狭間の旅館の暮らし方   作:日野球磨

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2話 その名は狭間の旅館

 

 誘蛾灯に誘われるように、俺を乗せた船はこじんまりとした船着き場にたどり着いた。ここまでくると、遠くから見えていた旅館がもっとはっきりとよく見える。数えるのが馬鹿らしくなるぐらいの瓦を支える木造建築。真っ暗な世界の中に灯る明かりが、じんわりと柔らかい茜色を滲ませており、それ自体が暖かみのある世界を作り出している。

 

 そこは確かに、旅館だった。

 

「はいタオル」

 

 俺が船着き場からぼんやりと手前の街並みの奥に見える旅館を見上げていると、一足先に船を降りていた蓮歌がタオルを投げて来た。

 俺はそれを顔面でキャッチ。強制的に、旅館を見ていた目を遮られてしまった。

 

「相変わらず乱暴だな……」

「いーじゃんいーじゃん。あ、なんか飲む?」

「水でいいよ」

「りょうかーい」

 

 渡されたタオルで濡れた体を拭いている内に、今度は持ってきた瓶すら投げ渡してくる蓮歌。とはいえ、二度目ともなれば流石の俺も、投げ寄こされたそれをキャッチする。そもそも、失踪前からこの調子なのだ。果たして何度、あいつが投げてきたもので怪我したことか。

 

「って牛乳じゃねーか」

「牛乳は嫌?」

「まあいいが」

 

 牛乳は好きだから構わない。しかし、投げて来た牛乳瓶が俺の頭に当たっていたら、果たしてどうなっていたか。せっかく助かったってのに……。

 

「着替えはこっち」

「助かる」

 

 それから、濡れた服を船着き場の小屋で着替えた。渡されたのは、サトヤさんが来ているような作務衣のような服だ。サイズがちょっと会っていなくて、肩回りがきついが……まあいいか。

 

「それで、ここはどこで、そもそもどうしてここに居るんだよお前は」

「んー……どう説明したものかな……」

 

 人差し指を頬に当てて悩む蓮歌。

 俺はその姿をぼんやりと見る。

 最後に彼女を見たのは三年前。その頃からすれば、随分と成長した姿をしているけれど、それでもかつての面影がしっかりと残っている。大きな変化と言えば、髪型だろうか。昔は長く伸ばされていた髪が、ばっさりと切られて肩上程度の長さになっていた。ただそれだけで全然印象が違うものだから、よくもまあ蓮歌だと気づけたものだと思う。果たしてこれが、俺の未練がましい一面の表れだとは思いたくないところだ。

 

「一応、ここが旅館って説明はしたよね?」

「まぁな」

 

 ここに来るまでの間に、この旅館についてのことは軽く聞いた。

 ここは招かれた人だけが来ることのできる場所。そして俺は、この旅館に招待された。

 大まかに説明すればそんなところだ。

 

「ただ、普通の旅館じゃないんだろ?」

「まぁね」

 

 ここに来るまでの道のりに、あの手のひらサイズの妖精に、行方不明になった幼馴染。普通じゃないことは、これでもかと起きている。だから俺は、そういうもろもろの普通じゃないことについての説明を求めたのだけれど、どうにも口で説明するのは難しいらしく、むーっと唇をへの字に結んだ蓮歌が悩む。

 

 と、そこで後ろから船着き場に船を繋いでいたサトヤさんが、ある提案をした。

 

「レンガ、お前、今日は休日なんだろ? なら、一緒に下町を見て回れば行けばいいんじゃないか?」

「それ名案!」

 

 ビシッとサトヤさんを指さす蓮歌。なんとも失礼な奴だなと思う。

 というか――

 

「お前、旅館で働いてるのか?」

「うん、そうだよ。働く代わりに置いてもらってる」

 

 どうやらそれが、さっきの俺の質問の片方への答えのようだ。働く代わりに置いてもらってる。それはつまり、ここに置いてもらうために、働いているということなんだろう。

 

 そうなると次に、どうしてここに居たいのか、という疑問が浮かんで来るけれど。

 それはまだ、聞かないことにした。

 

「とーもーかーく、何があったのかは知らないけど、招かれたってことは那尾もお客さんだからね。休日返上は気に入らないけど、友達ってことで私が案内してあげよう!」

「おう、助かる」

 

 腕を組んで胸を張る蓮歌。昔よりも大きくなったそれに少し目が行ってしまいかけるが、我慢我慢。うん。本当に大きくなったな。何がとは言わないけど。

 

