「私は観客になる気はないよ。イェーガー派ならもう四人殺したことだしね」
ハンジさんの声は、それまでの飄々とした調子を完全に捨て去っていた。
その瞳の奥には、調査兵団団長として背負ってきた数え切れぬ屍の重みが、昏く揺らめいている。
冗談でも気休めでもない。
彼女は本気だ。
そしてその言葉と共に、既に戦争は始まっていたのだ。
俺はゆっくりと顔を上げた。
心臓が冷たく脈打っている。
この場で最も恐ろしい決断を下そうとしているのは、他でもない、俺たち自身なのだ。
「俺も戦う」
俺の声は自分でも驚くほど静かだった。
倉庫の湿った空気に溶け込むように、しかしその重みは鉛よりも確かだった。
「俺は人を殺すためにここに来たわけじゃない。でも撃たなきゃ守れないものがある」
俺は腰の銃を握りしめた。
冷たい鉄の感触が、指先から腕へ、そして心臓へと伝わっていく。
「だったら俺は撃つ。無駄な死を出さないために。飛行艇を飛ばすために。そしてあの地鳴らしを止めるために」
ピークが隣で微かに笑った。
「やっぱり君はそう言うと思ってたよ」
その声色には確かな信頼が宿っていた。
あの食堂で出会った時から変わらぬ気だるげな響きだが、その奥にある光は、もはや敵を値踏みするものではない。
「私は君を乗せて走る。君は君の役目を果たせ」
「ああ。任せろ」
俺たちは重い沈黙を破って立ち上がった。
この先にあるのは同胞を手にかけるという名状しがたい地獄だ。
かつて共に壁の外を夢見た仲間たちが、今は敵として立ちはだかる。
それでももう後戻りはできない。
進むしかないのだ。
この絶望の泥濘を、前に向かって。
「作戦はエレンを止めるためだ」
アルミンがようやく顔を上げて言った。
その声は震えていた。
だがその瞳の奥には、微かでありながら確かな光が宿っていた。
「そのために飛行艇は必ず確保する。イェーガー派を止める。そして僕たちはあの地鳴らしを止める」
マガトが深く頷いた。
「何より人類にはもう時間が残されていない」
彼の声は、老いた武人特有の重みと枯淡を帯びていた。
「沖で大量の蒸気を上げながら進む巨人が見えた。その速度から推測するにすでにマーレ大陸には上陸している」
その言葉が倉庫の空気を凍りつかせた。
「ここから近いマーレ北東の都市は壊滅しているだろう。こんなに早く海を渡れるとは思わなかった」
マガトの拳が震えている。
それは怒りか、それとも徒労か。
「既にどれだけの人々が殺されたことか」
ガビが唇を噛み締め、ファルコが俯く。
ピークの瞳が一瞬だけ暗く沈んだ。
彼女の故郷が、彼女の守るべき人々が、今この瞬間にも巨大な足の下で踏み潰されている。
その事実が俺の胸を刃のように切り裂いた。
だがその瞳にはもはや迷いはなかった。
「行こう。時間がない」
アルミンの声は、まだ震えていた。
だがその足は確りと前へと踏み出されている。
俺たちは倉庫の扉を開けた。
冷たい夜風が吹き込んでくる。
遠くで地鳴らしの轟音が絶え間なく響いていた。
それは世界の終わりを告げる太鼓の音だ。
だが俺たちはその音に背を向けるのではない。
音の源へ向かって走るのだ。
「ジョー」
ピークが俺の名を呼んだ。
振り返ると彼女は既に車力の巨人への変容の準備を整えていた。
その瞳には戦士としての冷徹な光と、そしてほんの少しだけ、あの食堂での温もりが残っていた。
「生き残ったら、また一緒に食べよう」
その言葉に俺は息を呑んだ。
あの日交わした約束。
そしてその約束が果たされなかった悲しみ。
だが今、彼女は自らその言葉を口にしたのだ。
「ああ。約束だ」
俺は短く答え、銃を構えた。
生き残る。
そのために俺は撃つ。
そしていつか、この狂った世界が正されたら、あの薄暗い食堂で再び糸引き豆を分け合うのだ。
それが今の俺に残された唯一の希望であり、そしてこの絶望的な戦いを生き抜くための糧だった。