曇天の下、市場は死んだように静まり返っていた。
いつもならば、肉を吊るした鉤が揺れ、野菜の山を囲んで女たちの甲高い声が飛び交うこの場所も、今はまるで抜け殻のようである。空になった露店の棚には、売り物の代わりに乾いた泥の跡が残り、干し肉を吊るしていたはずの縄には、貧相な根菜が二、三本、力なくぶら下がっているだけだった。人々の顔には疲労の色が濃く、誰もが俯き加減に、早足で通り過ぎていく。
壁の内側は、音を立てて飢えに向かっていた。
俺は外套の襟を立て、市場の片隅に積まれた木箱の列に目を走らせた。調査兵団の備蓄も底をつきかけている。ただでさえ壁外調査で消耗する食料が、この品不足では補填もままならない。せめて、日持ちのする保存食だけでも確保せねばと、こうして街まで下りてきた次第だ。
しかし、俺の目は、空の露店よりも、ある一点に釘付けになっていた。
市場の中央を、異様なほど重たげな荷車が通り過ぎていく。幌はきっちりと結ばれ、中身は見えない。しかし、車輪が泥濘に沈み込む深さが、その積荷の只ならぬ重さを物語っていた。荷車の脇には、王都へ続く道を示す木札が括り付けられている。なるほど、王都行きか。そして、その荷札に押された印章を、俺は知っている。中央の憲兵団が管理する、貴族向けの物資に押される印だ。
壁の中が飢えようとも、王都の食卓は決して貧しくならないらしい。
俺は小さく息を吐き、視線を市場の隅、いつもの乾物屋へと戻した。せめて糸引き豆の壺が残っていれば、と思ったのである。
「……やっぱり、君はここを見るんだね」
その声は、まるで雨の日の水たまりのように、静かに、しかし確かに、俺の耳に届いた。
乾物屋の店先に積まれた、見慣れた焦げ茶色の壺。その向こうから、一人の女が顔を覗かせている。黒髪、眠たげな目、細い肩。彼女は俺と同じ、糸引き豆の壺に手を伸ばしたところだったらしい。まるで、俺がここに来るのを知っていたかのようなタイミングで。
「……ピーク」
俺の口から、その名が滑り落ちた。心のどこかで、安堵している自分がいる。あの雨の日の夕飯以来、ずっと頭の片隅にこびりついて離れなかった名だ。生きていたのか、と胸の奥が微かに震える。だが、それと同時に、もう一人の俺が警鐘を鳴らしていた。偶然にしては、出来すぎている。この品不足の最中、よりにもよって、俺が好きな糸引き豆の壺の前で、俺を待っていたかのように彼女は現れた。
「久しぶりだね、ジョー。相変わらず、いい観察眼だ」
ピークはそう言うと、壺を一つ持ち上げ、匂いを確かめる素振りを見せた。肩の力が抜けた、いつもの気だるげな態度。彼女の視線は壺に向けられているが、その意識は間違いなく、俺の制服――調査兵団の「自由の翼」に向けられている。そして、彼女はそれを確認すると、ほんの一瞬だけ、目を細めた。安堵にも、諦めにも見える、複雑な色だった。
「君こそ、相変わらずだな。こんな時に、よりにもよって糸引き豆を買いに来るとは思わなかった」
俺はそう返しながら、手近な木箱に積まれた荷札を指でなぞった。印の凹凸を指先で読み取りながら、会話の隙間で情報を拾う。彼女は俺の手元をちらりと見て、それからゆっくりと隣に並んだ。
「だって、美味しいでしょ」
彼女は壺を抱えたまま、まるでそれが当然の答えであるかのように言った。その声は以前と変わらず、ひどく穏やかで、眠たげで、そして、どこか寂しげだった。
俺たちはしばらく、言葉もなく、ただその場に立ち尽くしていた。曇天の下、王都へ続く荷車の車輪が、再び重い音を立てて動き出す。俺はその音を聞きながら、考える。この女は、一体、何を見ているのか。そして、俺は、この女の何を見るべきなのか。空には、雨の気配がまた、濃くなり始めていた。
