、なんて言ったっけ。「戻ったら、また一緒に食べよう」と。そう、約束した。なんて、愚かな。
俺は、震える拳を地面に叩きつけた。乾いた土が、指の間から零れ落ちる。怒りか、悲しみか、それとも己の間抜けさへの絶望か。ごちゃ混ぜになった感情が、涙になって溢れそうになるのを、必死に堪えた。戦場で流していい涙は、仲間の死に対するものだけだ。敵だった女との、個人的な思い出のために流す涙なんて、誰も許しちゃくれない。
「俺は……どうすればよかったんだ」
声にならない声が、唇から漏れた。俺は、あの時、撃てなかった。撃つべき敵を目の前にして、俺の指は、引き金を引けなかった。それは、兵士として、決して許されない失態だ。俺のせいで、誰かが死んだかもしれない。そう思うと、恐怖で体が震えた。けれど、それでも、あの食堂で交わした笑顔が、俺の指を止めたのだ。彼女は、敵だった。それでも、俺にとっては、大切な思い出をくれた、たった一人の友人だった。この悲しみは、きっと、一生消えない。俺は、荒れ果てた大地に座り込んだまま、ただ、空を見上げることしかできなかった。
土煙がまだ平原に低く垂れ込め、巨人の蒸気がそこかしこから立ち上る中、俺は倒れた馬の傍らで、ただ呆然と膝をついていた。体中の骨という骨が軋み、左腕はおそらくひびが入っている。だが、そんな痛みはどうでもよかった。胸の奥にぽっかりと空いた虚無の方が、俺のすべてを押し潰そうとしている。
ピーク。あの女は、敵だった。そして俺は、撃てなかった。その事実だけが、重い鎖となって俺の首に巻きついている。
不意に、すぐ背後で、小石を踏む音がした。振り返るまでもない。その足音は、この世の誰よりも無駄がなく、そして、冷たい。
「ジョー」
リヴァイ兵長の声は、いつも通り平坦で、感情というものを削ぎ落とした刃のようだった。俺はゆっくりと顔を上げる。兵長の外套は血と泥に汚れ、その手にした刃には、まだ巨人の血が滴っている。獣の巨人を仕留めたのだ。この人は、またしても人類の勝利をその手で掴んだのだ。
「てめぇ、あの時、巨人を仕留め損ねたな。なぜだ」
兵長の問いは、単刀直入で、一切の容赦がなかった。俺は、喉の奥が引き攣るのを感じながら、搾り出すように言葉を返す。
「……知り合い、だったんです」
俺は俯き、泥に汚れた自分の手を見つめた。この手は、引き金を引くべき時に、引けなかった。
「ずっと前、まだ壁の外のことなんて何も知らなかった頃に、街で出会ったんです。俺の、その、変な好物を、笑わずに食ってくれた。たった一人の、そんな相手でした」
そこまで言って、俺は自嘲気味に笑った。こんなの、兵士として最低の言い訳だ。
「守ろうと、思ってたんです。いつか壁の外に出られたら、自由な世界を見せてやりたいとさえ。その相手が、巨人の正体だって分かった時、俺の頭は真っ白になって、引き金を引く指が、どうしても動かなかった」
俺は震える拳を地面に押し付けた。涙は出なかった。悲しみも怒りもすでに通り越して感情というものが摩耗しきっていた。
「俺は、兵士失格です。兵長が獣の巨人を倒したあの瞬間も、俺は、あいつを逃がしてしまった」
リヴァイ兵長は、しばらく何も言わなかった。ただ、冷たい風が、俺たちの間を吹き抜けていく。どれほどの時間が経ったのか、やがて兵長は、短く息を吐いた。
「てめぇが新兵を一人も死なせず、俺をあそこまで送り届けたことは、紛れもない事実だ」
兵長の声は、驚くほど静かだった。
「だが、戦場でてめぇを殺しに来た相手に、守ろうと思ってたなんて寝ぼけたことを抜かすんじゃねぇ。次に同じ状況になったら、てめぇが死ぬか、仲間が死ぬ。それだけの話だ」
俺は、ただ、黙って頷くことしかできなかった。兵長はそれ以上何も言わず、俺の肩を軽く、しかし確かに一度叩き、それから歩き去っていった。俺は、その背中が見えなくなるまで、動くことができなかった。次は、きっと、撃たなければならない。たとえ、それが、自分の心を引き裂くことになっても。
風が、死体と蒸気に覆われた平原を吹き抜けていく。俺はまだ、その場から動けずにいた。立ち上がらねばならない。そう分かっていても、ピークの顔が、あの「やあ」という声が、頭の中でこだまして離れない。敵だったと、そう理解したはずなのに、それでもあの食堂で交わした笑顔が、俺の心を掴んで放さないのだ。
不意に、すぐ隣で、誰かが立ち止まる気配がした。振り返ると、リヴァイ兵長が、無表情のまま、俺を見下ろしている。てっきり、もう行ってしまったものだと思っていた。
「…まだ、立てねぇのか」
兵長の声は、相変わらず平坦だった。
「いえ、立てます。ただ…」
俺は言葉に詰まり、俯いた。
「俺は、あの時、撃てなかった。敵だったのに。彼女が、俺にとって、大切な思い出をくれた人だったから」
俺の声は、自分でも情けなくなるほど震えていた。兵士として、あるまじき失態だ。叱責されるだろう。あるいは、軽蔑されるかもしれない。そう覚悟して、俺は次の言葉を待った。
「…ジョー」
しかし兵長の声は、予想に反して、どこか静かだった。
「てめぇは、あの女を守りたかったんだな。敵だと知っても、まだ」
俺は、唇を噛み締め、ただ、こくりと頷いた。否定できるはずがなかった。それが、俺の、偽らざる本心だったのだから。
「そうか」
リヴァイ兵長は短くそう言い、少しだけ間を置いた。それから、まるで独り言のように、言葉を続ける。
「大切なモンを守りてぇと思うこと自体は、間違っちゃいねぇ。たとえ相手が、どこの誰だろうとな」
俺は、驚いて顔を上げた。兵長は、相変わらず無表情で、遠くの戦場の残骸を見つめている。
「だがなジョー。守りたいと思うことと、守れるかどうかは、全く別の話だ。今回てめぇは、そいつを守れなかった。その結果、仲間を危険に晒したかもしれねぇ。その責任は、ちゃんと背負え」
「…はい」
「次は、守れるようにしろ。そのための選択を、間違えるな。てめぇが新兵どもを生かした判断は、誰よりもてめぇ自身が認めてやれ」
兵長はそれだけ言うと、今度こそ、本当に背を向けて歩き去っていった。俺は、その背中に向かって、深く頭を下げる。涙は、やはり出なかった。だが、胸の奥の虚無は、少しだけ、その形を変えていた。俺の思いは間違っていなかった。そう言われたことが、何よりも、俺の心を支えていた。