船の甲板が微かに揺れている。
港の炎が遠ざかり黒煙の柱が地平線の彼方へと溶け込んでいく。
俺は手すりに寄りかかりその光景をただ黙って見つめていた。
無事に船に乗り港から離れることに成功したのだ。
だがその代償はあまりにも大きかった。
イェーガー派の追撃を振り切り飛行艇を確保し船を出す。
その過程でどれほどの血が流れたか俺はもう数えたくもなかった。
同胞の血。
仲間の血。
そしてマーレの兵士の血。
全てが混じり合い俺の手を永久に汚すだろう。
甲板には冷たい夜風が吹き抜けていた。
他の仲間たちは船内で休息を取っているはずだ。
だが俺は眠れなかった。
目を閉じればフロックの叫び声が蘇る。
倒れたイェーガー派の兵士たちの顔が浮かぶ。
だからただ風に吹かれていたのである。
その時だった。
船の舳先に小さな人影があるのに気づいたのは。
黒髪が風に煽られ揺れている。
細い肩。
見間違えるはずもなかった。
ピークだ。
彼女は手すりに両手をかけ遠くの海を見つめていた。
その背中からは名状しがたいほどの深い悲しみが滲み出している。
俺は無意識のうちにその背中へと歩み寄っていた。
「ピーク」
声をかけると彼女はゆっくりと振り返った。
その瞳は赤く腫れてはいなかった。
だがその奥にある光はひどく暗く沈んでいた。
あの気だるげな目が今はただ空洞のように虚ろなのである。
「…ジョー」
彼女の声は風に掠れてほとんど聞こえなかった。
「眠れないの?」
俺は彼女の隣に立ち同じように海を見つめた。
「うん。ちょっとね」
ピークはそう答えたがそれ以上何も言わなかった。
沈黙が流れる。
波の音と風の音だけが俺たちの間を埋めていた。
だが俺は知っていた。
彼女が何を思い詰めているのかを。
「マガトさんのことか」
俺の言葉にピークの肩が微かに震えた。
彼女は顔を伏せ手すりを握りしめる。
その指節が白くなるほどに。
「…知ってたんだ」
「ああ。ハンジさんから聞いた」
俺は視線を海へと戻した。
「マガトさんは殿を務めた。イェーガー派の追撃を食い止めるために」
ピークは何も言わなかった。
ただその肩が小さく震えているだけだった。
「船を出す時間を稼ぐために残ったんだ。あの人がいなければ俺たちはここにいなかった」
ピークの唇が震えた。
「知ってる」
その声はひどく小さかった。
「知ってるよ。でも」
彼女は言葉を切り深く息を吸い込んだ。
「あの人は私の上官だった。ずっと。厳しい人だったけど戦士隊のことを誰よりも思ってくれてた。ライナーやポルコや私を…」
声が途切れる。
ピークは手すりに額を押し付けた。
その背中が小さく起伏している。
泣いているのかと思ったが違った。
彼女はただじっとその悲しみを飲み込んでいたのだ。
「マガトさんは最後に何か言ってたか」
俺が恐る恐る問うとピークはゆっくりと顔を上げた。
「あの人はね最後にこう言ったの」
彼女の声は震えていた。
「エルディアの未来を託す。私が信じるお前たちに。って」
その言葉の重さが夜風に乗って俺の胸に突き刺さる。
「あの人は最後まで戦士を信じてた。私たちがこの先を選ぶことを信じてた」
ピークは遠くの海を見つめた。
マガトが沈んだであろう方角へ。
「なのに私は…生き残っちゃった。また」
その言葉に俺は胸を抉られるような痛みを感じた。
また。
彼女はそう言った。
つまりこれは初めてではないのだ。
仲間を失い上官を失いそれでも自分だけが生き残る。
その痛みを彼女は何度も味わってきているのである。
「ピーク」
俺は彼女の名を呼んだ。
「生き残ったからこそ出来ることがある」
その言葉は俺の口癖だった。
だが今夜はそう軽々しく口にする気にはなれなかった。
だから代わりにこう言った。
「俺は悲しいよ。マガトさんが死んだことが。でもそれ以上にあんたがここにいてくれてよかったって思ってる。それは不謹慎かもしれないけど」
ピークが俺の方を向いた。
その瞳に微かな光が宿る。
「…不謹慎だね」
「分かってる。でも本当のことだ」
俺は正直に認めた。
「あんたが生きててくれなかったら俺はこの先戦えなかったと思う」
ピークは少しの間俺を見つめていた。
やがてふっと息を吐き再び海へと視線を戻した。
「ジョーは変な人だね。敵だった私のためにそんなこと言うなんて」
「敵だったからこそだよ。あんたが敵じゃなかったら俺はこういう気持ちに気づかなかったかもしれない」
風が吹く。
ピークの髪が揺れる。
彼女は何も言わなかった。
だがその肩の震えは少しだけ収まっていたように感じた。
俺たちの間に沈黙が戻る。
しかしそれは先ほどのものとは違っていた。
二人の悲しみが同じ海を見つめているというそれだけの共感がそこにはあった。
「マガトさんは強い人だった」
やがてピークがぽつりと言った。
「最後まで自分の信じる道を歩いた。私も…あんな風に生きたいな」
「あんたはもう十分強いよ」
「そうかな」
「そうだよ。だって今ここに立ってるじゃないか。それが強さの証拠だ」
ピークは小さく笑った。
それはひどく弱々しい笑みだったが確かに笑みだった。
「ありがとうジョー。一緒にいてくれて」
「礼には及ばない。約束しただろ。また一緒に食べようって」
その言葉にピークは初めてまともに俺の顔を見た。
あの食堂での思い出が蘇る。
糸引き豆と黒パン。
たったそれだけの小さな約束。
だが今の俺たちにとっては世界の全てよりも重い約束だったのだ。
「うん。食べようね。また」
ピークはそう言って再び海へと向き直った。
俺もまた海を見つめる。
遠くで地鳴らしの轟音がまだ響いていた。
だがこの夜だけはただ静かに二人で海を見ていたかった。