市場の片隅、冷え切った石壁に背を預け、俺たちは言葉少なに、紙包みを開いた。中から顔を出したのは、見慣れた焦げ茶色の黒パンと、小振りな壺に入った糸引き豆である。ピークは慣れた手つきでパンをちぎり、その上に豆をねっとりと乗せて、俺に差し出した。
「はい。ここの黒パンは、少し酸味が強くなったね。麦の質が落ちてるんだろうな」
彼女はそんなことを言いながら、自分も一口かじる。俺もそれに倣い、パンを口に運んだ。ざらりとした舌触りと、確かに以前より強い酸味。だが、発酵豆の匂いと混ざれば、それはそれで悪くない。俺たちはしばらく、ただ黙々と、その質素な食事を分け合った。
「ねえ、ジョー。最近、街で変な噂を聞かないかい」
ピークが不意にそう言った。彼女の声は相変わらず気だるげで、まるで今朝見た夢の話でもするかのようだ。俺はパンを飲み込み、「噂?」と短く返す。
「食料の横流しの話だよ。ほら、今、市場はどこも品不足だろ。でもね、帳簿に載らない場所へ、定期的に大量の物資が運ばれているんだって」
俺は手に持ったパンを見つめたまま、意識の全てを彼女の声に集中させた。帳簿に載らない場所。それはつまり、王政府の監査が及ばない場所ということだ。ピークはパンをちぎる手を止めず、まるで世間話の続きでも語るように、言葉を続ける。
「それでね、もっと面白い話があるんだ。現国王とは、別の血筋を、王政が密かに守っているらしい。どこかの領地で、ひっそりとね。壁の中の平和を守るための、まあ、保険みたいなものなのかな」
彼女はそう言うと、ほんの少しだけ口元を緩めた。それは笑みというにはあまりに淡く、しかし確かに、俺の反応を窺うような色を帯びていた。王政が、別の血筋を。俺は息を呑みそうになるのを必死で堪えた。これは、ただの噂ではない。もし事実ならば、壁の内側の統治の根幹を揺るがす、由々しき秘密である。俺はこの情報を、どう扱うべきか。信じるべきか、疑うべきか。いや、それ以前に、この女はなぜ、そんなことを俺に話すのか。
「……ずいぶんと、詳しいんだな。行商人の耳には、そんな話まで入るのか」
俺はあくまで平静を装い、そう問いかけた。ピークは小さく肩をすくめ、パンくずを指先で払う。
「色んなところを回ってるとね、どうしても耳に入っちゃうんだよ。特に、ああいう荷物を運ぶ人たちは、酒が入ると口が軽いから」
彼女の視線が、ちらりと市場の中央へ向けられる。そこでは、先ほどの王都行きの荷車が、まだ積み込みの最中だった。俺は彼女の視線を追わなかった。代わりに、手元の金属製の皿に目を落とす。曇り空の下、鈍く光るその表面に、俺たちの背後を通り過ぎようとする一人の男の姿が映り込んでいた。男は商人のようでいて、腰に下げた物が、商売道具にしてはやけに物々しい。俺はパンをかじりながら、ゆっくりと咀嚼する。三秒後、男は露店の影へと消えた。ピークが、小さく息を吐く。
「君は、本当に目がいいね」
彼女はそう言って、今度こそ、はっきりと笑った。その笑顔には、先ほどまでの探るような色はなく、ただ純粋な感嘆の色があった。だが、それもほんの一瞬のことだ。彼女はすぐにまた、眠たげな表情を顔に貼り付け、残りのパンを口に放り込む。俺は彼女を信じたいと思った。この奇妙な共感と、危うい秘密の共有が、ただの偶然や打算ではないと、心のどこかで願っている自分がいる。だが、それと同時に、もう一人の俺が囁くのだ。これは、お前を動かすための情報ではないのか、と。壁の外の自由を夢見る俺が、壁の中の陰謀に巻き込まれようとしている。発酵豆の匂いが、やけに強く、鼻の奥にこびりついた。
