「よし、ついてこい」
一度目に来た時とは違う船着き場から、俺は狭間の旅館に足を踏み入れた。位置的には、蓮歌と歩いた大通りからは少し離れた、従業員用の裏口と言った感じの場所だ。
それから船に降りて、俺は先を歩くサトヤさんの後ろについていく。身を寄せ合うように並ぶ下町の木造建築の細い道を潜りぬけ、突如として現れた林を抜けると、旅館の庭に出た。手入れの行き届いた土の上に、まばらな石畳が道になっていて、サトヤさんがその石畳に沿って歩いていく。遅れまいと、俺もそのすぐ後ろについて行くと、今度は細い階段の前でサトヤさんが立ち止まった。
「足元気を付けろよー」
「え”」
サトヤさんが一歩を踏み出した階段を見上げれば、それは旅館の壁面に沿って、どこまもどこまでも果てしなく続いていた。果たしてこれは、どこまで続いているのか。旅館自体が、それこそ東京の高層ビルのようなたたずまいをしているものだから、考えるだけでもゾッとしてくる。こんなところを、命綱無しで?
「……」
しかも足場は頼りない木製で、幅は一メートル程度。唯一の救いと言えば、足場に沿って手すりがあることだけれど、それは壁側だけで、崖側の方は安全柵もない吹き曝しだ。早くもサトヤさんについてきたことを後悔してきた。だが、それでもと俺は一歩を踏み出す。
ぎぃ……。
軋む階段。やっぱり怖い。
しかし、登らなければ来た意味はない。
くぅ……!!
とにかく下を見ないように、壁側に体を預け、なけなしの手すりに命のすべてを預けながら、一段一段ゆっくりと登っていく。
「遅いぞー」
「ちょ、待って! 待ってくださいって!」
そんな俺のことなど知ったこっちゃないとばかりに先を昇るサトヤさん。だから俺も、急いで……できるだけ急いで、それはもうカタツムリの全力疾走みたいなものなのかもしれないけど、それでも最大限の速度で追いかけて、ようやく階段を昇り切った。
ヒュウと風が吹いたものだから、思わず下を見た。
いったい何階建ての高さなのか。さっきまでいた地面があんなにも下の方にあるものだから、腰が抜けてしまいそうだ。
急いで先に目を向けると、階段の先には梯子あった。その上には天板があって、そこには落とし戸があって、更に屋根裏に繋がっていた。
ただ、ここが旅館の一番上というわけではないのは、すぐ先に見えた階段を見ればわかることだった。
「まだ上るんですか……」
「馬鹿と偉い奴は高い所が好きだからな」
この人、自分の雇い主のことを馬鹿と並列に扱わなかったか今……?
とにかく、俺はまたもや階段を昇り上を目指す。ただ、次の階段はそこまで長くはない。それこそ、二階分ぐらいしか登らなかった。そうするとまたもや落とし戸を開き、今度はどこかの廊下にでる。随分と高い天井だ。それに、木目の揃った綺麗な床板が敷かれていて、壁には趣のある絵画、花瓶なんかが並んでいる。
「こっちだ」
歩くだけで緊張するような華やかさだけれど、なんてことはないようにサトヤさんがずんずん進んでいく。それにつられて俺もずんずん。ずんずんずんずんずんどこずん。
そうして廊下を進んだ先にあったのは巨大な扉だった。見上げる高さは四メートルはあるだろうか。
しかもただの扉ではない。精巧な彫刻が、扉の上に一つの世界を作り出している。右上から左下へと流れる曲線は川だろうか。そこを中心に、左には山々と動物が、右には村々と人々が精密に彫り込まれている。
コンコン。
俺が扉の彫刻に見惚れている間に、サトヤさんが扉に着いた取っ手の輪で、カウベルを鳴らすようにノックした。すると、触れてもいないのに扉がひとりでに開いた。
「腰、ぬかすなよ?」
そんなサトヤさんの忠告は、扉の先に見えた景色にかき消されてしまって、俺の耳には届かなかった。
扉の先にあったのは――
「……うわぁ」
扉の先にあったのは、滝だ。
巨大な滝。それは天界から落ちて来たのではと思えるほどに激しく、けれど美しい水しぶきを上げていた。部屋の中に滝がある。そんな違和感すら忘れてしまうぐらいに。