 ともかく、張り切る蓮歌の後ろについて行って、船着き場を後にする。

 

「先に言っておくけど、この先の景色を見てもあんまり大きな声で驚かないでね」

「……そう言われると不安なんだが?」

「大丈夫大丈夫。とりあえず取って食われるようなことはないからさ」

「あん?」

 

 船着き場からどこかへと向かう道は、少しだけくらい。ただ、そこを通るのに時間はかからず、すぐに俺は彼女の言うこの先の景色にたどり着いた。

 

 そして、息を呑んだ

 

「嘘だろ……?」

 

 俺の目の前に広がるのは、巨大な旅館までの道。まっすぐ引かれた石畳が、提灯や道脇の店の明かりで照らされている。それはどこか神秘的で、絵本の中に居るような静かな幻想を想わせる風情があった。しかし、その風情を何よりも引き立たせているのは、この道を使う人々にある。

 

 背の高い男がいた。身の丈だけで二メートルを超えるその男の肌は赤く、横幅のある体のなんと筋肉質なことか。なによりもその額に生えた二本の角は、とてもじゃないがただの人間には見えない。

 

 その男の近くにはお面を付けた子供が二人いたけれど、片方の子供に鼻はなく、代わりに頭の半分はありそうな大きな瞳が一つついていて、もう片方の子供はまるで狼のように毛むくじゃらな姿をしていた。

 

 他にも、色々。

 

 道でたい焼きを売っている店の店主は、背中に翼が生えている。あっちの店先で客と話し込んでいる店員は異様に足が長くて、話し相手はまるで溶けかけたアイスみたいにどろどろな体をしていた。

 

 もちろん、そんな異形ばかりではない。ちゃんとどこにもおかしなところのない人間も歩いているけれど、それはあまりにも些細で、この通りを彩る異形たちと比較してしまうと、それは無いも同然の存在感だった。

 

「お、おい、本当にここはどこなんだよ!」

 

 通りの景色を見た俺は、慌てて蓮歌の肩を掴んで問い詰める。

 普通じゃないことはわかっていたけれど、こんなにもおかしな場所だなんて、まったくもって想像していなかった。しかし俺の動揺とは正反対に、あっけらかんと彼女は言う。

 

「隠れ里? 的な?」

「はぁ?」

「ほら、あるでしょ。おにぎりの落ちた先にあったネズミの国とか、谷の奥深くに在る家とか、亀に連れられて行った深海の城とか……私もよく理解してないんだけどね。主様が言うには、ここもそう言う隠れ里の一つなんだって」

 

 鼠浄土、マヨヒガ、竜宮城……確かにそれは、俺も子供の頃に聞いたことのあるおとぎ話だけれど。

 

「狭間の旅館。ここは現実と現実、世界と世界の間にある場所。いろんな世界があって、いろんな場所に繋がってる。だから、私たちのいた世界とは、違う世界の人たちもお客様としてここに来る」

 

 それはどうにも、俺の常識では測ることのできない話だった。

 

「……理解しきれん」

「別に理解しなくてもいいでしょ」

「そうかぁ?」

 

 頭を抱える俺の横で、普通の顔をした蓮歌が言う。

 

「さっきも言ったでしょ。取って食われるわけでもなし。話してみればなんてことはない、私たちと同じ人だよ――」

 

 と、そこで遠くから声が聞こえた。

 

「お、レンガちゃんじゃん!」

「こんばんはー。レンガちゃんも今オフって感じ?」

 

 聞こえて来た声は女性のモノ。きっと蓮歌の友人なのだろうと思ったけれど、声のした方を見て俺はぎょっとした。

 狸と狐が立って話しているのだから。

 

「お、コンさんヌッタさん。こんばんは」

 

 唖然として声も出ない俺を置いて、普通に返事をする蓮歌。

 

「なにしてんの、レンガちゃん」

「今、お客さんの案内をしてるんですよ~」

「あら~、いい感じの男の子じゃない。もしかして……」

「彼氏?」

「そんなんじゃないですよ」

 

 しかも普通に会話している。絵面だけ見るとすごいシュールだ。

 二足歩行の狐と狸が、近所のおばちゃんみたいに話している。しかも服を着ておめかしまでしているのだから、本当に現実離れした光景だ。

 

「私たち、これから食事なの」

「そうなの! ほら、前から気になってたあのお店に行こうって言ってね」

「お、いいじゃないですか! 私もあそこは一押しですよ!」

「あらそうなの~?」

「楽しみだわ~! それじゃあ、またねレンガちゃん」

「またね~」

「はい、また!」

 

