整備班の最後の作業音が止んだ。
カシュンという金属音が夜空に吸い込まれ飛行艇の羽が完全に展開されたのだ。
オニャンコポンが操縦席から顔を出し親指を立てた。
「よし整備完了だ。いつでも飛べるぞ」
その声は静かだったが確かな自信に満ちていた。
俺は甲板から立ち上がり深く息を吐いた。
最後の休息は終わった。
ここから先に待っているのはこれまでのどんな戦いとも異なる絶望的な戦争だ。
その時だった。
ドォォンという重低音が空気を震わせたのは。
地鳴らしだ。
遠くではなくもう間近に迫っている。
「来たか」
リヴァイ兵長の声が低く響く。
包帯だらけの顔右目を失いながらもその左目だけは鋭く光っていた。
「乗るぞ。今すぐだ」
ハンジさんの号令が飛ぶ。
俺たちは一斉に飛行艇へと駆け込んだ。
「ジョーこっちだ!」
ジャンが手を振っている。
狭い船内に身体が押し合う。
ジャンコニーアルミンミカサ。
そしてピークリヴァイ兵長ハンジさんオニャンコポン。
かつては敵味方に分かれて殺し合っていた者たちが今は一つの機体に乗り同じ空へ向かおうとしている。
それはまさしく名状しがたい異様な光景であった。
「離陸する! しっかり捕まってろ!」
オニャンコポンの声と共にエンジンが唸りを上げた。
機体が大きく揺れ地面から離れる浮遊感が腹の底に響く。
「うわっ結構揺れるんだな」
コニーが悲鳴に近い声を上げる。
「当たり前だろ。こんな急造で整備したんだから」
ジャンが舌打ちする。
俺は窓枠にしがみつき外を見た。
夜明けの空が白み始めている。
だがその光は希望の色ではない。
世界の終わりを告げる冷酷な白さであった。
飛行艇が高度を上げるにつれ眼下の景色が広がっていく。
そして俺はそれを見た。
息を呑んだ。
言葉が消えた。
思考が停止した。
そこにはまさしく地獄が広がっていたのである。
無数の巨人が列を成して進軍している。
超大型巨人だ。
その巨躯が一斉に歩を進めるたび大地が震え山が崩れ川がせき止められる。
蒸気が立ち上り空を覆い尽くし朝の光すらも遮断している。
それはまるで大地そのものが動き出したかのような名状しがたい光景であった。
「これが…地鳴らし」
ジャンの声が震えていた。
「こんなのどうやって止めるんだよ」
コニーが呟く。
その顔は蒼白になり唇がわなないている。
俺もまた同じだった。
あの数だ。
果てしなく続く巨人の列。
視界の端から端まで埋め尽くされた超大型巨人の軍勢。
それは人間の力で抗えるものではない。
神の怒りとも呼べぬ圧倒的な暴力の具現化であった。
「…ひどい」
ミカサがポツリと言った。
その声は震えていた。
いつもの無表情が微かに崩れ瞳の奥に恐怖の色が滲んでいる。
彼女でさえこうなのだ。
我々にはこの絶望を止める力など本当にあるのだろうか。
「アルミンあれはどれくらいの速度で進んでる」
ハンジさんが眼鏡の位置を直しながら問うた。
アルミンは窓に顔を押し付け必死に計算する。
「かなりの速度です。既にマーレ大陸に上陸している可能性が高い。このままでは」
「…既にどれだけの人が」
アルミンの声が途切れた。
「街も家も人も。全部」
その沈黙が全てを語っていた。
「ジョー見えるか」
ピークが隣で囁いた。
俺は頷くことしかできなかった。
彼女の手が微かに震えているのが分かった。
「あの巨人たちが踏み潰した場所にはもう何も残っていないんだよね」
「ああ…」
俺は短く答えることしかできなかった。
彼女の故郷がその足の下にあるかもしれないのだ。
それを思うと言葉など出てこなかった。
「行くぞ」
リヴァイ兵長の声が響いた。
短く冷たくそして鋭い。
「奴らがどこへ向かっているかは分からねぇがエレンはその先にいる。始祖の座にあるアイツを引きずり出す」
「分隊長」
俺はハンジさんの方を向いた。
「俺たちにできますか」
ハンジさんは眼鏡の奥の瞳を細めた。
「できるかどうかじゃないジョー。やるしかないんだ」
その言葉は以前エルヴィンさんが言ったことと同じだった。
やるしかない。
選択肢など最初からないのだ。
俺は大きく息を吸い込み窓の外の地獄をもう一度見つめた。
あの巨人の軍勢を止める。
不可能に思える。
だが俺はかつて獣の巨人の投石を避けリヴァイ兵長をあそこまで送り届けた。
そしてファルコを暴走から救い出した。
不可能だと思えたことでも俺はやってきた。
だから今度もやる。
ピークと共に。
仲間と共に。
「ピーク」
俺は隣の彼女に目を向けた。
彼女はすでに俺の視線を受け取っていた。
「うん。準備できてる」
その声には迷いはなかった。
「オニャンコポン飛行艇の速度を上げてくれ」
リヴァイ兵長が命じた。
「アイツに追いつくぞ」
「了解だ。しっかり掴まっててくれよ」
オニャンコポンが操縦桿を握り直す。
エンジンが再び唸りを上げ飛行艇が加速する。
眼下の地獄が高速で流れていく。
俺は拳を握りしめた。
この手で止めるのだ。
あの絶望の行進を。
そしていつか来る未来への贖罪を。
飛行艇は夜明けの空へと舞い上がった。
その翼が世界の最後の希望を乗せて。