次に気づいたのは部屋の大きさ。大きな部屋だ。この部屋一つで、三つ四つの民家が入ってしまいそうなぐらい広い。部屋の真ん中には机。ただ、それも部屋の大きさに合わせてか、人が使うとは思えないほどに巨大なものだった。それから遅れて、俺はこの部屋の奥側には壁も天井もないことに気が付いた。つまり部屋自体は半ばバルコニーのようになっていて、目の前の滝はその先にある風景なのだと、ここに来てようやく整理できた。
けれど、整理できたはずの状況は、更なる混乱で上塗りされてしまうことになる。
というのも。
滝が割れた。
そして中から、巨大な怪物が出てきたのだから。それは一度目に狭間の旅館に来た時、俺を襲って来たサメのような化け物よりも何倍も大きい。しかも、その怪物の体は蛇のように長く、鱗に覆われていた。頭はというと、ワニのように威圧的な顎に、狼のように鋭い歯が並んでおり、その上に百獣の王ですらひれ伏してしまいそうなほどに鋭い瞳が二つ並んでいた。
もしも俺の頭の中に浮かんだ言葉が正しいのであれば。
それは龍であった。
滝から体を伸ばした龍が、ぎょろりとした瞳でこちらを睨みつけながら、この部屋のバルコニー部分に顎を乗せた。その間、俺の体はまるで彫刻のようにがちがちに固まって動くどころか、喋ることすらできなかった。
「おーい、主さん。新人が来たから、いつものやってくれ」
サトヤさんがそう言って初めて、俺の体は動き出した。
そして口も。
「さ、サトヤさんこれは聞いてないって!!」
「言っただろ、規格外だって」
「レベルが違う! レベルが!!」
今までも十分にファンタジーだったけどさ、流石にこんなゴジラみたいな相手だとは思わないよ普通。
ちらりと龍を見る。
いや怖いって!!
ってかなんか口軽く開いてんだけど、なに、ブレスでも吐くのか!? 丸焼きにされるのか、俺!?
――オロロロロロロ。
吐いたァ!?
本当に状況に追いつけない。龍が現れたと思ったら、今度は渾身の嘔吐を見せつけられるとか、どんな特殊プレイだよ!!
「すまない、龍の姿で威圧させてしまったな。こちらの姿なら問題ないだろう」
「ん!?」
しかも、龍が吐いたものの中から人が立ち上がったのだから更にびっくり。
え、なに誰か食われてたの?
「紹介するぜ、ナオ。この人が、俺たちの主で、この狭間の旅館の支配者の――」
「サトヤ。
「ああ、そうだった。まあ、龍さんとでも主様とでも好きに呼べばいいさ」
立ち上がった人がこちらに近づいて来る。ただ、近づいてきて初めて分かった。その人は人間とは思えないほどに、とてつもなく背が高い女性だった。しかもとても綺麗だ。整った目鼻立ちは黄金比。運河のように靡く蒼く長い髪は、大自然を前にしたかのような感嘆すら覚えてしまう。肉感にあふれる肢体は、けれど下品な色合いなど見て取れず、まるでギリシャの彫刻のような芸術性すら感じさせられた。
「やあ、異邦人よ。
凛とした声が、俺に向けられた。
美しいとはこういうことなのだろうと、無理やり感じさせられたような気分だった。
「あ、は、はい。俺は
何もかもに置いてかれた俺だけれど、それでも何とか最後の――ここに来た理由を、喉の奥底から絞り出した。
「ここで働かせてください」
膝を折り、土下座をするように頼み込む。初手土下座なんて、むしろ心証が悪いような気もするけれど、それだけ自分が必至なことをアピールしてまでも、俺はここで働きたかった。
蓮歌の傍に居たかった。
「いいぞ」
「結論早いっすね!?」
しかし、そんな覚悟が馬鹿らしくなるぐらいあっさりと許されてしまった。
「いや、もうちょっと適正審査とか……ねぇ!?」
「俺に言われても困るんだが……」
同意を求めてサトヤさんの方を向くけれど、困った顔をしたサトヤさんは言う。
「まあ、ここはそう言う場所だ。来るもの拒まず。どうしてそうなのかは……暮らしてるうちにわかる」
「はあ」
なんだかちょっと不安になる答えだ。
本当に大丈夫なのか?
