糸引く記憶と雷槍の先   作:ボルメテウスさん

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彼女の国の料理

見慣れぬ香りが漂っていた。いや、香りだけではない。テーブルの上に並べられた皿の数々は、どれもこれも、俺たちエルディア人がこれまで口にしてきたものとは、根本的に何かが違っていた。白くて柔らかなパン。透き通ったスープ。

そして、何より、海の向こうからやってきたという、様々な魚料理。マーレ人であるニコロが、捕虜でありながら、その料理の腕を振るい始めたのだ。

 

「すげぇ! なんだこれ、めちゃくちゃ美味いぞ!」

サシャが、目を輝かせて、次々と皿に手を伸ばしている。

その勢いには、いつもながら感心するを通り越して、呆れてしまうほどだ。俺は、そんなサシャの横で、ある一つの料理に目を奪われていた。

 

それは、小ぶりな壺に入った、茶色いペースト状のものだった。

見た目は、決して良いとは言えない。どちらかと言えば、俺の好物である糸引き豆に、少し似ているかもしれない。周りの連中は、その見た目に少し尻込みしているようだった。

 

「なんだこれ、豆か?」

誰かがそう呟く。俺は、恐る恐る、スプーンでそれをすくい、口に運んだ。舌の上で、濃厚な旨味と、ほのかな苦味、そして複雑な香辛料の香りが、一気に広がる。これは、豆だ。だが、俺が知っているどんな豆とも違う。これは、まるで…。

 

「…美味い」

俺は、思わず声に出していた。

この癖になる味は、あの食堂で、ピークと分け合った糸引き豆の味を、なぜだか思い出させる。

彼女は今、海の向こうで、この豆と同じようなものを、食べているのだろうか。それとも、全く違うものを、食べているのだろうか。

 

俺は、もう一口、その豆のペーストを口に運んだ。壁の外の食い物は、美味い。この味を知れば知るほど、

俺は、もっと広い世界を見てみたいと思う。

そして、いつか、この味を、彼女と一緒に、笑いながら語り合えたら。

それは、きっと、まだ許されない、甘い幻想なのだろう。それでも、その小さな希望が、今の俺を、確かに前に進ませていた。

 

夕食の喧騒が、食堂を満たしていた。サシャの喜ぶ声、コニーの呆れる声、ジャンのため息。俺はそんな仲間たちの輪から少しだけ外れ、手にした黒い液体をじっと見つめていた。湯気とともに立ち上る、焦げたような、それでいてどこか芳ばしい香り。これが、珈琲というものらしい。恐る恐る口をつけると、強烈な苦みが舌の上に広がった。砂糖もミルクも入っていない、ただのブラックだ。なのに、なぜだろう。この苦さは、ひどく俺を落ち着かせた。

 

まるで、この一年間、ずっと胸の奥で燻っていた、あの名状しがたい感情の味に、似ている気がしたのだ。

 

「その珈琲、お口に合いましたか」

不意に、すぐ隣から声がかかった。顔を上げると、イェレナが、異様に長身の体を折り曲げるようにして、俺を見下ろしている。彼女は、マーレからの義勇兵で、ジーク・イェーガーの腹心だ。その顔には、貼り付けたような薄い笑みが浮かんでいる。

 

「ええ、まあ。苦いですが、嫌いじゃないです」

俺が素っ気なく答えると、イェレナは、ふふ、と小さく笑った。

 

「それは何よりです。実は、マーレの戦士候補生たちの間でも、あの苦さが分かる者は少なくてね。ただ一人、車力の巨人の継承者だけが、いつも、それを美味しそうに飲んでいたものですから」

 

俺は、手にしたカップを落としそうになった。車力の巨人。ピーク。俺が動揺を隠せずにいると、イェレナはまるで獲物を値踏みするかのような目で、俺の表情を観察している。

 

「…なぜ、その話を俺に」

俺はようやくそれだけを絞り出す。

 

「ジークさんから、あなたのことはよく聞いています。シガンシナ区で、あの獣の巨人の投石をかいくぐり、リヴァイ兵長を肉薄させた張本人だ、とね。我々としては、あなたのような優秀な兵士とは、できれば敵対したくない。これは、そのための、いわば友好の証です」

 

彼女はそう言うと、さらに声を潛めた。

「ピーク・フィンガー。彼女は今、マーレ本国にて、次の作戦の準備にあたっています。近いうちに、再び戦うでしょう」

 

俺は、カップを握る手に、無意識に力を込めていた。これは、情報だ。敵の腹心からの、貴重な情報。だが、それ以上に、俺は、彼女が今も珈琲を飲んでいるという、そのどうでもいいような事実が、たまらなく嬉しかったのだ。イェレナは、そんな俺の心の内など、全てお見通しなのだろう。彼女は、俺の信頼を得るために、俺が最も欲しがっている情報を、餌として差し出したに過ぎない。

 

「ご親切に、どうも」

俺は皮肉を込めてそう言い、残りの珈琲を一気に飲み干した。苦かった。だが、その苦さが、今は、戦場で感じるあの冷たい静けさに似ていて、妙に心地よかった。ピーク、君もまた、この苦さを味わっているんだな。俺は、空になったカップを置き、不敵に笑みを浮かべるイェレナを、まっすぐに見つめ返した。これが、お前たちのやり方か。ならば、その餌、ありがたく利用させてもらう。俺は、生き延びるために。そして、もう一度、彼女と会うために。

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