「俺は、仲間を裏切ることはできない」
俺の口から出た言葉は、まるで重い鉛のように冷たく路地の空気に落ちた。
ピークの瞳がわずかに見開かれる。彼女はきっと、俺が折れると思っていたのかもしれない。あるいは、情報を引き出すために手段を選ばないとでも。だが、俺の答えは彼女の予想とは違ったらしい。
彼女は俺の目をじっと見つめたまま、数秒の沈黙を保った。その時間は永遠のように長く、そしてひどく静かだった。次の瞬間、彼女の鋭かった表情がふっと緩んだのだ。そこには失望の色はなく、むしろ、どこか深く安堵したような、柔らかな光が宿っていた。
「…そう。それなら仕方ないね」
彼女は短くそう呟くと、俺に突きつけていた銃口をゆっくりと下ろした。抵抗する気配はない。むしろ、その細い体からは、力が抜けていくような、そんな空気すら感じられた。彼女は俺の手首を掴み、自らの腰に引き寄せるようにして、拘束されることを促したのだ。
「縛っていいよ。それが君の任務なんでしょ?」
彼女の声は、ひどく穏やかだった。まるで、俺が「裏切らない人間」であったことを、彼女自身が望んでいたかのように。俺は震える手で腰のベルトを外し、彼女の手首を縛り上げた。その皮の感触が、ひどく生々しく、俺の心臓を締め付ける。
「…なんでだ」
俺は思わず問いかけていた。
「なんで安堵してるんだ。俺が情報を吐かなかったのに」
ピークは縛られた手首を軽く振って、俺の顔を見上げた。あの眠たげな、しかし確かな光を宿した瞳で。
「だって、君が裏切るような人じゃないって、知ってたから。あの食堂で、君の好物を笑わなかった人間が、今さら仲間を売るはずないって」
彼女の言葉が、胸の奥に突き刺さる。それは、俺たちが共有したあの小さな時間の証明だった。
「それに、もし君が裏切るような人だったら、私、きっともっと悲しかったと思うから」
彼女は自嘲気味に笑い、それから俺の耳元に唇を寄せた。
「そのままにいて。動かないで」
彼女は俺の耳元でそう囁くと、縛られた手首を難なく解き放ち、路地の闇へと身を翻した。まるで手品のように。俺はその背中を見送ることしかできなかった。彼女はもう振り返らなかった。ただ、路地の向こうから響く足音だけが、俺の鼓膜を震わせ、やがて消えていった。俺はその場に立ち尽くしたまま、自分の手首に残る彼女の体温を、いつまでも感じていた。
「待てよ!」
俺は無意識に声を張り上げ、伸ばした手が空を切った。
路地の闇に溶け込んでいく彼女の背中は、もう振り返ることはない。
あっさりと。
あまりにもあっさりと、彼女は俺の拘束を解き、そして去っていったのだ。
まるで最初から縛られてなどいなかったかのように。いや、実際そうだったのだ。
俺の不器用な縛りなど、彼女にとってはただの冗談に等しかったのかもしれない。
それとも、俺が彼女を傷つけないと信じきっていたからこそ、あえて身を委ねてみせたのか。
「…どういう、ことだよ」
俺は自分の手首を握りしめた。
そこにはまだ、彼女の細い手首の感触が残っている。
冷たい石畳に膝をつき、俺は激しい自己嫌悪に襲われた。
「そのままにいて」
彼女はそう言った。
俺の選択を尊重するように。
俺が仲間を裏切らない人間だと信じてくれているからこそ。
だが、それは彼女にとっての「救い」なのだろうか?
彼女は今、一人で全てを背負おうとしているんじゃないのか?
地鳴らしを止めるために、命がけでこの島に潛入してきたのに。
「バカか、俺は…!」
俺は拳を地面に叩きつけた。
鈍い痛みが走るが、そんなものは心の痛みに比べれば何でもない。
彼女を信じろだの、仲間を裏切れないだの、綺麗事を並べ立てて、結局何も掴んでいない。
彼女を止めることも、守ることも、まだ何一つできていないじゃないか。
「動くなだなんて、誰が決めたんだ」
俺は立ち上がった。
足が震えている。
恐怖がある。
彼女の言う通り、地鳴らしが起これば世界は終わる。
その渦中に飛び込むことは、死を意味するかもしれない。
それでも。
「俺は、お前に生きててほしいんだよ、ピーク…!」
俺の口から、抑えきれない本音が漏れた。
仲間のため、人類のため、そんな大義名分だけじゃ動けない。
俺は、ただ、あの食堂で笑っていた彼女にもう一度会いたいだけなんだ。
そのためなら、俺は「そのまま」なんてしているわけにはいかない。
俺は彼女が消えた闇の方角へと顔を向けた。
全身の血が沸き立つような感覚。
これは、戦場に出る時の静かな覚悟とは違う。
もっと衝動的で、どうしようもない感情。
俺は駆け出した。
彼女がかけた見えない鎖を引きちぎるように。
この足で、この目で、彼女を追いかけるために。