「
中学校校舎。夕焼けの二年三組教室の中。机を挟んで向こう側にいる友人は、頬杖をついてそんなことを訊いてきた。
「それを聞いてどうするつもりだよ、
彼女は机のすぐ横にある窓から、外の景色を見ている。俺の方には顔を向けない。なのに俺の方に話しかけてくる。
「うーん……性格診断? 別に深い意味はないし、それにそこまで変な質問じゃないでしょ、これ」
「どうやって自分が死ぬかって、そうとう変だぞ」
「いや、私そんなこと言ってないし、言わないし。だから、どんな終わり方がいいかって話。いや、するかもなって。そんな、予想? まあそんな感じ」
蓮歌の質問はふわふわとしていて、何を言いたいのかがわからない。だから俺が口にした答えもまた、ふわふわとしたものになってしまう。
「……老衰?」
「いや、そういうことじゃなくてさー……」
呆れたような口調の彼女は、そこでようやくこちらを見た。長いまつげが夕焼けに煌めく。そんな光がふわりふわりと瞬いて、彼女は言葉を続けた。
「ま、いいけどさ。那尾はそういうこと、あんまり考えてなさそうだし」
「馬鹿にしてんのか、それ?」
「してる。未来のことあんま考えてなさそう」
「おい」
失礼な、と俺はつづけた。
未来のことを考えてないというのは甚だしい誤解だ。「これでも進学については、人一倍考えている方なのだぞ」と、俺は机を叩いて抗弁した。すると彼女が訊ねてくる。
「ふーん、そうなの。ちなみに進学予定は?」
もちろん俺は即答だ。
「学食が美味い所」
「飯のことしか考えてないじゃん……」
「そりゃそうだろう!」
空を仰いで俺は語る。
人間が人生において何度昼食を取るのか。昼食がどれだけの活力を与えてくれるか。そしてそれが、学業という疲れた体にどれほどの癒しとなるのかを。それをもう、火が付くほどに熱弁した。
けれどその情熱は蓮歌に届くことはなく、彼女のまつ毛が冷淡に瞬くばかり。そうして俺が一方的に語り終わったところで、蓮歌が一言「へー」と言ってこの会話は終わった。悲しきかな。昼食の大切さを彼女に説くことはできなかったらしい――
「それじゃあ、そういうお前は考えてるのかよ、未来」
「……まね」
そう言って蓮歌は、頬杖に使っていない方の手を机に乗せて、俺の方に差し出してきた。それが何かは知らないけれど、俺も対応する方の手を机に乗せる。すると彼女が、俺の手を掴んだ。
掴んで、言った。
「那尾と一緒にいられたらいいなぁって思ってる」
それはあまりにも不意打ちな言葉だった。
これでこいつ、俺の友達なのだ。
俺に気があるみたいなことを言っておいて、少し前に俺の告白をこいつは断っている。それでも俺たちの関係はだらだらと続いているし、友達として放課後に喋るぐらいには保っている。
そして俺も、まだ、蓮歌のことが、好き、なのだ。
蓮歌のまつ毛が瞬いた。
彼女の指が、俺の指と絡まりあう。
言葉はない。
言葉はないけど。
ただ、なんとなく。
俺もずっと、蓮歌の隣にいられたらな、と思った。
けれどそれは叶わない。
なぜなら彼女は。
中学二年生のあの日。
夕日が、どこかへと消えてしまうように。
彼女は行方不明になってしまった。
それから――
それから、三年。
◆
「……暇だ」
放課後の河川敷。
堤防の緑と川面の青の中間地点。
草原と砂利の狭間の中で、俺は地面に座り込んで空を見上げていた。
いや、見上げてはいないか。
時間は午後五時半。空は柔らかな朱色に染まり、太陽が緩やかに沈んでいくこの時間、大して見上げる必要もなく、その光は目に入るのだ。
だから詳しくは、夕焼けの光を眺めながら、河川敷に座り込んでいた、だろうか。
それは俺の日課というわけではないけれど、あの日を境に、ふと気づいたら、俺の目は沈む夕日を追っている。
それはきっと、まだ俺の精神的な何かが、あの二年三組の教室に囚われている証拠なのだろう。
あれから俺の隣にはぽっかりと大きな穴が開いてしまった。なのに世界は無慈悲にも続いている。まるで最初から蓮歌という少女が居なかったかのように。
けど、彼女は居たのだ。