「そうだ」
と、そこで龍さんが思い出したかのように声を出す。
「もう一人、新人が居たな。ちょうどいい、ナオも一緒に新人教育させようか」
「あー……あの先々週に来た」
「ちょうどいいだろう?」
なにやら俺以外にも、新人がいるらしい。それなら少し安心、か?
まあでも、話を聞いていると、やっぱりというか当然というか、蓮歌と一緒に働けるようになるまでの道のりは遠そうだ。それもそうか。入ったばかりの奴に、三年は働いてる奴とおんなじ仕事を任せられるわけないか。
ちょっとがっかり。
「タイミングがいい。さっき、その件でララを呼び出したところだ」
「え、マジすか。教育係がララか~……ドンマイ、ナオ」
え、なに? 教育してる人、そんなにヤバい人なの?
サトヤさん、なにその笑顔! 本当に不安になるからやめてほしいんだけど!?
と、そこで。
――コンコン。
いつの間にか閉じていた部屋のドアが、さっきサトヤさんがノックしたときのように音を立てた。誰かが来る。そう思ったときには、巨大な扉はゆっくりと音を立てて開いた。
しかし、扉の先に居たのは……想像の何倍も小さかった。
「お呼びでしょうか主様。私にできることなら……って、なによサトヤ。なんであんたまでいるのよ」
現れたのは、身の丈15センチ程度の少女だった。赤を基調とした服は、旅館の従業員のモノか。金色の髪、色白の肌、なによりも背中の羽は、彼女がおとぎ話に出てくるような妖精であることを教えてくれる。
確か昨日、船で見たことあるような……?
風に乗って飛ぶ綿毛のようにふわりと飛ぶ彼女は、扉の方からこちらに近づいて来た。
それから、この部屋にサトヤさんと龍さんの他にもう一人いることに気が付いた彼女は、俺の方を見るなり目の前で止まり、怪訝そうな顔をしてじっと俺の方を見つめて言う。
「便所掃除の子豚みたいな顔ね、誰かしら」
噛みついてやろうかな、こいつ。
まさか。いやいや、まさかね。こんな暴言吐き散らかすような妖精が、さっき言ってた教育担当なわけ――
「紹介するぜ、ナオ。こいつがララ。見ての通り妖精だ」
こいつかよぉおおおお!!!
俺は膝から崩れ落ちた。
「ララ、新人教育の件だが、もう一人頼みたい」
「はあ。主様の頼みでしたら問題はありませんが……まさか、この男?」
「そう。今日来たばかりのナオだ。よろしく頼むよ」
「はあ」
ふわりふわりと龍さんと会話した後、改めてララは羽を動かし俺の前に来た。
ただ、俺とは会話するつもりがないのか、すぐにサトヤさんの方を見ながら話し始める。
「はー、今日来たばっかりみたいだけど大丈夫なの?」
「そこら辺は気にするな」
「気にするなってねぇ、ミィの方も使えるようになるまで二週間かかったのよ? それでこっちまでって、私の苦労も考えて欲しいものだわ」
「いいじゃねぇか、それにフォローはうまいだろ、お前」
「好きでうまくなったわけじゃないのだけど」
はっきり言って、今しがた放たれた暴言を聞く限り、この女のことを敬える気がしないのだけれど――ともかく、俺はできる限り敬意を払って挨拶する。
「え、えとよろしくお願いします、ララさん。自分は――」
「あー、いいのいいの。使えるかもわからない奴の名前なんて覚える気にならないわ」
ビキィッ!!
