# 01 妹と兄
闇が引くと板の間だった。
低い天井に煤けた梁が渡り、障子の桟から入った日が床に細い線を並べている。隅に薬箱が開いたままになっていた。
己の弱き心を映す。父はそう言った。
ならばこれがそうなのだろう。そう思った先で、ミカヅチの足が止まった。
夜具が敷いてある。掛けたものが胸のあたりで浅く上下している。息の音が長い。細い腕が布の外へ出ていた。
「━━ミライ」
名が口から出た。
違う。これは映しているだけだ。ついさっきまで始祖の膳を見せられていた。仮面を手にする四人も、焼けた野も。
それでも足が前へ出た。二歩、三歩。夜具の裾まで来て、そこで止まる。
枕元にもう一人いた。背の低い子供が膝をついて、両手で何かを包んでいる。その後ろ姿に見覚えがあった。あるはずだった。毎朝水鏡で見ていた頭の形だ。
子供が包んだ手を開いた。掌の上に白い粒がひとつ載っている。
「ほら、ミライ」
声が高い。まだ変わる前の声だった。「
「やめろ」
また声が出た。
「どうした、ミライ? 苦いのがイヤなのか? でもな、我慢してでも飲まないと━━」
「ちがうの……」
息の間に、途切れて言葉が挟まる。「おくすりが半分になったってきいたから……」
膝をついた子供の手が止まった。
「みんなのぶん……たりないんだよね?」
「……そんなこと」
「おねがい、
夜具の中の手が掌の縁を掴んだ。「さきにくるしんでいる城下のヒトたちにのませてあげて……」
子供の肩へ手を伸ばした。指が肩を通り抜けて、その先の空を掻いた。
もう一度掴もうとした。掴めない。膝をついて、子供の顔を覗き込む。俯いたまま、こちらを見ない。見えていない。
「
そうだ。それでいい。飲ませてくれ。
「おねがい……わたしだって
言葉のたびに息が浅くなる。それでも掌の縁から指が離れない。「わたしは、だいじょうぶだから」
「だけど……」
だけど、ではない。
「おねがい、
膝をついた子供の肩が下がった。掌の上で白い粒が傾く。幼い自分の口が開いた。
「言うなァッ!」
叫んで、掴めない肩へ腕を突き込んだ。
日の線が横へずれた。梁が退いて高くなる。板の目が近い。見上げる高さが変わっていた。
掌が重かった。白い粒は自分の手の上にある。指が短い。爪が薄く、丸い。
目の前に妹の顔があった。息が上がっているのは自分のほうだった。走ってきたわけでもないのに、肩が勝手に動いた。
「頼む、飲んでくれ!」
まぶたが半分だけ上がる。
「……のまない。よ。」
「飲むんだ。飲めば助かる。それで終わりなんだ、頼むから」
「たすけて、どうするの。」
白い粒を持つ手がそこで止まった。
「━━」
喉の奥が鳴った。答えが出てこない。助けてどうする。助けたら、そこから先は。考えたことがなかった。一度も。
夜具の中の目はこちらを見ていない。天井のあたりに向いたまま動かない。
「いいから飲め!」
妹の肩を掴んだ。細い。片手で回りきる。「頼む、ミライ。兄ちゃんの言うことを聞いてくれ。一度でいい。一度でいいから」
「どうして、のませたいの。」
「死なせたくないんだ! お前を、死なせたくない!」
「どうしてどうして。」
同じ抑揚が二度続いた。子供の声のまま、間だけが等しい。
その等しさが、腹の底を撫でた。
「……兄ちゃんは」
肩を掴んだ手に力が入った。
「兄ちゃんは、お前を見殺しにしたんだ!」
言ってから、口が止まらなくなった。お前の言う通りにした。薬を城下の者へ渡して、足りない分をもらいに帝都まで走った。息が切れても走った。戻ったときには終わっていた。無理にでも飲ませればよかった。押さえつけて、口をこじ開けて、それだけのことだった。それが、できなかった。
「今度こそ……今度こそ、間違えん」
「じょうかのヒトは、しんでもいいの。」
言葉が出なかった。
あの朝、門前に列があった。屋敷の外まで続いていた。子を抱えた女がいた。薬箱を覗き込む老爺がいた。誰の顔も覚えていない。覚えていないまま、通り過ぎた。
あの中の誰が、この一粒で助かるはずだったのか。
いい、とは言えなかった。
言えないまま、掌の粒を握った。握って、指の骨が鳴った。
「この子は、さきにくるしんでいるヒトたちに、って。いった。よ。」
肩を掴んだ手から力が抜けた。指が滑って、細い肩が夜具へ戻る。
言い返せなかった。嘘ではないからだ。妹はそう言った。一言一句、その通りに言った。
膝が板についた。うなだれた先に自分の膝がある。小さい。その上に握ったままの拳が載っていた。
