だが、射撃と観察眼に優れ、雷槍という新兵器によって戦場の流れを変える存在となっていく。
そんな彼が街外れの寂れた食堂で出会ったのは、眠そうな女、ピークだった。
興味がありましたら、ぜひ。
調査兵団となった理由は単純ながら、俺には他の皆のような才能がなかったと言える。
104期生である同期と比べれば、俺自身は才能はあまりない方であり、他よりも優れている部分としては立体起動装置によるアンカーと銃の腕だけであった。
しかし、巨人との戦闘を主軸にしている為か、あまり好成績ではなかった。
それでも俺が調査兵団になった理由は単純ではあるが、ただ一つ。
「…海か」
同期の話から聞いたという海。
その海という話題に心を惹かれて、調査兵団になった。
木の床は、ところどころ板の目がささくれ立ち、長年の油と黴が混ざったような、名状しがたい匂いを放っていた。壁際の椅子は一脚ごとに傾きが違い、座る者に妙な注意を強いる。食堂全体を包むのは、外からしとしとと降り続く雨の気配と、誰もが口を閉ざしたような、重く湿った静けさである。僅かに人の話し声はあるが、それは活気とは無縁の、ただ空気を濁らせるだけの低い呟きに過ぎなかった。
俺は雨に濡れた調査兵団の外套を軽く叩き、水滴を床に落とすと、誰もいない隅の席を選んで腰を下ろした。椅子がぎしりと情けない音を立てる。店主らしき初老の男が、薄暗い帳場の奥から面倒臭そうに顔を出した。俺は迷わず、いつもの品を頼む。
「糸引き豆と、黒パンを一つ」
店主の顔に、ああ、またか、という諦めに似た色が浮かぶのを、俺は見逃さなかった。程なくして運ばれてきた椀の中では、藁の香りを吸った豆が、粘つく汁の中でどんよりと沈んでいる。箸で持ち上げれば、銀色の糸がどこまでも切れずに伸びて、何やら未練がましい光を放つ。隣の席の男が、鼻をひくつかせて、それとなく顔を背けた。結構な話だ。この癖の強さが、俺にとっては何よりの慰めなのだから。
俺は黒パンを一口大にちぎり、その上に豆をねっとりと乗せる。酸味と塩気、発酵の名残が舌の上で混ざり合い、腹の底から温まるような心地がする。この味を理解する者は、兵舎にはまずいない。連中は皆、揃いも揃って「臭い」「見た目が悪い」と顔を顰めるばかりだ。俺はいつも、笑ってやり過ごすことにしている。無理に勧めるほどのことでもない、と。
その時だった。食堂の入り口の戸が、重い音を立てて開かれたのは。俺は何気なく視線を上げ、そして、一人の女が立っているのを認めた。黒髪で、ひどく気だるげな目をした、細身の女だ。外套は着ておらず、その肩は雨に少し濡れていた。彼女はちらりと店内を見回すと、迷う様子もなく、俺の隣の席、いや、通路を挟んだすぐ横の卓に歩み寄り、音もなく腰を下ろした。奇妙な、と俺は思う。この食堂には、他にも空いている席は幾つもあるのに、どうしてよりによってこんな、他人の食事の匂いが直に届くような場所を選ぶのか。
「糸引き豆と黒パンを」
彼女は店主にそう言った。抑揚の少ない、しかし妙に耳に残る声だった。俺は思わず、手にした黒パンを置く。まさか、こんな場所で同じ物を頼む人間に、初めて出会ったのである。俺は彼女の顔を、今度こそまじまじと見つめた。眠たげな目は、やはり眠たげで、しかしその奥がぼんやりと俺の椀を捉えている。
「……うん、いい匂いだね。発酵の具合が、ちょうど良さそう」
彼女はそう言うと、微かに口元を緩めた。それは、俺がこれまで誰にも言われたことのない言葉だった。俺は、どう返事をしていいか分からず、ただ椀の中の豆が、また一筋、長く糸を引くのを見つめていた。
俺は言葉を失っていた。ただ、目の前の女が俺と同じ物を頼み、それを当然のように口に運ぶ様子を、呆然と眺めるばかりだった。彼女は熱い椀の湯気をゆっくりと払い、箸で豆を一つまみ上げる。するとどうだ、あの厄介な糸が、彼女の箸先から白く、どこまでも白く伸びていくではないか。彼女はそれを厭うどころか、むしろ面白がるかのように、小さく口を開けて迎え入れた。
「美味しいでしょ」
彼女は、こちらを見ようともせずにそう言った。俺に言ったのか、それともただの独り言か。判断に困る、気の抜けた声だった。俺は、椀を持ったまま、何か言わねばならぬと思った。しかし、これまでこの好物を前にして、他人とかわした会話といえば、「うわ、臭い」「よく食えるな」「お前の舌はどうなってる」といった類のものばかりだ。どう返すのが正しいのか、まるで見当がつかない。