 少し話して狐と狸を見送った蓮歌は、肩越しに俺の方を見ながら言った。

 

「ほら、普通でしょ」

「……確かにな」

 

 そう思えば、ここから見える景色も、違って見えてくる。

 あの鬼のような大きな男の人は、露店の店主らしく綿あめを作っていて、一つ目の子供が綿あめを受け取って嬉しそうに食べているし、羽の生えた人と溶けた人、それと足の長い人が集まって、普通に談笑している。それは確かに、恐ろしさなんて感じる隙もないほどに、平穏な風景だった。

 

「改めて、ここは狭間の旅館。現実と現実、世界と世界の間にある隠れ里。ふとした拍子に訪れて、現実から離れた時間の中で、心を休められる場所。……って感じらしい」

「らしいって……まあ、確かに平穏な場所であることには、変わりはなさそうだな」

 

 現実離れしたこの光景は、確かに夢の中にいるようで、俺も今の今まで元の世界のことなんて忘れて、この世界のことで夢中になってしまっていた。

 

「もう少し、案内してくれないか、この世界を」

「世界じゃなくて、狭間の旅館。でもいいよ。友達だもん」

 

 友達という言葉に、俺の胸がチクリと痛んだ。

 確かに、俺と蓮歌の関係性を示すうえで、友達という言葉はその通りなのだろうけれど。でも、俺にとって蓮歌は、友達というにはあまりにも……そう、あまりにも大切な人だったから。

 

「早く行こ」

 

 前を歩く彼女が、俺の方を振り返る。

 もしここで、彼女の手を握ったら、どうなるのだろうか。

 しかし俺には、そんな勇気はなかった――

 

 

 ◆

 

 

「というわけでやってきました激辛ラーメン店」

「雰囲気ぶち壊しだな」

 

 果たして一番最初にやってきたのはラーメン屋。小腹が空いたという俺の一言がきっかけだったけれど、それにしては随分と迫力のあるチラシが店先の引き戸に張ってあった。

 

『地獄辛ラーメン 30分以内に完食で無料』

 

 いや、あの……さっきまでの神秘的な雰囲気はどこに行った?

 

「那尾ってこういうの得意でしょ。ほら、30分で完食したら無料的な」

「おーういいぜやってやろうじゃねぇか」

 

 チラシを前に戦慄していたが、煽られてしまっては仕方がない。俺も男だ。ここで引いては男が廃る!

 暖簾をくぐって店の中へ。挑発に乗った俺の前に現れたのは、火が付いたように赤いどんぶりだった。

 ここで俺、軽く後悔。

 

「おいなんだこれ」

「なにって激辛ラーメン」

「ラーメンの色じゃないんだけど?」

 

 確かに、俺の目の前に姿を現したのはラーメンだった。しかし、赤い。赤すぎる。麺はもちろん、具の豚肉まで真っ赤っか。助けを求めるように俺が蓮歌へ視線を向けると、その蓮歌はラーメンを出した店主へと視線を向けた。

 

「狭間の旅館で一番辛い地獄唐辛子を練りこんだ特製麺に、一週間付けた特製スープ、それにそれだけを食べさせて育てた地獄豚の肉で作ったラーメンでい」

 

 と、喋るのは魚類である。虚ろな瞳のついた魚の顔に、鱗塗れの腕を組んで、自慢げにそう語っている。

 

「だってさ」

「だってさ、じゃねぇよこれ!」

 

 やばいよ! これ! 本当にやばい!

 人の食べ物じゃないよ! ねぇ! おい聞いてる!?

 

「あ、ハエが」

 

 ここであろうことかハエが乱入。しかし、俺の目の前を通り過ぎようとしたハエが、下から立ち上る激辛ラーメンの香りに当てられてぽとりと落ちたのを見て、俺は絶句した。

 

 幸運にも、死んだハエがラーメンの中に落ちることはなかったけれど……店の衛生管理を疑うよりも俺は、ただ一言を訴えるために声を上げた。

 

「劇物じゃねぇーか!」

「はいじゃあ30分測りますよー」

「スルーすんじゃねぇぇぇ!!!」

 

 おもむろに砂時計を出した店主に文句を言いつつも、俺は箸を持つ。ただ――

 

「あ、木の箸は溶けちゃうからこっち使ってね」

「やっぱり劇物じゃねぇか!!!!」

 