だから俺は、その証拠を忘れないためか、夕日を目で追いかけてしまう。あの教室の、あの瞬間を、頭の中で繰り返している。
「いや暇すぎるな。こんなことなら部活にでも入っておきゃよかったかもしれん」
それはそれとして、河川敷にこうして座っているのは、何もやることがないからだけど。
まあそれも、あの日のことが関係していると言っても過言――過言だな。うん。
ただ、あの日から、何も手に付かなかったことだけは間違いない。とりあえず、学食が一番おいしいと評判の高校を選んだはいいものの、入学してからずっと、無気力なままの学園生活が続いていた。
何をするにしてもやる気はなく、目標もない。
だから部活動もしていない。心機一転という文字ほど俺に似合わないものもなく、部活動だなんて精力的な活動に費やす余裕も俺にはなかった。
そんな日々にも何とか余裕が出てきたのが、二年生の夏に入ってからだけれど、そうなると新しく部活に入るというのも憚られる。ただの帰宅部として、俺は地位を確立してしまったのだ。既に出来たグループに横入りするだなんて……いやいや無理に決まってる。
そんなわけだから、心に余裕ができたにもかかわらず、こうして河川敷に座り込んでは、暇だ暇だと唸って、ぱっとしない日々を送っている。
まるで暗闇の中にいるようだ。
あいつが太陽で、太陽が消えてしまったから、俺の世界は暗闇に支配されてしまったようだ。冷たい冷たい暗闇に。
そんな言葉を空に浮かべたところでどうなるというわけでもなし、大きなため息を吐いて、俺は立ち上がった。
帰ろう。
帰ってゲームでもしよう。
そんな風に、河川敷を後にしようとした、その時だった。
「そこの少年。なんだか疲れた顔をしてるな」
背後から、そんな声が聞こえてきたのは。
不思議だと思ったのは、その声が背後から聞こえてきたこと。俺が居たのは河川敷で、帰ろうと振り返った俺の後ろ側には、海へと続く河川がゆらゆらと流れているはずだけれど。
そう思い、振り返ってみれば、確かにそこに人がいた。
川に木船を浮かべた、不思議な人間が。
「ようやく俺に気づいたな少年。それで、若い身空でそんなに疲れた顔をして、一体全体どうしたんだ?」
木船に座るその男は、とても奇妙な姿をしていた。日本ではあまり見ないシルバーの髪に、清潔感を忘れた無精ひげ。細身の体躯に、暗い赤色が特徴的な作務衣のような服を着て、木船の縁に頬杖を突いたまま、こちらのことを観察するような眼をしていた。
彼は少年と言った。そしてこの河川敷は、あたりを見渡したところで男と俺以外の人間は誰一人としていない。だから必然、彼が少年と呼ぶのは俺のことになるのだけれど――果たして、街中の河川敷に木船を浮かべている人間が、まともな人間なのだろうか。
なので。
「きゃー! 不審者!」
「なっ……ちょっと待て! 俺は不審者じゃねぇ!」
とまあ、そんな風に甲高い悲鳴を上げてみたけれど、船から乗り出してこちらに来た男が、びしっと訂正してきた。ノリがいいな、この人。
「いやいや、貴方は立派な不審者ですよ」
「どの辺がだよ少年」
「こんな夕方に街中の河川敷に船浮かべて喜んでるところとか」
「そんなに変かぁ……?」
ぼりぼりと頭を掻きながら、河川敷の景色をきょろきょろと見回す男。何か納得がいかなそうな顔をしているけれど、恰好も、見方によっては怪しく見えるぐらいだ。
「それで、えっと……なんのようですか?」
「ん? ああいや、なに。少年。お前さんが何だか疲れ果てて、今にも死んじまいそうな顔をしていたから、ちょいと話でも聞いてやろうかと思ってな」
さて、どうしよう。
ここで話を聞くのも一つの選択だ。
いや、聞いてもらう、か? とにかく、この変な男の話に付き合うか否か。
「まあいい、少年。悩みがないってんなら、俺のことは忘れてくれ」
ただ、どうにもこの男、悪い人には見えない。
そう思うのは、俺が(或いはこの日本が)平和ボケしているからなのかもしれないけれど。
彼の言う悩みは実際に俺の中にあるし、俺はそれをどうにかしたいとも思っている。
