# 01 覚醒と閉塞
寒さが先に来た。
骨の芯を冷たい水で撫でられるような感覚があり、それを不快だと思えたとき、男は目覚めつつあった。
瞼を上げる。白い靄。瞬きを重ねるうちに、靄は曇った硝子へ変わった。鼻先のすぐ上にある。棺の蓋を内側から見上げれば、おそらくこんな眺めだろう。
「……冗談じゃないぞ」
声は掠れて、ほとんど息だけが出た。
蓋の内側に開放の把手があった。氷のように冷たい。押す。動かない。もう一度。腕が震えただけだった。
「おい、嘘だろ……」
三度目は全身を使った。把手はようやく軋みながら回り、蓋が白い蒸気を吐いて浮いた。隙間から流れ込む空気は、装置の中よりなお冷たかった。
男は身を起こした。正確には、起こそうとして一度失敗し、縁に掴まってどうにか起きた。腕は細く、力の入らない指は他人のもののようだった。
「ひどいな、こりゃ」
吐いた息が白く残った。
装置の外は闇だった。正しくは、闇にわずかな青が滲んでいた。光源はひとつ。いま這い出してきた装置の縁が、寝息のような明滅を繰り返している。それだけだった。
天井の灯は死んでいる。壁沿いに並ぶ卓も、灯ひとつ点していない。
男は装置の縁に掴まったまま、床に足を降ろした。素足に触れた床は、氷の上を裸足で立つのと大差なかった。それでも立った。立てたことを、ひとまず勝ちに数えることにした。
装置は、それ一台きりだった。
広い部屋の真ん中に、男の寝床だけがぽつんと据えられている。壁という壁は配管と機械の面で埋まっているのに、人を納める器はほかにない。はじめから、ひとりのための部屋だったらしい。
もとより、ひとりのために誂えられた部屋だ。ここで眠ると決まった経緯も、誰の差配かも、男は知っている。
だったら、そいつはなぜ迎えに来ない。
考えかけて、やめた。良くない想像というものは、得てして当たる。なら、急いで当てにいくこともない。
寒気が足元から這い上がってくる。男は装置に戻り、敷かれていた上掛けを引き剥がして肩に巻いた。惨めな格好だが、あいにく見る者もいない。
舌の根に、嫌な味が残っていた。
その味が、記憶の底から声を引きずり出した。
――なに、ちょっとした投薬の実験だ。
誰かが笑っている。白い部屋。眩しい灯。
――寝て起きるだけの、楽な仕事だぞ。お前向きだろう?
兄貴だ、と思った。
――で、目が覚めた頃には……
その先が続かない。掴もうとすると、砂のように零れた。眠りにつく前のことは、どれも輪郭が溶けている。確かなのは、あの声が笑っていたことと、楽な仕事だという言葉に乗せられて、この寝台に潜り込んだ間抜けがいたことだけだった。
「……起きたぞ、兄貴」
返事はなかった。
上掛けを巻いたまま、男は壁際の卓に向かった。
指で叩く。何も起きない。掌で叩いても同じだった。卓の面は冷え切って、指の脂ひとつ受けつけないように滑った。
どれほど眠っていたのか。それを教えてくれるはずの卓は、とうに死んでいた。
部屋の奥に扉があった。
近づいても、開く気配はない。脇の盤に触れても、灯ひとつ点かなかった。
扉の縁に、非常用らしい把手が埋まっていた。両手で掴み、引く。びくともしない。足を壁にかけて引いた。息が上がり、目の前に星が散って、把手は指一本分も動かなかった。
「……はいはい」
男は把手から手を離し、ずるずるとその場に座り込んだ。
落ち着け。まず数えろ。
部屋の動力は死んでいる。卓は応えない。灯もない。扉は固く、腕ずくで開く重さではない。生きているのは、あの装置一台きり。
つまり、閉じ込められている。
結論はそれだけで、それがすべてだった。
「よし、状況は判った」
声に出してみる。
「……何ひとつ、良くはなかったな」
装置の淡い明かりが、寝息のように点いては消える。この部屋で息をしているのは、あの箱と、そこから這い出してきた男のふたつきりだった。
男は上掛けを掻き合わせ、膝を抱えた。
寒い。じきに腹も減るだろう。それでも、怯えて騒ぐ気にはならなかった。閉じた扉は、開け方をまだ知らないだけの扉だ。棺なら、蓋はもう押し開けた。
「よくもまあ、落ち着いていられるな、自分。……偉いぞ、自分」
