飛行船の床板が、不規則に震えている。
エンジン音は低く唸りを上げ、船体を揺らす風の音が壁の向こうで遠吠えのように響いていた。
俺は通路の隅に背を預け、冷えた壁にもたれかかり、ただぼんやりと天井を見つめている。
さっきまで子供たちと話していた。
ガビ、ファルコ。まだ幼さの残る顔で、それでもはっきりと敵意と誇りと、そして恐怖を、その目に宿していた。
あの子供たちを、これからどうするのか。尋問か、拘束か。
いや、そもそも――これから、俺たちは、何をしでかすつもりなのだ。
頭の中で、あの言葉が繰り返し木霊する。
「地鳴らし」。
壁の中の巨人を解き放ち、壁の外のすべてを、踏み潰す。
それは、エレンが掲げた「自由」の、あまりにも巨大で、あまりにも残酷な代償だった。
レベリオでの襲撃は、その始まりに過ぎない。
エレンはもう、止まれないところまで行ってしまった。
そして、俺たちもまた、その流れに、飲み込まれようとしている。
「……俺は、何を守りたいんだ」
声に出してみても、答えはない。
ただ震える船体の響きだけが、まるで俺の心臓のように、不気味に脈打っている。
マーレの街で見た、家族の笑顔。市場に並ぶ色鮮やかな果物。
壁の中と、何も変わらない、ただの人間の暮らし。
それを、あの巨人たちが踏み潰すのか。
俺たちが、それを命令し、援護し、あるいはただ黙って、見ているのか。
ピークの顔が、脳裏をかすめる。
あの、眠そうな目をした女。
俺の好物を、「美味しい」と笑ってくれた。
敵だと分かっていても、引き金を引けなかった。
彼女もまた、あの子供たちも、俺たちが今から殺そうとしている「壁の外の人間」だ。
「……守れるのか、こんなことをして」
膝の上に置いた拳を、じわりと汗が濡らす。
戦場で敵を撃つことと、これは、違う。
これは、戦争ではない。
これは――もはや、絶滅ではないのか。
「ジョー、お前、まだ起きてたのか」
声がして、顔を上げる。
ジャンが、疲れ切った顔で、水筒を差し出していた。
俺は小さく首を振り、壁に頭を預ける。
今はまだ、誰とも、話せる気がしなかった。これから起きることを思うと、自分の心の整理すらつかない。ただ、暗い空を進むこの船の振動だけが、現実の重みを、骨の髄まで伝えてきていた。
飛行船の窓から、ただ広大な雲海を見つめることしかできなかった。
あの壁が動き出せば、全てが終わる。
マーレも、その向こうの国々も、何もかもが巨大な足の下で跡形もなく消し飛ぶのだ。
それは、かつて俺たちが恐れた巨人の恐怖そのものだ。ただ、その規模が桁違いなだけ。
俺は窓枠を握りしめた。指先が白くなるほどに。
「…地鳴らし」
その言葉が、呪いのように頭の中で反響している。
エレンはやる気だ。あの地下室で見せた昏い瞳のまま、世界中を敵に回してでも、自分の望む自由を手に入れるつもりなのだ。
だけど、それはあんまりだ。
さっき、船倉の隅で縛られていたガビとファルコの顔を思い出す。
ガビは俺を睨みつけていた。「悪魔」だと叫んで。
ファルコはただ悲しそうな目で、この船が向かう先を見つめていた。
彼らは、マーレに生まれ、マーレで育った。あの収容区のテントで、不自由な暮らしを強いられながらも、必死に生きていたのだ。
その場所が、あの二人が帰るべき場所が、踏み潰されて消える。
俺が好きだと言った、あの糸引き豆の匂いが染み付いた食堂も。
ピークと出会ったあの寂れた店先も。
全てが、瓦礫の山となり、二度と戻らない。
「ピーク…」
俺の口から、無意識にその名が漏れた。
彼女は何を思うだろうか。
自分が命を懸けて守ろうとした国が、仲間が、全て無になるのを。
彼女はあの時、車力の巨人の背で俺に言った。
『私たちは、戦う意味がないと無駄になる』と。
ならば、今俺たちが向かっている先にあるのは、意味のない破壊なのか。
俺は、それを黙って見ているだけなのか。
拳を強く握る。
嫌だ。
俺は、ただ生き残りたかっただけじゃない。
生き残ったからこそ、出来ることがあるんだ。
それは、敵を殺すことだけじゃないはずだ。
守ること。
そして、止めること。
「おい、ジョー」
背後から、ジャンの声がした。
振り返ると、彼もまた疲れた顔で立っていた。
「サシャの怪我、致命傷じゃなくてよかったな」
「ああ…」
俺は短く答える。
「でも、次はねぇぞ。あのガキ、本気で殺しに来てた」
「…分かってる」
ジャンは、俺の横に立ち、同じように窓の外を見た。
「俺たち、どうするんだ? このままエレンのところへ行けば、地鳴らしを止めることになる。そうなれば、エレンと…戦うことになるぞ」
その言葉に、俺は奥歯を噛み締めた。