俺の脳から、堪忍袋の緒が千切れそうになる音が聞こえた。どうしよう、本当に不安で仕方がない。
「そうね、自己紹介ぐらいはしてあげようかしら。私はララよ。呼ぶ時はララ様かララ大先輩とでも呼んでくれると気分がいいから、そうして頂戴ね」
俺は助け舟を求めてサトヤさんの方を見た。
けれどサトヤさんは、声を殺しつつも腹を抱えて笑っている様子。ああ、だめだ。この人もダメな大人だということを悟った俺は、今度は龍さんの方を見て見るけれど。
「それじゃあよろしく頼むよ、ララ」
「はい!」
この人もダメそうだ。
「ほら、さっさと行くわよ豚。送れるようだったらなめくじって呼ぶから覚悟してなさい」
「くっ、くそぉ! ああわかったよ! やってやるよ!」
「返事は『はい』といいなさい」
「痛いっ!?」
どこからともなく、俺の尻が叩かれた。
見ればサトヤさ――ああいや、もうサトヤでいいや。サトヤがもう堪え切れないといった様子で腹を抱えていた。本当にこの人は……と俺が頭を抱えると、サトヤを見ていた俺の視線を遮るように、ララが目の前に停まって言う。
「いい? 私の言うことを聞けなかったら、お仕置きだから」
そう言われて、もう一度何かが俺の尻を襲う。
バシンッ!!!
めちゃくちゃ痛ぇ!!
「な、なんだこれ……!」
「魔法よ」
「魔法……? そんなものあるわけ……」
魔法だなんて非現実的な……そんな風に思いながらも、目の前の妖精や、神を名乗る龍を見れば、魔法なんてあったところで不思議でもなんでもないことに気づいてしまった俺である。
「さあ立ちなさい、豚。仕事は一分一秒も待ってくれないのよ」
ララの指先で何かが光る。それが、俺の尻を狙っていることがが分かった瞬間、俺は背筋を伸ばして立ち上がった。
「遅い」
「理不尽なッ!?」
バシンッ!
本当に痛いんだぞこれ!!
「お尻が無くなる前に、ちゃんと言うことを聞くようなるのよ、豚」
くそ、くそっ……覚えてろよ!!
そんなところから、俺の旅館の生活は始まるのだった――
◆
扉が閉まり、騒がしかったナオが消えたこともあってか、龍の執務室に静けさが戻ってきた。滝の音が響くばかりの部屋の中、徐に龍がサトヤへと訊ねる。
「彼は、サトヤが連れて来たのか?」
「隙間から連れてきました」
「そうか。いつぶりかな、
「さて、いつぶりっスかね」
閉まった扉を見つめる。
それは厳密に言えば、その先に行ったナオのことを見つめているのだろう。
「彼は……こちらに居る理由でもあったのかい?」
「好きな奴が働いてたらしいですぜ」
「ふぅむ、なるほど。なんともまあ、興味深い話だ」
腕を組んだ龍の口角が、少しだけ面白そうに弧を描く。ただ、少しその表情に付け加えるとすれば、そこに浮かぶ感情は愉快痛快と言ったものではなく、泉から湧き出てくるような、静かな共感を感じられるものだった。
「どこまで話した?」
「ここの従業員になるために、一番大事なことはまだ」
「そうか。それでいい」
サトヤの答えに満足したのか、龍は瞑目し、流れ落ちる滝の音に耳を傾けた。
いまだ、滝の方を見れば龍の龍たる体はそこに在る。ただ、龍にとってはどちらも本体であるために、龍は人の姿のまま、龍の姿の方を滝つぼへと戻した。
それから、龍は自分の机に座る。
「サトヤ。君も自分の仕事に戻ると言い」
「へいへい」
龍に言われて、ようやくサトヤも執務室を後にする。
ただ、扉を潜るその前に、彼は龍の方へと振り返って訊ねた。
「あいつ、
何の気なしに聞いたことだ。
それがわかっているから、龍も深く考えずに答えた。
「それは彼次第だよ。この世界は、極楽浄土などではない」
龍の言葉は、ともすれば悲観的な色合いをしていたけれど、サトヤはそこを追及することもせずに、聞き流すように部屋から出ていった。
そうして執務室に一人残された龍は、目の前の巨大な扉を見つめながら呟く。
「あるべき救いは、ここにはないのだから」
その言葉は、誰に届くこともなく、滝の飛沫の中に消えていった。
初めましての方は初めまして!
ひとまず、物語がひと段落するまで毎日投稿!
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