あの日から三年。そろそろ、立ち直ってもいいんじゃないか、と。
だから、ふと。
夕日を追いかけるように、俺は不思議と口走る。
「悩みは、ありますよ」
「ほう、やっぱりあるじゃねぇか」
俺の言葉を聞いた男は、にたりと笑ってそう言った。それから、バシャバシャと川に入って、木船を川辺に持ってくる。
「乗れよ。船に揺られながら聞いてやるから」
そう言って、彼はコンコンと木船を叩いた。
「誘拐……」
「違う」
「でも最近そう言うの増えてるって……」
「違うっつってんだろ!」
健康な高校生を船に乗せて、外国に連れ去って強制労働させるとか、そういう話を聞いたことがある以上、その手の誘いを警戒してしまう俺である。無論それは、目の前の銀髪の男が、どうにも日本人には見えないからなのだけれど――
「ここの川の深さなら、すぐに逃げられるだろ」
「それもそうですね」
川はそこまで深くない。一番深い所でも、腰辺りまでしか水位はない。だから逃げようと思えば逃げられるし、細身の彼一人にどうにかされるほど、俺も軟弱じゃない。
だからほいほいと、言われるがままに俺は木船に乗り込んだ。
船の上に座った瞬間、固い木板の感触がひんやりと俺を受け入れる。それだけで、違う世界に迷い込んでしまったような気分になった。
周囲の世界は、乗る以前から変わっていないというのに。
「乗ったな。少し漕いでもいいか?」
「……まあ、いいですよ」
「よしきた」
そして、俺が船に乗ったことを確認すると、オールを持った男が、船を川辺から離し、川の中心へと移動させる。
ゆらゆらと、船が揺れる。
不思議な気分だ。
振り子の上に立っているように覚束ないのに、雲のようなクッションの上に寝転んでいるように落ち着いてくる。
「それで、少年。なにがあったんだよ」
リラックスしているからだろうか。船の縁に背中を預けた俺は、向かい合って座る男の質問に、今までの警戒心が何だったのかと言いたくなるぐらい素直に答えてしまった。
「昔、好きだった奴が俺の前から消えたんですよ」
「ほう、それで?」
「それだけです。なんとなく、この先もずっと一緒にいるんだろうな、みたいな関係で……だから、目の前から消えたことに、俺の意識が追いつかなくて……最近になってようやく、あいつが消えたって思えるようになって……だけど、それは少し――」
「――その気持ちを過去のものにしたくはなかったってか?」
「……まあ、そうですね」
言い淀んだ部分を、男が代わりに口にした。
確かに、俺はあの日のことに踏ん切りをつけて、これからも続いて行く人生に向き合おうと思っていた。けれどそれは、周りの人間や世間一般がささやく『そうした方がいい』という建前であり、その裏側にはいつだってあの時の俺が、恨めしそうな顔をして立っている。
忘れるな、と。
そんな目をした俺がいる。
だから。
だから、何にも手が付けられなかった。
それをすることが、失ってしまった時間の埋め合わせのように感じてしまうから。
蓮歌との記憶を、忘れてしまうように感じたから。
彼女の代わりはいないのだと、叫んでいる。
「そりゃ災難だな。ま、振られてすぐに心機一転とはいかないのは当然だ」
「振られたわけじゃ……ああいや、振られてはいましたね」
「詳しい状況は知らんが、からっと気分を変えられる人間ばかりじゃないのには違いはない。うん。俺も昔、惚れた女に振られたときはそれはもう凹んだもんだぜ。十年ぐらいは引きずった」
「それはなんか違う気がする…………」
十年て。
ああいや、でも俺もなんかそうなりそうな気もしなくもない。
自分が十年引きずった未来を想像してみる。
うーん……中学の頃の恋愛を十年引きずるのは流石にやばいか。
「おし、それじゃあ少年。もしも気分転換がしたいのなら、うってつけの場所があるぜ」
「誘拐……」
「提案だ提案! 嫌なら帰っていいし、別に時間は取らせねぇからよ!」
何はともあれ、あの日の記憶と決着をつける必要はある。それがいまである必要はないけれど、このまま何もせずにぼんやりと日々を過ごしていれば、何の踏ん切りもつかないまま、時間という漣がすべてを押し流して、何もかもを忘れてしまうかもしれない。
