# 01 ひと月
ひと月が過ぎた。
夜明け前に叩き起こされ、庭で木刀を合わせる。ミカヅチの打ち込みは相変わらず重い。だが重さの行き先が読めるようになった。受けて流し、半歩で内へ入る。切っ先が胴を掠めた。
「そこまで」
縁側から声が飛ぶ。
「——待て。今のは入っていた」
「掠っただけだ」
ミカヅチは木刀を肩へ担ぎ直した。負けを認める気配はない。「明日こそ決める」
「その台詞、ひと月ぶんだぞ」
言い返すと、ミカヅチは鼻を鳴らして横を向いた。
縁側でディコトマが笑った。腰が落ちすぎだと言われて直すと、次の一合で振りがひとつ短くなった。
朝餉のあとは御触書の依頼で都を駆けた。崩れた石垣から荷を掘り出し、川へ落ちた牛を引き上げる。掌の皮は破れて固まり、また破れて、いまはもう破れない。日が落ちると木刀を洗って井戸端の壁へ戻し、部屋では鞘のままの太刀が壁に立てかけたままになっていた。
ある朝、オシュトルたちは奥座敷に呼ばれた。
「今回の任は、オシュトル様かミカヅチ様のどちらかにお願いしたいと思います」
ンハライが書き付けを膝の前へ滑らせた。「
「あれ、わたし達は?」
「治安が悪い場所で、女性がおりますと絡まれやすく、任の
「わたしだって役に立つぞ」
シューニャは口を尖らせたが、それ以上は言わなかった。壁際の対の黒衣も動かない。
「フン、俺の性に合わん」
ミカヅチが立ち上がった。「そんなまどろっこしいこと、やってられるか。オシュトル、お前に任せる」
「判った。俺がやろう」
場所は邸から二筋隔てた裏通りだった。日の高いうちから戸を閉てた家が続き、溝の水が動かない。うかつにこの辺りを歩くと危ないと、近所の呑んだくれが言っていた。
軒の低い戸を潜ると、熱と汗の匂いが押し寄せた。
「壺、
膝を打つ音。銭の音。壺振りの手を三度追ったところで目が止まった。壺を伏せる寸前、小指の運びがわずかに遅れる。
輪の中ほどに肩と腕の太い男が座っていた。爪の際に黒いものが残り、手元の駒がひとりぶんだけ高い。
「掘るところは掘り尽くしちまってな。國へ帰る前に寄っただけよ」
男が駒の山を掌で撫でた。「女房と娘が待ってる。何年ぶりかね」
「そりゃあ土産をたんと買わにゃあな。次で倍だ、どうする」
若衆頭が身を乗り出す。男は積み上げた駒の全部を前へ押し出した。
「壺、被りやす。おのおの方、お改めを」
小指が遅れた。
「おい、待——」
「待ちな」
戸口に男が立っていた。上半身は裸で、剃り込んだ頭に古い傷が赤く走っている。
「てっ、てめえはっ……イサマン一家の!」
「
男は一歩も退かない。「たとえ
「カチコミだ! 野郎共集まれ!」
三下が四人、いっぺんに動いた。男は最初の一撃で膝から落ちた。
「何だこいつ、口ほどにもねえ」
余計なことをする場ではない。任は証拠だ。それでも足が先に出た。
「たった一人を寄ってたかって袋叩きとは、みっともないと思わないか」
最初の一人が壁まで飛んだ。二人目が腰から折れる。残りが下がる半拍のあいだに、卓の賽を袖へ落とした。
「……あんた……なんで、俺を」
「渡世の仁義とやらを見せてもらった礼だ」
「そこまでだ! 全員神妙にしろ!」
戸が破れ、検非違使がなだれ込んだ。
倒れている男の腕を掴んで引き起こした。「早く逃げろ。裏手なら、まだ囲みが手薄のはずだ」
「くっ、すまねぇ。俺はジロン。兄さん、名を聞かせてくれ」
「オシュトルだ」
「オシュトルの兄さんか。この恩は、必ず返す」
ジロンは人波へ消えた。
同じ裏手へ回ると、板塀の隙間を影が二つ抜けていくところだった。若衆頭と壺振り。追った。路地は肩幅ほどしかない。
先の一人が振り向きざまに匕首を抜いた。抜き合わせる。返しが遅れる。遅れるぶんだけ深く踏み込んだ。峰が肩口に落ち、男は板塀へ額をぶつけて崩れた。
踏み込んだ足を引き戻す。その半拍で、もう一人の背は角を曲がっていた。角の先は荷車と人と、干した布の海だった。
邸へ戻ったのは日が落ちてからだった。賽を差し出し、賭場の首尾を述べた。
「裏へ抜けた二人のうち、一人を取り逃がしました。俺の落ち度です」
ディコトマが湯呑みを置いた。「賽を持って帰りゃあ任は済みよ。逃げた一人は検非違使の仕事だ。テメエの仕事じゃねえ」
「……はい」
「クク。判ってねぇ顔だな」
膝を叩いて立ち上がる。「まあいい。判らんうちは、まだ伸びるってモンだ」
井戸端で木刀を洗った。柄の握るところだけ、色が変わっている。ひと月で、そこまでは変わった。
壁へ戻して部屋へ入る。鞘のままの太刀が、朝と同じ場所に立てかけてあった。
# 02 地図に無い國
「今日は客だ。八柱将のひとりが、じきじき挨拶に見える」
朝の庭でディコトマが言った。木刀を下ろした手が止まった。
「はっちゅうしょう」
声に出したのはシューニャだった。「ディコトマのおじちゃんみたいなヒトが、もう一人来るってこと?」
「聖上のお声掛かりだ。娘をひとり預かる」
