波が寄せては返し、寄せては返し、果てしない水の繰り返しが、視界の全てを占めていた。
俺は砂浜に腰を下ろし、ただ呆然と、その景色を見つめている。胸の奥には、あの日からずっと消えない棘が刺さったままだ。
不意に、すぐ隣で砂を踏む音がした。誰かが、無言で俺の隣に座る。
顔を上げると、エレンだった。
エレンは俺を見ようともせず、ただ水平線の彼方を見つめている。その横顔は、どこか遠くを見ているようで、それでいて、何も見ていないようでもあった。俺たちは同期だ。同じ訓練兵団で汗を流し、同じ戦場で血を流してきた。だが、こうして二人きりで話すのは、ほとんど初めてのことだった。
エレンは、あの地下室で真実を知ってから、何かが変わった。いや、変わったというより、ずっと奥に秘めていたものが、表面に滲み出てきたような、そんな感じがする。彼が今、何を考えているのか、俺には分からない。ただ、その背中が、ひどく遠くに見えた。
「エレン、お前は…」
俺が口を開きかけると、エレンは、それを遮るように、静かに言った。
「あの時、お前は巨人を逃がしたんだってな」
俺は、言葉に詰まった。エレンがそんなことを言うとは思わなかったのだ。彼は巨人を誰よりも憎んでいる。その彼が、俺の失態をどう思っているのか、考えるだけで、胸が締め付けられるようだった。
「ああ、逃がした」
俺は、素直に認めた。
「敵だった。でも、俺にとっては、大切な思い出をくれた人だった。だから、撃てなかった」
エレンは、何も言わなかった。ただ、水平線を見つめたまま、微かに、ほんの微かに、口元を歪めた。それは、笑みなのか、それとも、苦渋なのか、俺には判別がつかない。
「敵が、人間で、何か悪いことでもあるのか」
エレンのその言葉は、まるで独り言のようだった。
「壁の外も、中も、結局は同じだ。憎み合い、殺し合う。ただ、それだけの話だ」
俺は、エレンのその言葉に、ぞっとするような冷たさを感じた。彼は、何かを諦めてしまったのだろうか。それとも、もっと別の、俺には想像もつかない場所に立っているのだろうか。俺は、ただ、エレンの横顔を見つめることしかできなかった。彼の瞳に映る海は、俺が見ている海よりも、ずっと暗く、深いように思えた。
波が、寄せては返す。その繰り返しが、まるでこの世界の無常を表しているかのようだった。俺は、隣に座るエレンの横顔を盗み見る。彼は、俺が知っているエレン・イェーガーのままだった。鋭い目つき、決して折れない意志を秘めた瞳。だが、その瞳の奥に、以前にはなかった昏い光が揺らめいているのを、俺は見逃さなかった。
「エレン、お前、何か…変わったのか」
俺が恐る恐るそう問いかけると、エレンは、しばらくの間、答えなかった。ただ、水平線の彼方を見つめ、潮風に髪を乱されている。
「…変わったんじゃない。ずっと、こうだったんだと思う」
彼の声は、ひどく静かで、平坦だった。
「ただ、あの地下室で、全部を知った。それだけの話だ。壁の外に自由があると思ってた。海を見れば、きっと何かが変わると信じてた。でも、海の向こうには、敵がいる。憎しみがある。また、殺し合いが始まる。それだけのことだった」
俺は、彼のその言葉に、言い知れぬ不安を感じていた。まるで、彼は、その「殺し合い」の只中に、自ら飛び込もうとしているかのような、そんな諦念と決意を、同時に感じたのだ。
「エレン、お前、まさか…」
俺が何かを言いかけると、エレンは初めて俺の方を向いた。その口元は、微かに笑っているようにも見えたが、目は、笑っていなかった。
「ジョー、お前は、大切なものを守るために、何を犠牲にできる」
その問いは、あまりにも突きつけるようで、それでいて、ひどく悲しかった。俺は、言葉に詰まった。ピークの顔が、脳裏を過る。俺は、彼女を守りたいと思った。しかし、結局、俺は何も守れなかった。
「俺は…まだ、分からない」
俺が正直にそう答えると、エレンは、再び水平線へと視線を戻した。
「そうか。俺は、もう決めた。自由を守るためには、自由を奪う者を、駆逐し続けるしかない」
エレンはそれだけ言うと、ゆっくりと立ち上がり、砂浜を去っていった。その背中は、俺が追いつけるはずもないほど、遠く、孤独だった。彼は、俺たちとは違う、何か恐ろしいことを行おうとしている。俺には、ただ、そう感じることしかできなかった。波の音だけが、いつまでも、いつまでも、鳴り響いていた。
エレンが、不意に足を止めた。潮風が、彼の外套を激しくはためかせる。周囲には、もう誰もいない。仲間たちの笑い声も、波の音にかき消されて、遠くに聞こえるだけだった。彼は、水平線の彼方を見つめたまま、まるで独り言のように、言葉を紡ぎ始める。
「ジョー、お前は、信じられるか? この海の向こうの奴らを、皆殺しにすれば、俺たちは、本当に自由になれるって」
その声は、あまりにも静かで、それでいて、底知れぬ狂気を宿していた。俺は、背筋が凍るのを感じた。彼は、今、何を言ったんだ?
「エレン、何を…」
俺が言葉を返そうとすると、エレンは、それを遮るように、再び口を開いた。
「俺は、もう決めたんだ。壁の外の、自由を憎む奴らを、一人残らず、この世から駆逐する。そうすれば、俺たちは、やっと、あの本で読んだような、広い世界を見られるんだろうな」
その口調は、あまりにも確信に満ちていて、俺は、もはや、彼を止められるとは思えなかった。だが、それ以上に、彼の瞳の奥に、救いを求めるような、かすかな光が揺らめいているのを、俺は見逃さなかった。
「ジョー」
エレンは、初めて、俺の目をまっすぐに見つめて言った。
「もし、いずれ俺が、ただの殺戮者になった時は…」
彼は、そこで言葉を切り、自嘲するかのように、口元を歪めた。
「その時は、お前が俺を殺せ。お前なら、それができる。大切な思い出のために、敵を撃てなかったお前なら」
「何を…」
俺は、言葉を失った。彼は、今、自分を殺せと言ったのか。俺に、その資格があると、そう言うのか。彼の言葉の真意が、まるで掴めない。
しかし、エレンは、すぐにいつもの仏頂面に戻り、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「…冗談だ。忘れろ」
そう言って、彼は再び、俺に背を向けて歩き出す。だが、その目だけは、決して笑っていなかった。あれは、冗談なんかじゃない。彼は、本気で、俺に何かを託そうとしている。あの日、ピークを逃がした、俺の弱さに。俺は、去りゆく彼の背中を、ただ、呆然と見つめることしかできなかった。彼がこれから行おうとしている、名状しがたい決意を、俺は、まだ、何も知らなかったのである。