マーレの市場は、壁の中のそれとは比べ物にならないほどの活気に満ちていた。色とりどりの果物、湯気を立てる奇妙な料理、そして甘ったるい匂いを漂わせる菓子の数々。サシャが目を輝かせるのも無理はない。アズマビト家から貰った小遣いを握りしめ、彼女は生まれて初めて見るアイスクリームに夢中になっていた。
「なあこれ冷たくて甘い!!」
サシャがはしゃぐ隣で、俺は周囲の警戒を怠らなかった。ここは敵地だ。何が起きてもおかしくない。
その時だった。
「あっ、財布が!」
サシャの声に、俺たちは一斉に振り返る。人混みの中を、一人の痩せた少年が必死に走り去っていくところだった。リヴァイ兵長の動きは速かった。次の瞬間には、少年の襟首を掴み上げている。
「離せよ! 離せってば!」
少年は必死にもがいたが兵長の腕は微動だにしない。周囲のマーレ人が異変に気づきざわざわと集まり始めた。その目には好奇心よりも敵意が色濃く浮かんでいる。
「エルディア人のガキか」
誰かがそう呟いたのを皮切りに野次が飛び始めた。
「やっぱりな。エルディア人はこれだから」
「盗みを働くなんて、血は争えねぇな」
「さっさとつまみ出せ!」
少年は震えていた。怒りからではない。恐怖からだ。彼はもう何度もこういう目に遭ってきたのだろう。周囲の大人たちは制裁を加えようと拳を握りしめ前に詰め寄ってくる。
(これがマーレの現実か)
俺は、その光景を、奥歯を噛み締めながら見つめていた。壁の内側でも、確かに貧富の差はあった。だが、これほどまでに露骨な差別が、日常としてまかり通っているのか。生まれだけで人間の価値が決められ、罪を犯せば私的制裁が当然のように行われようとしている。
(これが戦争の原因なんだ)
あの食堂でピークが見せた沈んだ目。出征を止めようとした時の悲しげな顔。彼女もまた、この差別の中で生きてきたのだ。エルディア人でありながら、戦士として名誉を得なければ、人間として扱われない世界で。
「それはこいつの姉の財布だ」
リヴァイ兵長の声が、ざわめきを切り裂いた。
「姉が買い物を頼んだんだ。そうだろう」
兵長は少年の腕を掴んだまま淡々と嘘をついた。周囲のマーレ人たちは狐につままれたような顔をしている。その隙を逃さず、兵長は少年をひょいと背負い上げた。
「行くぞ」
俺たちは無言でその場を駆け出した。背後から罵声が飛んでくる。石が投げられる。それでも俺たちは走り続けた。少年を守るために。そして何よりこの理不尽な差別の現実を胸に刻みつけるために。俺は走りながら、遠くの空を見上げた。ピーク、君もまた、こんな世界で生きてきたんだな。だとしたら、君は俺が思っていたよりずっとずっと強い人間なのかもしれない。そう思うと胸の奥がまた少しだけ痛んだ。