狭間の旅館の暮らし方~消えた夕日を追って辿り着いた先は、バッドエンド住人たちの理想郷~ 作:日野球磨
茜色に染まる世界の中で、うずくまっている男がいる。
男は右手を抱え、苦痛に耐え忍ぶように歯を食いしばっている。
それだけじゃない。ミィの瞳に映る男の姿が、ブレて見えた。それは手をかばっているようにも見えるし、肩の根元から千切れてしまった腕をどうにかして取り戻そうとしているようにも見える。それは現在であり、過去。二つの景色が、ミィの赤色の瞳の中に揺れ動いていた。
「あ、あ……」
虚ろに揺れ動く視界の中で、おぼつかない声色がミィの口から零れ落ちた。今、自分が現実に立っているか、それとも過去の夢の中に囚われてしまったのかすらわからない。これは夢で、けれど今までは現実で。二つの景色が入り乱れるように、ミィの認識もかき混ぜられた卵のように黄身と白身がぐちゃぐちゃになってしまった。
「ミィ、お前のせいじゃない」
現実の、虚像の、手を火傷した、右腕を失った、男が、兄が、言った。
不思議とその声色は、はっきりとミィの耳に届いた。
お前のせいじゃない。
その言葉だけが、暗闇の中に光る道しるべとなってくれたのだ。
「でも、私、ナオの、腕……」
けれど、未だ意識ははっきりとしない。
確かに道しるべは、この闇の中からミィの小さな体を救い出すべき灯されたように見えるけれど、肝心の足がおぼつかないのだ。光は見える。けれどそこへ向かうことができない。
灯台が見えたところで、そこに行く方法がなければ――
「違う。俺が変なことを言ったせいだ」
けれど、光はより強く輝くだけだった。
明るく、ともすれば夜空に輝く星のように、夜に沈んでしまったミィの意識へと言葉を向けてくれる。
「大丈夫だ」
俺はここだ。
ここに居る。
「医務室に行って包帯を巻いてもらえば、すぐにまた仕事に戻れる」
灯台は叫んでいる。光だけではない。大きな声で、その先に道があることを教えてくれている。
いや、知っていた。
ミィは最初から知っていた。
この夜の暗闇の中には確かに道があって、明かりがあって、自分には歩ける足があることを。ただ、彼女の背後には、いつだって別の道が現れるのだ。
――『ミィ』
――『大丈夫だ』
――『お前が生きてる』
――『俺にはそれで、十分なんだよ』
赤い、赤い、道。
それはミィの背後に影のように付き纏い、いつだって優しい声色で後ろ髪を引いている。
くらり。ブレて重なった景色の一つが、赤い道の奥に倒れているような気がした。腕だけじゃない。体が、胴体が、半分が無くなっている。それは血だまりの中に沈んでいて、降りしきる雨が夕日に照らされて、まるで血のように見えた。
暗く、赤い水たまり。
気が付けば夜の世界は、赤黒く染まっていた。
血は、自分の体から流れ落ちていた。それは傷を付けられたからじゃない。自分から、喜んで流したものだ。兄のために。自分のために。落ちた血は見える限りの空間を満たしていて、とてもこの血の主が生きているとは思えないほどで――。
私は自分を殺したんだ。
その体に熱はなく、悲しみだけが血の代わりに廻っている。
けれど、孤独はなかったんだ。
あの日が訪れるまでは。
「あ」
目の前の男が立ち上がった。
「医務室に行ってくる。ちょっと、待っててくれ」
『これぐらい、俺にとっちゃ問題じゃない。ほら、もう治った』
初めて、目の前の景色から聞こえて来た声が分かたれた。
一つは今で、一つは昔。
一つは前で、一つは後ろ。
一つは光で、一つは闇。
「あ……」
ミィは手を伸ばした。
血の底に沈んだ体で。感情の変化すら、その顔に作ることができなくなった人形のまま。
けれどミィは、手を伸ばした。
頭に感じた暖かさを手繰り寄せるように。
「わた、しが……作ります」
作り方は覚えている。
今日、ノウランから教えてもらった。
「えっと……その、大丈夫? いや、君がやることに不安ってわけじゃないけどさ、ほらさっきのお兄さん。なんかただ事じゃない感じだったじゃん……」
「大丈夫、です。私が……私が、作るんです」
屋台に来てくれたお客さんは、少し心配そうにミィのことを見る。ただ、大丈夫だと口にした。