 取り出された金属箸を受け取りながら、二度目の咆哮。いったいなぜ、俺はこんなものを食べることになったのか。ただ、一度出されたものを残すのは俺の信条に反する手前、残された逃げ道はない。

 

 30分。

 

「那尾、がんばって~」

 

 蓮歌の声援を聞きながら、ひとまず俺はラーメンを口に運んだ――そして一言。

 

「劇物じゃねぇかぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」

 

 

 

 そして30分後、俺は完食した。

 

「死ぬかと思った……」

「あー面白かった」

 

 俺をおもちゃにして満足げな蓮歌である。一体何が面白かったのか。何が一番気に入らないかって、あれはあれですごい美味しかったことだよ。なんだよあれ、もう一回行こうかな……。

 

「那尾って相変わらず、悪食だよね~」

「悪食言うな。俺はうまいもんが好きなだけだ」

「でもでも、あれまでぺろりと平らげるとか……あ、次どこ行きたい?」

「次か……そう言えば、屋台とか色々出てるよな。そう言うので遊べるところとかないのか?」

「あるよ、あるある。んじゃ、今度はそっちに行こうか」

 

 そんな風にして、俺は仄かに明るい世界の中を、ぼんやりとした夢のように歩いた。

 

 露店の射的、ヨーヨー釣り、型抜き。まるで夏祭りの夜を思い出す数々に浸りながら、いつの間にかりんご飴を買って舐めていた蓮歌に訊く。

 

「今日は何かの祭りなのか?」

「いんや? ここは旅館だからね。明日になれば帰る人もいるし、今日になってきた人もいるからさ、夜は毎日こんな感じだよ」

 

 なるほど、と俺は相槌を返す。

 つまりこの祭のような露店の数々は、訪れる客を出迎えるアトラクションのようなものなのか、と。

 

「奥の旅館は……」

「もちろん泊まれるよ。あ、でもお金持ってないよね?」

「さっきからお前の金で遊ばせてもらってるからな」

「うわ、なんかくずーい」

「酷い風評被害だな」

 

 一応、着の身着のままこちらに来た俺も無一文ってわけじゃない。ただ、向こうのお金は使えないようで、千円札も只の紙切れだ。それに換金しに行くのも手間だと蓮歌が言うものだから、彼女のおごりで楽しませてもらっている。

 

 とはいえ、それも長くは続かない。

 

 ボーン、と低く大きな音が聞こえた。振り子時計と除夜の鐘の間のような、不思議な音だ。

 

「何の音だ?」

「あー、時間だよ。夜の9時を教えてくれる奴。そろそろ私、帰らないと」

 

 それは終わりの音だ。

 この夢のような時間の終焉。

 

「船着き場の場所わかる?」

「覚えてる」

「んじゃそこに行けば、帰れるから! それじゃあ私、門限あるから。じゃね!」

 

 そう言って、急いでその場を離れようとする蓮歌だけれど、ふと足を止めた彼女は、こちらに振り返って言う。

 

「私、那尾と会えて嬉しかったから、とっても」

 

 そして今度こそ、本当に彼女は旅館の方に駆けて行ってしまった。俺はその背中を呼び止めることもできないまま、名残り惜しさだけを残した手を、遠くに行ってしまった蓮歌に向けて伸ばすことしかできなかった。

 

 なにも掴めないまま。

 

「よう、ナオ。帰るか?」

 

 気が付けば俺の足は、自然と船着き場の方に戻っていて、そこには俺のことを待っていたのか、サトヤさんがいた。彼は酒瓶を片手に言う。

 

「帰るなら、同じところに戻れるぜ」

「それじゃあ、お願いします」

 

 言われるがまま、俺は船に乗り込んだ。

 そしてまた、暗い暗い水面の世界へと船が進む。今度は、あの柔らかい光から離れるように。

 

「……」

 

 ぼんやりと、俺は小さくなっていくその光を目で追いかける。そんな俺を見ていたのだろう、サトヤさんが言う。

 

「もう少し居たかったか?」

「ん、あ、はい」

 

 もう少し居たかった。反射的に肯定したその言葉は、確かに嘘ではないけれど。

 ただ、俺の今のこの気持ちを表すのに、その言葉はズレているような気がした。

 

「そうだなぁ、あそこは楽しい場所だからな。何度でも来たくなる。だがな、ナオ。それはできないんだ」

 

 残念そうに、彼は言う。

 