あの日、消えてしまったあいつへの恋慕すらも、思い出したくない記憶として、忘れてしまうやもしれない。
もしもそれが、彼の言う気分転換で良い方向に向かうなら。
向き合うきっかけになるのだとしたら。
「お願いしてもいいですか?」
自分から動かなければ何も変わらない。
だから俺は、彼の言う気分転換にうってつけの場所への切符を受け取った。
「よし来た!」
俺の頼みに笑顔で応じた男は、オールを両手で振りかざし、力強く川面を突いて、川底を蹴った。
船が動く。川の流れに揺られている時とは違う、指向性を持った揺れだ。
ぐらりと俺の体も一緒になって揺れる。まるでジェットコースターに乗ったみたいに、右から左へと体の芯が持っていかれそうになる。
けれど激しいのは一番最初のその瞬間だけで、続く揺れはそこまでのものではなかった。例えるなら、遊園地のティーカップの緩やかな円運動に身を任せているような、そんな気分だ。
そんな揺れの中で、男は船頭として船の上に立ち、上から下へと流れていく川に逆らうように、オールを漕ぐ。
男へと訊ねた。
「どこに行くつもりですか?」
男は答える。
「楽しい場所だ」
煙ように不確かなその言葉に、一抹の不安を覚えてしまうけれど。乗り込んだ船だ。こうなれば、鬼が出ようが蛇が出ようが、経験として吞み込んでやろうと腹を括る。
俺はぼんやりと空を見上げた。
夕日はまだ空に浮かんで、こちらを見つめている。
あと一時間もしないうちに、それは世界の向こう側へと消え、夜の闇が世界を包み込むだろう。
暗くなる前に帰れるだろうか。
そんな風に考えるけれど、同時に帰れなくてもいいかと、頭のどこかで思ってしまう。
あの日、あの時、あの夕日の教室に居た太陽が消えてしまった瞬間から、俺にとってこの世界は、夜の闇のように、どうでもいいものになってしまったような、そんな気がしたから。
もしもこのまま、どこかへと攫われてしまったとしても。
やはりそれは、どうでもいいことなのかもしれない。
◆
と、考えていたのも目が覚めるまでの話だ。
揺れる木船は、まるでゆりかごのように優しく俺を眠りに誘い、気が付けば眠ってしまっていた。随分と心地の良い眠りだった。しかし、目を覚ませばそんな心地よさなど忘れてしまうほどの恐怖が襲い掛かってきた。
木船に乗る俺と男以外の何もかもが消え、あたり一面が暗闇に染まっていたのだ。
おかしい。いくら日が沈んだとはいえ、河川敷沿いには道路があって、街灯もあれば車だって通るはず。なのにその光すら目視できない闇の中、木船はぽつんと水面の浮かんでいる。
いったいどこに連れてこられてしまったのか。
「おっと、起きたか」
いまだオールを手に舟をこぐ男が、俺の目覚めに気が付いた。
「いやー、随分とぐっすりと眠ってるもんだから、起こすのも申し訳なくてな。あとちょっとでつくから、もう少しゆっくr――」
「誘拐だー!!」
俺は水面に飛び込んだ。
「あ、何してんだお前! 危ねぇぞ!」
「逃げるんだよォ!!」
男の制止の声を振り切って、俺は泳ぐ泳ぐ。
木船に乗せられてどこまで運ばれてしまったのか。どんなに深い所であっても、首から上が浸かるような場所は、あの河川敷にはなかったはずなのに、今俺がいる水面は、一度潜ればどこまでも深くへと沈めてしまいそうなほどの闇を足元に広げている。
ああ、こんなことなら水泳部にでも入っておけばよかったなと、クロールも満足にできない自分の運動神経のなさを痛感しながら、とにかくあの木船から離れることだけを考えて、無我夢中で闇の中を泳ぎ続けた。
どこまで泳げば陸地にたどり着けるのだろうか。どこまでもどこまでも、無限に広がる闇の中を延々と泳ぎ続けるのは、体力的にも精神的にも過酷で、そんなことばかり考えてしまう。ともすれば、あのまま木船に乗ったまま、誘拐された方がよかったのかもしれないとすら思えてきた。
息が苦しい。足がつりそうだ。俺いつまで、泳ぎ続ければいい?
