月明かりすら届かぬ巨木の森を、俺たちは馬で進んでいた。湿った土の匂いが、夜気に混じって鼻をつく。遠くで、誰かの馬が嘶く声がした。周囲を見渡せば、俺の他にも多くの兵士たちが、無言のまま手綱を握っている。これからウォール・マリアを奪還するための、命がけの遠征だ。誰の顔にも、緊張の色が濃く浮かんでいた。
俺の馬の背には、他の団員よりも多い雷槍の予備が、何本も括り付けられている。馬が歩を進めるたび、金具が擦れ合って小さく鳴り、ずしりと重い装具がぎしりと軋んだ。この重さが、託された期待の重さなのだろう。俺は左手で手綱を握り締めたまま、右手で腰の雷槍の固定具を確かめる。がたつきはない。いつでも抜ける。
(これが、俺の戦い方だ)
俺は胸の内でそう呟き、前方を進む分隊長の背中を見据えた。その時、ふと脳裏を過ぎったのは、意外なことに、戦場の風景ではなかった。露店街で別れた、あの女の沈んだ目である。危ないなら、行かないでほしい。彼女は確かに、そう言おうとしていた。まるで、この戦場で何が起こるかを、知っているかのように。俺は小さく頭を振り、その考えを打ち消した。今は、目の前の任務に集中しなければ。俺は手綱を握り直し、前方の仲間から離れまいと、そっと馬の腹を蹴った。
ああ、あの時のことを書こうとすると、どうにも筆が鈍る。いや、筆など持っていない。今は手綱を握り、冷たい夜風に頬を晒しているだけの身だ。ただ、これから死地へ向かおうという時に、なぜだか無性に、あの食堂の風景や、ピークという女の沈んだ目を思い出してしまうのである。仕方がないから、もう少しだけ、この胸の内をここに綴らせてほしい。
森を抜ける。木々の切れ間から、ようやく月明かりが差し込んだ。遠くに見えるは、これから俺たちが奪還せねばならぬ街の影だ。白く霞む城壁が、夜の闇にぼんやりと浮かび上がっている。風が草原を渡り、足元の草をざわざわと揺らした。まるで、これから起こる惨劇を、大地そのものが予感しているかのようだ。
俺は外套の下に手を差し入れ、腰に並べた雷槍の本数を指で確かめる。冷え切った金属の発射装置。その感触が、妙に俺の心を落ち着かせた。戦闘になれば、俺が突破口を作る。それが、剣では誰にも敵わなかった俺が、ようやく見つけた役割なのだから。
(生き残る)
俺は誰にも聞こえぬよう、小さく呟いた。そうだ、死ぬわけにはいかない。まだ、彼女との約束を果たしていない。戻ったら、また一緒に、あの糸引き豆と黒パンを食べるのだ。たったそれだけの約束が、今はどんな作戦計画よりも、俺の足を前に進ませる。俺は顔を上げ、手綱を握り直した。さあ、行こう。仲間と共に、街へ。死地へ。そして、必ず生きて帰る場所へ。
深夜、俺たちはついに目的地であるシガンシナ区へと足を踏み入れた。月明かりだけが頼りの廃墟の街は、まるで巨大な墓場のように静まり返っている。かつて人々が行き交ったであろう石畳を、馬の蹄が叩く音だけが、異様に大きく響いていた。
人影は、ない。当然だ。この街は五年前、巨人の侵攻によって地獄と化し、今はもう誰も住んでいない。だが。
(誰か、いる)
俺は手綱を握る手に、じわりと汗が滲むのを感じた。巨人の気配とは、明らかに違う。あれはもっと動物的で、獣臭く、腹の底に響くような恐怖だ。しかし今、崩れた建物の奥、あの闇の向こうから感じるのは、こちらの人数と、装備と、そして力量を、じっと測るような、冷たい視線だった。俺は無意識のうちに、手綱を緩め、周囲を見渡す。まずは屋根。次に、割れた窓。路地の奥。そして、月明かりに浮かぶ城壁の上。
(上か、下か、それとも)
背筋を、冷たい汗が一筋、伝い落ちた。風が吹き抜け、壊れかけた看板がぎぃ、と軋む。俺は腰に下げた雷槍の固定具へ、そっと手を伸ばした。
「誰かに見られてる」
俺は、近くを進む団員にだけ聞こえるよう、小声で警告する。その団員が、驚いたように俺の顔を見た。
「巨人か?」
「いや、違う。多分、人だ。それも、俺たちを相当よく知ってる連中だ」
そう、俺は確信していた。この視線は、俺たち調査兵団の動きを熟知している。この静寂は、明らかに不自然なのだ。作戦開始前の、この張り詰めた空気。俺は雷槍の安全装置を外し、再び、闇の奥を見据えた。戦いは、もう始まっているのかもしれない。
「何もいないぞ、ジョー」
分隊長が、周囲を一通り確認してから、そう言った。確かに、崩れた建物にも、月明かりに浮かぶ城壁の上にも、敵の姿は見当たらない。だが、俺の胸騒ぎは、少しも収まらなかった。視線が消えたのではない。あれは、こちらの動きを察知して、見つからない場所へと移動しただけだ。
その時、である。崩れた屋根の端から、かすかな音を立てて、小石が一つ、転がり落ちた。誰かが、あの上で動いた証拠だ。続いて、暗い路地の奥から、乾いた擦過音が、微かに響いてくる。俺は反射的にそちらを振り向いたが、そこにはもう、冷たい夜風が吹き抜けるばかりで、何も、誰もいない。まるで、初めから何もなかったかのように。この、底知れぬ不気味さは、何だ。
俺の脳裏に、不意にあの女の顔が浮かんだ。露店で、出征を止めようとした時の、ピークの悲しげな目だ。『あそこは、危ないんじゃないの』。あの忠告は、行商人としての勘などではなかったのかもしれない。だとしたら、彼女は一体、何を知っていたというのだろう。
雲が流れ、月が隠れる。街は再び、深い闇に包まれた。この静寂は、やはり、おかしい。俺は外套の下で、予備の雷槍の本数を、もう一度だけ指で確かめる。一、二、三。まだ、ある。俺は隊列に戻りながら、奥歯を噛み締めた。ここには、もう敵がいる。それも、俺たちの動きを熟知した、非常に賢い敵だ。戦いは、もう始まっている。そう、俺は確信していた。