あの日エレンは姿を消した。
何の予告もなく何の言葉も残さず。
まるで最初からそこにいなかったかのように俺たちの前から消え失せたのである。
そして残されたのはレベリオ収容区で行われる国際会議を襲撃するという恐るべき計画だけだった。
「エレンはもう一人で動いてる。我々が止めにいかなければならない」
ハンジ分隊長の声はひどく疲弊していた。
俺はその言葉を聞きながら拳を握り締める。
エレンはあの時海辺で俺に言ったのだ。
もしいつか自分がただの殺戮者になった時はお前が俺を殺せと。
あれはやはり冗談じゃなかったのだ。
「レベリオの国際会議にはマーレの軍上層部が全員集まる。そこを叩く」
「民間人もいるんじゃねぇのか」
ジャンが低い声でそう言った。
俺と同じことを考えていたのだろう。
その顔には明らかな嫌悪が浮かんでいる。
「仕方ねぇだろ。向こうだって俺たちを殺しに来てんだ」
コニーが珍しく強い口調で言う。
だがその目には迷いがあった。
「エレンはもう始めちまったんだ。俺たちがついていかねぇとアイツ一人で全部やろうとするぞ」
「それで民間人を巻き込むってのか? 俺たちは調査兵団だぞ。壁の外の自由を求めてきたんじゃないのか。人殺しのためにきたんじゃない」
ジャンの言葉に食堂が沈黙した。
俺は黙ったままただ手元の珈琲を見つめていた。
黒い液体に揺らぐ自分の顔がひどく疲れている。
「ジョーお前はどうなんだ」
ジャンが不意に俺に問いかけてきた。
「俺は…」
言葉に詰まる。
人を殺すことに戸惑いはないと言えば嘘になる。
地下洞窟で中央憲兵を撃った時も手が震えた。
だがそれ以上に怖いのはエレンが一人で全てを背負い込んでしまうことだ。
「俺はエレンを止めたい。それがどんな形になるにせよ」
「止めるって殺すってことか?」
コニーが恐る恐る聞いた。
俺は首を振る。
「分からない。でも少なくとも俺たちはエレンを見捨てない。そうだろ」
俺がそう言うとジャンは少しだけ黙り込みそれから深いため息をついた。
「お前ほんとにそういうところ変わらねぇな」
「褒められてるのか貶されてるのか分からないぞ」
「褒めてんだよバカ」
俺たちは笑った。
だがその笑いはひどく空虚だった。
これから俺たちは人を殺しに行くのだ。
それもただの敵兵ではなく会議に集まった人々を。
その中にはもしかしたらピークもいるかもしれない。
俺は珈琲を飲み干した。
苦かった。
だがその苦さが今の俺には必要だった。
戦いはもう避けられない。
ならば俺は俺のやり方で戦う。
撃つべき一撃を撃ち。
守るべき者を守る。
そしてもし possible ならば。
彼女ともう一度あの食堂のような場所で笑い合える日を。
その小さな希望だけを胸に俺は立ち上がった。
俺は手にしたマーレ製の銃を磨きながら、隣に座るジャンの横顔を盗み見た。彼は、自分の手をじっと見つめている。その手は、これから多くの人間を殺めるかもしれない手だ。
「なあ、ジャン」
俺が声をかけると、ジャンはゆっくりと顔を上げた。
「ああ、なんだ」
その声は、普段の気の抜けた調子とは違い、ひどく低い。
「明日のことだ。俺は、無駄に人を殺したくない」
俺がそう言うと、ジャンはしばらく黙り込み、それからかすかに笑った。
「奇遇だな。俺もだよ」
彼のその言葉に、少しだけ胸のつかえが取れた気がした。
「二人とも、何かたくらんでるの?」
不意に後ろから声がかかり、振り返ると、アルミンが立っていた。彼の手には、書き込まれた地図がある。彼は、この作戦の指揮を任されている。その重圧は、俺たちの比ではないだろう。
「たくらんでるわけじゃない。ただ、確認したかっただけだ。俺たちは何のために戦うのかってな」
ジャンがそう言うと、アルミンは少しだけ驚いた顔をした後、静かにうなずいた。
「そうだね。エレンは、もう止まらない。マーレの軍上層部も、おそらく皆殺しにするつもりだろう。でも…」
アルミンは言葉を切り、地図の一点を指さした。それは、会議場とは少し離れた場所にある、民間人の居住区だった。
「僕たちに、それ以上の殺しをする必要はない。むしろ、民間人に被害が出ないようにするのが、僕たちの役目だと思う」
「同感だ」
俺はすぐに同意した。
「エレンが獣の巨人を倒したあの時も、新兵たちを死なせずに済む道を選んだ。それが、俺たちがやりたかったことの本質なんじゃないか」
「ああ、違いねぇ」
ジャンも深くうなずく。
「俺は、人を殺すのがうまくなりてぇわけじゃねぇ。ただ、守りたいものを守るために、仕方なくやってきただけだ。それは変わらねぇ。俺は、俺の仲間や、巻き込まれる罪のない奴らを守るために動く。それでいいんだろ、アルミン」
その言葉に、アルミンの瞳がかすかに揺れた。彼は、何か大きな決断を胸に秘めている。そんな顔だった。
「うん。それでいい。いや、それがいいんだ。僕たちは調査兵団だ。壁の外の自由を知り、人類を守るために戦ってきた。その原点を忘れなければ、きっと、間違った道には行かない」
俺は、磨き終えた銃を握りしめた。冷たい鉄の感触が、心を落ち着ける。
明日、戦場で何が起こるかはわからない。もしかしたら、ピークと再び刃を交えることになるかもしれない。その時は、きっと迷う。それでも、戦わなければならない。
だが、それでも、俺たちが見るべきは憎しみじゃない。守るべき未来だ。
「よし、決まりだな」
ジャンが立ち上がり、俺たちの顔を見回す。
やるべきことをやる。だけど、絶対に無駄な血は流さない。三人とも、絶対に生き残ろう」
俺とアルミンは、無言で力強くうなずいた。倉庫の中の空気が、ほんの少しだけ、前を向くための熱を帯び始めたように感じた。