狭間の旅館の暮らし方~異世界の旅館で働き始めましたが、どうやら訳あり住民ばかりのようでした~ 作:日野球磨
――綺麗でしょう?
――簡単に壊れてしまいそうだから。
◆
ほんのりと香る既視感を、主の執務室の扉の前で俺は感じていた。それは俺がこの旅館の世話になった時のことだし、ユウの一件でララの説得をすることになったきっかけの時のことでもある。
ともすればこの扉の前に立つことは、俺の人生における大きな転換の時なのかもしれないと、そう覚悟してしまう。
ひとまず扉を開いて中に入ると、予想通り見知った顔が。
「よっ、ナオ」
「当たり前みたいにいるよな、お前」
半分が滝を臨むバルコニーになった執務室に入ってすぐに、俺を迎えたのはサトヤだった。いつもの通りの軽い調子で片手を上げた彼は、こちらに近づいてきては、俺の肩に腕を回して言う。
「いやぁ、嬉しいぜこの時が来たことが」
喜んでいいのか、怯えていいのか。正直、こいつに対するスタンスにはいまだ迷いがあるのが俺だ。
「ナオ君が困っているじゃないか、サトヤ君」
「これぐらいいだろう、ペルチーナ」
「まったく……」
さて、更に執務室にはペルチーナさんも。こうなると、二週間前のララの一件の時のことを思い出すけれど、肝心の蓮歌はいないのが残念で仕方がない。
「よく来たな、ナオ」
ともあれ、龍さんが口を開いたのならば、残念がってはいられない。サトヤの奴を引きはがして、俺は龍さんを見た。
「それで、何の用事ですか?」
「実のところ、吾たちは君に隠し事をしていた」
隠し事、と言われて思い出すことはたくさんある。
この狭間に落ちてくる条件。俺が例外と呼ばれた理由。住人たちを取り巻く事情。エトセトラ――まあ、言われたからと言って理解できるような内容ではないことは確かだけれど、今更それについて謝られたり、説明されてもなぁ、って感じがする。
ただし、龍さんの口から出てきたのは、そんな俺がぼんやりと答えに気づいていた問題ではなく、それどころか初耳も初耳の事情であった。
「君はまだ元の世界に帰れるのだよ」
「はあはあ、俺はまだ元の世界に、帰れると……はぁあああああああああああ?????????」
思わず声を荒げてしまった。
え、俺まだ帰れるの? 全然、ここに骨埋めるつもりだったんだけど?
「龍さん、ここは俺が」
「ああ、頼んだよサトヤ」
と、ここで詳しい説明については、サトヤが引き継いでくれるようだ。俺は心の底から回答を求めるように、サトヤの顔をじっと見つめた。その様子にけらけらと笑うこの人でなしは、軽い調子で言う。
「ララの一件の話は聞いたぜ、ナオ。だったら、ここに居る奴らが、どんな事情を持ってるかはわかってるよな?」
「まあ、なんとなくは」
「じゃあ、ここに落ちてくる条件は?」
条件。と、言われてもパッと思いつくものではないけれど。
「深い絶望。世界との繋がりの希薄化。そんでもって最後に……自分自身を殺してしまうほどの疎外感」
「ま、そんなところだな」
世界に必要とされず、自分も世界を必要としなくなった時、この狭間に落ちてしまう。もちろん、それは十分条件ではないけれど。でも、ララやユウたちはそうだった。だからきっと、そういうルールがあるんだろう。
「まあ、それが一つだ。もちろんそこまで行かずとも、偶然穴が開いちまうケースがある」
「……もしかしてだが」
「そう、お前のケースだ」
理解できないわけじゃない。
世界への不満足。強い現実逃避。何よりも、自己に対する深い絶望。先に言った条件の足掛かりともいえるそれらが、近い現象を引き起こすというのは、納得のいく話だ。
「ただ、別にそう言うやつは元の世界に居場所がまだあるやつだ。わざわざこっちで暮らさずとも、やり直せる。だからここで少し休んで、手を振って送り出すのさ。頑張れよって」
サトヤが最初、俺のことを誘ったのも、今と同じ理由なんだろう。
「元の世界に居場所がある。これが重要なんだ」