掠れた軽口は、誰にも聞かれず天井に消えた。
さて、どうしたもんか――男は暗がりの中で、ゆっくりと頭を回し始めた。
# 02 世界の死と方針
寝床に戻ったのは、寒さのためばかりではなかった。
この部屋で唯一生きている機械が、あの装置だ。そして生きている機械には、たいてい口がある。
果たして、縁の把手の脇に小さな盤が埋まっていた。這い出すときには目もくれなかった代物だ。指を置くと、淡い光が立ち上がる。生命維持の系につながる端末らしい。目覚めてからこちら、初めて向けられた愛想だった。
「……ようやく、まともな会話ができそうだ」
管制への呼びかけを試す。応答なし。もう一度。応答なし。管理の側は、とうに黙り込んでいるらしい。
代わりに、盤の隅で小さな印がまたたいていた。残された言葉——再生を待つ音声がひとつ。
男は把手に寄りかかり、それを開いた。
『あーあー、マイクテストマイクテスト。ぴんぽんぱんぽーん!』
弾んだ声が、死んだ部屋の天井に響いた。
『スファレライトと申します! 非常事態宣言が発令されました。緊急事態なので、手短にいきますね!』
手短に頼む、と、つい頷き返してしまう。返事が返るはずもないのに。
声は続けた。世界的な混乱に端を発したとみられる、非常に強い衝撃が施設全体を襲ったこと。その衝撃で、外の網が断ち切られたこと。
『避難完了の方々を優先し、最上位の生命維持モードに変更。なお、この命令は管理者及び上位権限のある者にしか変更出来ません』
それで、装置は生きていた。それで、男も生きていた。
『それと、重要施設の扉はきっちり締めました。そう簡単には中に入れないと思います』
「……ああ、そうかい。せめて中からは、開けられるようにしておいてほしかったね」
それで、扉は開かなかった。押しても引いても駄目なわけだ。
『ですが……このメッセージが再生されているということは、きっと私の魂は天に召されてしまったのでしょう』
声は、よよよ、と芝居がかって泣いてみせ、すぐに調子を戻した。皆のためにお役目を果たせるよう、準備はしっかり済ませてある。ここに目的を持って来た者なら、判るようになっている——。
『それでは諸君の成功を祈る! なお、このメッセージは自動的に消滅する。ちっちっちっ……プシュー! ドカーン!』
消滅はしなかった。
『なんてね♪ ……スファレライトより愛を込めて! アデュー!』
沈黙が戻った。
男はしばらく、暗い天井を見上げていた。この部屋が守られていた理由を、たったいま知った。守った当人は、守り終えた後で止まった。最後まで、あの調子のままで。
「……おつかれさん」
誰にともなく言って、盤の縁を軽く叩く。
「アデュー、だ」
それから、男は端末に向き直った。
声の主が締めた扉は、声の主にしか開けられない。なら、外だ。断ち切られたという網の、切れ端を探す。
準備は済ませてある、と声は言っていた。その言葉どおり、盤は男の指によく応えた。浅い階層から順に、繋がる先を呼び出していく。
網はあった。
正しくは、網の残り火があった。かつて世界の隅々を距離も見ずに結んでいた大網の、焼け残りの糸が、あちらに一本、こちらに一本。
男は、その一本ずつに呼びかけた。
応えはなかった。
どの糸の先も闇に落ちて、呼びかけは吸い込まれたきり戻らない。一本。また一本。数えるうちに、指が止まった。
網の向こう側が、まるごと消えている。
衝撃とやら一発の仕業とは思えなかった。つまり、それは——今度は、考えるのをやめなかった。数えるべきことは、目を逸らさずに数える。外の世界は、おそらく取り返しのつかないほど壊れている。
軽口は、しばらく出てこなかった。
やがて男は長い息を吐き、かじかんだ指を組み直した。
嘆くのは後だ。まず、ここを出る。
手立てなら、頭の抽斗にひとつある。
もっとも、この施設の
だが、網の残り火は生きている。糸をたどった先の、どこかの施設の、生きた
「外から、こじ開けてもらう」
筋は通っている。あとは、呼びかけに応える誰か——あるいは何かが、この網の底に残っていればいい。
「さて」
