飛行艇の整備音が規則的に響いていた。
カシュンカシュンという金属音が冷たい夜空に吸い込まれていく。
技術班が必死に羽を展開し点検を繰り返している。
俺は甲板の隅に座り込みその音をただ聞いていた。
これが最後の休息になるだろうか。
整備が終わり飛行艇が飛び立てば俺たちはエレンの元へと向かう。
そこで待っているのはこれまでとは比較にならないほどの巨大な戦争だ。
地鳴らしを止める。
それは世界の命運を懸けた最後の賭けだ。
俺は拳を握りしめその覚悟を胸の奥に沈めていた。
ピークが隣に座っている。
彼女もまた黙ったまま海を見つめている。
マガトさんの死がまだ彼女の心に重くのしかかっているのは分かった。
だが今は言葉はいらない。
ただこうして隣にいることだけが俺たちにできる慰めだった。
その時だった。
整備音の合間に混じる異音が俺の耳を捉えたのは。
カリッ。
乾いた木が軋むような音。
いや違う。
それは船の装甲を何かが這いずり回る音だ。
俺は反射的に立ち上がり銃に手をかけた。
「どうしたのジョー」
ピークが驚いたように顔を上げる。
「誰かいる。船の底だ」
俺の観察眼は見逃さなかった。
波の音に消されそうな微かな振動。
足音だ。
しかも一人じゃない。
港からここまでずっと張り付いていた者たちがいる。
俺は甲板の縁へと走り寄り下を覗き込んだ。
月明かりに照らされた船腹。
そこにへばりついている人影があった。
イェーガー派の制服。
そしてその先頭に立つ男の顔を見た瞬間俺は息を呑んだ。
フロック・フォルスター。
港での戦いで俺たちを執拗に追い詰めた男がまだ生きていたのだ。
「ジョーか……」
フロックが顔を上げる。
その顔は血と泥にまみれ左目は潰れかけていた。
だがその右目だけは異様なほどに爛々と輝いている。
狂信者の目だ。
「分かってたさ。お前らがここに来ることはな」
彼の声はひび割れた笛のようにかすれていた。
「エレンのためなら何度だって這い上がってやる」
「フロックどうやってここまで」
俺が問うと彼は嗤った。
「船底に張り付いてたんだよ。港からずっとな」
その言葉に俺は背筋が凍るのを感じた。
どれほどの執念だ。
撃たれても斬られてもなお彼はエレンの影として俺たちを追ってきたのだ。
「お前も大概だな。そこまでして殺し合いたいか」
「殺し合いたいんじゃない。守りたいんだよ。エレン様が作ろうとしてる未来を」
フロックはうめくように言った。
「お前らには分からないだろうな。あのお方にすべてを賭けた俺たちには」
「分からないよ」
俺は静かに答えた。
「でもフロック。お前がやろうとしてるのは未来を守ることじゃない。ただの虐殺だ」
「黙れよ裏切り者が」
フロックの声が低く唸った。
「お前も壁の中で育ったんだろ。あの地獄を知ってるだろ。なのにエレン様を止めるだと? 世界が俺たちを殺そうとしてるのに!」
「だからって全員殺すのか。関係ない人間まで」
「関係ない人間なんていない! 外の人間は皆俺たちを憎んでる!」
フロックが叫んだ。
その顔は憎悪に歪み潰れた目から膿が滴っていた。
それでも彼は止まらなかった。
港から続く血の足跡がその体には刻まれている。
彼はもう引き返せないところまで来ているのだ。
「お前を殺す以外にはこの先へ進めない」
俺はその時悟った。
フロックは言葉で止まる男ではない。
殺す以外にこの男の執念を断ち切る方法はない。
だがそれでも最後に聞きたかった。
「フロックお前にはあの日に戻りたいって気持ちはないのか。壁の外の自由を夢見てた頃にはもう戻れないのか」
フロックは僅かに沈黙した。
そして血の混じった唾を吐き捨てるように言った。
「戻りたくなんてない。あの頃の俺は何も知らなかった。無力でただ死ぬだけのクソガキだった。エレン様が教えてくれたんだ。戦えば未来を変えられるってな」
「違う。あんたが変わったのは戦い方だけだ。中身はあの日のクソガキのままだよ」
「ハハッ……そうかもな。だがなジョー」
フロックがゆっくりと腰から刃を抜いた。
「今はそれがどうでもいい。私はエレン様の前しか見ていない」
俺もまた銃を構えた。
「だったら俺も前に進む。生き残ったからこそ出来ることがあると信じてる」
その時甲板へと飛び上がってきたフロックがこちらへ向かって駆け出した。
もう言葉は終わりだった。
刃と銃のぶつかる音が甲板に響く。
これが彼との最後の問答だった。
彼の信じる道と俺の信じる道を互いに示した。
答えばかりは出なかったがどちらも引く気はなかった。
「だから俺は――ここで撃つ!」
俺は叫び引き金を引いた。
フロックの体が弾丸に弾かれ甲板へと倒れ込む。
その目は最期までこちらを睨んでいた。
恨みではなかった。
それは何か別のものすべてを理解しながらも向かってくることで前にしか進めなくなる男の姿だった。
「なあジョー」
倒れた彼の口が微かに動く。
「お前は…壁の向こうで…何を見たいんだ」
「海を見た。次はあの向こうにある人が生きた跡を、取り戻すんだよ」
「そうか…」
フロックの右目が虚空に向いたまま動かなくなった。
私は彼の瞼を閉じてやることはしなかった。
最後まで前を見て死んだ男に、俺の手で幕を下ろす資格はない。
「行くぞピーク」
「うん…」
俺は振り返らずに歩き出した。
夜の海がまだ何も終わっていないことを告げるように、静かな波音を返していた。