マーレの港に降り立った瞬間、俺は言葉を失った。
これが、壁の外の世界。
これが、敵の国。
エルディアの街とは何もかもが違った。
石造りの建物は壁内のそれよりずっと高く、窓という窓には色とりどりの花が飾られている。
馬の代わりに、煙を吐く鉄の箱が石畳の上を走り抜けていった。
人々の服装は華やかで、市場に並ぶ食材も、俺が見たことのないものばかりだ。
空気までもが違う。
潮の香りと、香辛料の匂いと、そして、これが、自由な国の匂いなのか。
俺は、立ち尽くしたまま、ただ、その景色を眺めていた。
アルミンが夢見た世界。
エレンが憎んだ世界。
そして、ピークが生まれ育った世界。
ここに、彼女がいる。
その事実が、俺の心臓を、うるさいほどに脈打たせる。
街のどこかで、彼女は、今も、あの眠たげな目で、珈琲を飲んでいるのだろうか。
俺は、拳を握り締めた。
感動と、憎悪と、憧憬と、恐怖が、胸の中でごちゃ混ぜになっている。
これが、敵地だ。
気を抜けば、死ぬ。
それでも、俺は、この目で、もっと見てみたいと思った。
彼女が見てきた世界を。
そして、いつか、この街を、彼女と一緒に歩けたら。
それは、きっと、まだ許されない、あまりにも甘い幻想だ。
それでも、俺は、この小さな希望だけを握りしめて、マーレの石畳を、一歩、踏み出した。
石畳の上を、親子連れが歩いていく。
母親は籠に果物を抱え、幼い子供はその裾を掴みながら、無邪気な笑い声を上げていた。
露店の店主は、大きな声で魚の値段を叫んでいる。
その隣では、年若い男女が、何やら楽しげに話し込みながら、肩を並べて通り過ぎていった。
俺は、その光景を、ただ、呆然と見つめていた。
これが悪魔の国だというのか。
これが、俺たちエルディア人を、憎み、滅ぼそうとしている者たちだというのか。
彼らは、俺たちと、何も変わらない。
家族を愛し、日々の糧を得るために働き、笑い、時に悲しみ、ただ、生きている。
そこには、壁の中にいた、俺たちと、全く同じ営みがあった。
ただ生まれた場所が違った。
ただ教えられた歴史が違った。
ただそれだけのことで、俺たちは、憎み合い、殺し合っている。
「敵は人間だ」
俺は、誰に言うともなく、そう呟いた。
ずっと前から、頭では分かっていたことだ。
巨人のうなじから、人が現れたあの日から、嫌というほど思い知らされてきた。
それでも今、こうして、彼らの日常を目の当たりにして、その実感が、重く、胸にのしかかる。
彼らにも、守るべき家族がいて、帰るべき家がある。
それは俺たちと何も変わらない。
なのに、どうして、戦わなければならないのだろう。
俺は拳を握り締めた。
アルミンは、戦わない道があるかもしれないと言った。
あれは甘い幻想かもしれない。
それでもこの街並みを見ていると信じてみたいと思ってしまうのだ。
いつかこの街をピークと一緒に歩ける日が来ることを。
そのためにはまず憎しみの連鎖を断ち切らなければならない。
それは剣や雷槍で巨人を倒すよりずっとずっと難しい。
俺は人混みに紛れながら静かに前を向いた。
俺は彼女ともう一度ちゃんと話がしたい。
その小さな願いだけが今の俺のすべてだった。
俺はまだ諦めない。
戦わない道を探すために、俺は、この敵地で、戦い続けるのだ。