糸引く記憶と雷槍の先   作:ボルメテウスさん

29 / 52
迫る地鳴り

飛行船の床板が、不規則に震えている。

エンジン音は低く唸りを上げ、船体を揺らす風の音が壁の向こうで遠吠えのように響いていた。

俺は通路の隅に背を預け、冷えた壁にもたれかかり、ただぼんやりと天井を見つめている。

 

さっきまで子供たちと話していた。

ガビ、ファルコ。まだ幼さの残る顔で、それでもはっきりと敵意と誇りと、そして恐怖を、その目に宿していた。

あの子供たちを、これからどうするのか。尋問か、拘束か。

いや、そもそも――これから、俺たちは、何をしでかすつもりなのだ。

 

頭の中で、あの言葉が繰り返し木霊する。

「地鳴らし」。

 

壁の中の巨人を解き放ち、壁の外のすべてを、踏み潰す。

それは、エレンが掲げた「自由」の、あまりにも巨大で、あまりにも残酷な代償だった。

レベリオでの襲撃は、その始まりに過ぎない。

エレンはもう、止まれないところまで行ってしまった。

そして、俺たちもまた、その流れに、飲み込まれようとしている。

 

「……俺は、何を守りたいんだ」

 

声に出してみても、答えはない。

ただ震える船体の響きだけが、まるで俺の心臓のように、不気味に脈打っている。

 

マーレの街で見た、家族の笑顔。市場に並ぶ色鮮やかな果物。

壁の中と、何も変わらない、ただの人間の暮らし。

それを、あの巨人たちが踏み潰すのか。

俺たちが、それを命令し、援護し、あるいはただ黙って、見ているのか。

 

ピークの顔が、脳裏をかすめる。

あの、眠そうな目をした女。

俺の好物を、「美味しい」と笑ってくれた。

敵だと分かっていても、引き金を引けなかった。

彼女もまた、あの子供たちも、俺たちが今から殺そうとしている「壁の外の人間」だ。

 

「……守れるのか、こんなことをして」

 

膝の上に置いた拳を、じわりと汗が濡らす。

戦場で敵を撃つことと、これは、違う。

これは、戦争ではない。

これは――もはや、絶滅ではないのか。

 

「ジョー、お前、まだ起きてたのか」

 

声がして、顔を上げる。

ジャンが、疲れ切った顔で、水筒を差し出していた。

俺は小さく首を振り、壁に頭を預ける。

今はまだ、誰とも、話せる気がしなかった。これから起きることを思うと、自分の心の整理すらつかない。ただ、暗い空を進むこの船の振動だけが、現実の重みを、骨の髄まで伝えてきていた。

 

飛行船の窓から、ただ広大な雲海を見つめることしかできなかった。

あの壁が動き出せば、全てが終わる。

マーレも、その向こうの国々も、何もかもが巨大な足の下で跡形もなく消し飛ぶのだ。

それは、かつて俺たちが恐れた巨人の恐怖そのものだ。ただ、その規模が桁違いなだけ。

俺は窓枠を握りしめた。指先が白くなるほどに。

「…地鳴らし」

その言葉が、呪いのように頭の中で反響している。

エレンはやる気だ。あの地下室で見せた昏い瞳のまま、世界中を敵に回してでも、自分の望む自由を手に入れるつもりなのだ。

だけど、それはあんまりだ。

さっき、船倉の隅で縛られていたガビとファルコの顔を思い出す。

ガビは俺を睨みつけていた。「悪魔」だと叫んで。

ファルコはただ悲しそうな目で、この船が向かう先を見つめていた。

彼らは、マーレに生まれ、マーレで育った。あの収容区のテントで、不自由な暮らしを強いられながらも、必死に生きていたのだ。

その場所が、あの二人が帰るべき場所が、踏み潰されて消える。

俺が好きだと言った、あの糸引き豆の匂いが染み付いた食堂も。

ピークと出会ったあの寂れた店先も。

全てが、瓦礫の山となり、二度と戻らない。

 

「ピーク…」

俺の口から、無意識にその名が漏れた。

彼女は何を思うだろうか。

自分が命を懸けて守ろうとした国が、仲間が、全て無になるのを。

彼女はあの時、車力の巨人の背で俺に言った。

『私たちは、戦う意味がないと無駄になる』と。

ならば、今俺たちが向かっている先にあるのは、意味のない破壊なのか。

俺は、それを黙って見ているだけなのか。

拳を強く握る。

嫌だ。

俺は、ただ生き残りたかっただけじゃない。

生き残ったからこそ、出来ることがあるんだ。

それは、敵を殺すことだけじゃないはずだ。

守ること。

そして、止めること。

 

「おい、ジョー」

背後から、ジャンの声がした。

振り返ると、彼もまた疲れた顔で立っていた。

「サシャの怪我、致命傷じゃなくてよかったな」

「ああ…」

俺は短く答える。

「でも、次はねぇぞ。あのガキ、本気で殺しに来てた」

「…分かってる」

ジャンは、俺の横に立ち、同じように窓の外を見た。

「俺たち、どうするんだ? このままエレンのところへ行けば、地鳴らしを止めることになる。そうなれば、エレンと…戦うことになるぞ」

その言葉に、俺は奥歯を噛み締めた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。