「……その、俺以外でそれを美味いと言う人間を、初めて見た」
やっとのことで、そう絞り出す。すると彼女は、初めて顔を上げて俺を見た。眠そうな目が、ほんの僅かに弧を描く。
「それはもったいない話だね。保存が効いて、腹にも溜まる。何より、この匂いが落ち着く。君はいつもここで食べてるの?」
彼女はそう言うと、また豆を一つ摘み、今度は黒パンの上にゆっくりと乗せた。その一連の仕草が、妙に様になっている。俺は、まだ少しだけ警戒していたと思う。初対面の相手に、それも調査兵団の行動を尋ねるような質問に、気軽に答えるのは不味い。しかし、彼女の箸の運び方があまりに自然で、そして何より、俺の知る誰よりも美しく糸を切ってみせるものだから、つい口が緩んだ。
「任務の帰りに、時々。誰も誘えないから、一人で来るんだ」
俺がそう言うと、彼女は小さく笑った。声には出さず、肩が微かに揺れるだけの笑い方だった。
「私はピーク。君は?」
「ジョーだ」
俺は素っ気なく名乗ったが、ピークと名乗った女は、それを気にした風もなく「ジョーか」とだけ呟いて、また豆をつまんだ。話の途切れが、妙に苦にならない。大抵の相手なら、この匂いの中では早々に退散するか、露骨に鼻をつまむものだ。だが彼女は、俺の前で平然と、それどころか心から美味そうに食っている。それが俺には、どうにもこそばゆく、そしてほんの少しだけ嬉しかった。自分でも忘れかけていた感情だったが、確かに、嬉しかったのだ。
「その豆、藁で寝かせてるんだろう。余計な水気が抜けて、味が濃くなる。私の故郷にも、似たようなのがあったな」
ピークは何気ない調子でそう言った。俺は驚いて、彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。この豆の作り方を、会話の端々から言い当てる人間など、この壁の内側に何人いるだろうか。いや、壁の外にも、そうはいまい。俺は彼女がただの物好きではないと、この時、確かに感じ取った。同時に、彼女の観察眼はそれだけではないらしいことも。
彼女は会話の最中、一度だけ、ちらりと食堂の入り口に視線をやった。俺はその視線を追い、新たに入ってきた男の身なりと、その男が選んだ席を確認する。ピークは何も言わなかった。俺も何も尋ねなかった。互いに、相手が見ているものに気づいていると、それだけで十分だったのである。
「変わった奴だな、君は」
俺がそう言うと、ピークは眠そうな目をさらに細めて、ゆっくりと首を傾げた。
「それはお互い様だと思うけど」
彼女の口元には、やはり小さな笑みが浮かんでいる。敵意はない。だが、親しみだけとも違う。何かを探るような、それでいて放っておくような、不思議な距離感だった。俺は残りの黒パンを口に押し込み、雨音がまだ続いているのを確かめる。いつもより、少しだけ温かい夕飯だった。
ピークは手にした椀を置き、冷めた茶で喉を湿らせた。その動作はあくまで緩慢で、誰が見てもただの気だるい女にしか見えまい。しかし、その伏せた瞼の下で、彼女の視線が一瞬、俺の胸元をかすめたのを、俺は見逃さなかった。正確には、外套の左胸に縫い付けられた、調査兵団の紋章――あの「自由の翼」を。彼女の瞳に浮かんだのは、警戒でも憎悪でもなく、ただ「ああ、やっぱり」と納得するような、そんな諦めにも似た色だった。それは俺が初めて見る種類の視線で、背筋がほんの少しだけ冷えるのを感じた。
俺は黒パンを噛みちぎりながら、さりげなく彼女の目線の先を追った。彼女は窓を見ているようでいて、窓の外の路地を通る荷馬車の数を数えている。帳場の親父の手元を見ているようでいて、その奥にある勝手口の閂の位置を確認している。そう、俺には分かった。この女は、この食堂という狹い空間の、あらゆる「出口」と「流れ」を、意識している。ただの客ではない。それは確かだ。だが、それを今ここで問い詰めるのは、あまりにも無粋であり、そして危険でもある。
「君は、ああいうのは気にしないのかい」
ピークが不意にそう言って、顎で店の隅をしゃくった。そこでは、先ほどから二人組の商人が、何やらひそひそと耳打ちをしている。帳場の親父は、露骨にそちらを見ないようにしながら、明らかに聞き耳を立てていた。ピークの観察眼は、俺が見ていたものを、正確になぞっている。
「気にしないよ。ああいう連中は、俺たちの仕事には関係ない」
俺がそう答えると、彼女は小さく息を吐くように笑った。
「調査兵団の人は、ああいう小さな駆け引きには興味がないんだね」