「干し肉が、この半月でまた三割は上がったよ。これじゃあ、とてもじゃないが買い置きもできない」
ピークは、まるで隣近所の主婦とでも話すような気安さで、そんなことを言った。俺は手にした黒パンを紙に包み直しながら、「芋の値段も似たようなものだ」と返す。声は平静を保っていたが、意識の半分は、背後からゆっくりと近づく二つの気配に注がれている。
先ほど、金属皿の反射で捉えた男たちだ。一人は露店の果物を手に取り、もう一人は通りがかりの職人に道を尋ねるふりをしている。だが、果物を手にした男の腰には、商売人には不似合いな、重みのある物が下がっている。そして、道を尋ねるふりの男は、こちらの会話に聞き耳を立てているのが、わずかな首の傾け具合で分かった。中央憲兵だ。私服ではあるが、あの無駄のない体の動きは、王都で訓練を積んだ者特有のものだ。
「ジョー、大通りの方に、新しいパン屋ができたんだってね」
ピークが、眠たげな目をさらに細めてそう言った。大通り。それは、人通りが多く、追跡には不向きな場所だ。彼女は、あの二人を撒くための舞台を提案している。俺は小さくうなずき、包みを外套の内側にしまい込んだ。
「ああ、聞いてる。ただ、あの店は路地の先の坂道を越えないと行けないからな。荷車がよく通るから、足元に気をつけないと危ない」
坂道、荷車。俺の言葉に、ピークはほんの一瞬だけ、笑みを深くした。俺の意図を、彼女は確かに読み取ったのである。
「そう、じゃあ、気をつけて行こうか」
彼女がそう言った瞬間、俺たちは同時に歩き出した。いや、歩き出したように見せかけて、次の瞬間には、走っていた。ピークは右の露店の天幕をくぐり、裏口へと抜ける。俺は左の路地へと身を翻し、積まれた空き樽の陰に一度身を隠した。背後で、果物を落とす音と、誰かを呼ぶ怒鳴り声が上がる。追跡者が、慌てて俺たちの後を追い始めた証拠だ。
路地は狹く、石畳はぬかるんでいる。頭上には洗濯物が垂れ下がり、生乾きの布が顔に張り付く。俺はそれを手で払いのけながら、坂道の方角へと足を速めた。狙いは、この先の曲がり角だ。そこにはいつも、石切場から戻る空の荷車が何台か停まっている。留め具を外せば、簡単に道を塞げるはず。俺は角を曲がる直前、一度だけ背後を振り返った。ピークの姿はない。しかし、憲兵たちの足音は確かにこちらへ向かっている。彼女は上手く撒いたらしい。俺は荷車の留め具を蹴り外し、重い車体が坂を滑り落ちていくのを確認すると、すかさず細い裏路地へと滑り込んだ。転がる樽、崩れる木箱、そして遠ざかる憲兵たちの怒声。俺は壁に背を預け、荒い息を整えながら、彼女は無事だろうかと考えた。いや、彼女は大丈夫だ。俺がそう確信していることが、何よりの疑念でもあった。彼女は、あまりにもこの状況に慣れすぎている。
俺は水路脇の、人目につかない小さな石橋の下へと回り込んだ。するとどうだ、先にそこにいたのは、紛れもないピークその人だった。彼女は橋の欄干にもたれかかり、まるで散歩の途中で一休みしているかのように、息を整えている。俺の足音に気づくと、彼女はゆっくりと顔を上げ、口元に指を一本当てた。静かに、という合図だ。俺は無言でうなずき、彼女の隣に並んだ。
「荷車、上手くいったみたいだね」
彼女は、声を潛めてそう言った。俺は「ああ」とだけ返す。打ち合わせなど、何もなかった。それなのに、俺たちはまるで長年の相棒のように、互いの動きを補い合っていた。彼女が囮になり、俺が退路を断つ。ピークは俺の顔をじっと見つめ、それから小さく息を吐く。
「君のその誘導、正確すぎるよ。戦場で出会ったら、絶対に君から先に片づけないといけないな」