居場所。そう言われて、俺はぼんやりと両親のことを思い浮かべた。きっと今も、いなくなった俺の帰りを待っていてくれるかもしれない。
藍色の後悔と、鈍色の罪悪感。そして僅かな寂しさが、ぼんやりと俺の全身を包んでいく。
「たまにいるんだよ。この狭間に惚れこんで、ここで働きたいって言うやつが。でも、元の世界への郷愁だったり、この世界に馴染めなくて、どうにもおかしくなってくんだ」
「そうなんです?」
「ま、思ってたのとは違ったって文句が多いよ」
……確かに、日の出前から深夜まで働き詰めにされるとは、夢にも思ってなかったけども。
「だから、そういうやつに対しては、一カ月の仮雇用期間を作ってる。この世界を肌で感じて、改めて戻るか、残るかを決めてもらうな」
ここまで聞けば、話の筋は通っているように感じた。
俺がこの世界の例外と言う理由も。
「それで、残るには何をしたらいいんだ?」
「結論がはえーな、お前は」
「まあ、決めたことだからな」
今更帰る気はなかった。
何よりもまだ、蓮歌との決着がついていないから。
それがいつになるのか、分かったモノではないけれど。
「それについては簡単だ」
そこで横からペルチーナさんが会話に入って来た。その手には、見覚えのあるものが。
「あれ、それ俺の学生カバンじゃ……」
「その通り」
ペルチーナさんが持つのは、俺がこの狭間に来るときに持ってきた学生カバン。着替えと金とスマホと、それと家族写真が入っている。
「ここに残る者として、元の世界への未練を断つ。それが条件だ」
そう言うと、龍さんの前にぼうと炎が現れた。魔法か科学か、ともあれ何もかもを燃やし尽くして灰にしてしまいそうな炎であることには、間違いない。
「……」
やるべきことは理解した。
俺はペルチーナさんからカバンを受け取り、炎に近づく。
「……はぁ」
チリチリと肌が逆立つ感覚がする。ここまでしないといけないのかというため息が止まらず、どうにも落ち着かない。
着替えを出した。
高1の時、母さんが買ってきてくれたTシャツだ。そう言えば、狭間に来てからは来たことがなかったな、と思った。
それを火にくべる。
音を立てて火の粉が舞った。静かな空間の中に、歪んでいくTシャツの柄が見える。続けて俺は、他の物も投げ入れた。
これはデニムのズボン。これならどのTシャツにでも合うでしょと、適当に買ってきたやつだ。これは通販で買ったジャケット。パンダの柄を気に入って買ったら、海外から輸入するって話になって届くのに随分と掛かったのをよく覚えている。んでこっちのシャツは……もうボロボロだな。ここに来る前から長いこと使ってたものだったはずだ。靴下も、思えば自分で選んだことはなかった気がする。
衣服類が終わったら、財布が出て来た。
父さんが高校生になった祝いにくれた奴だったっけな。なんて親不孝者だと考えながら、中身を見ずに俺は炎に入れた。
スマホを取り出して、俺はどうしてこんなものを持ってきたのかと悩んでしまう。こっちに電波塔なんてあるわけないってのに。
そうしてカバンまでも火にくべた後、最後に残った家族写真を俺は見た。父さんと母さんと俺が映った写真だ。
それと炎を見比べた。
「なんで、これを燃やさないといけないんですかね」
そこで初めて、俺は龍さんに抗議した。
静かに、冷たく、神様のように龍さんは言う。
「吾は燃やせとは言っていない。火にくべ、燃やすことがここに残る誠意だと、告げている」
確かにこれは、人の心がわかるはずがないと、俺は心底理解した。
だから俺は。
「ごめん。じゃあ、元気で」
俺は、写真を手放した。
「――ハッ」
ただ、手放して、炎に入れて、
「だっしゃらぁああああ!!!」
俺は炎に手を突っ込んだ!
「お、おい何をやってるんだいナオ君!」
「ほう、根性あるじゃねぇか」
ペルチーナさんとサトヤの奴が俺の行動に驚いたように声をあげ――って熱っちいな本当に! だが、掴んだぜコンチクショウ!
