波の音が、どこまでも続いていた。
俺は、生まれて初めて見る海を、ただ呆然と立ち尽くして見つめていた。あれから一年。ウォール・マリアでの死闘を終え、壁の中の巨人を一掃した俺たちは、ついにこの場所へ辿り着いたのだ。アルミンが夢見た、塩の湖。エレンが自由の象徴として語った、果てしない水の地平線。
水平線は、どこまでも広がり、空と海との境界を暧昧に溶かしていた。潮風が、俺の髪を撫で、外套をはためかせる。その風には、壁の中では決して嗅ぐことのできなかった、塩の匂いが混ざっている。
「綺麗だな」
隣で、誰かが呟いた。ジャンか、コニーか、あるいはアルミンか。俺には、もうそれすらもはっきりとは聞こえなかった。ただ、この広大な景色の前に、自分の存在があまりにも小さく、そして自由であることを、全身で感じていた。
そうだ。これが、自由だ。俺たちは、勝ち取ったんだ。
けれど。
俺の胸の奥には、それでも、消えない棘があった。この海の向こうに、敵がいる。俺たちを悪魔と呼び、殺そうとする者たちがいる。そして、その中に、彼女もいる。
「ピーク…」
俺は、誰にも聞こえないように、その名を呟いた。
あの食堂で、俺の隣で笑った女。俺の糸引き豆を美味いと言ってくれた、たった一人の相手。彼女は今、この海の向こうで、何を思っているんだろうか。俺たちは、もう二度と、あの頃のようには戻れない。敵同士として、殺し合う運命にある。それでも、俺は。
「俺は、君を憎み切れない」
波が、足元に打ち寄せては、砕け散っていく。まるで、俺の心のようだ。自由を手に入れたのに、その自由は、まだ、誰かと争わなければ守れない。俺は、この海の向こうに、何を見るのだろう。いつか、彼女と、この景色を分かち合える日は来るのだろうか。
俺は、水平線の彼方を見つめながら、ただ、潮風に吹かれ続けていた。この広い世界で、俺はまだ、自分の進むべき道を、見つけられずにいる。
海は、どこまでも広がっていた。水平線のかなたに沈みかけた太陽が、水面を黄金色に染め上げ、その光の道は、まるで俺を、まだ見ぬ世界へと誘っているかのようだった。波の音だけが、絶え間なく、繰り返し、繰り返し、耳の奥に響いている。
この世にこれほど美しいものが、本当に存在するのだな。
俺は、ただ、立ち尽くしていた。アルミンが涙を浮かべて指さした、あの「塩の湖」。エレンが、自由の証だと言って、遠くを見つめていた、あの海。俺たちは、ついに、ここまで来た。五年という歳月、数えきれない犠牲を払い、ようやく、この場所に辿り着いたのだ。それなのに。
それなのに、どうしてだろう。
この果てしない水平線を目の前にして、俺の胸の奥底には、歓喜とは別の、冷たくて、重い、名状しがたい感情が、澱のように沈殿していた。
「海の向こうには、敵がいる」
それは、地下室で明らかになった、動かしようのない真実だ。俺たちを「悪魔の末裔」と呼び、憎み、滅ぼそうとする者たちがいる。その中に、彼女もいる。あの、眠たげな目で、俺の隣で笑っていた、ピークが。
俺は、打ち寄せる波を、ただ見つめた。この水は、壁の中の川とは違う。塩辛くて、苦い味がするらしい。そして、この水は、ずっとずっと遠く、俺の知らない国々へと、繋がっている。ピークの故郷にも、この海は繋がっているのだろうか。
俺と彼女の違いは、一体、なんなのだろう。
生まれた場所。教え込まれた歴史。信じるべきだと決められた「敵」。俺たちは、ただ、違う壁の中で生まれ、違うご飯を食べ、違う歌を歌っていただけだ。それだけのことで、どうして、殺し合わなければならないのだろう。彼女が俺の糸引き豆を「美味しい」と言った時、そこには確かに、何の隔たりもなかったはずなのに。
「壁の外にも、きっと誰かと分かり合える何かがある」
俺は、あの時、ジャンとコニーにそう言った。
その思いは、今も、嘘じゃない。だけど、それは、途方もなく難しいことだとも、今は分かる。分かり合うためには、まず、憎しみの連鎖を断ち切らなければならない。
それは、剣や雷槍で敵を倒すより、ずっと、ずっと難しいことに思えた。
潮風が、俺の頬を撫でていく。
その冷たさが、現実に引き戻してくれた。
俺は、まだ、何も見つけちゃいない。自由も、平和も、そして、彼女との答えも、まだ、この海の向こう側にある。
俺は、水平線の彼方を見つめながら、静かに拳を握りしめた。
行かねばならない。この海の向こう側へ。
たとえ、そこが憎しみに満ちた場所だとしても、俺は、見なければならないのだ。彼女の故郷を。そして、彼女自身を。
この広い世界で、俺たちは、また、出会うことになるのだろうか。
その時、俺は、今度こそ、引き金を引かずに済むのだろうか。
それとも、やはり、敵として、殺し合うしかないのだろうか。波の音だけが、答えのない問いを、優しく包み込んでいた。