教えてもらっただけじゃない。実際にすぐ近くで、作っているところを見せてもらったから。
生地はもう作ってある。必要なら、すぐに新しい生地を作れる備えもある。あとは絞り袋に生地を入れて、それをフライパンの中に入れた油に絞り出すだけ。力加減を間違えてはいけない。
ちゃんと覚えたんだ。
自分もやりたく、なっちゃったから。
「いや、その……君も……泣いてるよ」
お客さんが零した言葉に、思わずミィは頬に手を当てて確かめてしまった。もちろん、そのせいで出来損ないのチュロスが出来上がったしまったのは仕方のないことだけれど。
それよりも今は、自分の涙を確かめたかった。
「あ、えっと、これは……」
頬を伝うしずくは、彼女にとって別れの印。
あの日、落ちた雨垂れがそうであったように。
「おわかれを、思い出した、だけ」
そうして彼女は口にした。
それは声にこそ出さなかったけれど、夜の中で歌うように、上り始めた月を見ながら唱えたのだ。
――私が前に進むために。
――あなたを殺してしまいました。
◆
『いい? これは応急処置だから。魔法があるから何とかなってるけど、普通なら大けが。君がどうしても屋台に戻らないといけないって言うから、なんとかしてあげたが、動かしたら包帯が崩れて、また酷いことになるよ』
というのは、医務室に居たお医者様の言葉だけれど、正直守れそうにない。
だって屋台を続けるにはどうしても俺が働かないと行けなくて、そのためにはどうしても手が使えないといけないのだ。右手の半分が大やけどだろうと、どうしても。
だってあいつ、あんなに楽しそうに屋台をやってたんだ。俺の真似して楽しいだなんて、いいじゃねぇか。それを下手に地雷踏み抜いて、台無しにしたくなんてない。
俺のせいで。
「おい、ミィ!」
応急処置を受けた手で、俺は急いで屋台に戻ってきた。この手でどこまでできるかなんて知らないけど。
ただ、屋台に戻ってきた俺は目を剥いた。
「あ、お帰り」
「おま……え、誰かに手伝ってもらってるのか!?」
チュロスの屋台の前には五、六人の行列。しかも、彼彼女らは今来た風で、退屈を顔に浮かべている感じではない。それどこか、屋台から出て来たチュロスを受け取ったお客さんが、今しがた俺の横を通っていった。
俺は最初、突然の助っ人を疑ったけれど。
けれど答えは、もっと驚くべきことだった。
「違う。私が作った」
「はあ?」
説明がめんどくさかったのだろう。ミィはその手に絞り袋を持って、華麗な手つきでチュロスを揚げて見せた。
「おま、壊さずに……」
「できる」
「……そうか」
なんだかどっと疲れたような気分だ。ただ、逆にうれしくもあった。
ミィには散々苦労を掛けさせられたからな。ただ、苦労をするのも嫌だったわけじゃない。なんだかんだ、妹ができたみたいで、楽しかったのもまた事実だ。いやしかし、浴場の床にクレーターを作るような奴がなぁ……。
「ナオは、そこに座ってて」
「いいのか?」
「ナオ、ケガ人。無理は……しないで」
「ん、わかった」
そうして俺は、ミィにも医者にも言われた通り、椅子に座って大人しくしていた。
背の小さな彼女は、フライパンに生地を落とすにしても背丈が足りないから、木箱を足場に体全体を使って調理している。それは小さな子供が、懸命に頑張っているようにも見えるけれど。俺にはその姿が、どこか知らないところへと巣立っていく鳥のように見えた。
いつの間にか空は暗くなっていて、闇が支配する時間帯だ。
けれど下町の大通りは闇を打ち消すような明かりに溢れていて、まるで夜そのものが消えてしまったかのようだ。
狭間の旅館。心を癒すための場所。
その名の通りなんだろうな。夜は孤独だ。その孤独を、この明かりたちは消し去ってくれる。たった一時でも良い。遠くに見える灯台の光のようなものだ。それは確かに、先に進む力をくれる。
「ミィ」
「なに」
「楽しいか?」
俺の質問に、ミィは静かに答えた。
「うん」
けれどその声色は、どこか言い訳をするようだった。
◆
ボーン。
と、低く鳴るのは九時のお知らせ。もちろん、屋台によってはこの後も開いてくれているけれど、ひとまず俺たちの仕事は終わりだ。
「ふぅ……」
最後のチュロスを焼き終えて放心しているのか、木箱の足場に立ったまま、ミィは星空を見上げていた。
