「おーい、大丈夫かナオ」
「サトヤ……み、水をくれ……」
「おっと早速口調に変化が。ま、同じところで働くんだから、変に畏まられるよりかは俺もやりやすいが……」
「水を、くれぇ……!!」
ともかく、サトヤが持ってきてくれた水を口いっぱいに頬張り復活。
はて、ここはどこだ?
「旅館内の渡り廊下。何をしてたか知らないが、お前ぶっ倒れてたんだぞ?」
「あれ、口に出てました?」
「いや、今日来たばかりの奴が、旅館の間取りなんて詳しく覚えてないだろう」
「それもそうですね」
そうして立ち上がってみれば、確かに旅館の建物と建物の間にある渡り廊下に俺はいた。
「あと、さっきも言ったが畏まらなくていいぞ。職務上、先輩後輩ってわけじゃないしな」
「うす」
自分の分も用意していたのだろう、コップ片手に渡り廊下の柵に寄りかかるサトヤ。彼の視線は、渡り廊下の外。ちょうど茜色に染まり始めた夕日の方を向いていた。
つられて俺も夕日の方を見る。朝焼けのようで、少し違う景色。ずっとずっと心の中に残ってしまうような、残酷なまでにきれいな茜色。俺の中に未だ残る、後悔の色。この世界に来ても、それは全く同じ顔をして、夜を迎える空を照らしていた。
「不思議なもんだ、こっちの世界に来ても夕日は同じ色をしてる」
それは自然と、文句でも言うように俺の口から出てきた言葉だった。
「そりゃ、大きく環境を変えるわけにもいかないからな」
「どういうことだ?」
ただの独り言でしかなかったけれど、サトヤが俺のつぶやきを拾った。とはいえ、それはこの世界のことを何も知らない俺にとって、訳の分からない話だ。
「考えてもみろ、人間が水中で生きていられるか?」
「少なくとも俺は無理だな」
この場所なら、そういう水生人間がいてもおかしくはないとは思うが……。おそらく、そう言う話じゃないんだろうな。
「大気中の酸素濃度一つが生死にかかわるほど、生き物は繊細なんだ」
「つまり?」
「この世界の環境条件は、お前のいた世界とそう変わらない……いや、近いからこそ、繋がることができるって方が正しいかもしれないな」
「待て待て、話が見えない。自分で言うのもなんだが、俺は高等教育課程をすっ飛ばしてこっちに来たペーペーだから、もう少しわかりやすく言ってくれ」
酸素濃度がどうとか、環境条件がどうとか、頭が痛くなる。俺はあんまり、難しく考えたくない性分だ。
「あー、そうだな。悪い、昔の癖でな。そうだな……ああ、ナオ。お前は、この旅館のことをどう説明された?」
旅館の説明。そう言われて思い出すのは、蓮歌から聞いた話だ。
「――『ここは狭間の旅館。現実と現実、世界と世界の間にある隠れ里』」
「それだ」
ビシッと指を差される。
「世界と世界の狭間。まあ、世界って言う大きな森と、同じくらい大きな森の間に、この旅館があると思ってくれればいい」
「ああ、なるほど。つまり――思ったよりも世界は離れてないってことか」
東京と北極じゃ全然気候は違うけど、神奈川とじゃそこまで天気は大きく変わらない、みたいな?
そんなふんわりとした理解だけれど、こくりと小さくサトヤが首肯したのを見れば、そう大きく外れた理解ではなさそうだ。
「太陽があって月があって、昼があって夜があって、朝日があって夕日がある。例外あれど、この旅館と隣り合う世界は、そういう同じ理で動いていることが多いんだ」
「例外というと……ララとかか?」
「いや、あれは例外じゃねぇ。世界が発展するのに、魔法があったか科学があったかの違いだ」
「それ、結構大きな違いじゃねぇ?」
「実を言うとそこまでじゃない……らしい。これは主さん受け売りだから、俺も詳しくは知らないけどな」
魔法と科学、それは些細な違いらしい。だからと言って、妖精のような小人が自由に飛び回る世界と自分の世界がほんの些細な違いしかないと言われても、あんまり納得ができないけれど――
「例外となると俺みたいな……いや、なんでもない」
何かを言いかけて、結局言葉を濁したサトヤの態度を見て、深く追求することでもないかと考えた。
「まあ、なんだ。俺が言いたいことはだな――」
「ここにはここのルールがある、か?」
「なんだ、意外と聡いじゃねぇか」
感心したように俺を見るサトヤ。そんなに意外だっただろうか?