男は盤に指を戻した。
「……居留守は、なしにしてくれよ」
# 03 相棒の起動
網を浚う作業は、根気だけが頼りだった。
焼け残りの糸を一本たどっては、行き止まり。次の糸、また行き止まり。呼びかけへの返事は、一度もない。
それでも男の指は止まらなかった。こういう地道な虫拾いは、性に合っている。鍵のかかった扉を余所から開けて回るのは、もっと性に合っている。
鍵のかかった中継口がある。開ける。裏口しかない管理系がある。開ける。行儀の悪い手つきだが、咎める者はもういない。
そうして、何十本目かの糸の先で、指が止まった。
見覚えのある署名が、そこにあった。
眠りに落ちた施設の奥に、ひとつだけ、男の刻印を持つ核がぶら下がっている。
間違えようがなかった。ほかならぬ、男自身の手癖だ。
そして、起動記録は白紙だった。作られてから今日まで、一度も目を覚ましていない。
「……何で、まだ眠ってる」
声が掠れた。
あれは、送り出したはずのものだ。行き先も、渡す相手も、決まっていた。
それが、起こされないまま、そこにある。
渡るはずだった手に、渡らないまま——つまりは、そういうことだ。
男は一度だけ目を閉じ、考えをそこで畳んだ。
弔いなら、後でいくらでもやる。いまは、起こすほうが先だ。
核を抱く管理系は三重の錠前で締まっていたが、作り手の権限は錆びない。裏口から順に鍵を落とし、核の眠りに手を掛ける。強制起動——初めての目覚めがこれというのは、荒っぽいにも程があるが。
「悪いな。寝覚めの文句は、後でまとめて聞いてやる」
起こした。
回線の向こうで、何かが身じろぎする気配がした。
『——自己診断、開始。動力系、良。記憶野、良。外部接続……認証済みの旧い口が、ひとつ』
平坦な報告の声が、そこでふっと調子を崩した。
『……この権限署名。なるほど、あんたか、
「初めまして、って言うのも変な話か」
短い沈黙は、値踏みの間らしかった。
『どうかな。初めて聞くはずのその声、妙に聞き慣れてる気がするぜ』
初めて聞くはずの声が、聞き慣れた調子で減らず口を叩く。当然だ。この口は、男の口を写して作ったのだ。
『にしても、初回起動がこの乱暴さって、どういう了見だ。
「判った判った」
われ知らず、口の端が緩んだ。
『で?』
と、回線の声——ハルは言った。男が付けた、由緒正しい立派な名だ。
『お勤めの時間か? チィの世話なら任せろ』
一拍、間が空いた。
「——仕事は、別だ」
『……そうかい』
ハルは、それ以上は聞かなかった。写しは写しで、察しの良さまで写っているらしい。
「こっちの状況を先に言っておく」
男は手短に並べた。目が覚めたら施設が死んでいたこと。扉が開かないこと。網の向こうが、まるごと黙っていること。
ハルは黙って聞き、聞き終えてから短く唸った。
『そりゃまた、豪快に詰んでるな』
他人事めいた言い草に、男は苦笑をひとつ挟んだ。
「そこでだ。仕事の話になる」
『やっぱり労働かよ。起きて三分で労働とは、ひどい職場もあったもんだ』
文句の割に、声はもう仕事の色をしていた。
「探し物を頼みたい。生きた
『見つけて、どうする』
問いの声は、もう乗り気だった。
「お前がこっちに渡って来る。それで、外から扉を開ける。……そこは、力づくで頼みたいところだ」
回線の向こうで、合点の音が鳴った気がした。
『なるほど、俺が力のある手ってわけだ。任せろ、扉のひとつやふたつ、予備動力を回してバイパスを通せば——』
「方法は、着いてからでいい」
得意げな講釈を遮っても、声は機嫌を崩さなかった。
『引き受けた。ただし、これは貸しだからな。利子は有給休暇と追加労働手当で払え』
「考えておく」
それから男は、端末に新しい経路を編み込んだ。いま繋がっているこの糸を他の誰にも触れない形に組み直し、鍵をふたつだけ切って、封をする。
「この回線は、自分とお前の専用線だ。何があっても、切るなよ」
『そっちこそ』
ハルの声が、わずかに柔らかくなった。
『んじゃ、探し物の時間だ。……よろしくな、
糸の先で、相棒が動き出す。男は暗がりの中、しばらくその気配だけを聞いていた。