ディコトマは縁側に腰を下ろした。「せいぜい行儀よくしてな」
昼を回った頃、ンハライが取次に立った。
式台に立っていたのは氷色の髪を結い上げた女だった。襟元の青い勾玉が微かに鳴る。薄水色の巻き髪を垂らした娘が半歩下がって控えていた。
「小生が、八柱将のムラサメである」
「まあ上がんな。茶くらい出すぜ」
ディコトマが奥から手を振った。
「これより参内いたす。ここで良い」
ムラサメは草履から足を離さない。「娘を置いていくだけのことだ」
「書状で済む話にわざわざ足を運んで、上がりもしねぇか。律儀なこったな」
「筋である」
「噂に聞き及んでいた幻の八柱将殿と
ミカヅチが先に頭を下げた。
街道の茶屋が戻ってきた。指を折っていって、途中で止まった男の手。誰も顔を見たことがない。よっぽど遠い國でも預かってなさるんだろうよ。
「威勢の良さそうな
ムラサメの目がミカヅチの襟へ動いた。「その家紋、アシワラの者か」
「……家は関係ない故」
「そうか。詮無きことを聞いた、許せ」
声が半分だけ落ちた。「亡き友の面影があったのでな」
隣で息が止まったのが判った。ムラサメはそれきり何も言わない。
「ごめんなさい、申し遅れましたわ」
娘のほうが式台の上で頭を下げた。「小生はムネチカ。ムラサメの娘にございます。どうか、見知りおきを」
「帝都での勉学が欠かせませんの。よろしくお願いしますわね」
名乗りは武家の言葉だった。それが二言目で「ますの」「わね」に変わっている。変わり目で、声の作りが一度だけ揺れた。
「オシュトルだ。よろしく頼む」
「わたしはシューニャ! その髪、くるくるだね」
「く、くるくる……」
ムラサメが草履の向きを直した。帰る仕度だ。聞くなら、ここしかない。
諸國の名は覚えた。武官の端くれとして、ひととおりは。そのどこにも無い名を、ひとつだけ知っている。
顔を知られていない八柱将と、地図に載っていない國。重ねてみる理由はある。
「ムラサメ様」
式台の下へ膝を折った。「不躾を承知で伺います。イヅモという國を、ご存知ですか」
ムネチカが息を呑んだ。ディコトマは止めなかった。
ムラサメの目がこちらへ据わる。
「聞いておる。パシュパクル殿のご子息であるな」
「……はい」
「ならば教えよう。手短にな」
ムラサメの目が、庭の隅で動かぬ対の黒衣へ一度だけ動いた。それから襟元を押さえる。
「ヤマトの西の果て、死の砂漠を越えた先にある郷だ。地図には載らぬ。外との行き来を断って久しい」
シューニャが身を乗り出した。
「地の果てまで続く
勿体ぶる声ではなかった。覚えた文言を諳んじる者の声でもなかった。
「そしてイヅモの民は、『勅命』により、彼の地から這い出る
地図に無い國ではなかった。地図に載せられない國だった。
「渡れるか、と聞きたいのだろう」
見下ろす目に、突き放す色はなかった。
「その問いは小生の預かりではない。聖上の御定めである」
それきりだった。拳をほどくのに少しかかった。
「貴公」
背を向けかけて、足が止まる。「父君と同じ道を行くつもりか」
「同じ道かどうかは判りません」
喉が渇いていた。「ですが、行き先は同じです」
「そうか」
ムラサメは頷いた。「続きは娘から聞け。小生はこれより参内いたす」
ムネチカが深く頭を下げて母を送る。門の外が静かになってから背を伸ばした。
「上がらせていただきますわ」
草履を揃える手つきが、名乗りのときより硬かった。
通した奥座敷で、ムネチカは膝を進めて座り直した。
「先ほどの、続きですわ」
袖を膝の上でそろえる。「言い伝えにはこうありますわ。遠い昔、帝は新天地を求めて各地を巡られました。砂漠を越えたその先で、底なしの谷が立ち塞がったのです。谷を渡るため、帝は天の星まで届いていたという柱の一本を、橋として架けられました。それが、
誰も口を挟まなかった。
「ですが、その先に広がる地は、ヒトが暮らすにはあまりに過酷でした。二度と渡ることのないよう橋は封じられ、橋を護る國が置かれた。それが我等イヅモですわ」
ムネチカの背が伸びた。
「そして、
渡人。聞いたことのない言葉だった。
「もっとも」
声が少し低くなった。「防人の目を盗んで渡ろうとした者は、一人や二人ではありませんでしたわ」
言葉が一度切れた。
「でも、
語尾の飾りがいつのまにか落ちていた。
「誰一人……」
シューニャが袖を握った。握り返せば、こちらの手の温度が伝わる。握り返さなかった。
ミカヅチが立ち上がった。家紋のことを言われてから、ひとことも喋っていない。
「おい、ムネチカ」
顎で庭を示す。「貴様、腕は立つのか」
「あら。淑女に向かって不躾ですこと」
ムネチカは袖を払って、半歩だけ足の位置を変えた。「——お確かめになりますか?」
「クク。今日は客人扱いにしといてやる」
縁側でディコトマが笑った。庭の隅に対の黒衣が立っている。
井戸端の壁に、木刀を戻す。並びがひとつ増えていた。