「狭間の旅館に繋がる道は、簡単には開かない。多くの客が、偶然そこにたどり着くんだ」

 

 ふと、気が付くと俺は河川敷に居た。

 サトヤさんと出会い、船に乗り込んだ時と同じ場所だ。

 

 ただ、周りを見る俺に対して、サトヤさんは言った。

 

「何度もあの場所に行ける人間は稀だ。同じ夢を何度も見ることができないとおんなじように」

 

 サトヤさんの言葉一つ一つが俺に突き刺さる。この船を降りたら、もうあの場所には行けない。彼はそう言っている様だった。

 ただ、とサトヤさんは続ける。

 

「一日。一日だ。明日の夜、またここに来い」

「それは、どうして?」

「決めるんだよ。それまで待ってやる。いいか、明日の夜、今と同じ時間までだ」

 

 そう言って、サトヤさんは船の縁で頬杖をついた。

 

「その間までに決めるんだな。あっちに行くか、こっちに居るか」

 

 そう言った後、サトヤさんは何も喋らなくなってしまった。こちらから何かを聞いても、そっけない返事をするだけ。

 

 着替えはここに来る前に、船の上ですでに済ませていた。だから俺は、そのまま船を降りて家に帰った。

 

 町を歩き、家の前にたどり着く。

 玄関を潜り、家の中へ。そうすると、いつもの日常が帰ってきた。暗闇の日常が。

 

「あら、お帰り那尾。遅かったけど、なにしてたのよ」

 

 玄関で靴を脱ぐと、リビングの方から母さんが顔を出す。後ろには父さんの姿もあって、二人とも心配した様子だった。思えば、時間は既に21時を過ぎている。そりゃ心配も掛けるに決まっている。

 

「ごめん、川辺でぼんやりしてたら眠ってた」

「そう、ならいいけど」

「今後は気を付ける」

 

 そう言って、俺は急いで二階の部屋に戻るけれど。その間も、俺を追いかける二人の視線には、罪悪感を抱かざるを得なかった。心配をかけた。ただでさえ、いつも心配をかけているってのに。

 

 部屋に戻り、着替えもしないままベッドに寝転んで天井を見上げた。

 そうしているうちに思い出すのは、サトヤさんの言葉。

 

 あっちに行くか、こっちに居るか。

 この機を逃せばあちらに行けないと念押しされているのだ。きっと、あちらに行ってしまったが最後、こちらに戻ってこれないんだろう。

 

 もしも俺がいなくなったら。

 ……悲しむだろうな。二人とも。

 

「那尾、少しいいか?」

 

 と、その時、俺の部屋の扉が叩かれた。叩いたのは父さんで、どこか真面目な顔をしていた。

 

「その、なんだ。なにか、あったのか、今日?」

「いや、だから帰るのが遅れたのは川辺で寝ぼけただけで……」

「でも、寝ぼけたのにも理由があるんだろう? 夜はしっかりと眠っているじゃないか」

 

 ぎくり、とどこからから聞こえてきたような気がした。父さんは、あの狭間の旅館のことなんて知らないはずなのに、とも思ったけれど。ただ、親なりに何かを感じ取ったんだろう。俺の心が今、とてつもなく揺れていることに。

 

 話してもいいかもしれない。

 淡い希望が、俺の口から漏れ出した。

 

「……父さん。もしも、もしもの話だ。俺に会いたい人が居て、その人に会うために……外国に行くって言い出したら、どう思う?」

 

 俺の話に目を丸くした父さんは、少し考えるそぶりをしてから、ゆっくりと言葉を選ぶように言う。

 

「そうだなぁ。人によるとしか言えないな。例えば、それが……なんて言うか、割のいい仕事があるとか、そういう都合のいい話をするような相手だったら、俺は全力でお前のことを止める。絶対に行かせない」

「じゃあ、それが……」

 

 そこで俺は一度言葉を濁した。

 今から言おうとすることを言うべきか、言わないべきか。喉まで出かかった言葉を、果たしてこのまま吐き出していいものか悩みに悩み、けれど言えないまま沈黙してしまった。

 

 一秒、二秒。何も言えない間が開いて、何も言えずに終わるのかと思ったけれど。

 

「ただ、本当に那尾がその人に会いたいって言うんなら、父さんは止めないよ」

 

 沈黙を払うように、父さんがそう言った。

 

「那尾、その人は遠くに居るのか?」

「ああ、簡単には会えないぐらい遠いところに居る」

「それじゃあきっと、会いに行ったら、この家には戻ってこれないんだろうなぁ」

 