「ララの奴もそういうルールに従ってるうちは、可愛い奴だぜ」
「忠告か?」
「いいや、処世術のアドバイスだ。あいつ、結構性格きついだろ」
「まあ……」
キツイというかなんというか、まあキツイな。
未だ俺のことを豚呼ばわりだし。
「安心しろ。何か起きても、ララの奴をひいきするみたいなことにはならないはずだから」
「その言葉、信じますよ」
「ああ、大いに信じてくれ」
そう言って、サトヤはけらけらと笑っていた。
夕日を背にして。
それはどうにも、清々しい感じがした。
「そろそろ部屋に戻る……あ、俺の部屋ってもう用意してあるんだっけ?」
「預かった荷物も一緒だぜ。管理人に聞けば案内してもらえるだろうさ」
「助かる」
ともかく、渡り廊下での会談もここら辺に切り上げなければ、明日の仕事に響きそうだ。
痛っ……ララの奴、マジで手加減なしにお仕置きしやがって……。
「あ、そうだ」
と、そこで従業員寮の方に戻ろうとした俺の背中に、サトヤが声をかけて来た。
まだ何かあったのか、振り向いてサトヤの顔を見て見ると、さっきとは違った、どこか真剣な顔をしていた。
「これは忠告だが、お前はどちらかと言えば例外側だ」
「……さっきの意味とは違うんだよな、それは」
「まあな。ただ……疎外感を感じようと、あんまり質問はしてやるなよ」
「はあ」
サトヤの言葉に含まれる成分表記でもあれば、今の言葉の意味も十分に理解できたのだろう。ただ、狭間の旅館に来たばかりの俺には、なんのことかさっぱりわからなかった。
ただ、わざわざ忠告として言ってくれたのだ。しっかりと覚えておこう。
◆
食堂で一足早い夕食を取り、従業員用の浴場で一日の疲れを湯船に溶かし、案内された部屋でぐっすりと眠った翌日――
「起きろぉおおお!!!!」
「うるせぇえええ!?!?」
最悪の目覚めが俺に襲い掛かった。
「ほら、さっさと起きる起きる!」
「あ!? ララ!? な、なんで俺の部屋に居るんだよ!」
大きな声はララのもので、思わず鼓膜が破れるかと思った。驚いた俺が飛び起きてみれば、くるくると暗い部屋の中をララが飛んでいる。
窓の外を見て見れば、まだ日の出前。薄暗すぎて時計の針すらも分からないような時間帯に、ララの羽から落ちる鱗粉だけが、キラキラと部屋の中を照らしていた。
「なんでも何もないでしょ! 雑用の起床はきっかり朝四時! さあ、仕事をするわよ!」
「ま、待て待て! そんなこと聞いてないぞ!?」
「言ったわよ! 覚えてないとか、とんだ間抜けね! 豚から鶏に改名した方がいいんじゃないの!?」
「最初っから俺の名前は豚じゃねぇっつの!!」
急な話でびっくり仰天。果たしていつ、そんなことを言われたのか。ひとまず記憶の中を探ってみると――
「お仕置きの後のことなんてちゃんと聞いてられるかぁぁぁぁ!!」
言ってた。言われてた。でもそれは、お仕置きのせいで俺がゾンビみたいになっている時で、意識だって朧げだったはずだ。よくもまあ、それで言ったなんて言えたなこいつ。
――『ララの奴もそういうルールに従ってるうちは、可愛い奴だぜ』
昨日のサトヤの言葉が思い出される。
理不尽だろうがなんだろうが、郷に入っては郷に従えというのは、その通りなのだろう。そもそも無理言って旅館に置いてもらっているのは俺だしな。
「ほらほらほら、早く起きなさい豚!!」
「ああ、ああ、やってやろうじゃねぇか!!」
羽虫野郎にはムカつくけれど、こうなったら従ってやるさ。
しゃぁおら、一番最初の仕事はなんじゃぁコラァ!?
「よし、じゃあまずは寝てるミィを仕事場まで連れてくわよ」
「なんでこいつは寝てるんだよぉ!?」
「し、仕方ないでしょ! こうなったらこの子、全然起きないんだから!」
部屋から出て一番最初の仕事は、俺の部屋の前で座って眠っていたミィの輸送だった。どうやら俺を起こしに来たララについてきたようだけれど、途中で眠気に限界が来てしまった様子。
ああもう、幸せそうによだれまで垂らして……。
「さあ行くのよ豚、目的地は洗濯場! 馬車馬のように働きなさい!」
「お前もお前で頭の上に乗って楽しようとするんじゃねぇ!!」
とりあえずミィを背負い、そしてララの奴を頭の上に乗せた俺は、操縦されるように前髪を引っ張られながら、洗濯場へと移動するのだった。
さて、そうして洗濯場にて。
「とりあえず、この洗濯物を全部ね」
「わかっちゃいたけど、すごい量だな……」
「シーツに着物にタオルに布団。何百人と泊まるから当然ね」
洗濯場は旅館一階の裏手。執務室で見た滝方面の川辺にあって、明かりに照らされた先には、山のように積みあがった洗濯物があった。もちろん、昨日のようにこれを全部、俺とミィの二人だけで片付けろってわけではないようで。
「流石に私も手伝うから、さっさと始めるわよ」
と、言ってララも袖まくりをしていたし、他にも数人の従業員が、既に洗濯をしていた。
ちなみにミィは、洗濯場の横を流れている川の水を使って起こした。
「……まだ夜」
なんて言って不機嫌そうな彼女だったけれど、仕方がないと起き上がって仕事を始める。しかし、こいつって確かヴァンパイアのハーフじゃなかったっけ? なんか、すごい夜に弱そうなんだけど……?