それは、冗談めかした口調だったが、彼女の目は笑っていなかった。俺もまた、同じことを考えていた。この女を敵に回したら、厄介だ。心の底から、そう思った。
雨が、またぽつりぽつりと降り始める。俺たちはしばらく、水路を流れる濁った水音だけを聞きながら、並んで立っていた。
街外れの辻に立つと、ようやく追手の気配が完全に消えた。夕暮れが城壁の向こうから迫り、乾いた風が石畳の上の埃を巻き上げている。俺は外套の襟を立て直し、隣に立つピークの横顔を盗み見た。彼女は相変わらず眠たげな目をしていて、ついさっきまで命がけの追跡を繰り広げていたとは、到底思えないような顔つきである。
「ジョー」
ピークが不意に口を開いた。その声は静かで、けれど先ほど市場で交わしたような、どこか遠慮がちな調子ではなかった。
「君がもし、さっきの噂を調べるつもりなら、正面から動いちゃだめだよ。王政を相手にするなら、なおさらね」
俺は黙って彼女の言葉を受け止めた。忠告だ。それも、こちらの身を案じてのものにしては、どこか切実さが勝っている。まるで、彼女自身が王政というものをよく知っているかのような口ぶりだ。
「あんたは、一体何者なんだ」
俺の問いは、我ながら単刀直入に過ぎた。ピークは一瞬だけ目を伏せ、それからゆっくりと首を横に振る。
「ただの行商人だよ。ただ、色んなものを見てきただけ」
「それだけで、中央憲兵に追われるのか」
「君だって、調査兵団の制服を着てるだけで追われてたじゃないか」
彼女はそう言って、口元だけで笑った。俺は反論できなかった。確かに、俺たちはお互い、ただの兵士とただの行商人にしては、あまりにも多くを知りすぎている。
「……助かった。情報も、さっきの連携も」
俺がそう言うと、ピークは少しだけ驚いたような顔をした。それからすぐに、いつもの気だるげな表情を貼り付ける。
「どういたしまして。でも、あまり期待しないでほしいな。私は、自分が生き残るのに精一杯だから」
彼女はそう言い残し、ひらりと手を振って、城壁とは反対の方角へ歩き出した。その背中は、あの食堂での別れ際と同じく、小さく、そして隙がなかった。俺はしばらくその場に立ち尽くし、彼女の姿が夕闇に溶けるまで見送っていた。彼女は俺を利用したのかもしれない。この情報を調査兵団に流すことで、何か別の目的を果たそうとしているのかもしれない。だとしても、この情報を無視することは、俺にはできなかった。
兵舎に戻ると、俺はすぐに資料室へ向かった。誰もいないのを確かめてから、机の上に帳簿と、市場から持ち帰った数枚の荷札を広げる。ランプの灯りが、黄ばんだ紙の上で揺れた。荷札に押された王都の印章。そして、帳簿に記された物資の流れ。俺は指で一行一行をなぞり、数字を照合していく。やがて、ある一点で指が止まった。帳簿に記載のない穀物の量と、王都へ運ばれたはずの荷車の数が、どうしても合わない。差し引かれた物資は、一体どこへ消えたのか。それは、ピークが囁いた「帳簿にない場所」の存在を、嫌というほど裏付けていた。俺は荷札に朱で印を付け、大きく息を吐く。これは、もう個人的な推測の域を超えている。俺は帳簿を抱え、分隊長のもとへと急いだ。王政への疑念を、正式に報告するために。
一方、その頃。街を見下ろす丘の上で、一人の女が、調査兵団の兵舎に灯る小さな明かりを見つめていた。彼女は、追手を撒いた後も街を離れず、こうしてジョーの帰還を、物陰から確かめていたのである。兵舎の窓に、彼の影が映るのを認めると、彼女はようやく踵を返した。
「ごめんね、ジョー。でも、君ならきっと、この情報を無駄にはしないと思ったんだ」
彼女の呟きは、誰に届くでもなく、宵闇の空に溶けて消えた。