 例え話だ。

 けれど父さんは、俺の事情を見透かしたように言葉を紡ぐ。

 

「少し寂しいけど、それが那尾のしたいことなら、何も言わないよ」

「それは、どうして?」

「だって、今まで住んでいた場所を離れるってのは、生半可な覚悟じゃできないことだからさ。戻れないとわかっているなら尚更だ。人生そのものが変わる、大きな大きな選択。だったら父さんは、那尾の選んだことを尊重したい」

 

 父さんは、とてもやさしい顔をしていた。それが心の底から言っていることなのだということが、手に取るようにわかる。

 

「父さんは」

 

 今度こそ、俺は言った。

 

「父さんたちは、俺を信じてくれる?」

 

 父さんは言った。

 

「那尾がそこまで言うのは珍しいからね。やりたいことがあるのなら、自由にやりなさい」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「約束の時間よりも早いな、ナオ」

「昨日の夜のうちに、覚悟が決まりましたからね」

 

 翌日の夕方、早々に河川敷に足を運んでみれば、船の上で雑誌を読んでいたサトヤさんがいた。

 

「先に言っておくが、乗ったら最後、気が変わっても降りられないぞ」

「そのつもりですよ」

 

 忠告するように教えてくれるサトヤさんだけれど、それはもう覚悟している。

 だから俺は、バッグ片手に船に飛び乗った。

 

「出してください。覚悟はできてます」

 

 バッグの中には、小遣いが少しとお気に入りの本。着替えと家族写真とスマートフォン。海外旅行に行くにしては身軽な装備だけれど、必要なモノだけを考えていたら、意外と綺麗に収まった形だ。

 

 本当なら、覚悟一つだけでも十分だった。

 

 蓮歌のいる場所に居たい。

 それは、俺が未だ蓮歌に未練があるのもあるし、改めて出会った蓮歌と一緒に出歩いたのが楽しかったのもある。けれど、やっぱり一番の理由は、あの俺の中の止まってしまった時間にある。

 

 あの夕焼けの教室を最後に、俺の中の時計の針は進んでいない。それはやっぱり、蓮歌がいなくなってしまったから。だから、どんな結果になろうとも、あの教室から先に進むためには、向き合わなければいけないのだろう。

 

 消えてしまった蓮歌のいる場所で。

 

「一つだけ、聞きたいんですけど」

「なんだ?」

「どうしてサトヤさんは、待っててくれたんですか?」

 

 一つの疑問。サトヤさんは「旅館に繋がる道は、簡単に開かない」と言っていた。それはつまり、道が開かなければ、サトヤさんも旅館に帰れないということなんじゃないだろうか?

 

 それなのに、一日も俺のことを待っていてくれた。それはとんでもなく、リスクのあることなんじゃないかと、俺は思った。だからそれを訊ねたら、サトヤは笑うように言った。

 

「お前さ、レンガのことが好きだろ」

「え”……そ、それは何と言いますか」

「まあ、態度を見ればわかるがね」

 

 はっきりと口にできない俺のなんと心の弱いことか。それに、三年前に蓮歌が消えてから、今までずっと気持ちが変わらなかったと言いきれない。

 

 それでもあえて言うのなら、やっぱり好きなんだろう。

 蓮歌のことが。

 

「好きなヤツと会えなくなるのが辛いのは、俺もよく知ってるから」

「……そう言えば、確か10年とか……」

「ま、色々さ、色々。とにかく、さっさと行かないと、道が閉じちまうから、出すぞ」

「は、はい!」

 

 サトヤさんにも、覚えがあるのだろうか。

 

 ぼんやりと、そんなことを考えていれば、いつの間にか暗い水面の中に船は浮いていた。

 そしてはるか遠くに、旅館の明かりが見えた。

 

「さて、これからあの旅館で働くにあたって、俺たちの主に会ってもらうが……気を付けろよ」

「というと?」

「うちの主さんは、ちょっとばかり規格外だからな」

 

 俺はその言葉に、少しだけ戦慄した。

 魑魅魍魎の世界にあって規格外とは、いったいどんな化け物が出てくるのか。

 

「まあ、脅した手前こう言うのもなんだが、あんまり緊張すんな。気はいい人だからな」

「ちょ、ちょっと不安になってきましたよ」

 

 ゆらりゆらりと船に揺られながら、俺はこの日、本当の意味で狭間の旅館に足を踏み入れることになる。

 

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