冷たい風が、調査兵団の外套の裾をはためかせていく。俺は人通りの減った露店街を、特に急ぐでもなく歩いていた。壁外調査に備えた物資の確認を終え、兵舎へ戻る前の、ほんのわずかな自由時間である。石畳の向こうから、兵団の荷馬車が重い音を立てて通り過ぎていった。露店からは干し肉の燻された匂いや、発酵豆の独特な香りが漂ってくる。俺はその匂いに引き寄せられるように、いつもの保存食の露店へと足を向けた。するとどうだ、店先で糸引き豆の壺を手に取っている、見覚えのある後ろ姿があるではないか。
「ピーク」
俺が声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。気だるげな目元は相変わらずで、俺の顔を認めると、ほんの少しだけ口元を緩める。
「やあ、ジョー。奇遇だね」
「ああ。君も買い出し……というか、ここは俺の行きつけなんだが」
「知ってるよ。この間も、ここで会ったじゃない」
そう言って彼女は、手にした糸引き豆の包みを軽く持ち上げて見せた。俺は思わず笑みがこぼれる。壁の中のどこへ行っても、この好物を理解してくれる者は少ない。だが、彼女だけは違った。初めて会った時から、この癖の強い食べ物を当然のように受け入れ、俺の話に共感してくれた。俺は自然と、彼女の隣に並んでいた。
近況を話すうちに、俺はつい、壁外調査が近いことを口にした。
「近日中に、ウォール・マリア方面へ遠征に行くことになったんだ」
その瞬間だった。ピークが、糸引き豆の包みへ伸ばした指を、ぴたりと止めたのである。ほんの一瞬のことだ。しかし、俺は確かにそれを見た。彼女の声が、いつもより少しだけ低くなる。
「……ウォール・マリア方面」
「ああ」
「あそこは、危ないんじゃないの」
ピークはそう言うと、俺の胸元――調査兵団の「自由の翼」の紋章へと視線を落とした。何かを探るような、あるいは何かをこらえるような、そんな目つきだった。
「危ないなら、別の任務を頼んでもいいんじゃない? 君は確か、射撃が得意なんだろ。後方支援なら、危険も少ないだろうし」
俺は、彼女のその言葉を、素直に嬉しいと思った。行商で各地を回っている彼女のことだ。巨人が蔓延る危険な土地の話も、きっとよく知っているのだろう。俺の身を案じて、遠回しに出征を止めようとしてくれているのだ。俺は抱え直した保存食の袋を少し持ち上げ、彼女の視線を追いかける。
「そんなに危ない場所なのか?」
俺が柔らかく問い返すと、ピークは少しだけ黙り込み、それから、ふっと息を吐いた。
「……危なくない場所なんて、壁の外にはないよ。でも、ウォール・マリアは、特に、何もかもが失われた場所だから」
彼女の声は、ひどく静かで、それでいて、妙に説得力があった。俺は彼女の横顔を見つめながら、胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じる。嬉しさと、申し訳なさ。彼女にこんな顔をさせてしまったことが、何よりも心苦しかった。
「心配してくれてありがとう。でも、俺は行かなくちゃいけないんだ。生き残ったからこそ、出来ることがある」
俺がそう言うと、ピークはもう一度だけ俺の目を見つめ、それから、ゆっくりと包みを手に取った。曇天の下、冷たい風が、再び俺たちの外套を揺らす。彼女は、もう何も言わなかった。
「ウォール・マリア奪還作戦は、もう決まったことなんだ」
俺は、できるだけ穏やかな声でそう告げた。風が、露店の天幕をばたばたと鳴らし、彼女の手にした紙袋の端を揺らす。ピークはすぐには返事をしなかった。伏せた目のまま、紙袋の端を指先で何度も撫でている。その仕草は、あの食堂で初めて会った時と変わらず、どこか眠たげで掴みどころがないのに、それでいて妙に心に残るものだった。
「俺が扱う雷槍も、作戦には必要なんだ。それに、生き残るための道を作るのが俺の役目だから」
俺は言葉を続けながら、彼女の沈黙の意味を探っていた。任務を変えるつもりは、毛頭ない。壁の外の自由を取り戻すためには、どうしても必要な戦いだ。だが、それでも、彼女がこうして黙り込むのを見ると、胸の奥に小さな棘が刺さったような心地になる。行商人として、兵士の危険を案じているだけだ。そう自分に言い聞かせても、彼女の伏せた睫毛の陰に揺れる光が、ただの同情には見えなかったのである。
「……そっか」
やがてピークは、そう短く呟き、顔を上げた。その口元には、確かに笑みが浮かんでいた。しかし、それはあの食堂で交わした、糸引き豆を挟んで見せた屈託のない笑顔とは、どこか違っていた。まるで、薄い紙で作られた花のように、少しの風で破れてしまいそうな、頼りない笑みだった。傾いた陽が、石壁と俺の外套を淡く照らし出す。街道の向こうからは、奪還作戦に向けた馬の嘶きや、物資を積み込む荷車の音が、絶え間なく聞こえてきていた。
「戻ったら、また一緒に食べよう。あの、糸引き豆と黒パンを」
俺は、ほとんど衝動的にそう言っていた。彼女のその笑みが、これで最後になるような気がして、どうしても、それを許せなかったのだ。ピークは少しだけ目を見開き、それから、ゆっくりと頷いた。ただ一度、短く、それでいて確かに。
「……うん。約束だよ」
彼女はそう言うと、紙袋を胸に抱え、俺に背を向けて歩き出す。その背中は小さく、しかし、決して振り返ることはなかった。街道から吹く風が、再び俺の外套をはためかせる。遠くの物資の音はまだ続いているのに、彼女の足音だけが、やけに静かに、石畳に吸い込まれていった。俺は彼女の姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。彼女の目が、別れ際に何を語ろうとしていたのか、俺にはまだ分からない。ただ、あの頼りない笑みだけが、いつまでも瞼の裏に焼き付いて離れなかった。生きて戻らなければ、と俺は改めて思う。彼女との、この小さな約束を果たすためにも。俺は外套の襟を立て直し、兵舎への道を急いだ。
冷たい風が、石畳の上を吹き抜けていく。俺は数歩進んだところで、ふと足を止め、振り返った。ピークはまだ、あの露店の前から動かずに立っている。傾いた陽が、彼女の黒い髪と、抱えた紙袋の縁を淡く照らしていた。彼女はこちらを見ていた。俺と目が合うと、その顔は、いつもの眠そうな笑みに戻る。そして、彼女は何も言わず、ただ小さく手を振った。俺もまた、無言のまま手を上げ、それに応える。
(あの時は、ただ心配してくれているのだと思っていた)
俺は彼女に背を向け、兵団の荷馬車が待つ大通りへと歩き出した。外套の背中に、彼女の視線がまだ刺さっているような気がしたが、二度と振り返りはしなかった。彼女がただの行商人でないことなど、とっくに気づいていた。それでも、糸引き豆を美味いと言って笑ったあの顔を、俺は疑いたくなかったのである。
この後、次に顔を合わせる場所が、食堂でも、市場でもない。互いに武器を向け合う、血と硝煙の戦場になるなど、この時の俺は、知るはずもなかった。