「お疲れ様、ミィ。あとは……片づけは簡単なだけでいいか。使った油はこっちに捨てて、軽く洗ってから退散しよう」
「ん」
俺の言葉に頷いて、木箱を降りるミィだけれど。足元から倒れこむように彼女の体が傾いた。幸運だったのは、その方向に俺が立っていたことか。ぽすんと、軽い音を立ててミィの体を受け止めた。
「おい、大丈夫か……」
きっと疲れ果てたのだろう。何分客の前に立つのも初めてだ。だから労うように言葉を掛けようとしたけれど、俺は途中でその言葉を止めてしまった。
「うぅ……ぐすっ……」
ミィが泣いていたから。
俺の服をぐしゃぐしゃに濡らしながらも、それでも堪え切れないように泣いていた。
彼女に何があったのかはわからない。俺が踏んでしまった言葉の意味も、彼女の過去も、この涙の訳も。だから俺は、左腕で彼女を抱きしめた。せめてその悲しみが、一人ぼっちでないように、と。
「あー……お取込み中」
「お、蓮歌か。助かる、片付けを手伝ってくれ」
ここで蓮歌登場だ。何ともタイミングのいいところで来てくれたものだから、なにか特別な運命を感じざるを得ないけれど、訳を聞いてみればなんてことはなかった。
「緊急事態だってララが教えてくれてさ。まあ何とかなったみたいだから遠くで見てたけど……」
「ああ、絶体絶命のところで仲間のピンチに主人公が覚醒。まるで少年漫画みたいだな」
「わかったわかった。片づけは私がやっておくから、覚醒した主人公のことはよろしくね」
「ありがとう」
まったくなんていい女なのだろうか。ララのことは措いておくとしても、ここで片づけを買って出てくれるだなんて、いい女過ぎて涙が出てくる。ララのことは措いておくとしても、だ。
……まあ。
ララもララで、しっかりと俺たちことを気にかけているのだとは、思ってやるが。
ひとまず、俺は大通りから離れて、従業員寮に向かった。その間もミィはずっと泣いていて、波だぜずるずるになった顔を見られたくないのか、俺の体に顔をへばりつけていた。まるで接着剤でくっつけられてしまったみたいだ。ようやく手錠から解放さたってのに。
「ミィ、ついたぞ」
「ぐすっ……」
鼻水をすする音を聞きながら、俺は部屋の明かりをつけた。
パッと咲いた花火のように、この世界にも光が灯る。そうしてミィの方へ視線を向けると、涙でぐずぐずになった瞳を、彼女は俺に向けていた。
「……なんでもいいよ。言いたいことがあるなら聞いてやる」
それが無言の訴えかけであることは十分に理解している。問題は無言じゃ何を言いたいのかがわからないことだ。だから俺は部屋の真ん中に座って、ミィの言葉を待ったけれど。
反対にミィは、部屋の電気を消してしまった。
いったい何がしたいのか。そう思ったところで、何も見えなくなった闇の中から、俺の背中に何かが飛びついた。もちろんそれはミィで、今度は背中側が涙でぐしょぐしょになってしまうのだけれど。気にしたところでもう手遅れなので、俺はただじっと待った。
じっと。
彼女の声が、この世界に戻ってくるまで。
「私」
月明かりに照らされながら。
「私、ね……あにぃ、殺しちゃった」
「殺したって……死体はなかったぞ」
「違う。違うの」
ぐりぐりとミィが頭を振る。だから俺は、次の言葉を待った。
「あにぃ。最後の家族。私のこと、守ってくれた」
「……」
「生きて欲しいって。幸せになってほしいって。あにぃは。私のために。生きてた。私が、ひとりじゃなにもできないから」
「……」
「一人にさせちゃ、だめだって」
きっと、その言葉は呪いなんだろう。
影のように付き纏い、その後ろ髪を引く。
「私が出来損ないだから、あにぃは傍に居てくれたの」
違う。
……なんて言葉は、意味がないんだろうな。
「だから、私、できないままで、出来損ないのままでいたら、私が、昔とおんなじだったら」
しゃくりを上げて、ミィは言う。
「私が! 昔とおんなじだったら!!」
それはきっと、希望も何もない言葉なんだろう。
「あにぃは……戻ってきて、くれたのかなぁ……?」
俺は知っている。
前に進まないということが、死を意味することぐらい。
それは海の底に居るよりも苦しくて、闇の中に居るよりも真っ暗なことぐらい。