あの日のことなら、そればかり考えてきたはずだった。考えてきたつもりだった。
息を吐く。板の目を見ていた。木の筋が細く長く走っている。
さきに。
その一語が、耳の底に残っていた。
さきに、と言った。要らぬとは言わなかった。譲るとも言わなかった。順が先だと、そう言った。
いい、とは言えなかった。自分がそうだった。
息が止まりかけた。
あの子もそうだったのだ。飲んで助かったところで、門の外の誰かが死んだと知れば、そのまま抱えて生きることになる。それだけは嫌だと思ったのだ。だから頼んだ。だから、あんなに何度も。
「……そうだ」
喉から出た声は低かった。子供の喉から、聞き慣れた自分の声が出ていた。
「あいつは、捨てたんじゃない」
自分の小さな手が白い粒を握り込んだ。「選んだんだ」
その一事を、聞き違えていた。
押し切られたのだと思っていた。妹が自分を投げ出したのだと思っていた。だから受け入れた自分を許せなかった。
違う。あれは投げ出したのではない。
「頼まれたんだ」
声が震えた。
「あいつは、俺に頼んだ。俺は、それを聞いた」
差し出していた手がそのまま下りていく。
「聞き届けたんだ」
握った掌の中で、白い粒が汗で溶けはじめていた。
「見殺しになど……していなかった」
指を開こうとした。開かない。
「俺が……間に合わなかっただけなんだ」
言い終わると、指が緩んだ。掌に白い粒は無い。汗で溶けて、跡だけが残っていた。
夜具の中の目が、初めてこちらへ動いた。
妹の顔が笑った。笑い方を知らない者が、笑う形だけを作ったように見えた。
「じゃあ、また。ね。バイバイ。」
「待て」
障子の線が薄くなった。梁が退き、薬箱の位置が判らなくなる。妹の顔だけが最後まで残って、それからゆっくりと解けた。
指が元の長さに戻っている。
足の下に何も無かった。
上も下も黒い。底は見えない。それでも、手を伸ばせば自分の指が見えた。掌は開いたままだった。
# 02 親と娘
杖が無かった。
掌を開いても閉じても、握るものが来ない。腕は何ともなかった。石畳で受けたときの痺れが、思い出すと肘のあたりに戻ってきそうになる。
杖が石を打つ乾いた音は、確かに聞いた。そのあとに来たものは音ではなかった。耳を通らずに頭の芯へ入り、そこで全部が途切れている。
その石畳が、無い。
畳だった。太い梁の下で灯りが一つ揺れ、板を張った壁が、腕を伸ばせば届くところにある。
「オシュトル殿?」
返らない。
「ミカヅチ殿、シューニャちゃん」
返らない。
石畳では、散れと言われて散っても、呼べば返事のほうが先に来た。名を呼んで、返ってこなかったことがない。
「……どういうことですの、これは」
問うた先に誰もいない。答える者がいないことを、口に出してから知った。壁が近い。天井が低い。
人はいた。
車座になって額を寄せている。膝は崩れていない。灯りの縁で耳が光った。ムネチカの頭に載っているものと、同じ形をしている。
声が低い。語の切れ端だけが届く。
「……もう待てぬ」
「……次の、闇の夜」
「……後戻りは、できぬぞ」
「……
語と語の間が埋まらない。何の話かは判らない。この者たちが既に何かを決めていることだけが判る。決めた先を、誰も疑っていない。
襖が開いた。
手が、揃って膝の刀へ落ちる。誰も立たない。刀に触れたまま、入口を見ている。
「誰だ」
答えは無かった。男が敷居をまたぎ、顔が灯りに入る。手が刀から離れた。
「……なんだ、お前か」
一人が息を吐いた。「決行はまだのはずだ。お前はイヅモに居れ」
「イヅモ……?」
誰も振り向かない。灯りの中の者にも、襖を閉める男にも、聞こえてはいない。
男は答えなかった。膝の間を縫うでも、車座に加わるでもなく、外側を回って奥へ歩いていく。歩みが遅くならない。上座の一人の前で止まった。
「どうした、何か━━」
鞘走る音が、言葉の途中に入った。
「な━━」
灯りが傾いだ。畳に落ちた炎が油を伝い、隅まで一息で走る。
「斬った……!」
「乱心したか!」
その語を、ムネチカは知っていた。母は口を開かず、郷の者は触れたがらず、それでも漏れてくるものはあった。誰の口から入ったのかは覚えていない。覚えのない語が、いま目の前で言われている。
「押さえよ! 囲め!」
「よせ!」
畳を蹴った。腕が男の背に入り、そのまま抜ける。掴むも押さえるも、この手には無かった。「━━ハッ」