浮かび上がったはてなの数だけ、自分の今やっていることが馬鹿らしく思えてくる。そもそもどうして、こんなことになったのか。
これなら男の誘いに乗らなければよかった、なんて思っていると――
「――あ」
ふと、遠くから何かが迫ってきているのが見えた。
それは昔見た映画のようだった。
テレビの大画面に映りこんだ、巨大な魚影。人なんて簡単に飲み込んでしまいそうなほどに大きく開けられた口が、見るモノに襲い掛からんと迫ってくる。
けれど今俺の目の前に在るそれは、テレビの中の空想なんかではなくて、現実として迫る死だった。
サメだ。いや、サメなんかよりもさらに大きい化け物だった。
迫ってくるそれが何かに気が付いた頃には、もう自分ではどうしようもないぐらい目と鼻の先にまで化け物は来ていた。
過る走馬灯が、絶体絶命を教えてくれる。
だから俺は、何もかもを諦めてしまったかのように手足を投げ出して、迫ってくる化け物をただ眺めていた。
――しかし、天はまだ俺を見放してはいなかった。
その時、遠くから声が聞こえてきたのだ。
「――ララ! もっと速度だせねぇのかよ!」
「はぁ!? 私に魔法使わせておいてなによその口の利き方は! こっちは休日だってのに、あんたの尻拭いのためにわざわざ飛び出して来てやったのよ!?」
「人命がかかってんだからしかたねぇだろ――あ、居たぞ!! って、何がどうなってんだよあれ!」
声のする方に目を向ければ、化け物とは別に、何かがものすごい勢いでこちらに迫ってきているのがわかった。
アレは何か。そんなことを考えるよりも先に、それは俺のすぐそばまで近づいてきて、言った。
「掴まって!」
もう何が何だか分からなくなってしまった俺は、とにかく差し迫った死から離れたい一心で、聞こえてきた声の方へと手を伸ばした。
伸ばした手が掴まれた。そこで初めて、俺は迫ってきていたのが木船であることに気が付いた。とにもかくにも、木船から伸びた手に引きずられるように引っ張られた俺は、化け物から逃げることに成功する。
「なんだあの化け物、マジでどこから迷い込んだんだよ……」
「どっかの海にでも繋がってたんでしょ。んで、こいつがあんたの言ってたやつなの?」
「ああ、うん。間一髪ってところだったな」
木船に引っ張られてしばらくすれば、化け物は船尾の向こうに消えて、また暗闇の中の静寂が戻ってくる。だから、船上での話し声も聞こえて来た。話すのは二人。その片方がさっきの男であるのは、声を聞いて分かった。
とりあえず、俺は何とか木船に乗り込む。
「あ、ありがとうございます……」
木船に乗った男は、俺をこんなところに連れてきた張本人には違いないけれど、化け物から助けてくれたのもまた事実。だから俺は、ひとまずお礼を言った。それから、改めて船上を確認する。
俺が降りた時から、船の上には女が一人増えていた。
「あー、よかった。なんか化け物に襲われてたみたいだけど、大丈夫?」
「……え?」
船に乗っていた女が、俺の手を取った。その手はとても暖かく、けれどどこか既視感があった。
それもそうだ。彼女の顔を見れば、その既視感の理由はすぐに分かった。
「蓮、歌……?」
その少女は、消えてしまった俺の幼馴染、
「ん? 私のこと知ってるの?」
「……」
「んぅ……?」
蓮歌のそっくりさんが、俺の顔をまじまじと見る。
ただ、俺はそれどころではなくて。
彼女が本物なのかすら疑わしくて。
だからこそ、俺は何も言うことができなかったけれど、
「あー!