だから理解してしまった。
ミィは。
彼女は。
兄に会うために、成長することを拒んでいたんだろう。
だから覚えなかった。力のコントロールも。感情の出し方も。
でも――
「さてな。確かに妹が何もできないんじゃ、心配してあの世から蘇ってきちまうかもしれん」
「だ、だったら……」
「だがな、ミィ!!」
俺は、急に後ろを向いてミィを見た。俺の背中に頭をこすりけていたものだから、ミィは虚をつかれたように目を丸くして、簡単に俺と向かい合う形になった。
だから俺は、ぐずぐずになったミィの瞳をまっすぐと見て言うんだ。
「帰ってきたお前のあにぃは、何にもできないお前を見て、どんな顔をすると思う?」
「帰ってきた、あにぃの、顔?」
「そうだよ」
きっとミィはあにぃのことが好きなんだろう。
それはもう、世界に一人しかいない兄として。
なくてはならない存在として。
「お前は、あにぃのどこが好きなんだ」
「わ、わたし、わ……」
どもるミィ。けれどその言葉は穴の開いたダムのように、ぽつりぽつりと崩れていく。
「あにぃの……あにぃの笑顔が好き! 笑ってる声が好き! あにぃが楽しいと、私も楽しいの! だから、あにぃは……あにぃは……」
「じゃあ考えろ! そのままのお前と、成長したお前、どっちが胸を張ってあにぃに会える? 心の底から一緒に笑って、楽しく仲良く過ごせると思う?」
「わ、私は――」
◆
男の顔が前にあった。
兄の顔が後ろにあった。
暗い夜の中、ミィは確かに見たんだ。
灯台の光を。
進むべき道しるべを。
だからこそ、少しだけ思い出せた。
『ミィ』
それは昔の記憶だ。
兄と、幼かった頃の自分の手が見える。
『お前、料理ができるようになったのか!』
『うん。お母さんに習った』
『嬉しいぞ、兄貴は! よしよし味見してみよう……うんめぇー!!』
『うんめぇ?』
『そうだぞ。心の底から美味しいもんを食べた時はな、腹の底から声を出すんだ。お前もやってみろ。うんめぇー!!』
『うんめぇー』
『ははっ、その調子だ』
『うんめぇー!』
まだ、ミィの母親が生きていたころの話だ。
お互いに幼くて、兄もまだ欠けだらけだった。妹のために、何もかもを自分の手で出来るようになる前。だからこそ、純粋な笑顔を兄は浮かべていた。
それはミィの成長を、心から喜んでくれている時だった。
◆
「私は……」
間が空いた。
言葉と言葉。
今と昔。
記憶の中で、ミィが何を思い浮かべているのか、俺にははっきりとはわからない。けれどきっと、ミィの中にも存在したのだろう。暗い夜に沈む前の、眩しいほどに輝いていた太陽のような記憶が。
「私は、あにぃを殺しちゃった……成長したから……」
きっとミィは踏み出したんだ。
昔のままの自分で居ることが、あにぃを忘れない唯一の方法だったから。
けれど先に進んでしまったから。彼女の中で、本当に兄は死んでしまったんだ。
でも。
「大丈夫だ。きっとお前のあにぃは、それを喜んでくれはずだ」
「そう、かなぁ……?」
「自分に聞いてみろ。お前が決めたことを、喜んでくれないあにぃだったか?」
「それは……」
ほんの少し、彼女の言葉にはためらいがあった。
けれどそれを吹き飛ばすほどに力強く、ミィは言う。
「そんなわけない! あにぃは……あにぃは、ずっと、ずっと私のために……私のために、生きてくれたんだから……!!」
それが、全ての答えだった。
「歩けよ進めよ、きっとその先に答えはあるぜ」
「うん」
いつも無表情だったミィの顔に、ほころぶような笑みが浮かんだ。それは大海に小石を放り込んだように些細なものだったのかもしれないけれど。俺には初めて、彼女の顔に感情を感じた気がした。
「でも、ナオ」
「なんだ」
「少しだけ……少しだけ、泣く」
「仕方ねぇなぁ」
どうやらミィは、俺をずぶ濡れにしたいらしい。
まあ、それも構わない。俺だってミィのことは、妹みたいに持ってるんだからな。
「ありがとう、ナオ」
「どういたしまして」
静かに泣くミィの背中に手を回して、抱きしめながら今日は眠りに付いた。
あにぃを失った彼女が、本当の意味で孤独にならないようにと願いながら。
◆
――あなたのために私はいきます。
――だからどうか、お元気で。