口を押さえた。押さえたところで、聞く者がいない。
三人が同時に立った。二人が横へ回り、一人が背後を取る。それでも足りない。囲みが縮まるより先に内側から崩れ、崩れたところへ男が入っていく。追わない。逃げた背は追わず、向かってきた者だけを斬った。
「待て、話を━━」
声の途中で止まった。壁際で最後の一人が膝をつく。
「……なぜ、だ」
男は答えない。答えぬまま、刃を下ろした。
立っている者が、一人になった。
火が這う。畳の目が焦げ、焦げたところから黒く沈んでいった。沈んだ先に石があった。
石の間だった。
男が膝をついている。腕を後ろで縛られ、髪が額に落ちていた。顔は伏せられたままで、灯りも火も、もうどこにも無い。
その後ろに、女が立った。
背の高さも、肩の落とし方も、鞘に添えた手の位置も、ムネチカが見て育ったものだった。
「
「……母上様」
「
膝をついた男の背がそこで初めて動いた。
「……父上、様」
呼び相手のない語だった。幼い日に一度、居ない理由を叔母に訊いて、それきり使わずにきた。
「一族を
「我と、我が娘ムネチカを害せんとした大罪人である」
「小生……?」
あの部屋に立っていた男。灯りの中を歩いていった背。あの男が、自分を殺そうとしたと、母の口が言っている。
「今、この時を
「お待ちを! 母上、お待ちを」
振り上げる音がした。
迷いが無かった。息を整えるでも、間を置くでもない。振り下ろすまでの速さが、稽古で見たものと変わらなかった。
石を打つ音が、二度した。
「母上!」
振り向かない。得物を納める手つきが、いつもと変わらない。
女の姿が、そこで動かなくなった。
己の弱き心を映す。その姿は千差万別。お前が見る物は私とはまた違うだろう。アヅマはそう言った。
「……これが、小生の弱き心の写し」
声に出した。出せば輪郭が定まると思った。
試練であるならば、突破する道がある。何を試されているかを見極め、それに応じる。稽古と同じだ。相手の型を読み、崩す手を探す。
「いいカゾクだね」
母の口が動いていた。抑揚が無い。息の継ぎ目も無い。
「母上様の口で……何を言っていますの?」
言ってから、息を落とした。乱すために言われたのだと見た。乱されれば、そこで負ける。
「このひとたち、あなたのカゾク。」
「言われずとも、判っておりますわ」
判っている。斬った者も斬られた者も、同じ形の耳をしている。それを一つの語で束ねられただけのことだった。それだけのことに、指の先が冷えた。
「あなたのカゾクのはなし、きかせて」
「……それが試練ということですの」
ならば応じるのが道理だった。稽古で打たれぬ手は無い。打たせて、読む。
「いいですわ。ですがあいにく、小生は父上様のことを何も知りませんの」
「どうして、しらないの?」
「教えてくださらなかったもの。母上様や叔母上にも尋ねてみましたわ」
「それだけ?」
「それだけ、とは?」
「かんがえなかったの? おしえてもらえない、りゆう」
「それは、まだ知るべきではないと」
叔母の言をそのまま置いた。置いてから、置いただけだと気づいた。
「にげたんだ」
「逃げてなど!」
声が跳ねた。跳ねてから丁寧が剥がれていることに気づいた。戻す手が見つからない。
「トウサマ。カゾクをコロシてたね」
「それは」
「イチゾクをコロシ、カゾクをコロソウとしてた」
いま見せられたばかりのものだった。この者は見せている側で、こちらは見せられている側で、それでも語っているのはこの者のほうだった。
「何かわけが」
「どうしてきかなかったの」
「それは、噂で聞いたから。父上様は乱心し、語るもはばかられる凶行に及んだ。それで」
「にげたんだ。カゾクから」
「だが!」
「なにもしらないんだね」
「知らぬ」
「しろうともしないんだね」
「違う! 昔も、今も、聞こうとした。したが」
したが、の先が無い。訊けば黙られ、黙られれば引き下がった。引き下がったのは、こちらだ。
「まだきかないの?」
問いは短かった。短いところに、逃げ道が無い。
「ああ。聞かねばならない」
膝の下の石が硬い。硬さが、いま自分の在るところを教えている。「この記憶が真なのか。父上様が本当に一族を殺め、母上様と小生を害そうとしたのか」
「そっか。じゃあ、また。ね」
膝の下から石が引いた。
暗がりだけになった。
どんな人だったのか。
問いだけが、遅れて耳へ戻ってくる。答えは持っていない。持っていないまま、闇に膝をついていた。