やはり、彼女は俺の所属を知っている。いや、最初から知っていたのだ。俺は少しだけ間を置いてから、ゆっくりと答えた。
「壁の外に出れば、もっとずっと大きな駆け引きをしなきゃならないからな。巨人の動き、地形、天気、仲間の疲労。小さなことに気を取られてる余裕はないんだ。君こそ、ずいぶんと細かいところを見るんだな。まるで、今にも何かが起こりそうな顔をしてる」
これは、少し踏み込んだ問いだった。彼女は一瞬だけ、本当に一瞬だけ箸を止め、それから糸の切れた豆をまた口に運んだ。
「癖みたいなものだよ。安心して食事ができる場所かどうか、つい確認しちゃうんだ。悪い癖だとは思ってるんだけどね」
彼女は、そう言って肩をすくめた。その言い訳は、あまりにも自然で、そしてあまりにも核心を外していた。安心して食事ができる場所かどうか――それはまるで、常に誰かに追われている人間の言い草ではないか。
俺は、あえてそれ以上は追及しなかった。彼女が嘘をついているとは思わなかったが、本当のことを言うとも思えなかった。それは俺も同じだ。ただ、一つだけはっきりしたことがある。俺はこのピークという女に、どうしようもなく興味を持ってしまっている。それは、初めて出会った時に感じた奇妙な共感と、今感じているこの小さな警戒とが、互いに打ち消し合うことなく、心の中で同じ場所に居座っているせいだった。会話はまだ続いている。豆の味、パンの硬さ、雨の降り方。そんな他愛もない話題を、二人はまるで、何でもないことのように続けている。けれど、俺たちはもう、ただの客同士ではなかった。
椀は空になり、黒パンの欠片も皿の上には残っていなかった。ピークはゆっくりと席を立ち、皺一つない服の裾を軽く払った。その動作はやはり緩慢で、今にも眠ってしまいそうな雰囲気をまとっている。だが、俺はもう知っている。この女の目は、閉じているように見えて、決して眠ってはいないということを。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
彼女はそう言って、小さく頭を下げた。俺も釣られて、「ああ」と気の抜けた返事をする。彼女は俺の顔をじっと見つめ、それから何かを確かめるように、ゆっくりと瞬きをした。
「私は行商人でね、色んなところを行き来してるんだ。ここにはたまにしか来られないけど、また会えたらいいね」
行商人。それは、どこにでもいるようで、どこにもいない、そんな都合の良い肩書きだった。壁の内側の町から町へ、あるいは壁の外の、俺たちの知らない土地まで。彼女が本当にただの行商人ならば、この妙な観察眼も、俺の紋章を見て動じなかったあの落ち着きも、すべて説明がつく。つくが、それはあまりにも出来過ぎている。俺は何も言わず、ただ「そうか」とだけ呟いた。
彼女は出口へと歩き出す。その背中は、薄暗い食堂の中ではひどく小さく見えた。だが、隙はなかった。足音は静かで、体の軸はぶれない。まるで、常に周囲の気配を探っているかのようだった。扉が開かれると、外からひやりとした湿った風が流れ込み、取り付けられた鈴がチリンと一つ、短く鳴った。その風に乗って、雨の匂いと、どこか遠くの土の匂いが、食堂の中の発酵した豆の匂いと混ざり合う。
「ジョー」
彼女は扉に手をかけたまま、振り返らずに俺の名を呼んだ。
「君のその豆は、多分、私にとっては忘れられない味になると思う」
それだけ言うと、彼女は今度こそ外へ出て行った。扉が閉まり、また鈴が鳴る。食堂には、俺一人と、帳場で居眠りを始めた親父だけが残された。静かだった。さっきまで感じていた奇妙な温もりが、きれいに取り去られたような、そんな寂しさがあった。俺は、手に持っていた最後の黒パンを口に押し込んだ。ざらりとした食感と、酸っぱい麦の味が広がる。さっきまでは確かに美味かったのに、今は少し、味が薄いような気がする。
「ピーク、か」
俺は彼女の名を、声に出して呟いてみた。名前も、素性も、本当は何も知らない。ただ、俺の一番好きな食い物を「美味しい」と言った女。それだけのことが、どうしてこんなに心に引っかかるのか。外ではまだ雨が降っている。彼女はきっと、傘もささずに、あの人混みの中へ消えていったに違いない。俺は外套を羽織り直し、立ち上がった。また会えたらいい。彼女のその言葉が、妙に胸の奥にこびりついて離れなかった。壁の外の自由を夢見る俺が、壁の中の小さな食堂で、正体も知れぬ一人の女に、これほど心を奪われるとは。人生とは、ままならないものである。