まあいい、俺も仕事仕事。……と取り掛かるのはいいけれど、これを全部、手洗いしなくちゃいけないとなると、少しげんなりしてくる。
そもそも洗濯板を使った洗濯なんて初めてやる。とりあえず、この板の凸凹部分にこすりつければいいのか……?
「あ、豚! ちょっと強くやり過ぎよ! もっと優しくやらないと破れちゃうじゃない!」
「むぅ……しかし汚れが……」
「下手にごしごしやればいってわけじゃないのよ、馬鹿じゃないの? ほら、私が手本見せてやるから見てなさい」
そう言って、くるりと回るララ。手本を見せてくれるといったララが、果たしてどんな手際を見せてくれるのかと期待してみると――彼女の魔法が、洗濯物と洗濯板を空中浮遊させ始めたところで、俺は言葉を失った。
「これとこれを、こう!」
そして水を張った桶の中でミキサー。ふわふわとした泡が周囲に飛び散らしながらも、見る見るうちに汚れたシーツが真っ白になっていく。
しかもいくつものシーツを一気に洗う。気分はまるで洗濯機の中を覗いているようだ。そうして洗い終わったものは、少し離れたところにある物干しざおまで、これまた魔法でひとっ飛び。
「さあ、やってみなさい!」
「できるわけねぇだろ!?」
いやまあ、大きく見積もっても身長20センチもないようなララが、俺と同じような洗い方ができるわけもないのは当然で、参考になるわけがなかった。
ここはひとつ、俺よりも先に雑用をしているミィの洗い方でも参考に――
――バコーン。
とここで景気のいい音がこだまする。ララと一緒に音のした方を見て見れば――
「あ、壊れた」
洗濯板を真っ二つにしたミィが、これまた真っ二つに引きちぎられた着物とにらめっこしていた。
これには流石のララもため息。
「ミィ! 手加減しなさいって言ってるでしょ!」
「でもぉ」
「でもじゃない! ほら、優しくやるのよ!」
大人しく俺は、まったく参考にならない二人を放って、同じように洗濯をしていた他の従業員の人に、やり方を聞きに行くのであった。
さて、仕事をすること数十分。最初は終わりの見えなかった洗濯物の山も消えて、残り十数枚といったところだ。もちろんこれは、先輩たちのおかげではあるけれど、一番はララのあの魔法を使った洗濯か。洗濯機すら裸足で逃げ出す効率で、次から次へと汚れ一つない洗濯物が空を飛んでいく様は、どこか爽快感のある光景だった。
「さて、次の仕事に行きましょう」
「まだ仕事か」
「雑用に終わりはないのよ」
残る洗濯物は、先に来ていた従業員さんたちに任せて、俺たちは次の仕事に向かわないといけないらしい。空はまだ暗く、日の出とともに始まる食堂で朝食にありつくには、まだまだかかりそうだ。
「次が食糧倉庫で芋の皮むき。でそれが終わったら……」
「多い多い、いつになったら朝食にありつけるんだよ」
「あ、そうね。どこかで食堂に行っておにぎり貰わなきゃ」
「お腹空いた……」
移動中、俺の背中に乗ったミィの腹がぐぅとなる。本当に、いいご身分だなと思いながらも、俺の腹も鳴った。
「仕方ないわね、先に食堂でおにぎり貰うわよ」
「いいのか?」
「お腹が減ってたら、仕事にならないでしょ。それに――」
と、前を飛んでいたララが俺の視界を横切った時、窓の方からきらりと照明とは違った光が目に入った。
そちらの方に視線を動かせば、窓の外を飛ぶララの後ろで、下町の背に登る朝焼けが、じんわりと彼女の羽を照らしていた。
「朝焼けを見ながら食べる朝食は、日の出前から働いてなきゃ味わえないのよ」
彼女の透き通った羽が、朝焼けの光を反射して、星のように光っている。舞い落ちる鱗粉はさながら天の川。ララの動きに合わせて、まだまだ暗い夜の世界にもう一つの星空を作っている。
その姿はとてもきれいで、ずるいと思った。
俺の中じゃ、ララはまだまだ気に入らない上司だけれど。
「さあ、朝日が顔を出す前に食堂に行くわよ」
この時ばかりは、彼女の見せた笑みに少しばかりどきりとしてしまったから。
ちょっと悔しい。
「さぁ、走れ豚! 目標は従業員食堂! 少し遠いけど、限界を超えなさい!」
「クッソ……こういうところさえなければなぁ!」
本当に、俺の頭の上に乗って、ずうずうしく乗り物代わりに使うようなところさえ見せなければ、素直に見惚れていたってのに。
「遅いわよー!」
「痛っ、俺は馬じゃねぇんだから、尻叩いても加速しねぇよ!!」
「ハイヤー!」