「うおらぁああ!!」
俺は炎の中で掴んだ写真を引き上げる。燃え移った火が写真を黒く染めているところだけれど、俺が急いで引き上げて消化したおかげか、まだ内容が見れる程度の焦げ具合で済んだ。
そして、俺はその写真を見せつけて言ってやった。
「一挙両得。燃やしてやったぜ、龍さんよ」
火にくべて燃やすことが誠意だと言うなら。
燃やしたうえで掴み取るのが俺の精一杯だ。
「俺は聞いたよなぁ……燃やせばいいってよ。これなら文句ないよな」
んー、俺の悪いところが出てる出てる。でも、正直この写真を燃やせと言われてカチンときたのはその通り。むしろさらにやってやれと、全身全霊が叫んでいる。
「まったく、早とちりをするんじゃない」
しかし、思っていた反応とは違う言葉が返ってきて、思わずきょとんとしてしまった。周りを見れば、ペルチーナさんは頭を抱え、サトヤの奴は床で転がって笑っている。とりあえず、サトヤの胴体に蹴りを一発入れておくとして。
「なんですか、この空気」
「本当であれば、明かす話ではないんだがな」
そう言うと、龍さんは開いた手を握る。するとそこには最初から炎なんてなかったみたいにパッと炎が消え、散らばった俺の私物が、焦げ目もなく転がっていた。それどころか、俺の手の中の写真すら、元通りになっていた。
「幻だよ。限りなく本物に近い、ね」
「……説明を、ください」
「それじゃあ、そこの笑い転げてるでくの坊の代わりに私が」
そう言って、龍さんの代わりに説明をしてくれるペルチーナさん。
「流石に従事してくれる人間の私物を燃やしてしまうのは、禍根が残るからね。ただ、本当に前の世界を捨てでも、この狭間に残るという決意を見るためには、こうまでしないと本音なんて見えないものだからさ。まあ、この私物自体は、こちらで預かることにはなってしまうけれど」
そう言うことなら早く言ってほしかった。
まったくもって、この旅館は大事なことは何も教えてくれないくせに、洗濯ばっかり迫ってきやがる。
「まさか、本当に大事なものは、炎に手を突っ込んででも守ろうとするとは思ってなかったけれどね」
そう言って呆れるペルチーナさんは、またかとばかりにため息を吐いていた。確かにまた、俺は火傷をしてしまったのか、と炎に突っ込んだ手を見る。限りなく本物に近いという話の通り、どういうわけか火傷あとはしっかりと残っていて、じわじわと痛みが広がっていくのを感じた。
「ほら、手当てしてあげるからこっちに来なさい」
「すんません」
「本当に君は無茶するんだから……次に誰かと関わる時は、骨折でもしてくるんじゃないかい?」
「いやな予想ですね……」
ともかく、火傷の手当てが終わった後、俺は手に持った写真を龍さんに渡しながら訊ねた。
「それで、俺は合格ですか?」
「ああ、誰にも文句は言わせんさ」
写真を受け取った龍さんは、微笑むようにそう言った。
それから続けて、こう告げる。
「ようこそ、狭間の旅館へ」
◆
ぼんやりとしていると夜になっていた。
今日一日は身辺整理ってことで休日にしていいと、龍さんが言ってくれたからだ。とはいえ、整理するものなんてミィが衝動買いしてきたものぐらいで、俺の私物はほとんどが元の世界のモノだから、龍さんに預けてしまった。
だから俺の部屋には何もなくて、空いた時間で旅館を歩き回るぐらいしかやることがなかった。もちろん、お客さんが行き来するような場所には顔を出せないけれど、それでも俺の知らない場所がまだまだたくさんあることはわかった。
ともあれ、そうした珍道中も終わりを迎え、結局渡り廊下の休憩所に来てしまう。
「あら、ナオじゃない」
「ララか」
すると、ばったりとララに出会った。
いや、ばったりと言うのもおかしいかもしれない。ララは渡り廊下の手すりに座っていたけれど、その横にはララ用のコップが置いてあって、誰かを待っているような様子だったから。
俺を待っていたと考えるのは、自意識過剰だろうか?
まあ、いいや。
「こんなところでどうしたんだ」
「どうも。適当に休んでたところよ」
今の時間は、いつもだったら雑用中だったと思うけれど……まあ、それはいい。
「なんだか浮かない顔をしてるわね」
「そうか?」
「ええ、酷い間抜け面」
一応、人のことを豚とは呼ばなくなったララだけれど、毒舌は相変わらずだ。
「じゃあ、お前は酷い奴だな」
「あら、酷い同士で仲良くしてくれると助かるわ」
無敵かこいつ。
「んで、何があったのよ」
「別に。ようやく旅館の一員として認められたってだけだよ」
ただ、本当のところを言えば、どこか釈然としないだけだ。
いろんなことを隠されて、挙句の果てには今までは見習い以前だった。とか、なんだかなぁ、と靄のかかった気持ちが渦巻いてしまう。
「ふぅん、疎外感でも感じてるわけ? 贅沢ねぇ」
「お前はどうしてそんなに鋭いんだよ」
前々から思ってたけど、こいつ結構勘がいいよな?
