マーレへ向かう船は、静かに波を切っていた。
水平線の向こうにはまだ見ぬ敵地が広がっている。
船の甲板にて俺は手にしたマーレ製の銃をじっと見つめていた。対人用立体機動装置から奪ったあの銃とはまた違う。より洗練され、より多くの人間を殺すために作られた武器だ。ずしりとした重みが手のひらにのしかかる。壁の外の技術はこんなにも簡単に命を奪えるものを作り出しているのか。
俺は的を設置し距離を取り構える。息を吸い吐く。その瞬間だけは世界からすべての音が消え去ったように静かになる。あの地下洞窟で初めて銃を握った時からずっとそうだ。狙いを定めている間だけ俺は自分が何者なのかを忘れられる。
(ピーク)
引き金を引く。銃声が海風にかき消され弾丸は的の中心を寸分違わず貫いた。
(君は今どこで何をしている)
俺は、銃を握るたびに、彼女のことを考えてしまう。それは、皮肉以外の何物でもなかった。彼女と戦うかもしれない。彼女を撃つかもしれない。そのための練習をしているのに頭の隅にはいつもあの眠たげな目が浮かんでいる。
「調子はどうだジョー」
背後からジャンの声がかかる。俺は振り返らずに答えた。
「悪くない。この銃は反動が少なくて扱いやすい。マーレの技術はやはり進んでるな」
「そういうことじゃねぇよ」
ジャンはため息混じりに俺の隣に立つ。
「お前、マーレに行ったら、その、例の女に会うかもしれねぇんだろ。大丈夫なのか」
俺は少しだけ黙り込んでから正直に答えた。
「分からない。でも逃げるわけにはいかない。あいつが敵なら俺は戦う。そう決めた」
「ならいい。ただ無理はするなよ」
ジャンはそれだけ言うと俺の肩を軽く叩いて船室へ戻っていった。俺はもう一度銃を構え狙いを定める。揺れる心はまだ収まらない。それでも引き金を引く指だけは嘘のように落ち着いていた。この静けさの中で俺は自分自身と向き合い続けている。彼女を撃つ覚悟はある。だが撃たずに済む道があるなら、俺はそちらを選びたい。その矛盾した感情こそが今の俺のすべてだった。
夜が明けた。水平線の向こうから、鈍い金色の光が、少しずつ、闇を溶かしていく。俺は、甲板の手すりにもたれかかり、ただ、その光景を、じっと見つめていた。潮風が、まだ寝ぼけた頭を、冷たく撫でていく。周囲には、まだ誰もいない。波の音と、風の音だけが、この世界の全てだった。
これから、マーレへ行く。
敵地へ、乗り込むのだ。
その事実が、腹の底に、冷たい重しのように沈んでいる。怖くない、と言えば、嘘になる。俺は、別に、勇敢な兵士じゃない。剣の腕も、同期の中では、いつも下の方だった。ただ、人より少し、目が良くて、狙いが正確なだけだ。そんな俺が、これから、何千、何万という敵の真っただ中に飛び込もうとしている。
(ピーク)
彼女は、今、どこで、何をしているのだろうか。
俺は、あの食堂で、彼女と交わした他愛ない会話を、思い出していた。黒パンが硬いとか、干し肉が値上がりしたとか。ただそれだけの会話が、どうして、これほどまでに、俺の心を締め付けるのだろう。敵だと、分かっているのに。いや、敵だからこそ、なのかもしれない。
俺は、腰に下げた銃を、そっと撫でた。冷たい、鉄の感触。これが、俺の現実だ。この銃で、俺は、また、人を撃つ。もしかしたら、彼女を、撃つことになるかもしれない。その時、俺は、ちゃんと、引き金を引けるだろうか。それとも、また、あの時のように、指が凍りついてしまうのだろうか。
(俺はどうしたいんだ)
自分自身に問いかける。
彼女を殺したいのか? 違う。
彼女に殺されたいのか? それも違う。
じゃあ、どうしたいんだ?
答えは、出ない。
ただ、一つだけ、確かなことがある。
俺は、彼女に、もう一度、会いたい。
そして、今度こそ、ちゃんと、話がしたい。
敵とか、味方とか、そんなことじゃなくて。
ただ、あの食堂で、隣に座って、同じものを食った、一人の人間として。
それが、どれほど愚かで、叶わない願いかは、分かっている。
それでも、俺は、この想いを捨てられない。
この想いがあるからこそ、俺は、戦える。
生きて、もう一度、彼女に会うために。
今度こそ、引き金を引かずに済む未来を、掴むために。
水平線が、金色に燃えている。
夜が明ける。
戦いの日が、近づいている。
俺は、大きく息を吸い込み、冷たい潮風を、肺いっぱいに満たした。
腹は、決まった。
行こう。
俺の戦いは、まだ、これからだ。