街は静まり返っていた。エレンたちが地下室へ向かい、リヴァイ兵長たちも別の警戒に当たっている。俺は崩れた建物の陰に立ち、ただ遠くの城壁を眺めていた。体中の傷は手当てを受けたが、胸の奥に刺さった棘だけは、どうしても抜けないままだ。
「おいジョー、生きてるか」
不意に背後から声がかかった。振り返るとジャンとコニーがいつもの調子で近づいてくる。ジャンは相変わらずの仏頂面でコニーは少しだけ困ったような笑みを浮かべていた。二人とも俺の同期で、エレンたちと同じく、これまで何度も死線を共にしてきた仲間だ。
「ああ生きてる。見張りなら交代の時間にはまだ早いはずだぞ」
俺がそう言うと、ジャンは露骨にため息をつき、俺の隣にどっかりと腰を下ろした。
「バカお前、そういうことじゃねぇだろ」
「そうそう。見張りの心配してるんじゃなくてさ」
コニーも俺の反対側に座り込み、膝を抱える。二人とも、普段ならもっと軽口を叩くのに、今日はどこかぎこちなかった。話題を探しているのだろうか。それとも俺を気遣っているのか。どちらにせよ、こうして来てくれたことが、素直にありがたかった。
「聞いたぜ。お前、巨人を一匹逃がしたんだってな」
ジャンは、少しだけ言いづらそうに切り出した。
「しかもそいつ、お前が知ってる相手だったんだろ」
俺は黙って頷いた。シガンシナ区決戦の後、俺が車力の巨人を撃てなかったことは、既に報告書に書いた。だから二人も知っているのだろう。だが、そこにどんな感情があったのかまでは、書かなかった。
「…ピークっていうんだ。俺が壁内で知り合った、行商人の女だった。俺の好物を笑わずに食ってくれた、たった一人の相手で、俺は…」
そこまで言って、俺は言葉に詰まった。撃てなかった事実を口にすればするほど自分が兵士失格だと言い聞かせているようで胸が苦しくなる。
「そっか。お前がなぁ」
コニーは少しだけ目を伏せ、それからわざと明るい声を出した。
「にしてもお前の好物って、あのクッセェ糸引き豆のことだろ? それを笑わずに食う女なんて、そりゃ貴重だわ」
「おいコニー、今それ言うか」
ジャンが呆れたように言うとコニーは「だってよぉ」と頭を掻いた。
「慰めようと思ったんだけど、どう言えばいいのか分かんねぇんだよ。ライナーやベルトルトの時だって、散々悩んだだろ俺たち」
コニーの言葉に、ジャンは深いため息をついた。確かにそうだ。俺たちはもう何度も「敵の中に人間がいる」という現実に直面してきた。そして、その度に、どうすればいいのか分からなくなってきた。
「なあジョー」
ジャンが、低い声で俺の名を呼んだ。
「お前、あの女のこと、好きだったのか」
俺はその問いにすぐには答えられなかった。好きだったのか。今でも、そうなのか。自分でもよく分からない。ただ一つだけ確かなことは。
「…分からない。でも、あいつは俺にとって、大切な思い出をくれた相手だった。それだけは、敵だと分かっても、消せない」
俺がそう言うと、ジャンは少しだけ黙り、それからぽんと俺の頭を軽く叩いた。
「そうか。なら、忘れなくていいんじゃねぇか」
「え?」
「思い出まで敵にしろなんて誰も言ってねぇ。ただ次に会った時はちゃんとケジメつけろ。俺たちがいる前でヘマしたら承知しねぇからな」
ジャンの言葉は相変わらずぶっきらぼうだったがその奥に確かな優しさが滲んでいた。コニーも隣でうんうんと頷いている。
「そうだぞジョー。次は俺たちもいるしさ。それにお前の雷槍があれば大体なんとかなるだろ」
俺は思わず小さく笑ってしまった。こいつらは本当に馬鹿で、そして、最高の仲間だ。
「ありがとう、ジャン、コニー」
俺が礼を言うと、二人は照れくさそうに顔を背けた。それからしばらく三人で、街の静けさを見張り続けた。胸の棘が抜けたわけではない。けれど、それを持ったままでも戦っていけると、そう思えた。
夜が明けるまで、あと少しだ。
三人でしばらく街の静けさを見張り続けていた。ジャンは腕を組み、コニーは膝を抱え、俺は崩れた壁にもたれかかっている。戦いの後だというのに、不思議と空気は穏やかだった。
「なあ、ジョー」
コニーが、ふと思い出したように口を開く。
「お前さ、壁の外に出たら何がしたいとか、考えたことあるか」
俺は少しだけ考えてから答えた。
「海を見てみたい。訓練兵の頃、アルミンが話してくれたんだ。壁の外には、塩でできた湖が広がってるって」
「海かよ」
ジャンが鼻で笑う。
「俺はもっと現実的なとこだな。とにかく安全な場所で、誰にも邪魔されずに酒を飲みてぇ」
「ジャンらしいな」
コニーがけらけらと笑う。
「俺はさ、なんかこう、壁の中にいる時には想像もつかないような景色が見たいな。どこまでも続く草原とか、空まで届きそうな山とか」
「お前それ、まだ見ぬ世界に夢見すぎだろ」
「いいだろ別に。夢ぐらい好きに見せろよ」
二人の軽口を聞きながら、俺はふと、あの食堂での風景を思い出していた。薄暗い店内。干し肉と発酵豆の匂い。そして、隣で糸引き豆を美味いと言ってくれた、あの眠たげな目の女。
壁の外には、何があるんだろう。
かつて俺は、自由だけがあると信じていた。巨人を駆逐すれば、俺たちはようやく、生まれた時から押し付けられてきた檻から解放されるのだと。
だが、違った。
壁の外には、敵がいた。俺たちと同じ人間が、俺たちを悪魔と呼び、殺そうとしていた。そして、その敵の中には、俺にとってかけがえのない思い出をくれた人がいた。
「壁の先に、何があるんだろうな」
俺がぽつりと呟くと、ジャンとコニーは黙って俺の顔を見た。
「自由、なんだろうな」
ジャンが言う。
「少なくとも、俺たちはそう信じて戦ってきた。それだけは間違っちゃいねぇだろ」
「そうだよ」
コニーも頷く。
「それにさ、壁の外には、ジョーの好きなあのクッセェ豆もあるかもしんねぇぞ。世界中に広がってるかも」
「いや、それはないだろ」
俺が思わず笑うと、コニーは真顔で「分かんねぇぞ」と言い返してきた。
「だってよ、ジョーの好物を笑わずに食う女が敵にいたんだぜ。だったら、壁の外にも、ジョーと気が合うやつがいるってことだろ」
その言葉に、俺は少しだけ救われた気がした。
そうだ。彼女が敵だったとしても、あの食堂で交わした笑顔は、嘘ではなかったはずだ。だって、あの時彼女は、本当に美味しそうに糸引き豆を食べていたのだから。
「…そうだな」
俺は空を見上げた。
「壁の外にも、きっと、誰かと分かり合える何かがあるんだろうな」
三人で静かに笑った。
胸の棘はまだ抜けない。けれど、それを持ったままでも、俺はまた前を向ける。壁の先に、何があるのか。それを確かめるために、俺は生き残らなければならないのだ。