いやだなぁ、こいつが上司なの。
「いいじゃない別に。それで何か、振る舞いが変わるわけでもなし」
「それもそうだ」
確かに、一員になったとはいえ見習いは見習いのままで、これから正社員として雑用以外を務めるわけじゃない。実際ミィやユウと同じように、まだまだ覚える仕事なんていくらでもあるんだから。
「簡単な奴ねぇ」
「うるせぇ」
靄が全く消えたというわけじゃないけれど、嫌な感じに込み上げてきたものが無くなった。ただし、ララ的にはそれが気に入らなかったらしい。うざったそうな顔で俺の方を見上げて来た。
ただ。
俺は。
その顔を見て。
「……ま、ありがとな」
感謝を伝えてしまった。
「なんだか気持ち悪いわねぇ」
「せっかくお礼を言ってやったってのに、何だよその態度」
ララの返事には頭を抱えるしかなかった。
やはり、この妖精には俺の理解の及ばないところが多すぎる。
ただ、それでも理解し合えないというわけじゃないのは、知っている。
「なあ、ララ」
「あによ」
「どうしてお前は、ユウを治療してくれたんだよ」
以前から気になっていたことを、俺は訊ねた。
結局、あの時のララの心変わりの理由を俺は知らない。あんなにも頑なにユウの治療を拒んでたってのに、治療の魔法が使えなくなるほど深い傷を心に負っていたってのに、どうしてなのか。
「……」
急に黙りこくったララだけれど、俺も黙って答えを待った。十秒、二十秒。ともすれば一分は経っただろうか。ともかく、遠くの喧騒がうるさいぐらいの沈黙の中で、ようやくララは口を開く。
「助けたくなったのよ」
それは本当に、彼女の心の底から出てきたような言葉に思えた。
「きっと思い出したのでしょうね。昔のことを」
「昔って言うと……アレクか?」
ララの返事はなかったけれど。
それが肯定であることは、なんとなくわかった。
「助かるかもわからない患者を助けようとする。私には理解できなかったわ。それがあなたに何の利益を与えてくれるのかって。でも、あんたは諦めなかった」
「まあな」
「それが答え。あんまりにも馬鹿らしくて、愚かだから。だから……手を貸してあげたくなったの」
「同情か?」
「ええ、同情よ」
そう言ってしまうと、何とも陳腐な答えだけれど。
まあそれも、悪くない言葉だった。
「でも、わからないってことはないだろ」
「あら、馬鹿にしてる?」
「いやいや、馬鹿にしてる」
そう言って、俺は少し前のことを口にした。
「ララ。お前、ミィの教育係をしてただろ。あれって本当のところ、助けたかったからなんじゃないのか?」
「……」
俺の言葉に、ララの動きがピタッと止まった。一緒に返答もピタッとなくなってしまったけれど、仕方がないと俺から話を進める。話ってよりも、勝手な妄想だけれども。
「お前がトラウマのせいで人のことが治せなかった。だけど本当は、治したかったんだろ? 傷ついてる奴を、見過ごせなかった。けど、それができないのは誰よりも自分が知っている。だからせめて、ミィの奴がここで暮らせるようにって」
「……はぁ、そうねぇ」
そこまで言って、ミィは俺の言葉を遮るように手すりから飛び立った。
ふわりと舞って、こちらに振り返って、言う。
「都合のいい話だわ」
「その通りだ」
それは結局、俺の都合のいい解釈で、ララの本心を表すものではないけれど。
「だけど、お前はそう言うやつだろ?」
「……」
結局世界は、その本性を見せてくれることはない。
だから都合よく解釈しないと生きていけない。さっき俺がしたみたいに。
「生意気。あー、生意気生意気」
うざったらしく空を飛ぶララは、くるりと指を動かした。そして言う。
「こんなのに動かされちゃうんだから、生意気で仕方ないわ」
「はいはい。動いてくれてありがとう。おかげでユウが助かったからな」
「……そう言う意味じゃないんだけど」
なんだかララに睨まれてしまったけれど、仕方ない。
「まあいいわ。こっちからも改めてお礼をしてあげる」
「偉そうだな」
「そうよ。なんたって私はあんたの上司だからね。だから、お礼の仕方も偉くなくっちゃ」
そう言って、ララの指が夜の空を指した。
果たして、俺がそちらに視線を向けると――光の球が空に飛びあがっていくのが見えた。それは俺だけではなく、この渡り廊下の休憩所に居る全員が――いや、旅館や下町の多くの人々が目にするところだ。
そうして空中に飛び上がった光の球は、次の瞬間に大きな音となって爆ぜて散る。何度も、何発も。
それは、ララの記憶の中で見た光景だ。
彼女の一番楽しくて、一番大切な記憶にあった光だった。
「綺麗な花火だ」
「でしょっ」
夜空を彩る何百発と言う花火が、この小さな妖精の仕業だとは、この狭間いる人間の何人が知るところだろうか。
ともあれ、これも都合よく解釈したいところだ。
彼女が俺に見せてくれた、お礼として。
◆
――簡単に壊れてしまいそうだから。
――助けたくなってしまうんだ。
第二章 完