その口から俺の名前が出てきて初めて、俺は自分が呼吸をしていないことに気が付いた。
そりゃ、息をしなきゃ喋れないに決まってる。
「ひ、久しぶり?」
「なんで那尾がこんなところに居るのさ。というか、本当に那尾だよね?」
「お前が俺の知ってる蓮歌だってなら、そうなんだろうな」
「あー、そういうひねくれた言い方知ってる。うん、間違いなく那尾だね」
嬉しそうにはにかむ彼女は、俺の手を取って再会を喜ぶようにぶんぶんと振り回した。
俺も俺で、どうしていいかもわからず、蓮歌と一緒になって腕をぶんぶんと振り回していたけれど――
「蓮歌! 喋ってないでさっさと旅館に戻るわよ! あーもう、船に乗るもんだから濡れちゃったじゃない!」
その時、蓮歌とは違う女性の声が聞こえて来た。
だから俺はぐるりと周りを見渡すけれど、木船の上には俺と蓮歌と、俺をここに連れてきた男しかいない。では一体、この女性の声はどこから聞こえてきたものなのか。正解は、蓮歌の視線の先――俺の頭の上にあった。
「ちょっとあんた! あんたのせいでびしょ濡れになっちゃったの、どうしてくれるのよ! せっかくの休日が台無しじゃない、責任とれるの!?」
なんか浮いていた。
一言で言えば、人形サイズの人間。背中には薄い透明な羽が生えていて、子供みたいな体に、外国人みたいな金髪をふわりと空中で揺らしながら、風船のように俺の頭の上に浮かんでいた。
「ちょっと、聞いてる!?」
「……え、と、……なにこれ?」
「はぁ!? 人に向かってこれとか失礼過ぎない!? もういい、私勝手に帰ってるから!」
「あー! ちょっとララさん! 一人は危ないって……」
「うるさいうるさい! 付き合ってられないのよ、まったく!」
キンキンと甲高い声で怒鳴り散らかしたそれは、ふわふわと飛んで暗闇の中に消えて行ってしまった。蓮歌はあちゃーっと暗闇の向こうへと、それに呼びかけるけれど、戻ってくる気配の無いことがわかると、がっくりと項垂れてしまう。
果たしてあれがなんなのか。
見たところ、妖精のように見えなくもなかったけれど――
「ごめん、那尾。あの人、ちょっと怒りっぽくてさ」
「人って……人なの?」
「あーうん。妖精のララさん。ちっちゃいけど、魔法とか使えるから馬鹿にしたら氷漬けにされちゃうよ」
「なにそれ怖っ……」
どうやら、妖精という俺の感想は正しかったようだけれど。
「……妖精?」
「んぅ……サトヤさん。那尾って、まだ旅館には連れてってないの?」
「行きの途中で、船から降りちまったからなぁ。まだ説明もしてない」
「説明はしっかりしてから運べって、主様からもきつく言われてませんでしたっけ?」
「いやぁ、俺はそういうかっちりしたのは苦手でねぇ」
サトヤ、とは俺をここに連れて来た男の名前らしい。
それで、旅館?
この船は旅館に向かってたのか?
「那尾。いろいろと聞きたいことがあると思うけど、とりあえず今は大人しくしててくれる? 後でしっかり説明するから」
「それはいいが……」
ちらりと、俺はサトヤと呼ばれた男を見る。
それから、ララと呼ばれていた妖精が消えた暗闇を見る。
一体俺は、どこに連れてこられてしまったのか。
「とりあえず、旅館に着くまで話そうよ。お互い、聞きたいこともたくさんあると思うし」
「そ、そうだな」
サトヤがオールを手に船を静かに進め、その間、俺と蓮歌は話をした。
けれど、どうして俺の前から消えてしまったのかとか、どうして蓮歌がこんなところいるのかとか、そう言った踏み込んだ話をする度胸は俺には無くて、だから話した内容も、他愛もないものだった。
そうして時間が過ぎること数分。
暗闇の向こうに、明かりが見えた。それは行列のように連なって、どこまでも続く水の平野の上に浮かんでいる。
あれが、旅館。この船の目的地。
オールの動きに合わせて近づけば近づくほどに、その旅館の姿がはっきりと見えてきた。
島のように巨大な威容。それは旅館というよりも、街一つが浮かんでいるような姿をしていた。
耳を澄ませば、どこからともなく祭囃子のように愉快な調子の音色が響いて来る。そして、明かりの下に大勢の人が動いているのも見えた。
なんだか祭りをしているような、そんな陽気な気配がする。
俺はちらりと、蓮歌の方を見た。
うんっと蓮歌は首を縦に振って言う。
「ようこそ、狭間の旅館へ! 私が案内するから、楽しんでいってね!」